私が初めて人を殺したように記憶しているのは、戦争すら始まる前の事だった。
知己であり(父の言葉が正しければ)縁者であった当時の王からの達しで、ある宝物の金の純度を量る仕事をしたことがあった。宝飾細工師の知識はあまりなかったので
その過程で見つかった法則は私にとっても思わぬ成果となり、証明を披露する時の私の足取りの軽さと言えば水に浮かぶ泡のようですらあっただろう。それ程までに私は成果物に満足していた。
王も混ぜ物であると判明した王冠を手にしていたく上機嫌で、私は向こう1年は外出しなくて済むくらいの褒美を得て帰路につく事ができた。正直、この原理にこそ値千金の価値はあろうが、私が持ち上げられる理由は分からなかった。
それからと言うものの、町で時々内緒話の槍玉に挙げられていた件の細工職人の事は名前すらも聞かなくなった。これといった面識もなく噂伝いでしかその人格は聞き及んでいなかったが、それにしたってぱたりと話は途絶えた。仮にも王に献上するものをちょろまかしたのだから投獄されたのだろう。彼に対する話題の種が尽きただけだ、とその時はそう思っていた。
それから暫く、手紙を出す為に港に向かっていた所、無邪気な風が私に囁いたのだ──「金を盗んだのを見破られたあの詐欺師は処刑されたらしい」と。
声は小さかった。きっと無言の空白から生まれた根拠のない話だったのだろう、その仮説が主流になることはなく、すぐに聞こえなくなった。
だが、その不確実な呟きは私の頭にどうにも引っかかった。
私はより良い発明と美しい理論の為に数字を尊ぶのであり、そこに一滴も血を付けたくはないのだ。これはくだらない噂ではあるが、まったく荒唐無稽だとも言えない。
人が定めた法に背いた犯罪者が罰された、それ自体はどうでもいいこ とだが、もしも彼が殺されていたとして──私が今もあの物理法則を世界の中から見出していなかったとすれば、当然それが血で汚されることは無かった訳だ。
あれだけ苦労してやっと見付けた美しい証明を、私は自ら穢したのかもしれない。その考えは初め脳裏にちらっと過るだけだったのに、日に日に私の狭い思考領域を侵食していった。
「数学というのは美であるべきだ、Αρχιμήδης」
ようやく届いた手紙の中で友はそう言った。
「ただそこにあるだけで十全の価値があり、更なる物質的価値を得る為にあるものではない。君の悩みを聞くたびに思うが、君は僕の知る数の心得がある者の中で最も異端だ」
その書き出しに図書館長の神経質な声色が重なった気がして、私は思わず苦笑した。
式は混沌とした法則の中から掬い挙げられ、証明され、書き出されたそこが完成形だ。芸術家が石や顔料を捏ねて腹の足しにもならない造物を作るように、「数学者」は数字を紡いだ式を作り、それを仲間内に見せ合うことで確度を高める。
私は「図書館」での価値ある時間の中で学者たちのそういった生態を知り、その高潔さを自らの理念のひとつとした。何人もの智者と言葉を交わして知見を深めるその過程は
ただ、知識の行き着く先がせいぜい紙の上止まりなのは勿体無いのではないか、という疑問は拭い去れなかった。長い時間を掛けて考察し、やっと出来上がったものが思考の快楽を得るだけのものであるのなら、賢者を自称する者たちが軽んじる芸術家たちと我々の何が違うのか、と。
「だけれど、君がそれに拘る理由は分かっている。███との事を偲ぶ故だろう」
整然と並べられた文字を追う枯れた指は、その記述を指して止まった。
███は類稀な才を持つ星詠みで、もうずっと昔──私がまだ夜遅くまで活力に満ち溢れていた頃、我が家に程近いある浜で出会った。彼は遠方から来た天文学者だと名乗り、私の未熟だった星への疑問にいくつも答えをくれたものだ。彼が町を去るとき、どうかまた、と私が願うと、彼は差し出した手を固く握り返してくれた。
私が「図書館」を訪れる事ができたのは、███との初めての邂逅から数年してからのことだった。
その頃のあらゆる学士が憧れていたのと同様に、私も「図書館」に足を踏み入れる日を心待ちにしていた。それは勉学の為であり、同時にあの時別れた友がここに辿り着いているかもしれないという期待の為でもあった。
起こり得る全てには原因がある。私は因果関係を運命とは呼ばないが、しかし私が結局「図書館」に来るのを選んだ事だけは
███は「図書館」に着いて間もない私の前を偶然通りがかり、待望していた再会はなんともあっさりと果たされた。
彼はここで天文の才能を遺憾なく発揮し、既に宮廷付きの学者として働いているようだった。最後に別れたときと何も変わらない、生き生きとした顔をしていた。私がこの頃の記憶を宝石のように美しく思うのは、得た経験もそうだが何よりも彼が側にいたからだろう。
今こうして私に手紙を寄越してくれている█████と共に、私たちは豊穣の時を過ごした。少なくない数の友が私には出来たが、彼ら2人とは特に仲を深めていた……どんな難題であろうと解き明かせないものは何もないとすら思えた程に。
私が当時の学者達との意識の差を感じたのもこの頃だったか。所謂
君の証明のやり方がそもそも異質すぎるんだ、と█████は度々私の手製の天秤に苦言を呈したが、███はそんなやり取りを見て笑いながら私の書いた図形に線を書き足していた。何だかんだ言いながらも、誰も私の過程を否定することはしなかった──我らの根底にあるイデアを逸脱した生徒の存在に、上層が不満を抱いていたとしても。
大海、砂原、星空は日毎に顔を変え、胸の高鳴るような未知が誰かから提示されては解き明かされる。こんなにも楽しい日々がいつまでも続いて欲しかったが、それでも私は「図書館」に留まることはしなかった。
故郷を忘れることが出来なかったのだ。私の居ない間にも戦火は迫り、民は山並みを越えてくる灰の臭いに怯えていた。
私が王の縁者だからではない。生まれ育ち、漣と戯れ、星を眺め、友と出会った故郷が結局は好きだった。せっかく組み上げた発明をあの町の進歩に活かせないのはそれこそ勿体無い。機械と理性が組み上げる終わりのない発展を、私は故郷にもたらしたいと思ったのだ。
「恥じる事はない。ナイフで人間が刺し殺されたとして、初めて刃を握った原初人類がその元凶とはならないように。ましてや君は不条理な不正を暴くべくペンを握っただけなのに、どうして数字が穢れることがあろうか」
私にとって発明は理論の証明のひとつだ。砂の上に拡がる図形の美しさが分かるのに、賢人たちが歯車の描く軌道や滑車の噛み合いを理解できない筈がない。
私の努力はいつか数学の手が及ぶ範囲を際限なく拡大することができる、そう信じている。残したいのは私の名ではなく、私でなければ見つけることができなかった数多の完璧な式だ。美しいものを多くの人に知らしめたいのは人間であれば普通の感情である筈だ。
だが、それは凡百の民にとっては支持するべき考えではなかったようだ──有力者や「図書館」が私のやり方に否定的な感情を隠すことは無く、同じ町で袖擦り合う者たちは数字の配列には無関心だった。
「Αρχιμήδης、君は███と共に自らの心も死んでしまったと思っているだろうが、そう気に病むことはない。我が永遠の友よ、君は老いて尚彼への──そして彼の遺した数字への愛を忘れていはしないよ。君が思い悩むことができるのは、それ故なのだから。さて、本題に進もう。以前君は限りなく無に近い角度の話をしていたね────」
█████は多くの責任を負わされながらも、まだこうして私に友として寄り添おうとしてくれているようだ。
次の行からは彼から私に対する問題提起が綴られていた。私は図書館長からの例題を読み解くことに集中しようと、視覚外に疑念を押し込んで紙面の文字列に指を添えた。
私の功績の価値には自負がある。被造物を見た民衆が私を実力ある
それなら、私の根底にある孤独としか表現できない隔絶感は一体何に起因するものなのだろう。私を慰める言葉は見えている。褒めそやす声は聞こえている。称え有難がる態度も理解している。だが、そのうちのどれもが欲しかったものではない。
私の本質はどこにあるのか?
私は己の骨子すら理解しないまま「生活」を続けてきたと言うのか?
私の思考は、この狭い世界の規格には合わなかったのだろうか?
「────では、また遠くないうちに。戦火には気を付けて」
書簡はそう括られ、その末尾には█████の署名が凛とした書体で刻まれている。初めてそこまで読み切った時の私は新しい知見に満足するばかりで、彼の言葉少なな気遣いには意識が行かなかった。
私はただ──私の世界の為に出来る事を成し遂げたいだけだったのに。効率の悪い回り道を拒絶し、少ない動力と無駄のない工程で歩きたいだけだったのに……。
それから少しして、金冠を掲げた王は死んだ。代替の冠は幼い子供の頭に乗せられ、何もかもが老体の目の前で瞬く間に変貌する。あの穏やかな潮騒も、イルカの遠い鳴き声も、気付けば出来上がっていた堅牢な要塞の壁と
私が人を殺したのは、それから間もなくの事だった。