岸波白野は落ち着かなさげに部屋の埃を払い、布団のシーツを畳んでは伸ばし畳んでは伸ばししている。下手に「最悪明日来る」なんて言ったせいで、新王陛下はじっとしていられないらしい。
「いくら落ち着かないにしても、もっと他にあるでしょう」
累計6回のシーツ往復は流石に目に余ったので、次の風が来る前に声を掛ける。彼女はむしろよれてしまった布を取り落とし、代わりに今度は衣服のリボンを結び直し始めた。
「そう心配することはありません。今日はまだ動きがないようなので、今夜に奴がここに間に合うことは無いかと」
「本当?」
「あなたの左手に聞いてみればよろしいでしょう」
レガリア所有者の声に反応したのか王の手は青くチカチカと光り始める。幼いマスターは言うが早いか手を覆うと、私に背中を向けて月の声だけに集中し始めた。
正直な所、のんびりしている暇は無かった。「歪み」によって壊滅状態の運命の街領域の事に、誰も気付いていない筈はあるまい。私は自分の立場を維持する為に、本当はあの捩れたコンクリートの塊を元に戻さなくてはならない……のだが、最早あそこまで大きくなってしまった破損を私ひとりで直すのは不可能だろう。
あれはデータ上の不具合ではない。あの領域を生成する為の根底のコードが徹頭徹尾「歪んで」しまっている。言わば……あの領域での常識では
頭痛がする。目下改善すべき問題のせいだけではない。ずっと、夜が明けてまでもずっと、エリザベートが喚いた後の騒音が鼓膜に貼り付いて剥がれない。
あれ風情の言葉が何故頭に居座るのか、とてもじゃないが理解できない。あの反英雄が何故私のパーソナリティを定めようとするのか。何故そう
違う。そもそも私はどうしてこの事を憂いているのか。
私は……。
「ア、アルキメデス、今のはね? ちょっとでも動きがあったらどうなのって警戒してただけだから。昨日の今日なんだよ、気を付けるのは当たり前で……アルキメデス?」
紙屑以下の嘲笑の中から塵粒未満の言葉を拾い上げる。先程はどこにも引っかからなかったそれは突如として自己主張を始めた。
「随分人間らしくなったのね──」
人間らしさ、を反英雄が説けるものか。同種の生命体を隣人とも思わない、外界への興味もない、自分の悦楽にしか気が回らない存在が。愚かで利己的で感情的で、いつも壊してはならないものばかり壊してしまう。見ろ、多くの人類が英雄と呼んだ私はどうだ──
「アルキメデス、アルキメデス? 大丈夫? 口、開いてるけど」
幼くも理性のある声が私の思考に割り込む。
視界には緩く開いた自分の両手と、沈黙する指輪が映っている。
「やっぱり何か悩んでるの?」
──私はどうだ。
怪物になる終わりが決まっていたあれと比べて、英雄と呼ばれ続けた私はどうなんだ。
「……そう見えますか?」
「そうとしか見えないけど……」
岸波白野は不必要にリボンを触るのを止め、私の目の前にしゃがみ込んだ。永遠のモラトリアムに抱かれるその子供は、私の目を見ようとして首を傾げている。
私は口を閉じ、手を視界の外に動かした。彼女の姿がよく見えるようになる。
「何考えてたの」
陽光色の小さな光を掲げた右手が、傷んだ髪の間を通って私の側頭部に触れた。体温が耳に冷たく、脊髄反射が私の肌を一瞬だけ粟立たせる。
この好奇心以外の理由が存在しない質問に、私が答える理由なんて無い。答えたとして、彼女の疑問が解消されることも私の気が晴れることも無い。
「プライベートな問題ですよ。マスターには関係ありません」
「アルキメデスはわたしのサーヴァントで、わたしはマスターなんだよ。関係あるって」
彼女の手が馴れ馴れしく髪を掻き上げる。サーヴァントとマスターの関係を何だと思っているのか。間違ってもデリカシー無しで踏み込んでいいことはあるまい……それは普通の人間の間でもそうなのではないか?
「言っても」喉に痒みが走り、咳が出た。「分かりませんよ」
「分かるよ、わたしはマスターだから」
「私は」
何故言う? 私の人生でこれを理解した
何故、岸波白野には明かすことが出来て、この世界には明かすことが出来ない!?
「……あなたとは違うんです」
「えっ?」
にこやかにしていたマスターは、出力された言葉を受けて急に目を丸くした。
「ディスられた?」
「いいえ。私はあなたとは違う、そうとしか言えません」
私とは違う温度、湿度、組成、文化の手が、今も身体に触れ続けている。岸波白野は戸惑いながらも私から手を離そうとはしない。
人間は他者を慈しむ時、そうすることがある。
「それは……普通の事じゃないかな、わたしとアルキメデスは全然違うよ。性別とか、国籍とか、あと時代も違うし」
違う。彼女と私は違う。SE.RA.PHの岸波白野は人間ですらないのに、それでも
「そういった要素が全く違ったとしても、人間には
マスターの手を掴み、ゆっくりと肌から外す。未練がましくその指が頬を指すのが分かる。サーヴァントの感覚が、こういう時は嫌になる。
「何のこと……?」
「あなたもきっと、いずれ理解できる」
そうとしか私には表現できなかった。明確な答えは未だに掴めていないのだ。正確には──解答そのものは知っているが、それを証明する途中式を持ち合わせていない。
私の側にいた人間は皆、各々の解答を既に持っていた。私の生涯の友となってくれた人間も、私を塵の上に転がした人間も。
「私は違う。それに気付けなかった」頭の奥が熱くなる。「
肺の奥から息を吐く。想定よりもずっと温度も湿度も高かった。そのせいで喉まで灼けるのではないかと思った程だった。
「アルキメデスはずっとひとりだったってこと?」
マスターは尋ねた。
「いいや。私は一度も独りにはならなかった」
「一度も──」
「幼い頃には私に道を拓いてくれた父が、若い頃には互いに高めあった友が、老いてからは価値を与えてくれた主がいた」
記憶は輝かしく、思い出そうとすれば眩しくなりすぎて、結局見えなくなってしまう。友が私に得意気に指差した星の群れのひとつのように。
今は……私の隣には「ふたつ」がある。私を念願の高みに導く美しい星と、私と同じ高さに立つことだけが望みの人形。
「それでも解らなかった──」
この言葉を口に出すとき、私は結論のあまりのくだらなさに思わず笑いが漏れた。
岸波白野さえ居なければ、私は人間でないままでいられたのだ。