「本当に大丈夫?」
折れる寸前の枯木のような音が世界に響き渡る。不安という不安が反響し、あり得ざる展開に捻じ曲げられた可能性がゆっくりと骨肉を削がれていく──
「何のことですか?」
「アルテラとの戦い、アルキメデスも本当に行くのかって」
「行かない訳にはいきません。一応、王のサーヴァントですからね」
軋みの基点は俯いて不服そうに唸る。その憂慮になんの意味もありはしない……知らぬ間に、私の足元は次の1歩すら危ういまでに砕けている。
私のするべきことは、世界を
「わ、わたしだってマスターだから、アルキメデスをひとりで行かせる訳にはいかないよ……」
だが……どれだけ冷静に考えようと努めても、予測の上で動くことはもう出来ないように感じられた。そもそも安定を失いつつある岸波白野を単独で残した所で、それが精神を安定させることに繋がるとは到底思えない。
当人もそれは理解しているようだ。力無く呟かれたその言葉からは、いつもの根拠のない正義感は見えなかった。
「お気持ちに感謝します、新王」
ただ、私がどれだけ悩んだところで、指輪をしまう為の箱は持っていなくてはならない。アルテラの指を落としてその輪を奪う事よりも、私が岸波白野より先にそれを拾い上げるのを許される事の方がずっと難しいだろうから。
「あなたには……」この2択を確定させる式を得るには時間が無さすぎたのだ。「やはり、一緒に来ていただきたい。正しくあなたを守れるのかは……正直、保証しかねますが」
何処かから聞こえる破裂音は──
「わたし、アルキメデスの力になれるかな?」
「新王は私だけの力になるのではありません。私と、そしてSE.RA.PHの力になるのです」
──もう私の霊基の中で響くだけの幻聴ではない。
「どうか私と、」
「ま、待って!」マスターは私を遮った。「何か聞こえるよ……」
赤のレガリアは全くの無反応だった。だが、ムーンセルはレガリアを貫通して私の司令系統へと叫び声を上げた。
地面のずっと下から、海の底から、風の根本から何かが差し迫る。幹から伸びる枝のように、枝から拡がる葉脈のように足元に見えないほどこまかな罅が一瞬にして駆け抜ける。
ドット単位の深淵の奥でパラパラと小石が転げ落ち、ホワイトノイズじみた雑音を全ての知性体の耳に届かせた。
「わたしじゃない……」
青い光が万が一にも逃げ出さないようにと新王は手を握り締めている。
彼女のことよりも何よりも、私は管理者の役割を果たすことに意識が向いた。ムーンセルが自動で浮かべたのか、或いは私の無意識がそうさせたのか、そこには監視ウィンドウがすべてを映し出していた。
「わたしじゃないけど、もしかして、これ……」
私は
たったの数日前に見た光景も大概無茶苦茶なものだったが、それとはベクトルが違う。砕けた瓦礫が続々と融解し、黒とも赤とも言えない液体のようになってハリボテの街を飲み込んでいく。
隆起したアスファルトとコンクリートの鉄筋の群れは互いに絡み合いながら捲れ上がり、街の最中に気味の悪い樹木のように屹立していく。
地面に開いた底のない亀裂から、魔力と破損データの屑を含んだ炎が高々と上がった。街の崩れていない部分は笑えるほどによく燃え、そうでない部分は溶けて泡立ち、僅かに動いている知性体を余すことなく食べ尽くしていた。
「……もう、
それは領域の端まで瞬く間に辿り着き、無支配領域のテクスチャの無い地面を融解物で染め始めた。
アルテラの拠点に進軍を始めていたサーヴァントたちの部隊からの通信が聞こえてくる。運命の街がSE.RA.PHを泥の下に沈めようとしている、と。
これが「歪み」の行き着く先、叶わない願いを
「そんな馬鹿な」
SE.RA.PHで起きるすべてを数値上の変動でしか見ていなかった私の目には、コリジョンが吹き飛び、ポリゴンが散り散りになり、あらゆる引数の中にユーザーとNPCの悲鳴と断末魔、コードキャストのIDが代入される様だけがまざまざと表された。
「──か、誰か──」「ここは──だ──あ」「──!──退け──ここは──」
この世界が打ち勝つべき敵は、本当はアルテラではない。それは私だけが知っている事実であり、私をこの世界に留め置かせる理由である。
「──ろ、逃げろ!ありゃ何だ……まるであの……」
「この領域から離れるんだ!全員散れ、泥に呑まれるぞ!」
「何が起きてるんです、これは……マスター……」
戦術無線の混乱を聞きながら、私はただ視界に映るすべてを「美しくないな」とだけ考えていた──足の裏のずっと下で微かに震える響きは消えていないのに、それにまるで気が行かなかった。
「アルキメデス……」呼吸も忘れて立ち尽くしていたマスターは、深呼吸をしながら私を呼んだ。「アルキメデス、わたしはどうすれば……」
どうすれば?
──彼女に何が出来るのだろうか。歪みは衆目に晒され、レガリアを巡る戦争の根幹にまで突き刺さってきた。
歪みの解決とは、全て何の問題もなかった頃にロールバックすることなのか?異変を破壊し、作り替えることなのか?「4人目」がここで消えれば収められるのか、私が今回の可能性を蹴れば無かったことにできるのか、それさえ確実なことは判らない。
「わたし、どうすればSE.RA.PHの力になれるの?レガリアを使うだけじゃ駄目なら、何が出来るの?」
マスターはそう言って私を見上げた。
「──よ、応答せよ!学士殿、学士殿!これは何が……起きているのだ!無事か──今どこに──」
その正義感に眩んだ視線がサーヴァントに助力を求めるその後ろで、ノイズに阻害されたローマの愚王のぼやけた声が聞こえてくる。最後の戦いを始めざるを得ないことを、私は理解した。
左手が突如として燃え上がった──勿論これは単なる比喩だ──私と「4人目」のマスターが戦うべきが誰であるのか……その果てに何を掴み得るのか。
「あなたの役割が変わったことはありません。あなたの果たすべき目標は今でもレガリアを完成させることです」
「アルテラのレガリアを──」
「レガリアを奪取し、真の形とする。この混乱は我々の軍だけでなく、アルテラにとっても災難となります」
バグでもミスでも何でも使ってやる。いや、最初の一手を
「これは最悪の状況ですが、力のない我々にとっては好機になるでしょう」
私は殆ど冷静になれないまま、自分の言葉が半ば
遊星の啓示を聞いてから目覚めた数多の感情の本当のありかを──煮えていた筈の怒りに埋もれた何かを、痛々しく爛れた過去のループの傷跡はようやっと詳らかにしたようだ。
「あなたが、私を勝利に導いてください。マスター」