岸波白野は私の手を掴んだ。それと同時に偶然にも強い風が吹き抜け、彼女の表情はその長い髪にちょうど隠れてしまった。風は粉っぽく、灰の臭いがした。あの時のように。
「わたしたちならきっと出来るよ」
頼もしい言葉を前にしても私の心は動かなかった──動かない筈だ──私は返答の言葉を考えることはせず、ゆるく繋がれた手を握り返した。接触して改めて実感させられたのは、どちらも相応に緊張していて、皮膚の下が不快なリズムで脈打っていたことだ。
数秒そのままで黙っていたマスターは空いた方の手で髪を除けると、気の抜けた顔でへへ、と笑った。私も、似たような顔を作った。何とも思わない。不愉快な事もない。
「さあ、行こう!急がないと手遅れに…」
王の忠言の背景で警報音と地響きが鳴る。地面のひび割れから温い水がゆるゆると滲み出し、不自然に濃い潮の匂いを立ち込めさせていく。
領域に残った意志のない雑兵たちが、矛先を見失って右往左往しながら自滅と複製を繰り返すのが遠くに見えた。
「──ええ、街は既に手遅れかもしれませんが」
「そんな!?」
「街が落ちようと、民がそこに在れば良いのです。そうでしょう?」
無辜の民がどこかで悲鳴を上げる。戦争とは無関係に建物が突如ひっくり返り、テクスチャが剥げた地面に埋もれる。
私の言葉に感銘を受けてくれたのか、マスターは力強く頷いた。その手の青い光がシグナルを発し、戦場に駆けてゆく軍勢からのヘルプコールと合唱した。
「行きましょう、マスター!」
岸波白野は返事をしなかったが、左手にはより強い圧迫を感じた。それを確認する時間も惜しく、私はやるべきこと──レガリアを巡る戦争の終結の為に走り出すことができた。
こんなにも純粋な気持ちで地面を征くのは、アルテラを初めて自分の手で殺した周回の──具体的には█回前の──時以来だろう。そう、それくらい私には心のすく経験が無かった訳だ。
捲れ上がる石畳を踏み越える。踏み潰されてモザイクのように拡がった目に悪い花々を蹴る。苦い風を置き去りにして砂の上を進む都度、荒く慌てた少女の呼吸と共に、靴が小石を飛ばす音が一定のテンポで私を逸らせた。
何もかもがめちゃくちゃだ。今更ながら、この周回をこんなにギリギリまで引き伸ばす理由を私は真面目に考えてしまいそうになった。
岸波白野を利用するだけならば、あの哀れなサーヴァント達の前に純然たる悪党として現れて、
「はは──」
私は自らの非合理を認めずに、適当な理由で誤魔化していただけではないだろうか。色々と文句を言っておきながら、はじめから……最後のマスターに人間的な期待を抱いていて、単にそのサーヴァントになることを期待していただけなのではないだろうか。
──ないだろうか、だって?
期待はしていたに決まっている。だって、こんな取るに足らない子供のせいで私の██回は苦痛と苦難に染められてしまったではないか。私を、この私を存分に苦しめることができる存在の事なんて、気にならない訳がない。
或いは憎悪であったかもしれないが、好悪どちらであるかは「関心がある」ことを否定することにはならない。私は、岸波白野を自分の為だけに手に入れる願望を少なからず持っていた。
「はは、ふはは!」
お陰で、こんなにもいい気分だ。自分のそれらしさを持ったまま、固執していた
未支配領域は泥濘に変わっており、踏みしめると泥が飛び散った。周囲は既に戦場になりつつあり、名も無きプログラムたちが騒々しく武器を打ち付けあっている。
マスターは素足を泥の中に繰り返し絡ませ、そのたびに転びそうになりながらもサーヴァントの手を離すことなく引き摺られるようにして着いてきていた。
「はあ──はぁ、はっ……」耳の横を抜ける苦い風の向こうから声がした。「あっ、アルキメデス……」
私はそれを手元に引き寄せ、そのまま持ち上げ、抱え込むことにした。
サーヴァントの肉体にとって、大したデータも持たない幼いウィザードの重さなんてあってないようなものだ。靴のように纏わりついた泥が服を汚したが、それは私の──そして彼女の情報までも汚すことはない。
「ははは!あはははは!」
「ちょ……ちょっと──ぜー、はー……あるっ、あるき……」
私はこの時、自分が何であるかを忘れかけていた。目の前に理解できないもの──理解できそうで少し足りないもの──が転がっていること、それが今にも紐解かれようとしていること……それに勝る快楽は無い。
酸素が掠れて意識が浮つく瞬間の、理性に構っていられなくなるその間際──凡百の者たちが酩酊や朦朧によって得る不健全な悦楽が脳内に巡っているが故の耄碌であることは判っている。判っているのだ……だが、堕落の心地良さはやはり魅惑的だった。
理性が私の中で勝るときに、その短絡的な悦びが大局的な不利益であることに気付き、本能的な欲求は抑圧される。
私には解っている。もう後は死ぬまで、この退廃を感じることはできない事を。溺れていられるのはあと数時間である事を。
「あっ、アルキメデスっ、ど……どしたの、いきなり……」
腕の中の生命はがらがら声で何やら呟いた。
「はは、は、ただの深呼吸です、ただのね!」
「ふー……ほんとに……?」
どんな言葉を言ったとしても、乾いた喉にはどれも等しくひんやりと突き刺さる。誰かしらの折れた剣が私の足を引っ掛けようとしたので、運命に抗おうと私は数十メートルを空中でやり過ごした。着地地点には別の
「本当ですよ──」数歩先には大きく裂けた地面が私達を待っていた。「今日は空気が乾いていますね……」
真っ暗な穴の中からは金属の擦れる音と鉄粉の混じった砂が絶えず溢れており、足を取られた攻性プログラムたちが滑りを失って転げている場面も見受けられる。
地面から離れればそれに巻き込まれることはないが、思考を失っている間は私は重力を逃れることができない。進めば進むだけ、私はマスターを腕に抱え
もっと効率の良い方法を、忘れた訳ではない。
その代償を──今となってはそれも大したものではないと思いながらも──支払うだけの精神的余裕は、理性すら霞んだ今ですら無かった。
「そんなこと、気にして……られなかったよ」
岸波白野は息を整え整え、返事した。
「でも、そう言われてみたら……そうかもね」
すっかり背景音楽になっていた管理者画面のアラートが、突然頭に突き刺さりはじめた。愚かでいるのも、それはそれで難しいことらしい。泥濘とタイルと磨かれた石が斑に敷き詰められた地面が、突然ぷつりと途切れた。
そこはこの周回において、私が初めて「4人目」を観測した地点に程近い領域だった。
私の為だけに用意された戦場は、未だに「歪み」に侵されていないらしい。歪むほどの変化はこの地点には起きていないのだから、それは道理だ。
だが、ここから万事は始まったのだった。
私は急速に喉が乾いていくのを感じた。