※本日三話更新してます。
「行間二」は主人公の前世の話(しかも主人公登場しない)なので、読み飛ばして貰っても構いません。
その日。
とあるニュースが世界中を駆け巡った。
「……そうか、死んだのか」
喧騒に溢れるテレビ局で、白髪の男は呟いた。
体つきから三〇代くらいだと予想されるが、顔に深く刻まれた皺とストレスで色が抜けた白髪のせいで実年齢以上と勘違いされやすい男だった。
その男と死亡した“彼”には、何の関係もない。知人でも親戚でもないし、話した事すらない。
だが、男は“彼”の事を知っていた。芸能人ではないが、“彼”は有名人だった。
男だけでない。“彼”は日本人なら……いいや、
「番組制作は進んでいるかね?」
「せっ、専務⁉︎」
びくんっ、とサボっている所を見られた訳でもないのに自然と背筋が伸びる。
背後にいたのは高そうなスーツを着た五〇代前半の男性だった。白髪の男よりもずっと歳上であるが、見た目からは同年代だと思われそうなほど若々しい容姿をしていた。
事実、彼は専務取締役としては若い方なのでそう間違いとは言い切れないのだが。
白髪の男が驚き、声がひっくり返ったのも無理はない。
彼は本来ならテレビ局全体の方針を決めるような立場の者で、個々の番組制作に携わるようなレベルの人間ではないからだ。
「どっ、どうしてこんな所に……?」
「わたしは“彼”の生徒の一人でね。その“彼”をテレビで取り上げるのだから、わたしも制作現場に一度足を運ぶ必要があると思ったのだよ」
「そっ、か。そうでしたね、専務の年齢ならまだ“彼”が日本にいた時期ですもんね」
“彼”は有名人だった。
“彼”は日本中の人に慕われた人間だった。
少なくとも、死亡した翌日に緊急特番と称してゴールデンタイムに四時間の番組が差し込まれるくらいには。
白髪の男は手元の資料をチラリと見る。
そこには、“彼”の半生が書かれてあった。
“彼”はありふれた家庭で生まれた、ありふれた男の子だった。
子供の頃の“彼”に特別なエピソードはない。周囲からは良い子だと思われており、教師からは真面目な子だと思われていたが、それ以上の特別な印象は誰も持っていなかった。
何処にでもいる普通の子供だった。
……いや、一つだけ特徴的なエピソードがあった。
ある夏の日の事。高校生だった“彼”は暑い日差しの中、車内に取り残された赤子を発見する。そして一瞬たりとも逡巡する事なく、赤子が放置された後ろの座席ではなく前の座席の窓ガラスをブチ破って赤子を救出した。
当時から、“彼”の性根は変わっていない。ただ目の前の子供を助けるのに一生懸命だった。
“彼”は地方の大学を卒業すると、すぐさま小学校の教師となった。
優秀な先生で保護者や生徒からの評判もよく、同僚や校長も期待の新人として歓迎していたようだった。
しかし、教師になってから数年後。
“彼”は突然に退職した。
何か特別な事件があったのか。
あるいは何もなかったからこそ見切りをつけたのか。
その理由は今でも分からない。
一つだけ分かることがあるならば、
退職してから少し経って。
三〇代に差し掛かった“彼”は、個人塾の経営を始めた。
塾とは言っても、よくあるような高いお金を貰って高い学歴の学校へ入学させるようなものではない。
塾に行けない貧しい家庭の子供や学校の勉強についていけない子供たちを集めて、少額のお金で勉強を教える。そんな塾を経営していた。
それは、“彼”にとっては教師が取りこぼしていた子供たちを救うためのセーフティネットだったのかもしれない。
“彼”は当時住んでいた地域のほぼ全ての子供を受け持ち、たった一人もおざなりにする事なく育て上げた。
……本来なら、ここで終わる話だった。
だが、ここで“彼”の特異な才能が開花した。
“
特別な技能があったというよりも、特別だったのはその精神性。
“彼”は生徒を助けるためなら、文字通り
家庭内暴力を止め、生徒が暮らす孤児院に寄付を行い、生徒の家庭の経済状況を良くするためだけに生徒の父親が勤めている会社の売り上げを五倍まで跳ね上げさせた。
そういう、才能があった。
子供を救う。そのためならば、歯車が噛み合ったように何でも出来てしまう才能。
その塾の評判はすぐさま広まり、やがて全国規模のものとなった。
その頃には教鞭を取る事は少なくなり、経営に尽力していたようだが、生徒の家庭問題の解決に奔走していたのは変わりがなかった。
やがて四〇代になった頃。
“彼”は政界にすら顔を出すようになった。
当時、もう既にテレビで取り上げられる事も多かった“彼”は様々な政治家と縁を結び、より子供たちが救われる制度と教育を日本に築き上げた。
この頃からだっただろうか。
“彼”が戦っているのは生徒の家庭環境なんてちっぽけな問題ではなく、もっと大きくて先に見えないものになっていた。
しかし、それでも、“彼”は途方に暮れた子供を見捨てる事なくすべて拾い上げ、どれだけちっぽけな問題だろうとすべて解決してみせた。
そして、五〇代。
彼はとうとう世界に飛び出した。
世界中で子供に教育を授け、世界中に学校を作った。
個人の力だけですべてを解決した訳じゃない。教育ができない地域に先生を届ける、そういったネットワークを作り上げた。
そのネットワークは年々拡大し続け、最終的には世界規模の人道支援団体となった。
この頃には、既に“彼”は列強諸国からも危険視される程の存在になっていた。
“彼”の
それこそ、とある大国が暗殺者を差し向けるくらいには。
“彼”は国の内外を問わず、人種に区別なく、あらゆる地域に教育を届けた。
現在、世界一六六ヵ国においてこの教育団体は設立されている。そして、世界各国は条約によりそれらの団体が旗を掲げる青空教室には、たとえ紛争地帯であっても手が出せない。
この功績をもって“彼”はノーベル平和賞を受賞し、現代のジャン=アンリ・デュナンと呼ばれるようになった。
十字教の一部の宗派では、“彼”が聖人として認定を受けている程だ。
「……何というか、ザ・偉人って感じの人ですよね」
「ふむ、確かにそうかもしれないね」
資料には六〇代以降の事も載っている。
だけど、それに目を通す必要はなかった。
それくらいの時期なら、白髪の男も既に生まれていてニュースで知っている範囲だ。それに、“彼”がまた子供を助けて回ったという点に違いはない。
実際には、すべての子供が救われた訳ではないのだろう。
“彼”という英雄譚を汚す一部の失敗は、とっくの昔にマスコミによって拭き取られているのだろう。
それでも、いくつの減点があったかなんて関係ない。加点式で一億点を超えるような人間を、普通の人とは呼べない。
「真似できない、そう思わされます。……やっぱり、教師をやっていた時から世界中の子供を救おうという高い志を持っていたんでしょうか」
「ああ……それはね、わたしも気になって聞いたことがある。確か……二〇年くらいの前、インタビューでね」
「本当ですか⁉︎」
ガタ! と、白髪の男は勢いよく立ち上がる。
それが本当ならば、特大ニュースだ。
現在考えていた番組の一部を組み替えて、その話を放り込んだって構わない。
高そうなスーツを着た専務は、懐かしそうに笑って言った。
「『────
え、と白髪の男はマヌケな声を出した。
その言葉の意味が飲み込めなかったのだ。
教えてあげよう、と専務は目を閉じて当時の会話を思い出す。
『────特に、何も?』
『え?』
当時、元生徒として“彼”のインタビューを任された専務は、白髪の男と同じように聞き返した。
この頃、“彼”は既に目が見えなくなっていた。
噂では暗殺者と戦って失っただとか、実は影武者と入れ替わっているとか好き勝手言われているが、視覚を失おうとも“彼”は全く変わらなかった。
『な、なにも?』
『うん。僕は別に世界中の子供たちを救おうとか、教育を一から改善しようとか、そんな大それた事は考えちゃいなかった。……というか、今も考えてないよ』
『で、ですが! あなたは現に世界中の子供を──』
『──たまたまそうなってるだけで、別に僕が特別なんじゃない。僕は何処にでもいる、ありふれた老人さ』
“彼”はそう言い切った。
ごく当然のように、心底そう思っているような口振りで。
『聖人なんかじゃない。偉人なんかでもない。私財を投げ打ってまで人を助ける事はできないし、ムカついたら拳を振りかぶってしまう事だってある。ナイフを持った人間に立ち向かう度胸もない、誰彼構わず助けるお人好しじゃない。僕は、ジャン=アンリ・デュナンにはなれないよ』
『ですが、あなたは世界的教育ネットワークを作り上げた。それは誰彼構わず助けるお人好しではないのですか?』
『いやだって、それって当たり前の事だろう? たまたま僕がこの地位にいるだけで、他の誰がここにいたっておかしくなかったと思うよ』
“彼”は笑った。
特別な人間になりたい多くの人が聞いたら、絶句するだろう一言。
“彼”は自分の代わりがいる事が、この世界がそんな優しい世界である事が心から嬉しそうだった。
『うーん、スケールが大きくなってしまってるから分かりにくいだけなんだと思うよ。そうだね、例え話をしよう』
『例え話、ですか?』
『ああ。君が休日にコンビニに行く途中、道端で小さな子供が泣いていた。さぁ、どうする?』
『それは……保護者を探して、近くにいなかった子供のもとへ駆け寄ります』
『そう、それだよ』
“彼”は嬉しそうに頷く。
だけど、専務は何も分からずに首を捻る。
“彼”は教師として、物分かりの悪い子供にこう言った。
『目の前で子供が困っていて、自分に余裕があったら、普通は助けるだろう? 僕はただ、他の人よりも
『…………っ‼︎』
目が開いた。
今思えば、それは“彼”なりの全盲ジョークだったのかもしれないが、当時の専務はそれに気付かなかった。
きっと、“彼”にとってそれは善行ですらない。
いや、善行ではあるのだろうけど、大人ならば行うはずの前提条件のようなものなのだ。
『目の前の子供を助けていたら、別の子供を見つける。それを繰り返していたら日本中を巡っていて、最終的には海外にいる子供すら視界に入った。だから、助けた。何も特筆するべき事はない、ただそれだけの事なのさ』
自己満足ですらない。
息をするように、子供を助ける。
それが大人である事の義務だと信じて。
『困っている子供が目に入って、たまたまその子を救う力がこの手にあったのなら、誰だって助ける。僕はこの世界がそんな優しい世界なのだと信じている』
「…………それ、は」
「あのインタビュー映像はまだ残っていたかな? 無ければわたしの私物を持っていってもらって構わないとも」
専務は嬉しそうに笑った。
きっと、それは彼の宝物なのだろう。
「我々は、“彼”を偉人にしてはならない。何処にでもいる、ありふれた一人の大人として扱わねばならない。……それが、この世界を信じてくれた“彼”への恩返しとなるだろう」
そして、専務は。
天井を見上げて、今は亡き恩師を想う。
「そう、か……“彼”は、亡くなったのか」
その日。
とあるニュースが世界中を駆け巡った。