ペルソナ3 滅びの意志   作:三尺

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裁きの日(2010/1/31)

 タルタロスと呼ばれる神秘の大地――

 

 ユダヤ教の神秘思想であるカバラによれば、天と地、そして地下は各々七つの領域に分けられている。そのうち地の七つの領域は、タルタロスの各層の呼び名に対応している。即ち第一の地エレス、第二の地アダマ、第三の地ハラバ、第四の地ツイア、第五の地ヤバザ、第六の地アルカ、第七の地テベルである。だがタルタロスの各層の呼び名は、カバラが分類する七つの地とは順序が逆である。上へ上へと登るほど地下、即ち魔的なものに近づく構造になっている。それはなぜなのか。

 

 そしてもう一つ。タルタロスはギリシャ神話に登場する神の名前、または地名である。それにも関わらず、内部は一神教の言葉で表されている。これはどういうことなのか。表向きはギリシャ神話を象りながら、実は一神教的な意味合いが隠されているということなのか。それとも世界の神話や宗教は、いずれも同じ存在を別の側面から表したものである為に、現実にはそれらが混在して現れるということなのか。仮に後者だとすると、『同じ存在』とは何か。人間の普遍的な無意識のことか。それとも単なる観念や幻想ではない、議論の余地のない、強固な現実としての『神』なのか。

 

 湊はこれらの問題を考えたことがない。タカヤは考えたかもしれないが、それを人と議論したことはない。つまりタルタロスとは一体何であるのか、深く考えることがないまま湊は頂上まで辿り着いてしまったのである。一年もの時間が、『前回』も含めれば二年もの時間があったにも関わらず。

 

 

 特別課外活動部は最後の階段を上った。特に急ぐわけではなく、しかし誰一人後ろを振り返ることなく、階段を上りきった。最後の舞台に最初に足を踏み入れたのは、美鶴だった。踏み入れてから、後ろを振り返った。

 

 「皆、大丈夫か……?」

 

 「ああ……何とかな」

 

 「大丈夫……です」

 

 美鶴の確認に対して、続いてやって来た荒垣と天田が答えた。大丈夫とは言うものの、二人とも疲労の色が濃かった。特に荒垣は俯いているから傍からは見えにくいが、顔に火傷を負っていた。やがて他の者たちも頂上までやって来た。刈り取る者と戦ったメンバーと、そして最後に現場リーダーとサブリーダーが姿を現した。傷ついている者が多いが、誰一人欠けてはいない。十人全員で最後の舞台にまで辿り着いたわけである。

 

 「あいつら、そのままにしてきちゃいましたけど……良かったんでしょうか?」

 

 「……」

 

 やはり背後を振り返りながら、ゆかりが誰にともなく疑問を口にした。しかし答える者はいなかった。答えるまでもないことだから。ジンは死に、タカヤも死んだ。直接戦った者以外にもそれは分かっている。

 

 (あいつ……)

 

 そして直接戦った一人である湊は、この場の誰よりも強く確信を持っていた。タカヤはタナトスの剣閃だけで、ほぼ致命傷だったはずだ。それに加えてオルフェウスの光を浴びたことで、確実に命は尽きた。冷たくなった体を確認したわけではないが、そんな必要はない。

 

 (滅びは来ない……か)

 

 もちろん滅びは自分が防ぐ。その決意はとうに済ませている。だが今となっては、単なる決意だけでは収まらない。他ならぬタカヤに、あそこまで言わせたのだ。こうなってはもう、何が何でも防がなければならなくなった。

 

 「そ、それよりここは……」

 

 間近で起きた人の死により重苦しくなった雰囲気を逸らすように、風花が周囲を見回しながら呟いた。それに合わせて、皆も己の立っている場所を確認した。いくつもの細長い柱で囲われた広い円形の空間で、頭上に天井はない。つまりここは屋上である。見上げてみれば、緑の夜空に黄金色の巨大な満月が浮かんでいる。影時間は元より月が巨大化するが、ここで見るそれは地上から見上げるよりも更に大きい。しかも歪んで見える。

 

 「王居エレス……と言うらしいぞ。タカヤによるとな」

 

 「……」

 

 『今回』の11月4日、タカヤはタルタロスの頂上をそう呼んでいた。だがその名前の由来や意味を湊は知らない。そして皆からも特に反応はない。場所の名前などどうでもいいからか、或いは敵とはいえ死んだ者の名前を耳にして、それなりに思うところがあったのか。いずれにしても、皆は沈黙した。そんな中で、順平が近づいてきた。

 

 「おい湊、剣はどうした? それにその銃、召喚器じゃねえだろ!」

 

 しかし話は場所に関係することではなかった。死者には関係するが。いつもそうだが、順平は大切な事柄にすぐに気付く。

 

 「ああ、剣と召喚器は下に置いてきた。なくても戦えはするが……」

 

 湊は答えながら、右手の銃に視線を落とした。下の階で使って以来、指はそこに貼り付いたままだった。召喚器ではない本物の凶器を見つめながら、少し考えてみた。

 

 この銃に弾丸は一発だけ残っているはずだ。それはつまり、シリンダーを回せば再びロシアンルーレットができるということだ。やればもちろん甚大なリスクを背負うことになるが、得られるメリットも凄まじい。オルフェウスがタナトスに変容した4月とは逆に、タナトスを『無色の仮面』に変容させたほどだ。直前に運命のコミュニティが極まって、絆がアルカナの数だけ全て揃った為もあるだろうが。それでも普通に召喚したのでは、あんなことにはならなかっただろう。本当の本当に死を覚悟することと引き換えに、限界以上の力を引き出すことができるはずだ。

 

 ペルソナとはこうやって召喚するのだとは、よく言ったものだ。これに比べれば、どうやっても弾の出ない召喚器など子供の玩具も同然だ。ならば残る二つの戦いで、再びあれをやることを選択肢に入れておくべきか――

 

 「湊さん……」

 

 呼ばれて顔を上げると、眼前にアイギスの手が差し出されていた。手の向こうにある彼女の顔には、怒っているような色が浮かんでいる。皆まで言われなくても、表情だけで意図を理解できた。だが理解はしても、応じはしなかった。

 

 「これは……君のネジみたいなものさ」

 

 「……」

 

 『前回』の12月2日、ムーンライトブリッジで綾時と戦って飛び散った、彼女の破片の一つのことだ。焼け焦げたあれは、二人の絆の証だ。だが時間が戻った際には、誰も何も持ってこられなかった。そして『今回』の彼女は綾時と戦っていないから、もちろん貰っていない。だが言いたいことは伝わったようで、彼女は手を下ろした。しかし納得もしていないようで、リボンと同じ色の青い瞳には深い憂いが浮かんでいる。

 

 「心配するな。もうやらないさ」

 

 言いながら湊は微笑んだ。召喚器を失った為、腰のホルスターは空である。しかしそこに差しはせず、形見の銃は手に持ったままにしておいた。凶器を手にしながら微笑んだその時、頭上からカラスのそれに似た黒い羽根がいくつも落ちてきた。

 

 「あ……来ます! ペルソナを出さなくても感じる……綾時君です!」

 

 改めて見上げてみれば、翼を持った人間のような姿のものが、巨大な月に影を作っていた。それは見る間に近づいてくる。いつものことだが、タルタロスは侵入者を休ませてはくれない。ストレガとの決戦からいくらも時間を置かないまま、最後から二番目の戦いが始まろうとしている。

 

 「皆、聞いてくれ」

 

 湊は月から目を離し、大地に足をつけた仲間を見回した。ここにいるのは、苛烈極まるタルタロスを戦い抜いた同志たちだ。疲れてはいるが、余力は残されている。皆がまだ戦える状態にある。

 

 「二度も戦わせることになって、済まないと思っている」

 

 ファルロスと綾時のしたことは、自分のしたことだ。これはファルロスと綾時は自分と同一人物だからという意味ではない。以前はそう思っていたが、実はそうではなかった。それと同じ理屈で、時間を戻したのは自分ではなくアイギスだが、その責任も自分が負う。進路相談の頃から、湊はそれを決意していた。だから詫びる言葉も自然と出てくる。

 

 「だがこれが最後だ。皆の力を貸してくれ」

 

 本当の最後は自分一人でやる。絆ならば借りることになるだろうが、手は借りない。だからこう言った。

 

 「何を今さら言ってやがんだよ」

 

 皆を代表するように、順平が笑顔になった。意図して作り出した仮面の笑顔ではなく、裏表のない真っ直ぐな笑みだった。

 

 「俺たちが何の為にここに来たと思ってんだ?」

 

 『今回』の特別課外活動部は、世界の終わりにそれほど大きな実感を抱いてはいない。ニュクスに対抗することは可能であると、12月に綾時が言ったからだ。だが戦い自体が容易だった『前回』と違って、過酷な『今回』は常に全員の身近に死があり続けた。だから己の死や仲間の死には、強烈な実感をずっと持っていたはずである。そしてその上に、個人としての湊との絆が加わった。

 

 「お前を助ける為なんだぜ」

 

 それが結果的に、ある意味で『前回』以上の強い決意を皆が抱くことに繋がった。人間は世界の終わりなどと大袈裟なものより、身近な人間の死にこそより強いリアリティを感じるものだ。それは即ち、見たいものだけを見る人間の愚かしさだ。だが愚かしさもまた一つの力である。

 

 「ああ……頼むぞ、親友」

 

 湊は再び上を見据えた。ゆっくりと舞い降りる死の化身から、目を逸らさずに向き合った。だがその姿が大きくなるごとに、湊の体は少しずつ震えてきた。

 

 「やあ、久しぶり」

 

 最強のペルソナ使いが大地に降り立った。否、人間の体を失ったペルソナのみが、ニュクス・アバターが現世に降臨した。全ての生命に約束された死の宿命そのもの。意志や欲望によって殺すのではなく、ただ存在意義として殺す黒い『神』。闇夜のドレスを身にまとい、終焉を表す大剣を持ち、女王の冠を頭に乗せている。そして顔は悪意の仮面で覆われている。

 

 (耐えろ……)

 

 『今回』の11月、湊はニュクス・アバターの姿を見る度に、訳の分からない恐怖に襲われた。そしてそれはこの日も同じだった。うっかりすると足が竦んで、一歩も前に進めなくなりそうだ。騒ぎ続ける謎の恐怖に立ち向かおうと、拳銃のグリップを強く握った。

 

 「どうだい湊君。どうすれば生き延びられるか、答えは出たのかい?」

 

 「……」

 

 もう嘘は吐かないと決めている。まして綾時に嘘を吐くことはできない。だからこの問いに対しては、何も答えることはできない。どうすれば生き延びられるか。この『今回』最大の難問に対する解答は、今この時に至っても何も得られていない。できることはたった一つ。最後の最後まで足掻くことだけだ。

 

 「やれやれ。一年も時間があったのに、君ってば結局前と何も変わらなかったのか」

 

 ニュクス・アバターの顔は生身のそれではなく仮面である。だから何を喋っても表情は悪意の笑顔のままで動かない。だがその声は明らかな落胆を表していた。仮面を通している為に、声色はくぐもっている。しかしそれくらいでは隠せない、底の抜けた失望感が声に込められていた。

 

 「まあ仕方ないんだけどね。答えなんか、そもそもないんだから」

 

 死神は肩を落として俯いた。神の化身でありながら妙に人間らしいその仕種は、巨大な姿を少しばかり小さく見せている。失望を通り越して、絶望の淵にまで一気に落ちたように。

 

 「どうするのが君にとって、一番いいのか……。やっぱり僕を殺すべきだったんだ。大晦日じゃなくて、4月にでもね。ニュクスに取り込まれたら、それが分かったよ。だけど今となっては、それもできない。たとえもう一度時間を戻したって駄目だ。君は忘れちゃうだろうからね。そして君が忘れたら、僕だって覚えていられない」

 

 仮面の顔が上げられた。表情が変わることのあり得ないその顔は、相変わらずの悪意の笑顔だった。その目や口には暗黒が湛えられている。しかし瞳のない目の奥には、ある揺らめきが見て取れた。『前回』のこの死神は、あたかも人の姿の時の軽薄さを残していたかのように、どこか本気でないような、遊び半分なところがあった。しかし『今回』は違う。決意と言うか殺意と言うか、とにかく炎のようなものが仮面の切れ目から覗く闇の中に伺えた。

 

 「だから……全力で戦うよ」

 

 死神は黒い翼を広げた。羽根の一つ一つが陽炎を放って、元から巨大だった存在感を更に膨張させてきた。上空の巨大な満月までもが死神の陰に隠れて、地上からは見えなくなってしまう。それは見る者の視覚がおかしくなっているのか、それとも空間自体が怯えて歪んでいるのか。物理的な質量までが感じられる規格外の殺気が、天地を満たしている。

 

 「ぬう……」

 

 声を漏らしたのは誰だろうか。しかし誰であっても同じことだ。本物の死神が放つ凄味は筆舌に尽くし難い。人間や有象無象のシャドウのそれとは比べるべくもない。宇宙から飛来した巨大な隕石か、或いは傾いた海から迫りくる大津波か。大自然の驚異もかくやだ。皆は蛇に睨まれた蛙、否、神の光を見た人間が塩の柱と化すように動けないでいる。百戦錬磨のペルソナ使いといえど、神の化身に比べれば赤子も同然――

 

 「皆さん、しっかりしてください!」

 

 「お、おう!」

 

 硬直した皆へ向けて、風花が最後尾から大声で叫んだ。探索の時はいつも聞いていた通信機越しのナビゲーションではなく、生身の声だ。湊を除く皆は、それに答えることくらいはできる。しかしまだ動けない。誰もが顔に大量の冷や汗を浮かべている。

 

 「……」

 

 そして湊は他の皆より更に酷かった。両手は激しく震え、膝は笑い、胃は縮み、顔は血の気が引いたまま元に戻らない。舌は渇き切った喉の奥へと引っ込んで、声を出すどころか息さえまともにできない。血は凍りつき、肉は鉄と化し、骨は錆びついている。心臓は痛みを伴うほどに激しく打ち、頭は痺れて思考もまるで回らない。形見の拳銃を握ろうとしても力が入らず、かえって床に落としてしまいそうになる。

 

 (タカヤ……お前と戦った僕はどこに行ったんだ。これじゃ皆を指揮することさえできやしない……)

 

 「知恵の実を食べた人間は、その瞬間より旅人となった……。カードが示す旅路を辿り、未来に淡い希望を託して」

 

 だが人間が震えていようが、神の化身は待ってくれない。時は待たない。アルカナを巡るニュクス・アバターの戦いが始まる。だが――

 

 「しかしアルカナは示すんだ。その旅路の先に待つものが、絶対の終わりだということを。いかなる者の行き着く先も……絶対の死だということを」

 

 (何?)

 

 恐怖の只中にあって、湊は違和感を覚えた。今の言葉は死神を表すものだ。ワイルドはペルソナを付け替えることができるが、ワイルドの起源と言うべきニュクス・アバターは己のアルカナを変化させることができる。『前回』は愚者から始まって順番にアルカナを変え、最後に死神に至った。だが『今回』は初めから死神でいる。全力で戦うとは、そういう意味か。それとも――

 

 「だけど……実は終わりは一度じゃない。死の先にも、まだアルカナはあるんだ」

 

 (これは……!)

 

 死の先にもアルカナはある。それは正しい。なぜならタロットカードの大アルカナは全部で二十二枚あり、死神はその十三番目だ。つまり決して『終わり』ではない。言うなれば、それは精神の死だ。そして順番だけでなくアルカナの意味そのものも、単なる終わりではないことを示している。

 

 人生を暗示する大アルカナの分岐点に置かれた、死神のカード。

 正位置では終末、破滅、死。

 逆位置では再生、新生、復活。

 

 即ちそれまでの流れを変える転機の到来こそが、死神のアルカナの本当の意味だ。古いものが終焉し、新しいものが生まれるのだ。では新しいものとは何か?

 

 「そのアルカナは示した。価値の対立の中に、調和を見出すことを……」

 

 十四番目、アルカナ節制――

 

 「お願い……みんな、動いて!」

 

 もつれ合った恐怖と思考でリーダーが動けずにいる間に、風花が生身の大声で皆に指示した。いや、これは指示ではなくてただの祈りだ。だがその祈りは、なぜか同時進行したコミュニティに合わせるように、二人の女を動かした。

 

 「わ……私たちは勝って、みんなで生き残るの! そう決めてきたんだから!」

 

 最初にゆかりが動いた。召喚器を額に当てて逆巻く暴風を呼び起こし、襲い来る死の後のアルカナを防いだ。

 

 「そうとも、私たちは勝つ! 誰一人犠牲にはしない!」

 

 ほとんど間を置かずに美鶴も動いた。召喚器をこめかみに当てて、氷の盾でもって転機を経た後のアルカナを防ぐ。見回してみれば、女二人だけでなく男たちも構えを取れている。恐怖の硬直は既に皆から抜け落ちている。

 

 (あと六つ……いや、七つか。何とかいけるか?)

 

 皆と違って、湊の体はまだ動かない。だが首から上は動く。声は出せそうだし、物事も考えられる。ニュクス・アバターのアルカナが死神の次へと移ると共に、恐怖も一緒に通り過ぎてしまった。冷静さを取り戻した頭は、アルカナを巡る旅を切り抜ける手立てを瞬時のうちに見出した。

 

 「そのアルカナは示した。甘言や誘惑とは、耐える為にある試練であることを……」

 

 十五番目、アルカナ悪魔――

 

 「順平!」

 

 「へへっ……綾時、お前はダチだぜ。けど湊もダチなんだ。絶対死なせねえぜ!」

 

 4月からずっと隣にいて、何度も腹を割って話した親友。『前回』は仲違いしたし、『今回』も少しはした。だがそれがかえって、絆を確かなものにしたかもしれない。皆の中で最も勇敢で、最もヒーローらしい男。もし自分に将来があるのなら、成人式にも一緒に出たいものだ。『前回』も話題には上ったが、『今回』は果たしたい。

 

 「そのアルカナは示した。築き上げたものを一度崩し、広い地へと向かうことの意義を……」

 

 十六番目、アルカナ塔――

 

 「コロマル!」

 

 「ワン!」

 

 『死ぬのは年の順だ』

 

 揺らぐことのない強固な意志、大地に根を下ろした自然の生命の強靭さ。死を眼前においてさえ微動もしない、男の中の男。生き延びることができたなら、実は将来の自分の最も身近にいる相手であるのかもしれない。意思が読み取れなかった時でも分かり合えたのだから、読み取れるようになった今はなおのことだ。

 

 「そのアルカナは示した。全てを失った後に灯る、希望という名の小さな光を……」

 

 十七番目、アルカナ星――

 

 「真田先輩!」

 

 「もう何も失くさない……俺が守ってみせる!」

 

 単純明快な朴念仁とばかり思っていた先輩は、意外と繊細だった。妹を失い、その後も何度も挫折を味わい、その度に傷ついてきた。だがそれだけでは終わらない。泥水をすすってでも生き延びて、再び立ち上がる諦めの悪い男。決して長くはないその手を力の限りに伸ばして、きっと最後には望む全てを手に入れる。

 

 「そのアルカナは示した。どれだけ進んでも、不安はなくならない。それでも進まねばならないことを……」

 

 十八番目、アルカナ月――

 

 「荒垣先輩!」

 

 「こいつはとんだ食わせ者だがよ……てめえにはくれてやらねえ!」

 

 『前回』は己の命も投げ出した無愛想な先輩は、とにかく後ろ向きだ。だが隠された心は熱い。一度悩み始めると長い間沈んでしまうが、決断すれば全てを吹っ切れる、やる時はやる男。残された短い命を、今度こそ使い切ることができるだろう。本人を含めた誰にも後悔を残すことなく。

 

 「そのアルカナは示した。光の先には、真の達成、暖かな未来があることを……」

 

 十九番目、アルカナ太陽――

 

 「天田!」

 

 「有里さんは死なない……絶対生き延びる! だって僕と約束したんだから!」

 

 過ぎ去った時を取り戻そうとする、泣き虫の少年。小さな体と同じで、心もまだ幼い。大人びた仮面の下にある本当の顔は、絶えることのない涙で濡れている。だが全ての恩讐を超えた果てには、きっと誰より大きな男になれる。

 

 (こいつら……)

 

 湊は目を閉じた。皆が自分の為に戦ってくれている。仲間の一人一人と築いたコミュニティは確かな意味があった。『前回』は気付かなかった様々な一面を知ることができて、そして大きな決意を与えられた。下ろした瞼の裏側に熱いものが込み上げてくる。十年前の事故以来、一度も泣いた覚えはないのに。

 

 「知恵の実を食べた人間は、その瞬間より旅人となった……。カードが示す旅路を辿り、未来に淡い希望を託して」

 

 だが泣いても叫んでも、時は待ってくれない。アルカナを巡り続けるごとに、神の化身はより神に近づいていく。終末は既に来ているのだ。現実とは常に非情で、しかも容赦がない。恐怖で震える者も感動で泣く者も関係なく、神は地上のあらゆる人間を等しく裁き、打ち砕き、奈落に叩き落とす。

 

 「しかしアルカナは示すんだ。死を超えた旅路の果てにあるものは、本当の終わり……二度目の最後。それは裁きの日。旅人一人だけじゃない、全世界を巻き添えにした全ての終わり……神の怒りが地上に降り注ぐ日だ!」

 

 二十番目、アルカナ審判――

 

 ニュクス・アバターは翼を広げ、大剣を両手に持って天へとかざした。溢れかえる力の波動に煽られて黒い羽根が舞い踊り、これから行われようとする儀式の前触れとなっている。悪意の仮面を隠すように立てられた剣の周囲に、膨大な量の光が集まっていく。元は銀色の刀身は鈍い黄色に変わり、少しずつ鮮やかな金色に変わっていく。ニュクスの実体である月と同じ色へと近づいていく。つまり月が地上に現れようとしている。

 

 神の力を、その化身は行使しようとしている。これを受けては、人間など塵に帰るしかない。一昨日にこれと同等の力をその身で浴びた湊には分かる。

 

 「こ、これは……今までにない力です! 何とか耐えてください!」

 

 風花が叫ぶが、残念ながら皆はもう限界だ。元よりニュクス・アバターと人間のペルソナでは地力に差がありすぎる。どれだけ鍛えても、人と神の間には乗り越えられない壁がある。しかも『今回』のニュクス・アバターは『前回』より凄まじい。これは『今回』のシャドウが『前回』より強いことと同じ理由によるものか、それともアルカナの後半である為か。

 

 (後者か? いや……そういう問題じゃないか)

 

 タロットカードの大アルカナは人間の成長を暗示する。しかしだからと言って、カードそのものには先と後で本質的に優劣があるわけではないはずだ。ペルソナに関しても、死神以前と以降のアルカナに属するものに、極端に大きな力の差はない。『今回』のニュクス・アバターの強さは、ただ綾時の本気度合いを表すものだ。旅人一人だけでは済まさない、全世界を裁く決意がそこにある。

 

 「アイギス」

 

 裁きの日を迎えた神の力を凌ぐ手立ては、この世にたった一つしかない。審判の力の、その裏だ。

 

 「はい!」

 

 アイギスは両腕を胸の前で交差させ、腰を曲げた。さすがに全てを自分と共有する『人』である。皆まで言わなくても、やるべきことは分かっている。ここで呼び出すべきなのは、ヒンズー教の主神の一柱、世界を維持する太陽神。そしてその寝床となる時の大蛇。複数のペルソナを扱えるからこそできることの、その最大の秘技の一つ。究極の盾の技だ。

 

 アイギスは腰を伸ばすと共に両腕を広げ、通常のペルソナ召喚とは異なる独特の音響に乗せて二体のペルソナを召喚した。それとほぼ同時に綾時は剣を返して、切先を下に向けた。剣は眩いばかりの黄金の光を放っている。それをタルタロスの頂上の床へと突き刺した。つまり月を大地に落としてきた。

 

 ――

 

 神の怒りが地上に注がれた。それは大剣を中心として四方に広がり、巨大なタルタロスそのものを揺るがしてくる。数億年前、原始の地球には大気が存在しなかった為、流星はことごとく隕石となって頻繁に地球へ落ちてきたらしい。それと同じようなもので、神の化身の力はまさに天文学的な域だ。人や機械など一溜りもない。しかし――

 

 「ああっ……! い、生きてる!?」

 

 世界の永遠性を約束する存在によって、審判の波動は弾かれた。世界を滅ぼす力を浴びても、皆は傷一つ負っていない。だがアイギスが呼び出したのは飽くまでペルソナ。本当の本物の神ではない。だから維持の力は永遠ではなく、一瞬しか続かない。それが分かっているのであろう綾時は、剣にかけた手に更なる力を込めてきた。アルカナの旅はまだ終わらない。

 

 「そして……終わりは更に転じるんだ。それは永遠の苦役。ある人は山の頂まで岩を運び上げ、辿り着いては麓まで転げ落ち、また運び上げる。またある人は聖なる印と共に十字架に打ち付けられ、地上の全ての罪を背負うんだ……。この世に人間がいる限り!」

 

 審判の裏、アルカナ永劫――

 

 タルタロスに突き刺された審判の剣は、神の化身に押されて大地の奥へとゆっくりと沈んでいく。それに合わせて足元は更に揺れる。そして大地を表す塔の屋上の床には、縦横に亀裂が走る。もし剣が最後まで進めば、どんなことになるか。

 

 (タルタロスが消えるな)

 

 実はタルタロスを消す為には、ユニバースでニュクスに立ち向かう以外にも方法があるのかもしれない。綾時ならタルタロスを力尽くで破壊することさえ可能なのだろう。人間は山を崩すことも海を割ることもできないが、綾時はできる。原始の地球に衝突した小惑星オルフェウスが月を生み出したように、天地の形を変えられる。ただしそれをやらせては、カバラで言うところの大地ではなく、地球そのものがただでは済まない。人間は無論のこと、動植物も含めたあらゆる命が根絶されかねない。生きることをやめさせるニュクスの滅び以上に酷いことになる。

 

 綾時はやはり強い。力の次元が違いすぎる。『前回』勝てたのは、単に向こうが本気ではなかったからだ。しかし『今回』は明らかに本気だ。だが諦めるわけにはいかない――

 

 そう思うと、ずっと硬直していた手が動いた。手足を縛り付けていた謎の重さが抜けて、何気ないほどの自然さで動いた。その自然さに乗せて右手を肩の高さに持ち上げ、左手を添え、脇をしめ、腰を少し落とした。そして照準を合わせ、引き金を引いた。

 

 ――

 

 手が痺れた。初めて感じる種類の痛みが両手に残る。

 

 「子供をしつけるのに、銃はやりすぎだよな」

 

 綾時は右手で握った剣の束に額を当てて、うずくまった。左手は何かに祈るように、胸に当てられている。その胸に小さな穴が開いているのが、指の隙間から見えた。銃創だ。

 

 綾時は不死身だ。普通のペルソナ使いやシャドウに殺されることは絶対にあり得ない。殺せるのは自分とアイギスだけだ。だがそれでもペルソナを使わなければ、神の化身は殺せない。たとえ神話の双子の形見であろうと、撃たれても死にはしない。それは初めから分かっているのだが、それでも気分は良くない。手と同様に心も痛む。本来の性格である無気力症などどこかへ消え去ってしまう、まさに胸に穴が開く痛みがある。その痛みを堪えて、実銃をホルスターに差した。

 

 「だから……この辺で引いてくれないか?」

 

 このまま戦い続ければ、九分九厘自分たちは負ける。いや、銃弾を撃ち尽くして運任せの賭けもできなくなった以上、まず間違いなくやられるだろう。皆はアルカナの途上の攻撃を凌ぐだけで精一杯だし、究極の盾の技でも足場のタルタロスごと破壊されてはどうしようもない。究極の切り札を使えば何とかなるかもしれないが、ここでやれば皆を巻き込んでしまう。そしてそれ以上に、そもそも綾時と戦いたくはないのだ。

 

 「君に待っているのは理不尽で、不条理で……とても辛い結末だよ。ここで普通に死んでいた方が良かった……きっとそう思ってしまうよ」

 

 アルカナの宣告ではない、普通の人間のような言葉を綾時は発した。口調も非情な裁き手としてのものではなく、人間らしいものだった。相手を心から案じる憂いが満ちていた。こんなことを言える者が、人間でないはずがない――

 

 「……頼むよ」

 

 力では綾時に敵わない。理屈も通じない。ならば情に訴えるしかない。そしてこの情は真実のものだと断言できる。『前回』を通じて、ファルロスと綾時に対しては道理に合わないほどの親愛の情を感じていたが、その実態は既に理解している。

 

 あれは親子の情だったのだ。これ以上真実な気持ちはこの世にない。

 

 「……」

 

 子供は大剣と胸から手を離し、無言で身を起こした。開いた穴は見る間に塞がっていく。まだ戦えることは明らかだ。しかし仮面の切れ目から覗く暗黒に、もう炎の揺らめきはなかった。代わりにため息を吐いた。それはとても深く、長く続いた。子供から決意は去って、諦めが現れた。

 

 「辛いねえ、運命って。逃げても目を逸らしても、どこまでも追いかけてくる。やり直したって駄目なんだ。だって道は一つしかないんだから。何度繰り返しても同じだよ……。全く、どうしようもないね」

 

 「……」

 

 子供は大地から浮き上がった。翼は閉じたままで、月へと帰っていった。湊はそれを黙って見送り、アイギスたちもそれに倣った。天地を貫く大剣は刀身の半分ほどが沈められたまま、その場に捨て置かれた。それはかつて救世主が打ち付けられた、十字架の形を取っていた。

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