永劫――
劫とは極めて長い時間を表す仏教用語であり、サンスクリット語のカルパを音写した言葉である。仏典によれば、四十里四方の巨石を百年に一度薄い布で払い、石が摩滅し尽くされるまでに要する時間。或いは四十里四方の城を芥子粒で満たし、百年に一度一粒ずつ取り出し、全ての粒がなくなるまでに要する時間とされている。ちなみに仏教と同じくインドを起源とするヒンズー教では具体的な数字が示されており、それによれば一劫は43億2千万年とされている。
いずれにせよ、永劫とは現実的な時間感覚では想像もつかない領域の、遥かに長大な時間のことである。よって言葉の意味としては、永遠とも言い換えられる。しかしそれは現実的な視点に立った場合の話である。人間の目から見れば一億年も十億年も大した違いはないが、宇宙的な視点では両者は全く異なる。たとえ何十億年もの期間に及ぼうとも、それは決して無限ではない。従って、永劫は永遠ではないと言うことは可能である。例えば円と螺旋は似てはいても異なるように。
ただし永劫と永遠の違いを認識できる者がいるとすれば、それは人間ではあり得ない。認識できるのは数億年の時間をかけて生成消滅する天体か、或いは神やそれに類する存在くらいである。では宇宙と等価の存在にとっては、どうであろうか――
綾時は大剣を置いて、大地から飛び立った。外から襲い来る何かに耐えるように、閉じられた漆黒の翼で己の体を覆いながら。巨大な黄金の満月へ向けて、夢で見るような緩やかさでもって、顔を地へ向けたまま天へと飛び立った。
だが飛行は長くは続かなかった。向かった先の方で動きが出たのだ。地上へ遊びに行かせた子供を、天上から親が迎えに来たと言うべきか。それとも神の使いが地上に降り立ったことで、神自身が降りる道が整えられたと言うべきか。黒い影となった綾時の背後で、月が割れた。
文字通りの意味で、割れたのである。月の表面がゆっくりと剥がれて、中身が露わになった。それは鉱物的な、或いは機械的な印象を与える銀色で、無数の格子模様で覆われた球体だった。そして球の中心にある巨大な赤い瞳が、綾時の陰から地上を見下ろしている。その眺め方は感情や意志が一切ない、純粋な観察しか表していなかった。まさしく機械的な監視装置のように、静的な存在が動的な存在を見下ろしている。
(こ、これは……?)
だがそんな天文学的領域の異常事態を目の当たりにしながら、湊はそれとは別のことに心を囚われていた。そして地に立つ他の者たちは、更にまた別のことを感じていた。
「何だ……? 既視感?」
荒垣は訝しみながら、割れた月を見上げている。この光景に奇妙な違和感を覚えていたのだ。初めて目にするはずなのに、以前にどこかで見たことがあるような、不可思議な感覚があった。いや、見たと言っても現実に見たのとは違う。遠い昔に夢で見たような、しかし遠すぎていつ頃の夢だったのかもまるで分からない、そんな極めておぼろげな既視感だった。そして荒垣以外の者は、もう少し明確な感覚があった。
「ワウ……?」
コロマルは戸惑っていた。犬は言葉を持たない為、人間のように観念的に物事を考えることはできない。だが過去の出来事を記憶することなら人間と同様にできるし、そこから何かを学ぶこともできる。そして今、月が割れた。もし過去に目撃済みなら、忘れることなど一生あり得ない。だから過去には見ていないはずなのに、なぜか奇妙な『覚え』があった。そんな訳の分からない記憶の混乱を、コロマルはこれまで一度も経験したことがなかった。人間のように葛藤することがほとんどない犬は、生まれて初めての感覚に戸惑っていた。
「違う……これは既視感じゃない! 私たちはあれを知っている!」
美鶴が最初にはっきりと気付いた。美鶴はこの日以前にも、心の深層に残っていたものを蘇らせたことがあったから。いつかも分からない遥か遠い日に、強く深く心に刻み込まれたある出来事を、夢で見たことがあるから。そしてそれに向き合うことで、心の形を変容させたことがあるから。だから気付いた。ニュクスの来訪を『以前』に本当に見ていることを。
「そ、そうですよ! 月が割れて、近づいてきて! 私たちは動けなくなって……有里君が!」
風花も気付いた。心に強く刻み込まれた出来事ならば風花にもあるが、それは夢で見るまでもなく、二度目の日々の中で現実に経験している。だから夢によって心を変容させたことはない。それでも気付いた。無意識の底の底から人を揺り動かす存在の訪れを目にしては、気付かずにはいられない。
「思い出した……僕たちは過去に戻って来たんだ!」
天田が叫んだ時には、もう誰もが理解していた。荒垣と湊を除く皆で、時の狭間の機能を使って時間を戻したことを。破壊された時間と共に失われた記憶を、時の終わりに至って遂に取り戻したのだ。ただ一人を除いて。
(う……うう……!)
湊は未だ明確にならない、得体の知れない恐怖を感じていた。言葉の及ばない心の遥かな深層部分から、苦悶の呻きが上がっている。だが宙を舞う綾時と背後の月から目を逸らせない。体は完全に硬直して、瞬きすることもできない。
その時、綾時が動いた。天へと向けて、女王の冠から黄金の光の筋を放った。その光の糸に引き寄せられて、綾時は背後の月へと向かって行く。一見するとそのように見えた。だがそうではない。綾時はその場から動いていない。しかし神とその化身の距離は縮まっている。月の方が近づいてきたのだ。
もう間もなく、月は大地へ落ちてくる。神の化身が捧げ持った裁きの剣ではなく、神そのものが降りてくる。
「うわっ……!」
本体より先に力の波動が襲ってきた。それは天体が物理的に近づいたことによる力、即ち重力か。或いは人間の精神を奪い取るシャドウの声か。だがいずれであっても同じことである。皆がその場でうずくまり、立ち上がることもできなくなった。滅びの力の前に膝を屈したのだ。
(何だ……これは一体何だ!?)
だがそんな皆の中で、湊だけは様子が違っていた。と言っても、立ち上がっているわけではない。地に膝をつきながら、激しく震えていた。ニュクス・アバターの殺気にあてられた時と同じか、それ以上の恐怖に襲われていた。町の人々の阿鼻叫喚が遥か下方から届けられてくるが、そのどれよりも酷かった。初めて異界を目にした無力な人間以上に怯えていた。
月が割れて目が現れ、力が降り注いでくる。特別課外活動部のみならず、世間の人々も等しく襲っているこの事態を、『今回』の湊は初めから覚えている。既に知っていることだから、神の目の出現そのものに驚いたり恐怖したりはしない。怖いのはそれとは別のことだ。
(僕は……何を思い出そうとしているんだ!?)
皆は失われた記憶を取り戻している。しかし湊は未だ取り戻していない。否、取り戻しつつはある。ただ失われた記憶そのものに対して戦慄していた。真実を何もかも明らかにすることが正しいとは限らない。知っても意味のない、或いは知ってはならない真実というものはある。そして知りたくない真実というものもある。今まさに心の深層から蘇ろうとしているものは、そういう類のものだ。
膝をついたまま俯き、目を閉じた。神から目を背けたその瞬間、ある言葉が頭に浮かんだ。
『命のこたえ』
これは知っている言葉である。『今回』の11月、エリザベスがペルソナ全書を示しながら、全書を超える為に必要だと言っていたものだ。その時は意味が分からなかった。だが今なら分かる気がする。ペルソナ全書とはワイルドの力を表すもの。即ち人間の可能性の範囲を表したものだ。それを超えるとは、人間ではなくなること。では何になるのか?
(あ、ああ……)
理解してしまった。一寸先も見えない暗闇の中で、どこに潜んでいるか分からない恐怖を避けようとむやみに手を振り回していたら、かえって恐怖に触れてしまったように理解した。言葉の及ばないところに封じられていたものが、遂に言葉となって立ち現われてきた。
命のこたえ。その言葉の意味を、湊は知っていた。知らないはずなのに、知っていた。忘れたはずなのに、覚えていた。それは宇宙と等価の存在になること。大いなる封印。ありふれた自然現象に過ぎない死を遥かに超える、究極の不条理――
「間もなく最上階でございます」
思い浮かんだ言葉を以前に口にしていた当のその人の声を聞いて、湊は顔を上げて目を開いた。そこはタルタロスの頂上ではなかった。『前回』も『今回』も数えきれないほど訪れてきた、青色で統一された神秘な軌道エレベーターだった。そこに置かれた竪琴に似た形の椅子に座っていて、体の震えは収まっていた。いつもの通り、テーブルを挟んだ向こう側のソファーにイゴールが座り、右側にエリザベスが立っていた。
しかしいつもと違うものもあった。二人の頭上には光の速さで針が回る金色の時計がかけられているが、その針は止まっていた。そして正面は全体が透かし扉になっており、普段は暗い壁が下へ下へと落ちて行っている様子しか見えないが、今は違う。最上階に到達した今、時計の針は止まり、壁はなくなる。
――
重い音を響かせながら、扉が開いた。目を背けるなと、扉そのものが命令している。そしてもう猶予はないのだと、止まった時計が告げている。こうなると、見たくなくても見なければならない。外の景色を。
「あれは……」
ベルベットルームの外は地球の領域を超えた場所、即ち人間の住む世界を超えた場所、宇宙空間そのものだった。その先に一つの扉があった。無数の眼球の装飾が施された、巨大な黄金の扉。封印の扉。地獄の門。そして宇宙の闇に溶け込むような、黒い巨大な怪物がいた。
(違う……あれは今そこにあるわけじゃない)
イゴールとエリザベスは、『前回』の自分が何をしたか知っているはずである。そして今、二人はそれを見せているのだ。二人は人が何か聞いても、思わせぶりな言葉だけで煙に巻いてくる。しかしそれは単なるごまかしやはぐらかしではない。真相とは時が来れば自然と理解できるものだからだ。即ち、今その時が来たということだ。
椅子から立ち上がると、地獄の門がよりはっきり見えた。黄金の扉のやや上の部分、ちょうど黄金比の高さの位置に、一人の若い男の石像がかけられている。石の男は両手を上へと広げ、足は揃えられ、顔は俯いている。教会によくある磔刑の図そのままの姿だった。そこへ向けて黒い怪物は手を伸ばすのだが、扉と石の男は微動もしない。怪物がどれだけ力を込めても砕かれない。あたかも石像は時間の流れが存在しないかのように。
「そうか、僕は……」
あの扉の意味を、そして怪物の存在を自分は知っている。『前回』の自分は、あの扉で磔にされたのだ。否、あの扉そのものになったのだ。そして怪物即ちエレボスが、月即ちニュクスに触れないようにした。それこそが、大いなる封印。『前回』ユニバースの力を用いて行った奇跡の真相だ。
「思い出していただいたようですな」
イゴールが声をかけてきた。それは色々なものを含んだ声だった。憐れむような、呆れるような、慰めるような、責めるような。多くのものが混ざり過ぎて、善意なのか悪意なのか分からない声だった。だがイゴールの顔を見る気にはなれない。知っている幻が、目を捕えて離さない。
「僕は十字架にかけられたんだ」
真相を口にすると共に、門と怪物は消えた。ベルベットルームの透かし扉が開けられたその先には、延々と果てしなく続く宇宙の闇があるばかりだ。しかしあれらはただの幻ではない。自分の責任が形になったものだ。これから同じことをやらなければならない。
「かつて救世主と呼ばれた方がいらっしゃいました。その方は自らを磔に処させることで、世界の罪を一身に背負われました。前の貴方は、まさに救世主の道に倣ったのです」
「救世主……」
審判のアルカナの最奥に位置するペルソナが、そう呼ばれている。あれはある歴史上の人物であると共に、彼の宿命そのものをも表したものだ。己の命と引き換えに世界を救うこと。十字架にかけられることで、世界の罪を背負う宿命だ。
どうして今まで気付かなかったのだろう。審判のコミュニティは、タルタロスの第六層を歩むごとに進んできたではないか。つまりタルタロスとは実は塔ではない。そして穴でもない。救世主が十字架にかけられる為に歩む道。即ちゴルゴダの丘だ。
ではなぜ救世主は単に死ぬのではなく、十字架にかけられる必要があったのか? それは審判の裏である、永劫のアルカナの意味だ。永遠の苦役を引き受ける必要があったからだ。では苦役とは何か? それは死に触れたいと願う人々の思いに身を浸すことだ。人類の悪意に晒されることだ。つまりタルタロスとは、滅びの意志が滅びを目指して進む目印。人々の願いを乗せて、天上へと至る蜘蛛の糸だ。
「滅びを呼んだのは……僕じゃなかったのか」
タカヤは正しかった。自分はデスを復活させたが、それは最後の一押しに過ぎない。滅びはまさに『総意』だったのだ。
「その通りです。貴方が担っておられる滅びの原因は、全体のごく一部に過ぎません。しかし責任は違います。責任とは取れる分だけ取るべきもの。力の大きさに準じて負うべきもの。宇宙と等価の存在になられた貴方は、限りなく全てに近い責任を負わねばならないのです」
理不尽だ。とてつもなく理不尽だ。どうやって自分を納得させればいいのか分からないくらい、無限大に理不尽だ。いっそ本当に自分一人が滅びの原因であれば、少しは責任を取る気にもなれるのに。
「時間が戻ったら、ユニバースで何をしたのか忘れてしまった。その理由が分かったよ。僕は……逃げ出したかったんだ」
「まさにその通り……。貴方は責任をお取りになったものの、決して納得はしておられなかった。故に、辛い記憶を自ら封じてしまわれた……」
原因であればまだ良かったのだ。しかしそうではなかったものだから、責任を取る気になれなかった。どうにもならない現実として取らざるを得なかったが、本心では取りたくなかったのだ。だから十字架から降ろされた途端に忘れてしまった。目を背けたのだ。これ幸いとばかりに。だから忌まわしいほどに優れた記憶力を持ちながら、肝心なことだけ忘れてしまった。自分自身に呆れてしまう。
「とんでもない馬鹿だな……僕は」
『愚者』は死を恐れない。苦痛も徒労も恐れない。ずっとそう思っていたが、それは嘘だった。十二のシャドウを倒すことの意味を初めから知っていた『今回』は、4月にでも自殺すればよかっただけだった。それなのに、そうしなかった。それは結局のところ、死にたくなかったからだ。生き物ならば誰でも死から逃れようとするように。
そしてそれは『前回』も同じだ。そもそも本当の本当に生に未練を残していなかったならば、今日この日に死んだはずであるのに、卒業式の日まで生きた。その日にまた会おうと、皆と交わした約束を守ろうとしたからではない。なぜなら皆が来る前に死んだ自分は、約束を果たしていないから。自分はただ、生きたがっていた。意識的には生きたいと思わなかったが、それは自分自身に対して付けた仮面で抑えていたからに過ぎない。真実の自分は、逃げようのない現実からひたすら逃げ続けていたのだ。何という愚かしさであろうか。
「恥じることはありません。過酷な現実から目を背けたいのは、誰もが同じ。貴方のご友人たちもまた然り。故に彼らは時の狭間を呼び寄せ、時間を戻されたのです」
「呼び寄せた……か。つまりそっちは本当に僕のせいってことか」
皆は時の狭間を呼び寄せたのであって、生み出したのでも消させなかったのでもない。2月には記憶を失った皆に、そんなことができるはずがないのだから。タルタロスと共に消えるはずの時の狭間が消えずに残ったのは、自分の未練に反応したからに違いない。つまり世界の終わりではなく、時間が戻ったことの原因こそが己にあった。アイギスのしたことは自分のしたことという意味ではない。責任ではなく原因の、その根源が自分だったのだ。
「貴方はご自身の運命を受け入れなければなりません」
『前回』もイゴールにはこう言われた。デスを宿したことが運命なら、ワイルドの力を得たこともまた運命だと。それと同じで、十字架にかけられることも運命だ。
(どうでもいい……わけがない)
やりたいことも伝えたいことも、いくつもあった。将来の夢も希望もあった。だが何一つ叶えることはできない。残された選択肢は二つしかない。今からでも逃げて全世界を巻き添えにして滅ぶか、人柱となって永遠の苦しみを背負うか。本音を言えば、前者を選択したいところだが――
(いや……僕が逃げたら、アイギスが滅びた世界に一人で残されるだけだ。やるしかない……)
理不尽だろうが不条理だろうが、運命は受け入れざるを得ない。恨んでも悔やんでもどうしようもない。いかなる結末でも受け入れることが『契約』だ。つまり最初の最初から、逃げ道は塞がれていたのだ。
全てを悟り、諦め、目を閉じた。
――
頭の中でガラスが割れる音が響き、心に通っていた一本の芯が壊れた。二度目の日々の最後になってようやく得た戦う目的は、脆くも崩れ去った。後に残ったのは、本来の性格である無気力症のみだ。と思いきや――
(ん? ああ……)
心の瓦礫の中で、一枚のカードが光を放ち始めた。壊れた眼差しでそれを見てみると、何なのか気付いた。『前回』ここでイゴールから渡された、タロットの最後のカードだ。
(そういうことか……)
これは『今回』集め直した絆によって生まれたものではない。元から持っていたものだ。アイギスは3月31日に何をしたのかを思い出すと共に、ワイルドの力を思い出した。それと同じで、『前回』の今日に何をしたのかを思い出すと共に、ユニバースの力を思い出した。
そしてそれと共に、もう一つのことを理解した。『今回』はイゴールに絆を集めろとは言われていない。ただユニバースは今の自分と無関係ではないと、そして時間が戻った理由は自分自身で得ろと4月に言われた。つまり『今回』はコミュニティをやり直す必要はなかった。ただ自分の中にユニバースを探せばよかったのだ。仲間の一人一人と築いた絆も苛烈な戦いも、何もかもが徒労だった。
「全く……こういうことだったのですね」
不愉快そうな声が耳に届いて、目を開けた。するとテーブルを挟んだ向かい側、イゴールを挟んでエリザベスの反対側に、運命の絆で結ばれた人が立っていた。腕組みをして、怖い顔でこちらを睨んでいる。タカヤだ。
「以前に申し上げたはずですね。死は一度迎えれば十分であると」
『今回』の11月22日にタカヤはそう言っていたが、その通りだ。それなのに自分は時間を戻させたことで、二度目の死をタカヤに与えてしまった。『今回』は生の意味を与えられたはずだが、それを帳消しにして余りある、理不尽な宿命を背負わせてしまった。
「済まなかったな……」
何があっても痛まない無気力症であっても、タカヤに責められるとやはり痛む。しかしタカヤは自分を責める権利がある。素直に謝るしかない。
「まあ、それは貴方ご自身も同じですからね。これ以上は言いますまい。ですが、三度目は許しませんよ」
しかし糾弾は一言で終わった。物分かりのいい、心優しい眠りの神らしい物言いである。だが甘くはない。ヒュプノスは眠りを人に与えるが、死も与える。それは眠るように安らかな死だが、死の宿命そのものを歪めるものではない。だからタカヤは腕組みをしたまま顎をしゃくり、ベルベットルームの扉の外を示した。そこには真っ平らな虚無の王国が広がっている。
「さあ……止めてご覧なさい。人類の総意を、たった一人で」
これもタカヤの言う通りだ。たった一人でやらねばならない。アルカナの旅の最後に得るものは、絆ではなく孤独だ。豊かに満たされた世界ではなく、宇宙的な虚無だ。分かち合う者のいない、誰も傍にいてくれない、絶対の孤独だ。宇宙のカードは無気力症にこそ相応しい。否、無気力症でなければやっていられない。考えることをやめなければ、永遠の苦役になど耐えられない。
タロットカードは人生の宿命を表している。つまり前へ進む限り、どう足掻いても最後のカードに至ってしまう。道は一つしかないのだから、やり直したところでどうしようもないのだ。4月にでもファルロスと心中して、途中で舞台から降りるのが最善だったのだ。全くもって綾時の言う通りだ。
(仕方がない……仕方がないんだ)
逃げられるのなら今からでも逃げたい。普通に死んでいた方がまだ良いと言っていた子供は、逃げてもきっと許してくれる。だがもう一人の子供にやれと言われては、やらざるを得ない。
正しいのはいつも子供たちで、親は間違えてばかりだ。
ベルベットルームから出ると、心のない機械のようなニュクスの目が依然として見下ろしていた。それと共にタルタロスの頂上でうずくまっていた自分を発見した。そして自分の周りでは、皆が同じような姿勢でいた。神話の存在の力によって、皆は地に跪かされている。だが自分の体は軽かった。大地に手をつけるまでもなく、膝を起こすだけで簡単に立ち上がれた。
そう、軽いのだ。ニュクスの力とは、心や命そのものにかかる重力であるのかもしれない。だとすると自分が動けるのは道理である。『愚者』の心は薄く、救世主の命は軽い。大地を蹴って跳びはねてみると、根無し草が水に浮くように体が宙に浮いた。これだけで、もう自分は人間の範疇を外れてしまったことは明らかだ。そして外れた以上、もう後には引けない。空を越えて、月までも一足飛びだ。
「待って! 行かないで! こんな……こんなのってないよ! これじゃ前と同じじゃない!」
背後からゆかりの叫び声が聞こえてきた。だが振り返りはしない。振り返ったところでどうしようもないのだ。むしろ振り返ってはならない。それは生への未練に繋がるから。
「くそっ! わざわざ過去に戻ってきて、シンジを助けただけで終わりか! あいつを二度も死なせて、俺には何もできないのか!」
「何で……何でこんなギリギリまで思い出さねえんだ! 馬鹿にも程があんだろ、俺……」
真田は吠え、順平は嘆いている。だが仕方がない。泣いても叫んでも運命は覆らない。意地や思い込みでは真実は変えられない。
湊は一度も振り返ること無く、大地から飛び立った。振り返らなかったのだ。だから気付かなかった。ベルベットルームの正面の扉から出た時、自分の後ろから一人の『人』がついて出てきたことに。
もし地球から月まで歩いて行こうとしたら、休まず歩き続けても十年はかかってしまう。しかし宇宙における最高の速度で進む光であれば、僅か一秒と少しで到達する。そして宇宙と等価の存在となった者は時間も空間も自在に超えて、望む場所へ一瞬で辿り着ける。そうして湊は世界に死を与えた存在、ニュクスの懐にまで時を置かずに至った。
(またここに来てしまった……)
そこは人里離れた深い山の奥、世間から遠く離れた秘境の洞窟のような空間だった。その最奥には人々が望んでやまない財宝が隠されていて、太古の昔から数多の者が挑んでは飲み込まれていった。ここはまさにそんな場所である。ただし隠されているのは財宝ではなく、死そのものだ。だが人々が望むものである点では同じだ。
広く薄暗く、飽くまで静かな死の至聖所。その中央に、銀色の卵型の物体が浮かんでいる。いや、卵型の物体ではなくて、まさしく卵である。永劫の時を待ち続けて、遂に訪れた孵化の瞬間を目前にして、身動ぎしながら鮮やかな光を放ち続けている神の卵だ。外から誰かが触れでもすれば、喜んで殻を破って出てくるだろう。
場所の装いと卵の状態は、『前回』の記憶の通りである。だが違う点として、自分自身の状況がある。
(世界を滅ぼす力に、たった一人で立ち向かわないといけないわけか……)
そんなことを思っていると、神の卵から赤い光が照射された。綾時が放った審判の剣の、その本当の本物。あらゆる命を奪う滅びの光だ。
――
しかし光は何事もなく素通りした。『前回』はこれで何度も打ちのめされ、その度に仲間たちの声を聞いて立ち上がったのだった。今にして思うと、未だタルタロスにいるはずの皆の声が聞こえたのは、イゴールが仲介していたのだろう。『前回』ベルベットルームでユニバースを得た時には、仲間以外のコミュニティの担い手たちの声だけを聞いていた。それに仲間の分を上乗せさせてユニバースを完全なものとする為に、声を聞かされたのだ。
だが『今回』は声が聞こえてこないし、それ以前に倒れもしない。力は既に完璧に思い出せているから、今さら仲間の声を聞く必要はない。そしてイゴールもそれを分かっているはずだから、何も届けてこない。だから『前回』と違って、本当に一人きりだ。だがそれで構わない。むしろ声はもう聞いてはならない。大地を蹴ってから一度も振り返らなかったのだから、後ろ髪を引く声はもはや邪魔なだけだ。
(簡単な仕事だ。一人でできる……)
そう、これは至極簡単なことだ。どうすれば滅びを防ぐことができるのか、あらかじめ分かっているのだから、何も難しいことはない。変に気合を入れすぎることも、作戦を考える必要もない。ただ心の全てが抜け落ちていく底なしの諦めを抱いたまま、大いなる封印を完成させるだけ。救世主の宿命を背負った人間は、歴史上に自分以外にもいるのだろう。だがこんなにやる気なく世界を救う者は、今までいなかっただろう。
目を閉じて右手を掲げ、心の海からユニバースを引き出した。そして人差し指に集中させた。これをニュクスへと差し向ければ、全てが終わる。自分の命と共に。悔いはない。否、悔いはあるが、それを言ってはいけない。
(もう卒業式まで生きることもできないな。いや、生きたらいけないな……)
『前回』は必死になって生き延びようとした。自分自身に対して付けた仮面の下で、言葉の及ばない無意識の領域において。だが『今回』はそれもしてはいけない。意識的にでも無意識的にでも、生への未練は時の狭間を消させずに残してしまう。それではまた同じことの繰り返しになる。それを避けるには、今ここで死ぬしかない。
(そうすると……僕は皆の思い出の中からも、居場所をなくすんだろうな……)
今ここで死ねば、きっとそうなる。明日からは皆の記憶が補正され、有里湊なんて男は初めからこの世にいなかったことになる。卒業式の日になっても、自分に関する記憶だけは戻らないようになるだろう。特別課外活動部のリーダーは初めからアイギスで、タルタロスの頂上まで至ったら事態は自然と解決した。きっとそういうことになる。
この世の全ての人から自分は忘れられ、二度と思い出されることはない。だがその方がいい。万が一にも、時間が再び戻ってしまう可能性は排除せねばならない。知る必要のない真実も、知ってはならない真実もこの世にはある。自分の真実はまさにそういう類のものだ。物語は誰の手にも残らず、宇宙の闇に溶けるべきなのだ。
人は二度死ぬ、という言葉がある。時間を戻して二度死ぬという意味ではなく、世間にも普通にある事実として二度死ぬ。一度目は本人が死んだ時。そして二度目はその人を覚えている人が誰もいなくなった時。十年前に死んだ両親のように、自分は完全に死なねばならない。一度の死で二重に死ぬとは、親不孝な自分に相応しい死に方であろう。
(永遠に、さようならだ……)
最後に一度、深呼吸をした。虚無を飲み込んで、心を吐き出した。ただの無となって、十字架に足をかけた。