世界の終わり――
一口に終末思想と言っても、世界には様々な種類があり、またその理解も時代や人によって大きく異なる。例えば終末とは文明社会の崩壊であるとの解釈もあるし、全人類の死による滅亡であるとの解釈もある。更には神によって選別された正しい人間のみが生き残り、そうでない人間が滅びる義人救済という解釈もある。或いは不正義が横行する世の到来そのものを意味し、何か決定的な破滅が行われるものではないとの解釈もある。
そしてまた、そもそも終末は未来に訪れるものではない、という解釈もある。これはキリスト教の一部において見られる考え方であり、それによれば終末は既に訪れたとされている。つまり紀元1世紀に行われたイエス・キリストの贖いによって、世界は『既に』救済されているのであって、未来に破滅や救済が訪れることなどない、という考え方である。
湊はそうした諸々の思想が存在することを、総合学習の授業で学ぶなりした為に知識としては知っている。しかし神話や宗教は現実と同じではない。そして終末はニュクスの来訪という形で、1月31日に世界を襲うことは『決まっている』。つまり哲学的な認識以前の強固な現実として、終末が訪れることを知っている。だから湊は終末の背景にあるものにまでは、特に思考を巡らせたことはなかった。昨日までは滅びの原因は宣告者にあると思い、そして記憶を取り戻した今はエレボスにあると。そう思っていた。
湊さん――
ニュクスの懐、死の至聖所。そこで救世主の十字架に足をかける直前、遥か彼方の背後から、湊は自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がした。すると自嘲の笑みが口元に浮かんでしまった。
(何だ、僕はまだ未練があるのか……)
後悔とは理屈ではないように、未練もまた理屈ではない。捨てようと思っても捨てられるものではない。だから死の間際になって、愛しい人の幻聴を聞くのも仕方のないことであろう。だが救世主は全てを諦めざるを得ない。死に向かう足を一旦止めて、再度の深呼吸をした。これを終えたら、改めて十字架に向かうつもりで。しかし――
「湊さん!」
今度は間違っても幻聴とは思えない、現実感の溢れる声が届けられてきた。
「!?」
声に続いて、背後から流れ星が落ちてきた。『今回』の屋久島のビーチでもそうだったように、湊は全般的に想定外の事態に弱い。だから全く予期せぬ不意打ちに何の抵抗もできず、神秘の洞窟の床にうつ伏せに押し倒された。
「良かった……! 間に合いました! また貴方に会えました!」
飛んできた人はそのまま馬乗りになって、湊は起き上がれなかった。何とか首だけ回して横目に見上げると、闇夜の深奥にありながら、それを弾き飛ばさんばかりの光り輝く笑顔が目に入った。『前回』を通じて本当の意味で心を許した、たった一人の女性。昨日までは戦う目的にしていた人。世界の終わりを生き延びて、どこにでもいる普通の人間として生きる未来を夢見て、そこで自分の傍にいてくれることを望んだ人。アイギスだ。
「な、何でここに……!?」
屋久島では予定より一日早い登場に動揺してしまい、彼女の名を口にする失態を演じてしまった。そして今日も同じように動揺してしまった。どうして彼女がここにいるのか、訳が分からない。宇宙と等価の存在となった自分の理解を超える事態が起きるなど、あっていいのか――
「姉さん、一時撤退しましょう。ここは作戦会議には不向きです」
「君は……?」
理解を超えたことはまだあった。アイギスは一人ではなく、白い彼女とは対照的な黒い装甲をまとった、見知らぬ少女を連れていた。アイギスを姉と呼ぶ少女の声を聞いてから、湊は初めて気付いた。
「ええ、行きましょう!」
白い姉は素早く起き上がり、押し倒した男を抱き上げた。そして洞窟の床を蹴って跳躍した。黒い妹もそれについてきた。
「……離してくれ」
抱き上げられた男が一言言うと、抱き上げた姉は男を下ろした。下ろすと言っても、そこに床があるわけではない。しかしとにかく体を離して相手を立たせた。妹もそれに続き、三人が並んで立つ形になった。
振り返ってみれば、不毛の衛星はずっと遠くにあり、再び振り返れば同じくらい遠くに青い惑星がある。死と生をそれぞれ象徴する天体の中間に三人はいる。人間はおろか機械にも乗り越えられない、文字通りの天文学的な距離をアイギスは一足飛びに越えたわけである。
「君もユニバースを得たのか」
湊の動揺は既に収まっていた。そして冷静さを取り戻すと、なぜアイギスがここにいるのか理解できた。ここは地球を超えた領域であり、到達するには奇跡の力が必要だ。ならば彼女がそれを得ていることは明らかだ。そして『今回』の彼女はワイルドに目覚め、ペルソナは自分と共有している。彼女がコミュニティの活動をしている様子は見たことがないが、コミュニティはペルソナと根源を同じくするものだ。
つまり彼女はコミュニティも自分と共有しており、自分は『今回』の絆をユニバースに結晶させなかった。使われなかった絆の力を、イゴールは彼女に与えたのだろう。よって彼女がここにいること自体は、決して不思議ではない。すぐに気付かなかった己が間抜けなだけだ。
「はい」
「この子は?」
不思議なのは、彼女が連れてきた黒い少女だ。この子は何者なのだ。いや、誰なのかは見当がつく。3月31日に時の狭間と共に寮の地下から現れた『妹』がいると、12月2日に話だけは聞いていたから。疑問なのは、なぜここまで来れたのかだ――
「この子はメティス……私の妹です。貴方を助ける為に、皆さんとこの子の力を借りました」
疑問についてアイギスは答えなかった。だが湊はそれを問うことはやめた。それよりもっと重要な問題が今はある。彼女に助けてもらうことはできないのだ。と言うより、助けてもらっても意味はない。余計な犠牲を増やすだけだ。
「駄目だ、引き返せ。ユニバースは二つあっても無駄だ。二人でやれば、二人揃って死ぬだけだ」
二人でニュクスに立ち向かえば、負担を分け合うことで死なずに済むようにならないかと期待したこともある。だが真実を思い出した今は、それも無理だと分かっている。大いなる封印の実態は、滅びを食い止める人柱として永遠に存在し続けることなのだから。それを分け合うことなどできないし、アイギスを死出の道連れにすることもできない。
「人柱は一人でいいんだ……。人類の悪意になんか、君は触れたらいけない」
彼女の体は機械だが、心は人間だ。それも自分と違って、人間以上に人間らしい豊かな心を持っている。エレボスに繰り返し触れられれば、人間の心など容易く壊れてしまう。救世主の宿命は無気力症でなければ耐えられない。
しかし彼女は首を横に振り、不思議なことを言い出した。
「滅びの原因は人々の意志ではありません」
「何?」
またしても訳が分からなかった。ニュクス自体に悪意はなく、滅びはエレボスがニュクスに触れることで訪れるものだ。つまり人々の意志こそが全ての原因だ。ユニバースを得た自分には分かる。それなのに、同じ力を得ているはずの彼女に否定されるとは――
「以前仰っていたではありませんか。終末思想は歴史的に普遍的なものだと。現代より過酷で、終わりを望む人々が大勢いた時代は、いくつもあったはずです。なのになぜ、今この時代にニュクスが呼ばれたのでしょうか」
確かにそういう話はした。『今回』の12月12日に図書館で勉強した時、終末思想について彼女に教えた。それは決して現代に特有のものではなく、世界に絶望した人々が太古の昔から語り継いできた普遍的な思想であると。
「それは……別の誰かが救ったんだろう」
例えばイエス・キリストだ。他にも救世主の宿命を背負った人間は、歴史上にきっと何人もいるはずだ。世間に知られていないだけで。
「では人間が現れるもっと以前はどうだったのでしょう? ニュクスの実体は月です。月は人類の誕生より遥か以前、何十億年も昔に生まれたはずです」
「いや、ちょっと待て。ニュクスは人間の悪意……エレボスが触れて目覚めるんだ。人間が生まれる前は、誰もニュクスを呼びはしない」
「そうでしょうか? 人間が生まれる前から、地球には数多の種類の生命が存在しました。絶滅した種も少なくありません。それらはどうやって滅びたのでしょう?」
「滅びの原因は、何もニュクスだけとは限らないだろう。地軸がずれるとか隕石の衝突とか、地球規模の自然災害でも起きれば……あ……」
言いながら、脳裏に何かが閃いた。ニュクス以外の滅びの原因。例えば自然災害。口に出してみると、そのことが急に引っ掛かってきた。
「アイギス、まさか……」
ユニバースを得ると共に、自分は滅びの真実を悟った。だが宇宙と等価の存在といえども、全ての真実を居ながらにして見抜けるわけではない。例えば『前回』の自分は、時の狭間の存在を知らなかったはずだ。知っていれば皆が時間を戻してしまう可能性をも予見して、それを防ぐ為に『今回』のように今日死ぬ道を選んだはずだから。それは即ち、自分が未だ知らない更なる真実が存在するということではないのか。机上の知識は実際の経験に及ばないように。
「太古の昔、オルフェウスと呼ばれる小惑星が原始の地球に衝突し、月が誕生しました。ニュクスは地球に死を与えた存在だと綾時さんは言っていましたが、その意味は何でしょうか?」
「……生命の誕生?」
「そうです。では月と生命の誕生は、誰かの意志によるものでしょうか?」
「……神か?」
「いいえ……違います。生命の誕生は自然現象です。滅びも同じです!」
頭を銃で撃たれたような衝撃が走った。自然現象――
「滅びは自然なことなんです。いかなる存在も、真の意味での永遠はあり得ません。人や機械はおろか、月も地球も、太陽さえもいつかは滅びます。水が高いところから低いところへ流れるように、自然のルールなんです。死に触れたいと望む人々の意志は、飽くまで最後の一押しに過ぎません。どんな救世主がどんな救いをもたらしても、いつかは人類は滅ぶでしょう。それは……仕方のないことなんです」
かつてタカヤが言っていた。個人の命に終わりがあるのと同様に、人類全体もいつかは終わりが来て然るべきだと。そしてそれは正しい。と言うより、仕方のないことだ。悪をこの世からなくすのが不可能であるように、種としての人類が永遠に存在し続けることは不可能だ。
「じゃあ僕は……無駄なことをしたのか?」
「いいえ、決して無駄ではありません。前の貴方は目前まで迫った滅びを防ぐ為に、時間を止めたのです」
「時間を……そうか」
エレボスとはギリシャ神話では原初の幽冥の神だ。夜の女神ニュクスの兄弟にして夫であり、天空の神アイテールと昼の女神ヘーメラの父。夜と交わって、天と昼を生み出す者。エレボスがニュクスに触れるとは、地の闇から天の光への移行。昼夜の移り変わり。時の流れそのもの。それを止めるとは、即ち――
「僕は、時間を止めたんだ……」
言われてようやく気付いた。滅びを食い止める封印をしたと言うが、より具体的には何をどうやって封印したのか。
「滅びは自然現象ですが、重要なのはそれ自体ではありません。滅びは本来、何千年も、何万年も先……永劫の彼方の出来事のはずなんです。それがなぜ、今この時に来てしまったかということです」
終末思想は歴史的に普遍的なものだが、多くの宗教ではこの世の終わりがいつ来るかは明確にされていない。例えば仏教の弥勒信仰では、釈迦入滅から56億7千万年後に弥勒菩薩が地上に現れるとされている。現実感の皆無な誇大妄想的な数字だが、要するに遥かな未来の出来事ということだ。それなのに、この時代に来てしまった。なぜか――
(未来の出来事……未来……。つまり、時間が進んだ……? あ……!)
「まさか……時を操る神器か!?」
「そうです。滅びは神器によって呼ばれたのです。いえ……呼ばれたとは言えません。ただ、時間が進んだのです」
光の速さであらゆる事実が脳裏に浮かんでは消えた。全ての事態が一本の線で繋がり、あらゆる謎が氷解した。滅びの真実は表向きには宣告者であり、裏側はエレボスだ。そしてその更に裏側、人間には見えない本当の最奥に隠された、ある真実が見えた。
「前の貴方がなさったように、時間を止めることでも滅びは防げます。しかしそれでは人類が滅びない限り、封印の人柱は解放されません。水際で防ぐより、元の原因を除きましょう」
「元の原因?」
「進んでしまった時間を、元に戻すのです」
理解できた。前の自分は滅びを防ぐ為に時間を止めたが、それは『何の』時間を止めたのか。彼女は時の狭間で『何の』時間を戻したのか。そして滅びを防ぎ、かつ人柱になる必要もなくすにはどうすればよいか。全てが理解できた。
しかしそれを言う前に、メティスが口を挟んできた。
「姉さん……この人が姉さんの大切な人なの?」
「そうよ」
「こんなのが? 頭は軽そうだし、顔もパッとしないし、男らしさの欠片もない……。こんな人のどこがいいの?」
思わず宇宙に突っ伏しそうになってしまった。ここまで駄目人間だと言われたことはない。だが自分の本当の姿は、そんなものかもしれない。もう少し、これと言って、今一つ。何の取り柄もない、ただの愚者。全ての仮面を剥ぎ取った、本当の有里湊はその程度の男だ。
妹の駄目出しに姉は答えなかった。その代わり、改めて男に向き合った。
「私が時間を戻します」
「待て、そんなことをしたら……! 僕がやる」
ユニバースは何事も奇跡でなくす力だ。アイギスが見出した方法を実現することは可能だろう。しかしそれに体や命が耐えられるかどうかは別の話だ。起こす奇跡が大きくなればなるほど、命の危険は増す。時間を操ることは、宇宙の力をもってしても容易いことではない。
「貴方は……生きてください」
「僕は君に……うぐっ……」
僕は君に生きていてほしい、でないと生き延びる意味がない。『今回』の屋久島でも言ったことと似たセリフを言おうとしたが、言えなかった。後ろから襟首を引っ張られ、喉と一緒に声を潰されたから。
「未練がましくするんじゃないの。男のくせに」
メティスだった。さすがにアイギスと同じ機械の乙女だ。単純な膂力で比べるならば、人間は誰も対抗できないほどに強い。取り縋る男を、妹は姉から容易く引きはがした。
「余計な心配してんじゃないの。姉さんは私が必ず守る。貴方の相手はあっち」
妹は男の襟首から手を離し、その手で地球の方角を指差した。そこから赤い何かが近づいてきている。宇宙の闇に溶け込むような黒い巨体で、赤く光っているのはその目だ。エレボスだ。人々の悪意の集合体、即ち人類の総意。孵化の時を迎えたニュクスに触れようとやって来たわけだ。
「姉さんの男になりたいなら、あれくらい片手で捻ってみせなさい」
「……」
湊は一度だけ振り返り、妹と目を合わせた。それによって、また一つのことを理解した。どうして妹は地球を超えたこの場所にいられるのか。妹は何者なのか。そして姉を守るとはどういう意味か。それを理解できた気がした。以前に死者が蘇る異常事態を現実に目の当たりにして、それを人と少々話し合った経験があったから。
「分かったよ。だが、必ず守れ」
妹から視線を外して再び振り返り、近づいてくる怪物を見据えた。姉が時間を戻すまで、あれをニュクスに触れさせないようにせねばならない。つまり世界を救う主役は機械の姉妹で、男は前座。それが最後の戦いの配役だ。
「行きましょう、姉さん」
与えられた役どころに男が納得したことを妹は察したようで、姉を促した。そんな妹に姉は頷きつつ、少しだけ申し訳なさそうな視線を男の背に向けた。
「湊さん……ここはお願いします」
「ああ、任せろ」
姉妹は再び流れ星と化して、その場から立ち去った。湊は言葉だけを送り、目では姉妹を追わなかった。ただ地球の方角を見つめながら、前座の相手を待ち構えた。それは砂塵を巻き上げながら、光に近い速さでにじり寄ってくる。
砂があるのだ。宇宙でありながら、エレボスはなぜか砂をまとっている。幾月は世界の無意味さを『真っ平らな虚無の王国』と表現していたが、それはこの暗黒の空間にこそ相応しい名だ。しかし象徴的な意味では、砂漠も同じくらいに相応しかろう。
そんなことを思っているうちに、黒い怪物は目の前まで来た。背後の地球を覆い尽くすほどに巨大な、四足歩行する異形の獣の姿だ。だが顔は獣ではなく人のそれに似ていて、しかも尾のあるべき場所にも顔がついている。つまり双頭の犬だ。しかし、本当にこれは犬であろうか――
(いや……)
一見すると獣のようであるが、そうとばかりは言い切れない。四つ足なのではなく、二人の人間の上半身が胴体で繋がっていると言っても間違ってはいない。『二人』はどちらも両手を地につけて、それが足のようになっているのだ。その証拠に、前足も後足もその形は五本の指を広げた人間の手だ。
朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足、これは何かという謎かけがある。立って歩くのではなく手をついて這い寄るこの姿は、それを表しているのかもしれない。つまりこの怪物は赤子だ。そして赤子とは人生の始まりであり、タロットの大アルカナでは愚者がそれに当たる。それは即ち――
「やあ……兄弟」
この怪物は自分の兄弟であるということだ。以前はタカヤを兄弟だと思っていたが、神話の関係で言うならば違った。あの男は魂においてはまさに合わせ鏡の双子だが、血縁ではヒュプノスはタナトス即ち綾時と同じだ。自分にとって神話の兄弟と言うべきなのは、ニュクスの夫であり、かつ愚者のアルカナを持つこの存在だ。そう思うと、手足に力が漲ってくるのを感じた。
「前は随分やってくれたな。だがもうお前には何もさせない……。お前は何者にもなれない」
愚者は何にも属さず何者でもないと言われるが、それはこの怪物のことだ。二つの体が繋がった姿であることは、地を這う赤子であることを表すと共に、個としての自我を持たないことをも意味している。即ち『多数』の存在。意識の集合体であることを表している。
だが愚者はそれだけの存在ではない。何者でもないが、何にでもなれる。即ち将来の可能性こそが愚者の本当の意味だ。例えば『前回』の自分は心の質量を持たない数字のゼロのような人間から、救世主になったように。では『今回』は何になるのか――
(アイギスの男……か)
思った途端、口元に微笑が浮かんでしまった。実戦を前にして笑うような性格ではなかったはずなのだが、なぜか笑いを止められない。それと共に、心に一本の芯が通った。体の下の方から生まれ出て、背骨を駆け抜けて頭の頂上まで突き抜ける強大な芯だ。その芯から力が際限なく湧き出てきた。血は沸き立ち、肉は踊り、骨までも太くなった気がする。
今日の自分は、昨日よりも強い――
それを確信した時、エレボスが手を伸ばしてきた。道端に転がる石ころを無造作に押しのけようとする、盲目の暴力だ。『前回』はこの手を黙って受け止めていたが、それはもう終わりだ。永劫の時間をかけて、滅びを食い止め続ける必要などない。ただこの一時、力でねじ伏せればよいだけだ。
「ペルソナ!」
召喚器はなくしているが、それももう必要ない。瞬き一つで『無色の仮面』を召喚し、襲い来る黒い手へ向けて竪琴を叩き付けた。
「ガア……!」
思いもよらぬところから手を弾かれて、怪物はたじろいだ。石につまづいて驚くように、赤い目をした二つの黒い顔を向けてきた。いや、驚いたと言っては正しくない。この怪物がそんな高等な思考や感情を持っているとは思えない。
エレボスの二つの顔は人のそれと似ているが、よくよく観察すれば人とは異なっている。デフォルメしすぎて人としてあるべきものを失ってしまった、それでいて『人間』を表している抽象絵画のようなものだ。具体的に言うと、まず額がない。やたらと低い頭の頂上には、赤く光る大きな二つの球体があるばかりだ。つまり脳を収めるべき場所がない。そして耳のあるべき場所からは、白く異様に長い角めいたものが生えている。
「脳がないから、何も考えられない。目はあるつもりなんだろうが、何も映さない。耳はあっても、塞がれている……」
つまりエレボスは知性も理性も何もない、ただの欲望の塊だ。見たことや聞いたことから学ぶ力はなく、自ら考えることもできず、ただ流されるだけ――
(誰のことだ、そりゃ……)
思わず誰かさんを連想して苦笑しつつ、エレボスの姿を更に観察した。怪物の唇のない口からは、剥き出しの歯が並んでいる。ただし獣のような鋭い牙ではなく、人間のような平たい歯だ。そして顔と同様に黒い胴体からは、あばら骨らしきものがぶら下がっている。飢えた人間のように骨が浮いているのではなく、腹が開いてその中身が露わになっている。腹が開いているとは、欲望を隠していないことを意味している。更には――
「食ったそばから零れ落ちるから、どれだけ食っても満足しない……」
食べることに象徴されるように、生きるとは他者から奪うことだ。だがそれは悲しんでも悔やんでも仕方のない、自然のルールである。だから食べることは誰にでも許されている。節度を守る限り。しかしエレボスはいくら食べても足りない。歯を隠すものがなく、かつ腹に穴が開いたその姿は、決して満たされることのない無際限の食欲を表している。それは単に食べることとは明らかに違う、大変な悪徳だ。
「卒業したら就職するつもりだったが、進学して勉強した方がいいかな……。戦いが終われば運動量はどうしたって減るし、飲み食いは控え目にしないと太るか……」
目を閉じてこめかみに指を当て、色々と考え込んでしまう。観察すればするほど、やはりエレボスは自分の兄弟だと痛感せざるを得ない。だが兄弟ではあっても、全く同じ存在ではない。自分は二度目の日々にありながら予測や推測を外してばかりの間抜けだが、それでも考える頭はある。呆れ返るほどの大食漢でもあるが、胃袋に穴は開いてない。将来のことを考えれば、生活は改めなければならない点が山ほどある。
目を閉じたまま、エレボスの唸り声を聞いた。ただしその声は、少しだけ遠くの方から届けられてきた。奥にある二つ目の顔が歯を剥いて吠えたようで、巨大な火球が飛来してくるのを瞼の裏側で感じた。
「ふん……」
目を開けながら、指でこめかみを弾いた。召喚器の銃撃に見立てたその動きでもってオルフェウスを召喚し、襲い来る炎に向けてこちらからも炎を放った。4月のオルフェウスは火と言えば灯火しか起こせない、極めて非力なものだった。だがタナトスを経ているこのペルソナは、始めのものとは力の次元が違う。だからエレボスの炎にも対抗できる。だがそれでもやはり、オルフェウスである。根源は変わっていない。
「4月から……いや、最初の4月からずっと僕は変わらなかったな」
再びエレボスを見つめた。この怪物を人とするならば、二つの上半身だけが表に出ていて、下半身は外側からは見えない。それはそもそも下半身がないのか。それとも既に繋がっている状態を、この姿は表しているのか。
「後者……だよな。絶対に」
神話の伝えるところによれば、エレボスには子供がいる。だから下半身がないはずがない。そして今また、妻を求めている。つまりこの姿は、食欲と同様の無際限の情欲をも表している。
「本当に、欲望の塊なんだな」
文化祭でファルロスに同じことを言われた。その時は余計なお世話と聞く耳を持たなかったが、さすがにあの子供はよく分かっていた。あの乱痴気騒ぎといい修学旅行の処刑騒動といい『前回』の特別な関係の数々といい、何という節操のなさであったことか。好きで五人もの女と特別になったわけではないとずっと思っていたが、今にして思うとそんなことはない。小さくない憂鬱が襲ってきて、やれやれと再び目を閉じた。
「ゆかりたちには、一度謝らないといけないな……」
皆は『前回』の記憶を取り戻したようだから、なかったことにはできない。これでは未来を手に入れても、大変な目に遭いそうだ。そんな愚かしい心配に浸っている最中に、エレボスは大きな唸り声を上げた。
「オオオ……!」
心配を一旦振り払い、目を開けた。するとエレボスは片方の頭を下げ、もう片方の頭を上げていた。エレボスを獣として見るならば、この体勢は盛る犬のそれだ。そして二人の人間が繋がったものとして見るならば、もはや何をかいわんやである。その欲望の結晶であるかのような、赤黒い光の球を中空に出現させてきた。
それは神話の子供たちが得意な、万能の光と似たものを感じさせた。だが色が違うし、動きも違った。この種の力は一瞬で天地を覆わんばかりに巨大化し、光の速さで炸裂するものだ。しかし今現れたこれは、酷くゆっくりと膨らんでいっている。絶頂に達するのを惜しむように、時間をかけて膨張している。
「オルフェウス!」
一声呼んで、三度目のペルソナ召喚を行った。そして竪琴を乱暴に奏でて、紫色の万能の光を音楽に乗せて炸裂させた。
「グアア……」
耳に障る唸り声と共に、赤黒い光は霧消した。力そのものは凄まじい限りのものを感じたが、敵を前にしてあんな悠長なことをしていたのでは何の意味もない。だが愚者の怪物は、そんなことは理解できない。消え去った赤色を追って、何もない虚空に向けて吠えている。
「所詮は前座だな」
相手は原初の神の一柱の名を冠する存在だ。対する自分は天才でも超人でもない、ただの並の人間だ。だが人間であるから、学ぶことも改めることもできる。そう思うと、力がますます漲って来るのを感じた。
「さあて……本気で行くぞ!」
本格的に戦いを開始した。オルフェウスは竪琴を奏で、或いは叩き付け、地を這う愚者を容赦なく打ちのめす。たとえ相手が神であれ人類の総意であれ、負ける気はまるでしない。ユニバースを思い出した時の無気力症が、いつの間にやらすっかりなくなっている。
今日は人生最高の絶好調だ。今なら綾時やエリザベスにも勝てる気がする。