我、自ら選び取りし、いかなる結末も受け入れん――
『今回』の11月4日、ベルベットルームで私はそう書かれたカードに署名した。時間を戻したことによって、様々な事態を私は呼び起こしてしまった。その『責任』を取る為に、『前回』の彼が死を約束されたニュクスの懐、死の至聖所まで戻ってきた。
「ここからが本番よ」
ただしかつて一人で十字架に昇った彼と違って、私は一人ではない。妹が一緒だ。私は決して一人きりではない。皆さんの思いが共にあるということ以上の意味において、私は一人ではない。
「ええ」
ここまでついて来てくれた妹には短く答え、私はニュクスを見据えた。静寂に満たされた暗黒の洞窟の中空で、孵化の時を迎えた銀色の卵が身動ぎしている。外から触れられれば、中身が今にも飛び出してくるだろう。逆に言うと、触れられなければ卵は割れない。中身が自ら表に出て来ることはない。更に言うと、時を迎えなければ孵化しない。
「ニュクス……貴女に意志はないのですね」
一度目を閉じて、ずっと背後の空間で行われている戦いに耳を澄ませた。エレボスは今まさにニュクスに触れようとしていて、それを彼が食い止めている。
ニュクスに恋い焦がれ、求める者であるエレボス。それは夜ごと月に吠えるシャドウと違って、生きた人間の思いの集まりだ。しかしシャドウと同様に、太古の昔から存在する。桐条武治さんが言っていたように、人とは絶望しやすい生き物だ。金や物に恵まれていてもいなくても、絶望する時はする。よってエレボスは時代の要請で生まれたものではない。終末思想と同様に人類の歴史と共にある、常在にして普遍の存在だ。
そしてそれは言い方を変えると、生けるエレボスも死せるシャドウも、どちらもニュクスを呼ぶことはできないということだ。呼ぶことができるのなら、とうの昔にニュクスはこの世に舞い降りていたはずなのだから。
「ニュクスを呼んだのは……いえ、その鍵の一つは綾時さんです」
私は目を開き、ニュクスを見据えた。滅びの原因の一つは宣告者たるデスだ。彼はデスを育てたのは己であるから、そしてデスは己と不可分の存在であるから、滅びの原因は己一人にあると、昨日までは考えていた。もしくは綾時さんは彼の子供のようなものだから、親として責任を取ろうとしていた。
では綾時さんは何者なのか。宣告者とはその存在自体が滅びの確約である者。デスとは十二のアルカナが交わって生まれる、十三番目の存在。即ちシャドウの結晶だ。では宣告者は特別な存在なのだろうか。本来は十年前の実験で生み出されるはずだった、十四年前に桐条鴻悦さんの命令によって始められた研究が生み出した存在が、全ての時代を通じて特別な存在なのだろうか。
「僅か四年なのです。たったそれだけの期間で、宣告者は生み出せるのです」
太古の昔から存在したシャドウが、どうして今まで宣告者にならなかったのだろうか。シャドウとエレボスはいつでも人類と共にあるのに、どうして宣告者は今までいなかったのだろう。現代に生まれたのは、科学技術の進歩の為であろうか。
「いいえ……いなかったはずがありません。宣告者も過去に存在したはずです。科学技術など問題になりません」
綾時さんによれば、ニュクスはそれを表す言葉がないという。それは即ち、過去に人類の前に姿を現したことがない。しかしシャドウやペルソナはタロットカードによって表される。宣告者は十三番目の存在である死神。つまりそれを表す『言葉』がある。ならば現代科学を用いずとも、魔術によって生み出せるはず。
「私自身がその傍証ではありませんか。科学が作れるのは機械が精々です。私は魔術によって生み出された……」
「そうよ、姉さん」
私の独白に妹が答えた。隣を振り返ると、妹は私を真っ直ぐ見つめている。常に真実を語る妹がこう言うのだから、絶対に間違いはない。
魔術――
私たちの間で最も身近な魔術はペルソナ能力だ。だがペルソナは自然発生するだけでなく、人為的に生み出すこともできる。例えばストレガがそうだし、元々私に与えられたパラディオンもそうだ。イゴールさんが行うペルソナの創造などは、最も洗練された魔術というべきもの。私のペルソナは魔術によって与えられたものだ。そして人工のペルソナは、自然のペルソナと本質的に差はない。
「魔術によって死神のペルソナも生み出せます。ならば宣告者も魔術で生み出せるはず……。宣告者は本物の神である必要もないのですから」
つまり宣告者はエレボスと違って常在ではないが、普遍ではある。人類の歴史を通じて一人しかいないような、唯一無二の存在ではない。
それを確信した時、卵が大きく身震いした。あらゆる命を奪う原初の死の光を、私たちに向けて落としてきた。それを私はペルソナで防いだ。タルタロスの第六層を歩むごとに濃密になった絆によって生み出された、白いペルソナだ。
「メサイア!」
これも傍証の一つだ。祈りを捧げる人、救世主のペルソナ。彼が背負った宿命を表す存在だ。太古の昔から人々は救世主を求めていた。その一方で、偽物の存在も求めていた。なぜなら偽物は本物に倒されることによって、救世主を救世主たらしめるから。偽物が現れなければ、本物も現れない。
「宣告者の実態は……ニュクス・アバターは仮面で、本性はタナトス。ギリシャ神話の死の神ですが、キリスト教的に言えばアンチキリスト……それが綾時さん。もしかするとタカヤも……ヒュプノスもそうであるのかもしれません」
滅びは『総意』であると主張したタカヤは、きっとエレボスの存在も知っていた。たとえ知識としては知らなくても、本能的に気付いていた。或いは論理的にその結論を導いていた。目的を求めない穏やかな生、穏やかな死、それを求める人は多いから。なぜなら、それが人間というものだから。
「死や滅亡が救いであるとは……少なからず真実なのでしょう。もちろん現実に滅びを目の当たりにすれば誰もが恐怖しますが、それでも真実であることに変わりはありません」
『前回』の私はそれが嫌なだけだった。しかし泣いても叫んでも、真実は覆らない。ならばその真実の中で、滅びを防がなければならない。鍵を握るのは、影時間とタルタロス、そして時の狭間。幾月の手記によれば、時の狭間はタルタロスの『反作用』であるという。そして狭間は時を戻すことができる。ならばタルタロスは?
「タルタロスと時の狭間は同じものの表と裏。二つを合わせて、時を操る神器……。それこそが桐条鴻悦さんが求めていた、滅びを呼ぶ為の本当の手段……。鴻悦さんは分かっていたのですね。時の狭間を単なる地形としか認識していなかった、幾月は気付いていなかったでしょう。岳羽詠一朗さんもきっと気付いていなかった……」
デスの創造を食い止める為、詠一朗さんは事故を起こした。しかしたとえ実験が成功していたとしても、滅びの訪れはやはり今日になっていたはずだ。なぜなら宣告者の存在のみが滅びを呼ぶのなら、十二のシャドウが一つになった11月3日、遅くとも次の満月である12月2日にニュクスは訪れなければならないから。滅びの日が今日なのは、先月の時点では未だ時が満ちていなかったから。そうとしか考えられない――
「そうよ。じゃあ滅びの原因は何?」
私は再び妹に目を向けた。そして妹に向けて語った。
「エレボスも宣告者も、太古の昔から存在したわ。それでも人類が滅びなかったのは、その『時』が来ていなかったから。それは即ち……時こそが滅びを呼ぶ為の、最大にして不可欠の条件であるということ。滅びの意志は、滅びを呼べない……。月に吠えても、降りては来ないの」
シャドウやペルソナの力は時間や空間にさえ作用する。しかしそれでも月は動かせない。月に吠えるとは、『不可能』を意味する言葉なのだから。彼らにできるのは、時間を操ることだ。
「そうよ。じゃあ時ってそもそも何?」
「止めることも進めることも戻すことも可能なもの……。線のように流れるものであり、また円のように巡るもの……。通常と通常でない、二種類が存在するもの……」
「そうよ。じゃあ通常じゃない時間って何?」
「言うまでもないわ。影時間よ」
影時間とは何であろうか。現に存在しているから、私たちは当たり前のように受け入れている。だがそれではいけない。影時間とは何であるのか。そこにこそ、全ての答えが隠されている。
「今のシャドウは影時間に現れるわ。でも十年前より以前は、影時間は存在しなかった。だけど……シャドウは太古の昔から存在したはず」
「そうよ。じゃあ影時間が生まれる前、過去のシャドウはどこに……いえ、『いつ』いたの?」
「神聖時間よ……」
それは神や精霊などの存在が現世に顕現することによって発生する時間のことであり、通俗時間の間に存在する。人はそれを祝祭として表現してきた。社会的には日常に疲弊した生を輝かせる非日常という意味があり、宗教的には神を祭る儀式だ。『神』という言葉が何を表すかは人それぞれだが、確かなのは彼岸の存在であるということだ。その意味で、まさにシャドウは『向こう側』の存在だ。
「そうよ。じゃあ影時間と世界の終わりは、どう関係するの?」
「世界の終わりは……予言されているわ」
世界の終末を予言している宗教は数多い。ただしその終末を、単に人類の滅亡と解釈するのは正しくない。キリスト教のヨハネ黙示録を例に取れば、神と悪魔の巨大な戦争の後に新たな天地が築かれるとされている。
「終末の後の世界……幾月が望んでいた皇子の君臨とは、これを意味しているの」
だがこの考え方には、大きな問題がある。それはそもそも終末が未来に訪れるとは言いきれないことだ。キリスト教に即して言うならば、かつての救世主が十字架にかけられたことにより、世界は『既に』救済されていると解釈できる。つまり終末は過去に一度訪れており、現代はその後の時代なのであると。一理あるが、終末は今まさに訪れている。それはなぜか――
「終末は何度も訪れるもの……。一年が始まって終わり、また始まるように、時間は円のように循環するわ。いえ、循環の『型』を取っているの」
時は円のように巡るもの。しかしまた線のように流れるもの。この両者の矛盾はいかにして解決されるのか?
「人の成長がタロットカードで表されるように、タルタロスのフロアは同じ型の繰り返しであるように……神聖時間は有限の型の繰り返し。例えば神々の誕生、婚礼、闘争……そうした神話に象徴されるものの再現。でも季節が巡って年が明けて、同じ日付が来ても、それは前の年の同じ日ではないわ。タルタロスは似たフロアが繰り返されても、登り続ければいずれ頂上に辿り着くわ。それと同じで、神聖時間は繰り返されるごとに、同じ型の中でもその質を変えるの。年を重ねれば人はいずれ死に至るように、同じ型の繰り返しでありながら、知らず前へと進んでいく……それが時間というもの」
「そうよ。じゃあ時に終わりはあるの?」
タロットは宇宙のカードで終わるように、タルタロスに頂上があるように。時にも終わりがあるのか?
「あるわ。それが今訪れている、真の意味での世界の終わり……。それは神聖時間の果て、永劫の彼方の出来事。神聖時間そのものは、太古の昔から存在したはず。そして影時間とは神聖時間の『一種』……。影時間が積み重なって、永劫の彼方にまで辿り着いた……終末の日まで届いたの」
「そうよ。じゃあ影時間はどうやって生まれたの?」
「影時間を生み出しているのは、時を操る神器の表……タルタロスよ。つまり時を進めるとは、時間を『創造』すること……。滅びは呼ばれたのではなく、世界の方が滅びに近づいたの」
「そうよ。じゃあ彼は何をしたの?」
「湊さんは時間を『止めた』……より正確には、影時間のみを止めたのよ」
『前回』の彼は、影時間を滅びに至る寸前で止めたのだ。それによって、ペルソナ使いを含めた全ての人間は神聖時間を経験できなくなった。つまり影時間の外に出た。
「そうよ。じゃあ姉さんはどうするの?」
『前回』の彼は時間を止めることで滅びを防ぎ、そして私も同じことができる。しかしその方法では、救世主は人類が滅びるまで解放されない。私は彼と同じことをするわけにはいかない。なぜならそれをしては、彼はきっと私を救う為に再び時間を戻してしまうから。だから別の方法で滅びを防がなければならない。
「時を操る神器の裏……時の狭間で私は何をしたか。それを考えれば分かるわ」
私は時の狭間で一年分の通常時間と影時間を戻した。イゴールさんが言っていた通り、時間を戻すとは時間を『破壊』することだ。これから私は滅びの日まで至った時間を戻さなければならない。しかし通常時間を破壊してはいけない。
「私は時間を戻すわ。ただし戻す時間は十年ではなく、十年分の影時間の総和……」
通常時間は今のままに留めて、影時間のみを戻さなければならない。そして戻す長さは、時の狭間で行った一年分では足りない。影時間を少々戻しても時を操る神器が残っていれば、すぐに再び終末まで届いてしまう。よって神器ごと消滅させる必要がある。それには十年前から創造され続けた影時間を、刹那も残さず完全に破壊せねばならない。
「そうよ。じゃあ影時間ってどれくらいの長さなの?」
「少なくとも一時間ではないわ」
影時間は体感的には一日に約一時間。しかし時を測る基準が存在しない以上、体感時間は無意味なはずだ。常人は影時間を全く認識できないが、ペルソナ使いも常人より長いだけで、正しく認識できないのは同じこと。つまりペルソナ使いは一時間としか認識できないが、実態は異なる。
「例えばベルベットルームの方々であれば、また違った認識があるはず……」
彼や私があの部屋でどれだけの時間を体感しても、外の人は一瞬としか感じられない。つまりあの部屋の二人は、時間の認識がペルソナ使いとも異なっている。
「綾時さんも、そうかもしれないわ」
私と彼が真実を告白した『今回』の12月2日、影時間の一時間が終わると同時に、綾時さんは唐突に姿を消した。今にして思うと、あの時の綾時さんは消えたのではなく、普通に歩いて寮から出て行ったのだろう。ペルソナ使いが認識できる限界を越えた先の影時間を、ニュクスに近い存在である『人』は歩いたのだ。彼の体内にいた間は影時間の認識も彼に引きずられていただろうが、彼の外に出てからは違ったはずだ。そして『今回』の綾時さんは『前回』より私たちの身近にいたから、彼や私が象徴化する姿もきっと見ている。
「そうよ」
「メティス……貴女にとっても違うのね」
私は再び振り返った。妹の言葉はあらゆる『こたえ』を裏付ける、絶対の保証だ。その妹がこう言うのだから、間違いはあり得ない。即ち影時間の長さは一時間ではない。実はその一つ一つが現実的な時間感覚では想像もつかないほどに長く、そしてそれが十年分も積み重なっているのだ。それはもはや永劫と言ってもよいほどの長さだ。私はそれを戻さねばならない。人や機械はおろか、宇宙の星々さえ消滅するに足る時間を戻すのが、私の役目。
「どうやるの?」
妹は決定的な質問を放ってきた。どうやって時間を戻すのか。どうやって世界の終わりを防ぐのか。これは私たち姉妹の議論を決着させる、命に関わる問いだ。その解答こそが、『命のこたえ』。
「宇宙の力で」
『こたえ』に辿り着くとは、死を迎えるということ。私は死ななければならない。
私は『前回』の彼のように十字架に昇るわけではないから、事を終えた後にもこの場所に留まる必要はない。しかしそれは、彼が永劫の時に渡って行使するはずだった力を、一度に出しきるということだ。私に与えられた使命は命を失うのに十分な、一人で行うには大きすぎる役割だ。機械の体は修理が可能だが、科学を超えた領域で私は壊れるだろう。つまり私は彼の代わりに死なねばならない。契約者のカードに署名した名前の通りに、私は彼の盾になる。しかし――
「大丈夫……私が必ず守るから」
私は決して一人ではない。だから不安はない。
地球と月の間では、『愚者』同士の戦いが繰り広げられていた。月に触れようとする怪物と、それを防ごうとする男。観客もいなければ加勢する者もいない、『二人』だけの戦いがいつ果てるともなく続いていた。
その最中に、湊は気配を感じて月の側を振り返った。天文学的な距離が離れているから、月の懐の様子などは見えない。だが何かが起きているのは分かる。
「アイギス……始めたか」
目では見えないし、音も聞こえはしない。それでも分かる。行っているのは同じ力を持つ同志だから。必ず上手くいくと信じて、改めて敵に向き直った。
「エレボス……」
ギリシャ神話の幽冥の神。原初の神であるのだが、この世の終わりに現れる存在でもある。キリスト教的に言えば、666の獣と言ったところであろう。
「オオオ……!」
人の体を繋げた奇怪な獣は唸り声と共に、何度目かの盛る犬の姿勢を取った。そして赤い暗黒の力を、繋がった二つの胴体の上に出現させてきた。これを炸裂させれば、人間など塵に帰るしかない。しかし湊はこれまで一度もそれを許していない。オルフェウスの竪琴を一つ奏でれば、それだけでエレボスの集中は乱されて力は霧消するからだ。いくら強大であろうと知性も何もない盲目の暴力など、あしらうのは難しくない。
しかし容易く追い払えるわけでもないので、両者の攻防は既に何十手も続いている。だがそろそろ終わりにする必要がある。アイギスが動き出した以上、こちらも決着をつけねばならない。
「……」
出現した赤黒い力を敢えてそのままにして、湊は改めて相手の姿を観察した。エレボスを人間として見るならば、地を這う赤子だ。即ち愚者のアルカナで表される存在だ。そして獣として見るならば、タロットの図柄に描かれる愚者の連れた犬だ。人類そのものであり、そしてまた常に人類と共にある存在だ。
エレボスを完全に滅ぼすには、人類全体を変えるしかない。だが悪がこの世からなくなることはあり得ない。悪の根絶など神ならぬ身には、否、たとえ神であっても夢物語に過ぎず、現実には絶対に不可能だ。人間がいる限り、シャドウもエレボスもいなくならない。だが完全に滅ぼす必要もない。今ここで舞台に上げさえしなければよいのだ。そして赤子や犬が舞台に上がることは許されない。許されるとしたら、カーテンコールにおいてだけだ。
「今はお前の出る幕じゃないんだ。最後の役者が先走ってんじゃない」
湊はこれまで普通にペルソナを使ってエレボスと戦ってきた。ユニバースの力を解放すれば容易く退けられるはずだが、そうしてこなかった。なぜならユニバースはそれ自体が『命のこたえ』だ。奇跡を行使すれば、それだけで死んでしまう危険がある。
「お前なんかと刺し違えてやるものか……お前の相手は、これで十分だ」
目を閉じて両手を広げ、掌の上に一つずつ力を集めた。ここで呼ぶべきなのは、神の下僕と魔界の王。時の終わりで相争う宿命を持つ二つの存在だ。しかし湊が持ち、アイギスと共有しているものは、飽くまでペルソナ。心の海から呼ばれた、仮面に過ぎない存在だ。本当の本物ではない。だがそれで十分である。早すぎる役者の相手は、偽物で事足りる。本物の奇跡を起こす必要などない。
「永劫の彼方まで引っ込んでろ!」
両腕を交差させて腰を屈め、そして再び広げた。虚無の空間が裂け、原初の暗黒をも飲み込む光が溢れ出た。
ニュクスの懐で私は両腕を広げ、内なる力に身を任せている。銀の卵は滅びの光を繰り返し放つが、光は私の体の表面を滑り落ちて虚空へと消え去っていく。死の星の力は、もはや私には届かない。救世主のペルソナを召喚するまでもなく、力の方が私を避けて通っている。宇宙の力は、一つの小さな天体などものともしない。
(もう少し……もう少しです)
彼の魂が宿った私の首からは、青い光がとめどなく溢れ出ている。光はいずれも二つ一組で重なって、蝶のように舞い踊って上へ上へと昇っていく。蝶が昇る高さは、積み重ねられた聖なる時間の長さに等しい。蝶が羽ばたく度に時間は侵食され、鱗粉となって降り注いでくる。私はそれを機械の体で受け止める。
時の狭間で追い続けた彼の影は、追いついた途端に死を暗喩する姿へと一瞬にして変容した。それと同じで、時がもたらす死の宿命を私はこの身で浴び続けている。生き物でない機械の体は、老いて崩れたりはしない。しかし機能は既に完全に停止している。
(いいえ……そんなことは、今さらです)
昨日までは自覚していなかったが、実は私はとうに壊れていた。ワイルドの力に目覚めた時から、思考系の回路はほとんど焼き切れていたのだから。それでも稼働できていたのは、使命があったからだ。そしてその使命は、もう間もなく終わる。
「姉さん……」
両手を広げた私の目の前に妹が立った。蝶のバイザーは上げられており、若い女性の顔がそこにある。黄昏を思わせる赤い瞳には、深い憂いが浮かんでいる。
「メティス……」
妹は私を抱き締めてきた。そうする間にも私の首からは蝶が溢れ出てくる。しかし妹の温もりは夢の蝶にも遮られない。私に心を戻してくれた妹の体温が、私の中に伝わってくる。それと共に、私は理解したことがあった。
「やっと……分かったわ。貴女が誰なのか」
「……」
「貴女は……私だったのね」
私は広げた両手を妹の背に回した。その時、また一つの蝶が宙に舞った。彼から貰ったものが蝶となって、ニュクスへと向かって行った。
天地が鳴動した。地上の人々が見上げる中で、塔は崩壊した。頂上から月へと向けて渦を巻くのではなく、底から崩れて瓦礫と化した。そして地上の人々からは見えないところで、穴は埋もれた。天に集められた雲は雨となって地上に返るように、人々の声は天の彼方までは届かない。人と神の間には、乗り越えられない壁がある。その壁に弾かれて、蜘蛛の糸は寸前で途切れた。あらゆる希望の目印であった塔は、あらゆる怨念の掃き溜めであった穴の中へと返っていった。
悪夢は覚めて、現実が戻ってくる。夢で起きたことは、全てがなかったことになる。聖なる遊びの時間は終わった。神秘な存在の記憶と共に、神は人々から遠ざかっていった。
気付いた時には、特別課外活動部は地球を超えた場所に立っていた。床があるわけではないのだが、虚無の空間に立っている自分たちを各々が発見した。その人数は九人。八人が集まっていて、そこから少し離れた場所に一人がいた。一人は八人に背を向けている。
「湊!」
八人のうちの一人が声をかけると、離れた場所にいた一人は振り返った。その動きはゆっくりとしたもので、町中でふと足を止めて後ろを振り返るように、極めて何気ないものだった。手には何も持っておらず、表情にも何も含ませていなかった。怒りも嘆きも喜びも、疲れの色さえ一切なかった。
「……」
離れていた一人、もちろん湊は、呼びかけに対して何も答えなかった。そんな無口なリーダーのもとへ、順平を先頭にした八人が集まった。彼らは湊とは対照的に、眼前の事態を理解しきれない人間に特有の焦りが浮かんでいた。
「お前は無事なのか……ってか、お前だけか!? アイちゃんと妹ちゃんは!?」
「……」
湊は無言のまま順平から視線を外し、再び前を見つめた。釣られて全員が前を見ると、遥か遠くに月が浮かんでいた。それは邪悪な気配も力の波動も発しておらず、もちろん機械的な監視装置の形もしていない。ただの自然の天体だった。その天体の方角から、声が届けられてきた。
『ははは……まさかこんな方法があったとはね。確かにこれなら滅びを防いで、しかも十字架にかけられる必要もない。なるほどなあ……』
主の姿が見えない声は、綾時のそれだった。その声色は非情な裁き手としてのものではなく、憂いに満ちてもいない。11月の間ずっと聞かされてきた、そして『初めて』虚無の空間に立った時にも聞いたはずの、何とも軽い声だった。そんな中、ゆかりが虚空へ向けて叫んだ。
「ねえ、アイギスはどうなったの!? まさか……今度はあの子が死んじゃうの!?」
『命のこたえは死だ。でも彼女は死にはしない。妹さんがいるからね』
「え……?」
戸惑いのような、安堵のような。糸が切れるような感慨が特別課外活動部を襲った。だがそれに襲われていない人が一人だけいる。
『そして湊君……君は君の望みを叶えるといい』
「……」
湊だ。アイギスの無事を告げられても、姿の見えない相手から名前を呼ばれても、一言も喋らないし表情も動かさない。身動ぎ一つもせず、ただ純粋な集中力が込められた視線で月を見つめている。すると視線を送られる側も何かを感じ取ったか、言葉が重ねられた。
『ああ、心配はいらないよ。今の君は救世主になってないんだし、そもそも君の望みは世界を救うことに比べれば、ずっとささやかなものだ。力を使ったって死にはしないさ』
「お前はどうなるんだ」
ここで湊はやっと声を発した。
『大晦日の夜に言った通りさ。きっと……いや、必ずまた会えるよ。お父さん……』
綾時の声の最後は囁くような、虚無の空間に消え入るような小さな声だった。だが小さくても、この場の全員の耳にはしっかりと届いた。その証拠に、湊は周りの八人から急な勢いをつけた視線をもらった。しかしそれでも湊は飽くまで月を眺める。
そして視界は突然の暗黒に覆われた。湊だけでなく、九人全員が聖なる時間の外に出された――
地球と月の間に立っていたはずの、九人の目は同時に開かれた。そこはもう虚無の空間ではなく、地球の大地の上だった。全員がよく知っている、数えきれないほど訪れた場所。月光館学園高等部の校門前だ。そして周囲の空気は、普通の闇の色をしていた。
「あ……!」
普通の町を普通の街灯が照らすありふれた夜の中で、ゆかりが最初に駆け出した。向かう先は校門の前だ。白い『人』が壁に背を預けて座り込んでいて、その傍で黒い『人』がしゃがみ込んでいた。機械の姉妹だ。
「アイギス!」
ゆかりが呼びかけても、アイギスは目を閉じて俯いたまま動かない。白い装甲には亀裂などはないが、ただの置物であるかのように微動もしない。いつも回転していた側頭部のファンは停止しており、首につけられていた青いリボンもなくなっていた。
「メティス! アイギスはどうなっているんだ!」
ゆかりに続いて、美鶴が姉妹の前まで駆けつけてきた。だが聞かれたメティスはそちらを振り返らない。ただ動かなくなった姉の肩に、黒い手をそっと置いている。
「姉さんは……使命を果たしたわ」
「え……これって……」
更に続いて、風花が二人に近づいた。顔を上げないアイギスを見つめながら、その表情は徐々に強張っていく。そしてとうとう口元を手で覆った。
「ペルソナが……消えてる!? 機能も全部……完全に停止している……」
ある程度機械に強く、かつ鋭敏な認識能力を持つ風花であるから気付いた。もちろん詳細は専用の装置を用いなければ分からないが、見ただけでも分かることはある。今のアイギスは機械としてもペルソナ使いとしても、完全に死んでいる状態にあるのだと。
「それって……」
皆が嫌な汗を浮かべ始める中、湊がアイギスに近づいた。特別課外活動部の女性陣は弾かれたように道を開け、湊は姉妹の前に立った。ただし表情は相変わらずない。何を考えているのか傍目には全く分からない、腹の中を完全に隠した顔のままで姉妹を見つめる。
「……」
ここでようやくメティスは振り返った。見つめてくる男を、赤い瞳で見つめ返す。どことなく不満の伺える色を添えて。ただしそれは一瞬のことで、すぐにアイギスに視線を戻した。
「約束したものね……私の命をあげるって。これからは、いつでも一緒だよ……」
妹は姉の肩に両手を置いた。そして胸と胸を近づけると、そこから光が放たれた。黒い装甲から白い光の粒が無数に現れ、やがて妹そのものが光と化した。夜の闇を照らす小さな光は、音もなく姉の体に吸い込まれていった。音がしたのは、それから一瞬の後。姉の側頭部につけられたファンからだ。
「え……!?」
皆が驚きの声を上げる中、ファンの回転数は上がっていく。皆が聞き慣れた機械的なその音によって、ざわめきは掻き消されて沈黙が訪れた。その中で、アイギスが動いた。地面に手をついて体を少し起こし、顔を上げ、青い目を開いた。
「湊さん……」
アイギスは声を発したが、対照的に他の者たちは全員が沈黙を保った。予想外の事態の連続に言葉をなくしている八人だけでなく、無言のままの一人もひたすら沈黙を貫いている。まるで眼前の出来事は、全て予想済みであるかのように。いかなる奇跡も奇跡ではないと理解しているように、驚きや動揺の声さえ全く上げない。だが口には出さなくても、態度では示すものがあった。
「……」
湊は地面に膝をつき、座ったままのアイギスと視線を真っ直ぐ合わせた。沈黙の視線の交換を数秒続けた後、黙って『女』を抱き締めた。そして青い光が、男の心臓の辺りから溢れ出た。『女』の瞳と同じ色で、一ヶ月前にプレゼントしたリボンと同じ色の光だ。
――
光が視界を覆うと共に、何かが割れる音が周囲に響いた。それは聞き慣れた召喚器の音とは少し違っていた。
「あ……」
アイギスが一声漏らすと、ファンが外れた。多くのペルソナ使いが召喚器を当てるその位置につけられた、機械の部品が唐突に落ちた。回転を続けたまま、壊れたように地面に落ちた。金属がアスファルトに落ちる鈍い音が、普通の夜の静寂を少しだけ揺らす。その残響が耳から消えた頃、湊は体を離した。アイギスの青い瞳を真っ直ぐ見つめ、優しく微笑んだ。
「……帰ろう」
男は膝を起こして立ち上がった。そして女を立ち上がらせた。