ペルソナ3 滅びの意志   作:三尺

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エピローグ
奇跡の代償(2010/3/5)


 卒業式を抜け出してきた者たちは、屋上に駆けつけた。中には寮から走ってやって来た者もいる。その人数は八人。皆の先頭に立って階段を飛ぶように駆け上り、扉を乱暴に開け放って真っ先に屋上に姿を現したのは、順平だった。

 

 「湊……」

 

 いつもの野球帽の下の目は、ベンチに座るアイギスの膝の上で静かに目を閉じている湊に向けられている。順平の視線には相当量の期待があり、またそれと同量の不安がある。そんな視線に対して、湊は何の反応も示さない。起き上がらないし、振り向きもしない。アイギスは湊の胸に手を置きながら微笑んでいるが、それは順平の目に入っていない。

 

 「何だよ、どうせシャレだろ? 死んだ振りしてんだろ? 分かってんだぜ」

 

 順平はベンチの二人のもとへと近づいた。最初は笑いながら。だが一歩ずつ進むごとに、表情は少しずつ強張っていく。そしてベンチのすぐ前まで辿り着いたが、湊は相変わらず反応を示さない。順平の後ろからは真田と天田がついて来ていて、その後ろでは荒垣がコロマルのリードを引いている。五人の男たちが見守る中で、湊は目を閉じたままだ。

 

 「おい! 起きろよ! いつまで寝てんだ!」

 

 遂に順平は床に膝をつき、湊の肩を揺さぶった。するとアイギスは湊の胸から手を離した。そして――

 

 「うるさいな……少しは休ませてくれよ」

 

 湊は目を開け、アイギスの膝からゆっくりと身を起こしてベンチに座り直した。深い眠りから無理に起こされたように、寝ぼけた目を順平に向ける。そんな面倒そうな視線を受け取った順平の表情には、喜色が急激に広がっていった。

 

 「は、はは……生きてるな! 生き残ったんだな、お前! マジで奇跡が起きたんだな!」

 

 順平は膝をついたまま、湊に抱き着いた。かつて愛する人が蘇った時のように、恥ずかしさも何もかも吹き飛んで、全身で感情を表した。喜びで泣き出さんばかりである。

 

 「これで良かったんですよね?」

 

 「ああ、良かった」

 

 天田が尋ねると、真田は爽やかな笑顔と共に答えた。かつては時間を戻すことに断固として反対した二人だが、今となっては何の悔いもない。日頃のものの考え方と反することであっても、起きた結果には満足できていた。

 

 「ふん……」

 

 「ワン!」

 

 荒垣はニット帽を少しだけ目深に下ろし、コロマルは元気に鳴いた。五人の男たちは表し方こそ異なるものの、誰もが喜んでいた。しかし――

 

 「有里君……」

 

 荒垣の後ろから、ゆかりが近づいてきた。それを認めた男性陣は道を開けた。順平も湊を離して立ち上がり、アイギスも立ち上がった。しかし湊はベンチに座ったままで、近づいてきたゆかりをただ見上げた。そうしているうちに、美鶴と風花もやって来た。そうして無言のままの視線の交換が、数秒間続いて――

 

 「この……浮気者!」

 

 ゆかりは足を振り上げ、爪先で湊の顔面を綺麗に捕えた。足の間にあるものなど全く目に入らない、見事な前蹴りである。

 

 「万死に値する!」

 

 美鶴も足を振り上げた。ただしゆかりのそれとは異なり、相手に当てるのは爪先ではなく踵である。普段から乗馬タイプのブーツを履いている美鶴にとっては、これはヒールで突き刺す必殺の一撃だ。タルタロスではシャドウ相手にしばしば放っていた。

 

 「やっぱり死んでください! 美しい思い出のまま!」

 

 風花は先の二人と違って、足は上げなかった。その代わりに拳を振りかざした。風花は三人の中では体重が最も軽く、しかも完璧に素人の打ち方である。だから本来は当たってもどうということはないはずである。しかし既に蹴りを二発受けていた湊は、とどめの一撃を食らったようにベンチから転げ落ちた。

 

 しかし女三人は止まらない。三人ともベンチを乗り越え、仰向けに倒れた男に繰り返し追撃を見舞う。タルタロスでも満月でもよくやっていた、いわゆる総攻撃の炸裂である。もちろん三人とも武器は持っていないが、破壊力は甚大だ。

 

 「止めないんですか?」

 

 「いいんですよ」

 

 天田が尋ねるが、アイギスは止めようともしない。むしろちょっと嬉しそうに微笑んでいる。

 

 「いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたが……」

 

 真田は目を閉じてため息を吐いた。そう、女心に疎い朴念仁だと思われがちな真田でさえ、実は気付いていたのである。湊の女関係は、『前回』から寮生の皆が知っていたのだ。完全にバレていたのである。もっともそれは当然と言えば当然のことである。同じ屋根の下で暮らしている人の間で浮気をして、隠し通せるはずがないのだから。そしてそれだけのことをして、ただで済むはずがない。いかに『我』の教える絆が不条理なまでに強固であろうと、限度というものがある。

 

 「馬鹿は死ななきゃ治らねえってか」

 

 ちなみに『前回』荒垣が死んだ10月の時点では、湊の女関係は寮内ではそこまで酷くなかった。だから荒垣だけは元から知っていたわけではない。しかし今となっては十分すぎるほどに分かる。湊は死ななければ治らないレベルの、大馬鹿である。

 

 「あ、そっか。一度死んで、浮気性が治ったんだ」

 

 順平がもっともなことを言うが、今さら治っても遅い。たとえ生き返ろうと時間が戻ろうと、やったことはなかったことにならないのだ。だから殴る蹴るの集団暴行を受けている親友を、順平は助けてやらない。

 

 「しかもあんた、私たちだけじゃないでしょ! 西脇さんとも付き合ってたんでしょ!」

 

 「伏見も毒牙にかけていたんだろう!」

 

 「まだいますよね! 長谷川さんとか鳥海先生とか! あと……岩崎さんとか! 神社にいる小学生の女の子とか!」

 

 総攻撃はまだ終わらない。むしろ段々と激しくなっている。マンガ的な表現を用いれば、ドカバキという擬音が無数に飛び交っているところだ。

 

 「おい、名前いくつ挙がった?」

 

 「ええと……アイちゃんも入れると十人!? 何て奴だ……逆に尊敬するわ」

 

 「尊敬しませんよ。小学生にまで手を出すなんて、犯罪じゃないんですか?」

 

 「これはもう、警察に突き出すしか……」

 

 「ワフッ……」

 

 絆の強さに優劣があるとしたら、『今回』の湊は男性陣とは女性陣より強い絆を築いてきたと言える。それでありながら、誰も助けてくれない。完全に孤立無援である。それどころか犯罪者扱いされる始末だ。湊は責任感は強い方だが、やっていないことまで責任を負わされるのはさすがに堪らない。

 

 「ち、違う! 舞子には何もしていない! 岩崎もだ! 先生や沙織とも……何もない! 多分……」

 

 実際に何もしていない人も確かにいる。しかしそうとは言いきれない人もいる。だから曖昧な言い方になってしまった。嘘を吐けないとは、損な性分である。

 

 「多分って何だあ!」

 

 ゆかりの渾身のツッコミが入った。両手を組んだ鉄槌の一撃が後頭部にクリーンヒットし、湊はうつ伏せに倒れた。コンクリートの床に額をつけて、ぴくりとも動かなくなってしまった。

 

 「はあ……ねえアイギス。こんな人のどこがいいの?」

 

 髑髏マーク入りのキノコ雲が晴れた後で、ゆかりは肩で息をしながら後ろを振り返った。怒りを吐き出しきった人間に特有の、何とも言えない疲れがそこに浮かんでいた。

 

 「さあ? 体……とか?」

 

 アイギスはゆかりには伝えていないが、実は同じ質問を妹にされたことがあるのだ。妹によれば、湊は頭も顔もまるで駄目。勇敢さという意味での男らしさもない。常に真実を語る妹がそう言うのだから、その通りなのであろう。その三つを除いた上で何か長所として挙げられそうなものは、アイギスには一つしか思い浮かばなかった。

 

 「酷い人……」

 

 「ふう……少しすっきりしたな」

 

 風花は表情を暗くして俯くが、美鶴は充実感のある笑みを浮かべた。美鶴は狼藉や侮辱に対しては、断固たる制裁でもって報いる主義である。だが一度報いを与えさえすれば、後はさっぱりしたところがある。

 

 「さて、卒業式を抜け出してきてしまったからな。先生方に謝りに行こうか」

 

 美鶴は笑顔のままそう言って、皆を促した。倒れ伏している湊には、もう見向きもしない。一緒に卒業式を抜けてきたゆかりと風花、そして真田と順平を後に従えて、さっさと屋上から去って行った。

 

 「俺らは寮に戻る。そこのボロ雑巾は頼むぜ」

 

 そして残った荒垣がコロマルのリードを引きつつ、天田を促した。

 

 「はい。任せてください」

 

 そうして荒垣たちも立ち去り、屋上には当初からいた二人だけが残された。少しだけ冷たい春の風が、虚しさを込めて吹き流れる。アイギスは床に膝をついて、倒れた男を助け起こした。

 

 「はあ……酷い目に遭った」

 

 湊は唇の端が切れ、顔には腫れが出始めていた。

 

 「自業自得です」

 

 確かに自業自得である。もっとも湊にすればコミュニティを、即ち浮気をしなければ強くなれないという事情は確かにあった。だが今となっては、単にそれだけではなかったことも自覚している。なぜなら『前回』は、コミュニティがニュクスに対抗するのに必要であるとの認識はなかったのだから。

 

 タルタロスや満月のシャドウと戦うだけなら、たとえ女子相手の五つのアルカナのペルソナが使えなくなっても、深刻な問題にはならなかったはずである。アルカナは二十二もあるのだし、ましてシャドウが弱かった『前回』は、戦い自体が遊びのようなものだったのだから。だから自業自得であることに違いはない。一番悪いのは湊である。だがそれでも事情が全くなかったわけではない。

 

 「許してくれるか?」

 

 「はい、許します」

 

 そして『今回』はペルソナだけでなく、コミュニティもアイギスと共有していた。そしてユニバースを得た際に、アイギスは湊の事情も十分に理解した。だから許してやれる。しかし――

 

 「今、名前が挙がった人たちについては」

 

 「ん?」

 

 「エリザベスさんとは、どういうご関係で?」

 

 湊の顔から血の気が引いた。そうなのである。ゆかりたちが知り得ないところで、浮気相手はもう一人いるのだ。しかもコミュニティとは関係のない、即ち事情がないか、あっても乏しい人がいる。それはつまり、全ての浮気の中で最もたちが悪いということだ。

 

 「詳しく聞かせてほしいですね」

 

 アイギスは笑顔でいる。だがとても怖い笑顔である。男を追い詰め跪かせ、屈服させる笑顔である。どんな言い訳も通用しそうにない。

 

 「え、ええと……」

 

 

 湊は締め上げられた。『前回』は何度かデートしたことを吐いた。

 

 更に締め上げられた。『今回』もデートしたことを吐いた。クラブや休日の学校に行ったことも吐いた。

 

 絞られた。『前回』は部屋に連れ込んだことを吐いた。

 

 更に絞られた。『今回』も部屋に上げてくれるよう、依頼されたことを吐いた。だがその依頼は断ったと主張した。

 

 きつく絞られた。『今回』は部屋に上げていないと言い続けた。

 

 踏まれた。1月に戦ったことを吐いた。負けたことも吐いた。

 

 両足で踏まれた。『契約』するよう頼まれたことを吐いた。だがそれも断ったと主張した。

 

 踵でグリグリされた。『契約』はしていないと言い続けた。卒業式が終わり、生徒が全員下校した頃になって、ようやく信じてもらえた。

 

 

 「お帰りー! ……てか、怪我、酷くなってねえ?」

 

 他の皆と比べて大幅に遅れて寮に戻ってきた親友の姿に、順平は目を丸くした。湊は女三人の総攻撃で既にボロ雑巾になっていたが、そこから更に酷くなっている。顔は腫れ、服は汚れ、まともに歩くこともできていない。大型の車両に轢かれたかのごとき惨状である。ちなみにアイギスは湊とは対照的に、風呂上がりのようにつややかな肌をしていた。

 

 「頼む……何も聞かないでくれ」

 

 「そ、そっか……まあいいや。取り敢えず顔洗って、着替えて来いよ! 今日はパーティーだぜ!」

 

 見回してみれば、ラウンジにいるのは順平だけでなく、何人かがせわしなく動いていた。買い物袋から食材を取り出したり、テーブルに箸や皿を並べたりしていた。そしてキッチンでは荒垣が手際よく、そして風花が悪戦苦闘しつつ料理を作っていた。パーティーの準備が始まっている。

 

 

 「いやあ、俺は嬉しいぜ! お前が生きてる、チドリも生きてる! おまけに荒垣さんも、桐条先輩のパパ上様も! 完璧じゃねえか! 言うことねえよ!」

 

 日が暮れてから、寮生たちだけでの祝勝会が開始された。ローテーブルには荒垣と風花の手による料理が満載され、それを取り囲む形で並べられたソファーに全員が集まっていた。ちなみに風花の料理の腕前は未だ人並み以下だが、今日は荒垣の指導によって毒にならずに済んでいる。そんな中にあって、順平は最も素直に喜びを表していた。隣に座っている湊と肩を組んで、屋上の時と同様に裏表のない喜色満面である。

 

 「シンジはおまけか」

 

 二人の前に真田がやって来た。手にはグラスを持っている。

 

 「あ、そういうつもりじゃ……や、やだなあ! 言葉のあやって奴っすよ!」

 

 「まあいいさ」

 

 順平は慌てたが、真田に怒った様子はない。むしろ穏やかに微笑んでいる。しかし湊に視線を向けると、表情から微笑を消した。だがもちろん怒っているわけではない。

 

 「有里、俺は謝らないといかん。実はな……俺は時の狭間では、過去に戻ることに反対だったんだ」

 

 「……」

 

 「お前もシンジも、やるべきことはやったんだ。無駄な過去なんかないんだから、前を向くしかないってな」

 

 「先輩らしいですよ」

 

 湊は真田を責めはしない。むしろ当初は時間が戻ったことを迷惑に感じていたのだ。その点からすれば、真田に謝られるようなことはない。

 

 「まあ、そうなんだがな……。もしかしたら、俺は単に目を背けていただけだったのかもしれん。シンジが助かって力を得るのも随分遅れたが……それも含めて、悪くない二回目だった。今になって、そう思うよ」

 

 真田はグラスを近づけてきて、湊も応じてグラスを鳴らした。小さな乾杯の音が響く中で、先輩と後輩は互いに笑顔を見せた。

 

 「ま……色々あったが、良かったんじゃねえか?」

 

 今度は荒垣がやって来た。やはりグラスを差し出してきて、湊は再び鳴らす。荒垣は真田にもグラスを向け、また鳴らす。元から口数の少ない荒垣は、自身の心情を詳しく説明しはしない。だが己の生死に大きく関わった同期と後輩に向けて、小さく微笑んだ。

 

 「ふふ……まあ大変な苦労ばかりだったが、こうして全員が生き残ったのだ。父もな。これは偉大な勝利だよ。間違いなくな」

 

 この祝勝会の席の配置は、男性陣と女性陣で別れていた。ラウンジの奥の側に湊を中心とした男性陣が座り、アイギスを中心とした女性陣はテーブルを挟んだ反対側にいる。その中で、美鶴は瞑目しながら微笑んだ。しかし順平や真田、そして荒垣と違って、美鶴は単にこの結果を喜ぶだけには留まらなかった。

 

 「だが分からないことがある。君たちはあの時、何をしたのだ?」

 

 美鶴はそう言って湊を、次いで隣に座っているアイギスを見た。そうなのである。湊とアイギスを除く皆は、二人がタルタロスから飛び立ったところまでしか見ていない。具体的に何をして滅びを防いだのか、『前回』を通じて何の事実も知らないのだ。

 

 「それにはまず、どうして滅びが訪れたのか。そこから説明しないといけませんね」

 

 事の説明はアイギスがした。ニュクス自身に意志がないことや、エレボスの存在、神聖時間、そしてタルタロスと時の狭間の存在意義。即ち『時を操る神器』の本当の意味を、アイギスは語った。

 

 「祖父の研究には……そんな意味があったのか」

 

 美鶴は目を見開き、そして唸った。桐条鴻悦が当初研究させていた神器については、屋久島で父親から聞いていたし、『今回』は12月以降にも少しは気に留めていた。しかしまさか神器そのものが、滅びを呼んだ最大の原因であったとは思わなかった。

 

 「ええ。そして前の彼は影時間を止めることで、滅びを防いだのです。そして私は……」

 

 アイギスの説明は更に続く。滅びを防ぐ為の、奇跡の力について。それを使って『前回』湊が行った封印の実態について。そして『今回』アイギスが行ったことを説明した。通常時間をそのままにして、影時間のみを戻す。即ち神器が創造した聖なる時間を破壊することで、滅びの日を本来訪れるべき永劫の彼方にまで遠ざけたのだと。

 

 「ですから私がしたことは、実は問題の先送りに過ぎないのですけどね……。時間を止める方が、より確実で完全な解決法なのですが」

 

 問題の先送り――

 

 それはその通りである。影時間はこの世からなくなったが、神聖時間は今後も存在し続ける。太古の昔からずっとそうであったように。だからいつかは再び滅びの日が訪れる。ただし時を操る神器は消滅した為、すぐに訪れることはない。自然の状態であれば、滅びは何千年も、何万年も先の遥かな未来の話である。

 

 「そんなことないさ」

 

 真相の説明が開始されてから、湊は初めて口を開いた。テーブルを挟んで向かいの席に座るアイギスへと、真っ直ぐな視線を送る。

 

 「僕は世界の法則を強引に捻じ曲げたが、君は世界を自然の姿に戻したんだ。君は正しいことをしたんだ。僕よりも」

 

 人は死ぬものだ。それと同じで、人類全体もいつかは滅ぶものだ。それは自然のルールであり、それそのものを歪めることは決して正しくない。たとえ問題の先送りであっても、自然のままにすることこそが正しい。なぜならそれこそが世界の真実なのだから。だからアイギスのしたことの方が、自分がしたことよりも正しい。湊はそう思っていた。

 

 「……そうか」

 

 事態を解決する二つの方法について、どちらがより正しいのか。その点については、美鶴は何も言わず、他の皆も言わなかった。正直なところ、事の是非を判断するには話が観念的すぎるのだ。だから存在や時間などよりも、より現実的な疑問へと美鶴は話題を転換した。

 

 「だがまだ分からないことがある。こう言うのもおかしいが……どうして君は生きているのだ?」

 

 美鶴は再びアイギスへと視線を向けた。奇跡の行使がどれだけのことであるのか、それは実際に行っていない者には分からない。しかしそれを行って、ただで済むとは思えないのだ。まして『今回』の1月31日、校門前で発見された時のアイギスの状態からすると、生きていること自体が不思議に思えるのだ。

 

 「メティスのおかげです」

 

 「メティス……そうだ。時の狭間からずっと疑問だったのだが、彼女は何者だったのだ?」

 

 「あの子は……私だったんです」

 

 アイギスは胸に手を当てて、再び説明を始めた。『前回』湊を失ってから、アイギスはその痛みに耐えられなくなって、いっそ機械に戻れたらと思ったのだと。そして本当にその通りになった。

 

 闇の中を立ち去る湊を、どれだけ追いかけても追いつけない夢。それを何度も繰り返し見るうちに、アイギスは自分自身の半分を捨ててしまった。切り離された心と命は、想いが現実に変わる時の狭間で実体化してしまった。それがメティスだった。

 

 「でもあの子は、私の中に帰って来た……」

 

 一人で残されることをいつも恐れている、寂しがり屋の妹。それが帰って来たことを胸の奥で感じながら、アイギスは目を閉じた。姿は見えなくなっても、確かにそこに妹はいるのだ。もう二度と別たれることのない、命の根源にメティスは存在している――

 

 「それってもしかして……チドリさんが生き返ったのと?」

 

 美鶴の反対側に座っていた風花が尋ねてきた。それに対して、アイギスは手を胸から下ろし、目を開いて深く頷いた。

 

 「じゃあ、今のアイギスの体もあの子が……?」

 

 下ろされたアイギスの手を、風花は自分の手で取った。それは血の通った人間の手だった。人と触れ合うのに適した、柔らかい手だ。2月から再び記憶を失った皆は当たり前のように思っていたが、今のアイギスは1月以前とは明らかに変わっているのだ。手も顔も、そして体も変わっている。もちろんアイギスの制服の下を、風花は自分の目で見てはいない。それでもそれくらいは分かる。

 

 「いえ、この体は……湊さんに貰ったものです」

 

 アイギスは滅びの原因と防ぐ方法、そして妹についてはかなり詳しく説明した。しかし自分の体に関しては、簡単にしか答えなかった。ただテーブルの向こうの湊へと視線を向け、優しく微笑んだ。風花もそれに合わせて、湊を見た。何度も瞬きをしながら。

 

 「つまり……時間はアイギスが戻したから。使われなかった奇跡の力で、有里君はアイギスを人間に……?」

 

 風花だけでなく、全員の視線が湊に集中した。俄かな注目を浴びて恥ずかしくなった湊は、少し俯いた。

 

 「ああ……」

 

 そして全員が再びアイギスを見る。それで誰もが理解した。アイギスは機械ではないのだと。心は元から人間だが、もはやそれだけではない。その体の中には、もうネジ一本すらも残っていない。完全な意味において人間になったのだと。

 

 しかしそれだけでは留まらない人も、この場にはいる。アイギスの隣には美鶴と風花が座っている。並んだ三人の女子の姿を目にして、あることを閃いた人がいた。それもあまり面白くないことを。

 

 「何か、急にイラッときたんだが」

 

 真田である。『今回』の屋久島のビーチで、後輩からあることを言われたのだ。それが唐突に思い出されると共に、頭の中で何かが一本の線で繋がったのだ。真田は決して朴念仁ではない。だから気付くものがあった。

 

 「奇遇だな、アキ。俺もそう思ったところだぜ」

 

 荒垣もだ。『今回』の10月にホームパーティーを開いたが、その後での後輩とのやり取りを思い出したのだ。そして元より荒垣は真田よりも鋭敏である。だからピンと来た。

 

 「あー……何となく分かりました。先輩方の言いたいこと」

 

 順平も気付いた。順平は上級生二人と違って、親友の陰謀の標的にされたことはない。しかし愛する人との間を煽られたことなら、『今回』の9月にされたことがある。そして何より、順平は空気を読める方である。だから理解できた。

 

 真田と荒垣は席から立ち上がり、ついでに順平も立ち上がった。三人の男は乾杯のグラスを持つでもなく、座ったままのリーダーを見下ろしつつ取り囲んだ。三人とも明らかに不穏な気配を放っている。

 

 「お、おい……ちょっと待て! 何でそうなるんだ!?」

 

 「うっせ! 取り敢えず殴られとけ!」

 

 順平の号令の下、男三人の拳が飛んできた。手加減された軽い裏拳が額に当たり、鋭いジャブが頬に突き刺さり、最後に重い鉄槌が脳天に入って、湊はソファーから転げ落ちた。屋上の総攻撃と違って一発ずつで終わったが、それでも体格のいい男ばかりのパンチは相当に痛かった。

 

 「有里さん」

 

 床へ突っ伏してしまったところへ、子供の声が届けられてきた。痛む顔を上げてみれば、天田が床にしゃがみ込んでいた。

 

 「何だ……まさかお前もか?」

 

 「いえ、そうじゃなくて。実は僕も真田さんと同じで、過去に戻ることに反対だったんです。命と引き換えに救われたのに、それを勝手に帳消しになんかしちゃ駄目だって……そう思ってたんです」

 

 「……そうだったのか」

 

 つい先ほどに真田から同じことを言われたが、湊はより複雑な思いを抱いた。1月に正義のコミュニティが極まった際に、天田は時の狭間では戻ることを主張したのだと思っていたから。だがそれは間違っていた。たとえ『我』が絆を真実として認めても、やはり限度がある。担い手のことを何から何まで、全て理解できるわけではない。それは異性でも同性でも同じだ。

 

 「でもそれって……何か違いますよね。有里さんだって、生きたかったはずなんですよね」

 

 「……ああ」

 

 少々の間を空けつつも、湊は頷いた。己の死に対して、どうでもいいなどとは言えない。無数の仮面の下にある本当の本心、それはもはや生物としての本能と言い換えてもよいものだが、そこでは確かに生きたがっていた。

 

 「生きていてくれて……ありがとうございます。約束守ってくれて、本当に嬉しいです」

 

 天田はにっこりと微笑んだ。湊もそれに応える形で、心からの微笑みを返した。

 

 「そうか。僕も嬉しいよ」

 

 『今回』は男の仲間全員とコミュニティを築いてきたが、その中で最も有意義だったのは正義であったのかもしれない。順平や真田と違って、天田には真実だけを伝えてきたから。その分苦労もあったが、今になってそれが報われた。そう思っていたら――

 

 「でも浮気は駄目ですよ。せっかく生き残ったのに、女の人に刺されて死んだりしたら、カッコ悪すぎじゃないですか」

 

 再び床に突っ伏してしまった。忘れていたが、天田はこういうところがあったのだ。駄目な大人に呆れながら、穏やかな口調で鋭くツッコミを入れるタイプだ。コミュニティではやられる機会はなかったが、今になってやられてしまった。

 

 「ワフッ……」

 

 拳と言葉で打ちのめされたところへ、今度はコロマルがやって来た。倒れ伏した男を赤い瞳で優しげに見つめながら、尻尾を振っている。

 

 「ああ……分かってくれるのはお前だけだよ」

 

 湊は思いがけない慰めを貰ったように、床に肘をついて顔を上げた。コミュニティで嘘がなかったのは、天田だけではない。コロマルもそうだ。言葉がないからそもそも嘘が必要なかった為なのだが、とにかくコロマルとも真実のみで付き合ってきた。そしてコロマルは部の中で最も男らしい。しかも子供の皆と違って大人である。なればこそ、理解してくれるところはある。そう思っていたら――

 

 「ワンワン!」

 

 またしても突っ伏してしまった。卒業したらコロマルを飼うつもりでいたのだが、考え直したくなってきた。そうやって床にめり込んでしまった頭の上に、柔らかいものが乗せられてきた。お手をされたのである。間違ったやり方で。

 

 「どうしたんですか?」

 

 「聞かないでくれ……」

 

 天田が尋ねてきたが、湊は顔を上げなかった。剛毅のコミュニティは、始めは言葉がなかった。しかし12月に極まって以来、湊はコロマルの鳴き声の意味を理解できるようになったのである。『前回』のアイギスや『今回』の綾時がしていたように、言葉以外の手段による動物との意思疎通を身に付けたのだ。もちろん相手はコロマル限定だが。そして今受け取ったコロマルの意思は、言葉に訳すとこのようなものだった。

 

 『他の女の匂いがしたら、俺にはすぐ分かっちまうからな。アイギスに聞かれたら、答えないわけにはいかねえから。だから浮気はやめとけ。マジで』

 

 4月以来、特別課外活動部を一年間に渡って牽引してきた、頼り甲斐のあるリーダーはどこへやらである。何だか急に弄られ属性がついてしまった。だがこれが正しいあり方なのかもしれない。もう少し、これと言って、今一つ。何の取り柄もない、ただの愚者が湊の本当の姿である。二度目の日々を乗り越えた今になって、ようやく皆から正当な評価を受け始めた。それだけのことかもしれない。

 

 「えーと……それじゃ皆さん、それぞれスッキリしたところで! 改めまして、カンパーイ!」

 

 微妙になりかけた空気を、順平は打ち消しにかかった。再びグラスを持ち上げて音頭を取る。そして多くの者が笑みを浮かべながら、それに応じる。湊も立ち上がって、改めてグラスを取った。殴られた痛みと色々なショックで手が震えそうになっていたが、何とか耐えた。

 

 「乾杯」

 

 散々な一日だが、仕方のないことである。人は自分のしたことに、責任を取らねばならない。それは契約者に限らず、人間たちの中で生きる普通の人間ならば当たり前のことだ。そして何より、紆余曲折は大いにありつつも生き残れたのだ。その代わりに起きる些細な害は我慢する気になった。

 

 そうして祝勝会は大いに盛り上がった。しかしただ一人、浮かない顔をしている人がいた。

 

 「……」

 

 ゆかりである。

 

 

 夜が更けた頃、ゆかりは一人でラウンジを抜け出して屋上に来た。そして手すりに掴まって、昇り始めた月を見つめた。

 

 「……」

 

 ゆかりは昔のことを思い返していた。一年ほど前、ゆかりはここで戦いを目撃したのである。それは死神による、身の毛がよだつ凄惨な殺戮だった。忘れることなど一生できないほどの衝撃だった。だが実は、体感時間で今から二年ほど前にも同じ戦いを目撃していたのである。それなのに、それに気付かなかったのだ。

 

 「ゆかりさん」

 

 そんな喜ばしくはない思い出に浸っていた、ゆかりの背にかけてくる声があった。振り返ってみれば、月光を映した鮮やかな髪の色の人だった。

 

 「アイギス……」

 

 「済みません。過去に戻ることを最初に言ったのは、貴女なのに……」

 

 アイギスは謝った。時の狭間では、ゆかりは過去に戻ることを望んでいた。もちろん言葉にしない本当の本心では、誰もが過去に大きな未練を抱いていた。そうでなければ、時の狭間が寮の地下に繋がったりしない。しかしそれでも、皆の中で最も先に本心を明かしたのは、そして最も強く願っていたのはゆかりである。それにも関わらず、想いは結局報われなかったのだ。

 

 「ううん……もう分かったもの。時間が戻ったら私、全部忘れちゃったわ。彼への気持ちまで……」

 

 時の狭間の闘技場で、ゆかりはアイギスと戦い敗れた。しかし直後はそれを認めなかった。力では負けても、想いの強さでは絶対に負けない――

 

 「だから分かったの。私、本当に貴女に負けたんだって」

 

 そう信じていたのに、結局は負けてしまった。反論の余地がないほど、完全に。しかしそれでいながら、今となっては悔しいと思う気持ちはあまりなかった。

 

 ゆかりは振り返り、もう一度月を見つめた。春の夜空に浮かんでいるのは、真円から大きく欠けた二十日月である。最後の決戦の日以降の満月は五日前、2月28日に既に来ている。何事もなく通り過ぎているのだ。4月からずっと大事件が続いていた満月の周期は、もはや何の意味も為さなくなっていた。つまり全ての決着はついたのだ。

 

 「ごめんね。私、時の狭間でアイギスに酷いこと言っちゃった……。私、貴女に嫉妬してたんだ。本当は前から分かってたんだ……」

 

 再び振り返ると、ゆかりは笑顔を見せてきた。ただし『前回』から何を分かっていたのか、それは言わなかった。敢えて言葉にしなくても、相手も分かっているから。必要のない説明をする代わりに、ゆかりは両手を組んで大きく伸びをした。

 

 「もう当分男はいいわ……」

 

 元々ゆかりは異性に対するガードが固いが、それを打ち破る男が現れた。ただその男は酷い浮気性だった。それは不幸なことだが、浮気の相手を恨む気持ちはもうなくなっていた。

 

 「気を付けなさいね。彼って、頼まれたら断れないタイプでしょ」

 

 「大丈夫ですよ。私も今日、思いきり締め上げておきましたから」

 

 「ははっ……そうそう。そんくらいやってやらないとね。ああいう人はキツーく拘束してやるくらいで、ちょうどいいのよ」

 

 「ふふっ、本当ですね」

 

 二人は揃って笑い、そして色々なことを話し合った。話題は弓道部のことや、来週から始まる期末試験のこと。巌戸台分寮が閉鎖される来月からのこと、卒業後の将来のこと。そして湊の駄目な点などだ。早春の夜の冷たい風をものともせずに、二人は長い時間をかけて話し合った。全てのわだかまりを解いた、本当の親友として。そして最後に――

 

 「ねえ、寮に入るんならさ……ルームメイト、私でどう?」

 

 「ゆかりさん……」

 

 ゆかりの提案に、アイギスは驚いた顔を見せた。しかしすぐに微笑んだ。

 

 「ええ、喜んで」

 

 ゆかりとアイギスは『前回』は衝突し、『今回』は友情を感じた。そしてそれは、どちらも真実だった。

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