2010年の3月30日は満月である。しかし2月の満月は何事もないままに過ぎ去っている。だから3月の満月も何事もなく過ぎ去った。巌戸台分寮の寮生たちの間に若干の緊張はあったかもしれないが、僅か数人の人間の小さな不安などによって、時間そのものが影響されることはない。かつてはそれがきっかけで時間を歪めるものも存在したが、それももはやない。
そうして静かなままに迎えた31日の昼間。日ごと暖かさを増す陽光が差し込む自室で、湊は引っ越しの作業をしていた。二つばかりの段ボールに、少ない衣類や教材を詰め込んでいる。一年の間ずっと殺風景なままになっていた湊の部屋に、荷物は元々少ない。そんな簡単な片付けが終わる頃、ドアがノックなしに開かれた。
「おーい、入るぜ?」
「入ってから言うか?」
来たのは順平だった。そしていきなり屈みこんで床に顔をつけ、ベッドの下を覗き始めた。
「何してるんだ」
「いや、何か忘れ物とかしてねえかなって……」
ベッドの下に何かを置くとしたら、決まっている。健康な男ならば誰でも一冊くらいは隠し持っている、フルカラーの雑誌とかだ。
「そんなところにはない……と言うか、元々持ってない」
これは本当である。湊は『前回』を通じて、その手の雑誌を持ったことはない。そして2月以降は、そもそも雑誌など必要としていない。
「つまんねえの……。つか、いいよなお前は。チドリなんか、まだまともに手も握らせてくんねえのに……」
順平はため息を吐きながら、ベッドに腰を下ろした。湊と違って、順平の恋路は道半ばである。関係の進展にはまだまだ時間がかかりそうである。
「何か用か?」
「おう、ちっとな……召喚器の回収、しねえってさ」
「ああ、前は一度回収したって話だったな」
『前回』のこの日、皆は各々の召喚器を桐条グループに返却することになったのである。もう使う機会もないからとのことで。『今回』もそうするかどうか、美鶴は卒業式以降に悩んでいたのだが、結局しないことに決めたようである。
「ま、どの道お前は失くしちまってるから、関係ねえだろうけどよ」
湊は1月31日、タカヤと戦った際に召喚器を撃ち落とされた。そして拾う暇もなかった為、そのままにしておいたのだ。だからもう持っていない。しかし――
「代わりのものはあるがな」
言いながら湊は机の引き出しから拳銃を取り出した。銃口に樹脂が詰められた召喚器ではなく、実銃である。それも世界最強と謳われる大型拳銃だ。それ自体が殺気を放つような凶器の迫力に、順平は顔を引きつらせた。
「って……! お前、何でそれ持ってんだよ! 捨てろよ、そんな物騒なもの!」
「馬鹿言うな。こんな物騒なもの、ゴミに出せるわけがないだろう」
「ゴミとかそういうことじゃなくて! 桐条先輩にでも預けりゃいいじゃんか!」
「一度は預けたさ。でもこないだ返してもらった」
卒業式の日の数日後、湊は美鶴に頼まれてタカヤの銃を桐条グループに一度預けたのである。ストレガが影時間を利用して行った犯罪行為に関わっている可能性があるとのことと、彼らの素性を調べる為に役立つかもしれないとのことで。湊は調査が一通り済んだら、返してもらうことを条件に承知したのである。だからもう手元に戻っている。もっとも弾丸はないので、本来の用途に使うことはできないのだが。
「これはあいつの形見だからな」
拳銃を眺めながら、湊は感慨深げに言う。遺品は死んだ本人そのものではない。しかしそこにいるような、そんな感覚を与えてくるものだ。
「なあ……あいつはお前の何だったんだ?」
湊は拳銃から順平へと視線を移した。順平は部屋に来た時のふざけた感じも、銃を見た時の動揺も既に収まっており、珍しい真剣な顔でいる。質問の仕方は漠然としているが、順平の言いたいことは分かる。タカヤは湊の何であったのか――
「あいつは……」
順平にとって『今回』のタカヤは個人的には特に因縁がなく、何がしたいのかよく分からない敵だった。だが『前回』のタカヤはチドリの仇だった。そんな男と親友は、一体どんな関係だったのか。全ての記憶を取り戻した順平にすれば、気になるところである。だからその視線には、かなりの訝しさがある。
「兄弟のような、子供のような……。友人のような、ライバルのような、敵のような……」
「何だそりゃ? 意味分かんねえぜ」
順平の表情から訝しさが消え、代わって呆れた色が差した。だが湊は嘘や韜晦で答えたのではない。タカヤに対しては、今言った全ての気持ちを抱いていたのだ。だが他人に説明するのは極めて難しい。
湊はタカヤとの関係を、3月以降も人に詳しく説明することはなかった。幾月の殺害を依頼したことだけは12月に荒垣に話したが、他の仲間たちには話していない。美鶴は察しているかもしれないが、何も聞いてはこない。そして依頼以外でタカヤとどんな交渉を持っていたのか、互いに何を求めていたのかは、湊は誰にも話してない。アイギスは理解しているが、彼女も他人に話していない。
「お前には悪いがな……僕はあいつにも生きていてほしかったんだ」
しかし聞かれた以上、答えないわけにはいかない。ただ視線を順平から外し、拳銃に戻した。
「いや、まあ……あいつらの身の上とか聞いたら、俺だってちっとは同情するけどよ」
順平の表情から呆れが消えた。『前回』の1月31日では、順平はタカヤにとどめは刺さなかった。それは直前のジンの告白で、ストレガの過去を聞いていたのが最大の理由であろう。いくら憎い相手でも、その背景まで知ってしまえば憎みきるのは難しくなる。
「でももう時の狭間もないんだし、やり直すことはできない。残念な気持ちはあるが……どうしようもない」
タカヤに対して、やれるだけのことはやったとの思いはある。だが一片の悔いもないかと問われれば、答えは否だ。
「じゃあもしやり直せるんなら……やるか?」
「どうかな……。やり直して失うものとか、それで上手くいくのかどうかとか……そういうことも考えないといけないからな」
しかし後悔があることと、それを取り返す為にやり直すかどうかはまた別だ。仮定で結論を出せるほど簡単な問いではない。現実にその選択肢を突き付けられてみないと、どの答えを選ぶかは分からない。これはそういう問題だった。
そしてそういう問題に対して、順平は答えを出したことがある。
「俺、実はよ……時の狭間じゃ、過去に戻ることに反対だったんだ。真田さんほどストイックじゃねえけどな。何つーか……戻ったって、どうしようもねえだろうって思ってたんだ。コロマルもな」
ベッドに座ったまま、順平は親友の部屋に来た本題の用件を切り出した。申し訳なさを感じさせる声色でもって。
「悪かったな……」
「謝ることじゃないさ」
湊は拳銃から再び順平へと視線を戻した。後ろめたさのある順平を励ますように、優しげな目を向けた。
「僕だって、生き延びる方法なんか最後まで思い付かなかったんだから」
過ぎたことをもう一度やり直すか、辛さを飲み込んで前に進むか、無理なことは無理だと諦めるか。それはどれか一つが正しい、というものではないのかもしれない。どんな選択であっても間違ってはいない。その選択に責任さえ持てれば。
「へへっ……でもよ、上手くいっちまったな」
順平は歯を見せた。湊もそれに応えて、にやりと笑った。それと共に、部屋の空気から重さが急激に失われていった。
「全くだな。おかげで成人式も迎えられそうだ」
『前回』の1月8日、二人は学校の屋上で少し話し合ったのだ。自分たちも大人になって、成人式を迎える日は来るかと。だが『今回』のその日は、特に話はしていない。それ以前から互いの理解が深まっていた為に、敢えてそういう機会を持つまでもなかったからだが。
「うしっ! これからもダチってことで頼むぜ! 明日からルームメイトなんだしよ!」
順平は膝を叩いて、ベッドから勢いよく立ち上がった。
そうなのである。特別課外活動部の二年生組は、明日から普通の男子寮と女子寮に住むことになるのだ。そこは普通の寮ならば普通のこととして個室はなく、二人で一部屋を使うことになる。それで女子はゆかりとアイギスが、男子は順平と湊が相部屋になるのだ。ちなみに実家が近い風花は寮には入らない。もっともそれを言うなら、順平も実家が近いのだから本来は寮に住む必要はないはずである。それでも寮暮らしを決めたのは、『俺がいた方がいいだろ』とのことである。
「部屋の掃除はちゃんとしてもらうからな」
急に元気を取り戻した順平に向けて、湊は意味ありげな笑みを浮かべた。ちなみに拳銃は手に持ったままである。弾丸はないから撃つことはできないが、殴るくらいはできる凶器を。
「え? あ、ああ……するよ? するする」
「その言葉、覚えたぞ」
卒業式の日は、湊は多くの仲間たちに殴られたりした。だがあれは『前回』を含めた己の不誠実さに対する清算だ。そしてそれが済んだ以上、もう殴られてやるつもりはなかった。コミュニティはその使命を終えた為、皆からは正当な評価を受け始めている。だがやられっぱなしではおかない。どれだけ駄目な人間であっても、いつまでも駄目なままとは限らないのだから。
夜になると、特別課外活動部は寮のラウンジに集合した。一人の欠席もなく、十人全員が勢揃いしていた。その全員がそれぞれに笑顔でいる中で、テーブルには特上の寿司桶がいくつも並べられている。
「いやあ、今日の寿司は絶対うまいぜ!」
この日のメニューは荒垣の料理という案もあったのだが、寿司となった。ぬか喜びだった『前回』の11月4日、そして全く盛り上がらなかった『前回』のこの日のリベンジとして、三度目の正直を望む声があった為だ。しかし未だ誰も手を付けてはいない。コロマルも特製の肉を前に、お預けをさせられている。犬と人間たちが少しだけそわそわしながら、関係者が全員揃うのを待っている。
そうこうしているうちに、玄関の向こう側で車が停止する音がした。ブレーキの音だけでも、聞く者が聞けば高級車だと分かる類のものだった。
「いらしたようだ」
美鶴が立ち上がると、重厚な扉が外からノックされた。そして古い建物であることを示す軋んだ音と共に、扉がゆっくりと開けられた。
「お待ちしていました」
来たのは桐条武治だった。二人のSPを後ろに従えて、威厳を感じさせるゆっくりとした足取りでもって敷居を跨いだ。
「終わったのだな……本当に」
「はい。今度こそ……」
2月から湊とアイギスを除く特別課外活動部の面々は、影時間の記憶を再び失った。ペルソナ使いでさえ失ったのだから、影時間の適性のみを持つ人間たちも当然そうなった。しかし部の皆は、3月5日に『前回』を含めた記憶を取り戻した。それと同じように、他の者たちもあの日を境に順次取り戻していったのである。ただしさすがに『前回』まで思い出した者はおらず、『今回』の記憶のみであるが。
「感謝している。よくぞ最後まで戦い抜いてくれた」
『前回』もそうだったように、武治は最初にゆかりの手を取って礼の言葉を述べた。その手に込められた力は強かった。どちらも父の代からの因縁を背負った者としての、共感がそこにあったのかもしれない。
「あ、いえ……私よりも、アイギスに言ってあげてください」
顔を少し赤くしたゆかりに促されて、武治はその隣にいたアイギスに視線を向けた。元から人間に非常に近い存在として認識していたが、今は完全に人間となった人物と目を合わせた。
「君は本当に守ったのだな……世界も、彼も」
「はい」
武治が直近でアイギスに会ったのは12月12日。この日々が二度目であることを確認した時だ。その際、アイギスは湊を必ず守ると宣言していた。その日のことを思い出しつつ、武治は更に視線を巡らせた。そして湊と目が合った。
「父が残した忌まわしい神器は、君たちの活躍により消滅した。十年前の事故以来、君を縛り続けてきた運命は乗り越えられたのだ。自らの力で掴み取った未来を……どうかこれからは君自身の為に使ってほしい」
「ええ」
「今夜24時をもって、特別課外活動部は解散となる。併せて巌戸台分寮も閉鎖となる……。もう戦いに身を投じる必要はないのだ」
そうして最後の夜が始まった。
「有里、ちょっといいか?」
開始からしばらくして、寿司桶の中身が半分ほど皆の胃袋に収まった頃。美鶴が湊の元へやって来た。話したいことがあると、ラウンジの隅のテーブル席へ二人で移動した。
「こんな時に言うのもなんだが、実はな……シャドウは絶滅したわけではないのだ」
場にそぐわない厳しい表情の美鶴は、そう話を切り出した。対する湊は、この一年間の意味を揺るがしかねない事実に、顔色一つ変えることはなかった。
「ええ。シャドウは人間から生まれるものなんですから。人間がいる限り、いなくなりませんね」
「知っていたか」
シャドウは人間から生まれるもの――
美鶴たちは時の狭間でメティスから聞いていたが、湊は『今回』の7月11日にファルロスから聞いている。ニュクスは遠ざけられ、影時間も失われたがシャドウはいなくならない。それは世界と人間の真実であって、どうしようもないことだ。だから湊は今後のシャドウの問題については、2月以降もあまり深刻に考えていなかった。だが美鶴はそれに留まるわけにはいかないようである。
「それでな……この部に代わる、シャドウ対策の組織を新たに立ち上げることを計画している。グループだけでなく、警察の協力も仰ぐつもりだ。私はそこの責任者となる予定だ」
「お父さんは認めているのですか?」
シャドウが存在し続ける以上、それに対する備えはやはり不要とはならない。そして過去の経緯を思えば、桐条グループがそれに無関係でいることはできない。だがそれに娘が関わることを、父親が快く認めるとは思えなかった。もう戦わなくてもいいのだと、つい先ほども武治は皆に宣言したばかりである。
「もちろん反対された。戦いなどいい加減やめて、自分の人生を送れとな。だが私にとっては、目を背けないことが自分の人生なのだ。つい先日、ようやく認めてもらったところさ」
『前回』武治が亡くなった後、美鶴は酷く塞ぎ込んでいた。しかし修学旅行を契機に立ち直り、そしてその後に湊と個人的に接したことなどで、望まない婚約を解消して自立の道を歩もうともした。『今回』はその辺りの出来事は様変わりしたが、それでも父親の意向に逆らうだけの度量は記憶と共に戻ったようだ。
「この件は既に明彦には話してあって、協力を約束してくれた。君も参加してくれないだろうか」
「……」
湊はすぐには答えず、少し考えた。ただし考え事の内容は、新組織に参加するかどうかではない。
「もちろん君を常時拘束するものではない。具体化するのは当分先のことだし、そもそも今後に起こり得るシャドウの問題は、これまでよりずっと小規模になると予想されるしな」
「構いませんよ」
「そうか。助かるよ」
美鶴は目を閉じて微笑んだ。4月20日に特別課外活動部への参加を求めて、了承を受けた時を連想させる満足げな表情だ。しかし――
「では条件を聞きましょうか」
4月とはものの考え方が変わっている男がここにいた。
「条件?」
「いや、その前に……この一年間の報酬がまだ決まってませんでした。まずはそこからですね」
「報酬……?」
美鶴は怪訝な顔をした。言葉の意味を理解できないわけでは、もちろんない。ただ眼前の相手の口から出てくる言葉としては、意外すぎるもののように感じていた。
「どうしたんですか? まさかとは思いますが……僕たちをタダ働きさせるつもりだったんですか? 今後のことじゃなくて、この一年のことですよ」
「そ、そんなことはもちろんないぞ!」
全く考えていなかったわけではないのだろう。だが意識を置くポイントとしては、相当に低く設定されていたに違いない。こうして面と向かって言われなければ、忘れていたほどに。それを察した湊は、事実でもって畳み掛ける戦法に出た。
「さて、僕がこの一年でしたことと言えば、まずリーダーとして現場の指揮を取りました。一年間全体の戦略構築もしていました。タルタロス探索の日程も、僕が決めていましたね。ああ、装備品や消耗品の調達と管理までやっていましたね。それから言うまでもないことですが、倒したシャドウの数は間違いなく部で一番の戦果を挙げているはずですね」
美鶴の顔色が悪くなってきた。元々交渉事が得意な性格ではないし、今までの人生でこの種の要求を直接受けたことなどないのだ。だが拒否することはもちろんできない。常識が人並みにあるとは言い難い美鶴でも、無償で命を懸けさせるほど世間知らずではない。
「ああ、アイギスはどうなるのでしょうね。何しろ彼女は事態の最終局面において、中心的な役割を果たしたのですから。それ以前からサブリーダーも務めていましたし、彼女は僕と同等の評価をされて然るべきですね。金銭に換算すると、さてどれくらいの額になるのか……」
特別課外活動部の戦いとは誰にも知られず感謝されることもない、壮大極まるボランティア活動だった。湊はそれを辛いと思ったことはない。『前回』はほとんど何も考えずに流されていたし、『今回』は自分が生き延びる為の戦いだったから。しかし今となってはボランティアで済ませるつもりはなかった。将来を具体的に考えている今は、貰えるものは貰っておく気になっていた。現金ならば刈り取る者の討伐依頼でかなりの額をエリザベスから受け取っているが、金はあって困るものではない。
「興味深い話をしているようだな」
「お父様!」
どう応じたらよいのか分からない娘のもとへ、父親がやって来た。美鶴は助け舟が来たように顔色を戻したが――
「おっと、忘れるところでした。貴方の命を助けたことは、この一年全体の中でも特筆すべき成果でした」
湊は全く動じない。かえって更なる上乗せを狙う。対する武治も動じる素振りはなく、美鶴の隣の席にゆっくりと腰を下ろした。そして交渉が始まった。
「ふむ……幾月に関して君が開示した情報は、非常に有益だった。だがあの時、君は全てを明かしたわけではないのだろう。それは不誠実の誹りを免れないとは思わないかね?」
「評価とは結果のみで判断されるものではありませんか?」
「我がグループでは、そのような評価はしていない。動機や過程も考慮に入る」
「動機を問うならば、僕の事情も考慮して頂かねばなりません。時間が戻ったことを証明するのは容易ではありません。何しろ1月に貴方がたグループの手でここの地下を調査した際にも、時の狭間は発見されなかったくらいですからね。よってあの時点で全てを開示しなかったことは、やむを得ないと判断されるべきです」
一方その頃、ラウンジの中央では真田と荒垣が話していた。寿司を適当につまみながら。
「やっぱり退学するのか」
話題は荒垣の今後についてである。荒垣は月光館学園に正式に退学届を出しており、4月から料理の専門学校に通う予定でいるのだ。そこで料理を本格的に学んで、いつかは自分の店を出したいと思っているとのことだった。
「ああ。時間が惜しいからよ」
荒垣は1月にカストールを完全な支配下に置くことに成功し、既に制御剤は使用していない。だが二年以上に渡って劇薬を服用し続けた為、体は相当に蝕まれている。実際にどれだけ生きられるかは今後の治療次第だが、残された時間を高校生活に使うには惜しいと考えているのである。
「シンジ……」
真田は表情を曇らせた。親友を助けることはできたものの、結局のところ人並みには生きられないのだ。それが無念でないとは言えないが――
「んな顔してんじゃねえよ。一年や二年で死ぬわけじゃねえんだ。こう見えても俺はしぶといからよ……案外、お前より長生きするかもしんねえぜ?」
「よし! お前はヘルシーメニューを作る店を出すんだ! それで長生きしろ!」
「そのお店、僕も行ってみたいですね」
二人のもとへ天田もやって来た。深い因縁のある相手へと、もはや何のわだかまりもない笑顔を向けて。
「ああ、いつでも来いよ……と、その前に一つ頼みがあるんだが」
荒垣も笑顔で答えた。だが言いながら、顔から笑みを消した。しかし普段の無愛想な仮面を付け直したわけではない。ただ深い因縁のある相手へと、真摯な視線を向けた。火傷の跡が残っている顔を真っ直ぐ向けながら。
「何ですか?」
「墓参りに……行かせてくれ」
「ええ……いつでも来てください」
最後の夜のラウンジは、全体としてはお祝いムードに包まれていた。しかしその隅の辺りでは、極めて生臭い話が行われていた。
「そもそもの話、貴方がたは事態の責任をどれだけ引き受けるつもりがあるのか。そこに関わって来ると思うのですが」
「君自身はどうなのだね。デスを育てた者として、責任を感じることはないのかね?」
「僕が負うべき責任なんて、毫もありませんよ。そう仰ったのは貴方ではありませんか?」
報酬の交渉は湊が主導していた。武治も反論するものの、その度に切り返されていた。ちなみにアイギスに関しては、湊は自分が代理人になるとしており、彼女の功績までも交渉の材料に使った。そうしたかなり一方的な攻防の果てに、桐条グループの役員クラスの年俸の数倍に及ぶ金額を湊とアイギスの二人に支払うことを、武治は約束させられた。ただし即金ではなく、十年くらいで分割払いとすることにはなったが。
「では新組織の話に移りましょうか」
一年間の報酬の話が済んだところで、湊はそのまま交渉の二回戦に乗り出そうとした。ちなみに一回戦の間は何も発言しなかった美鶴は、こめかみに手を当てて俯いている。かなり酷い頭痛に襲われているようだ。
「うむ……だがその前に確認したい。新組織への君の参加は、君自身の責任において行うのかね?」
「もちろんです」
武治の確認に対して、湊は非常に素早く答えた。特定の条件に応じて反射する機械のように、物的なまでの速度でもって即答した。それを受けた武治は隻眼を閉じた。それまでの交渉は全て前振りで、聞きたかったのはこれだけであるとでも言いたげに、湊の言葉を噛み締めた。そこへ――
「湊! ちょっと来いよ!」
タイミングよく順平の声が届けられてきた。それを受けて、湊は席を立った。
「参加の条件については、また日を改めましょう。失礼します」
勝利者の余裕を感じさせる微笑を浮かべながら、湊はラウンジの中央へと向かった。残された形になった武治は、仲間たちの輪に加わる湊の背中を見送りつつ、ネクタイを少し緩めて椅子に座り直した。
「ふう……年の割には、なかなか手強い相手だったな」
「あ、あの……お父様。彼の要求を全て飲むおつもりですか?」
疲れた様子を見せる父親に、美鶴は不安げな声をかけた。すると武治は表情を変えた。疲れた顔そのものが仮面であったように、瞬時に元の厳格な印象のあるそれに戻った。
「無論だ」
武治には何の迷いもない。実のところ、武治は本気で値切り交渉するつもりなどなかったのだ。この十年、シャドウ対策に投じてきた巨額の費用に比べれば、特別課外活動部への報酬など微々たる額である。ただ湊が今後もグループに関わるのならばと思って、その人柄やコミュニケーション能力を測るつもりで、報酬の交渉に臨んだに過ぎない。
「美鶴、今後も有里と関わっていくつもりならば覚えておくといい。彼には真実のみで付き合うことだ」
そして測ってみた結果は『手強くはあるものの、誠意をもって臨めばよい』だった。もっと老獪でしたたかな相手と渡り合ってきた武治から見れば、むしろ付き合いやすいタイプだった。
「真実……はい、仰る通りですね」
「美鶴先輩、何してるんですかー! 記念撮影しますよー!」
そこへゆかりの明るい声が届けられ、武治と美鶴も席から立ち上がった。父と娘も改めて輪の中に加わり、部の解散と寮の閉鎖を兼ねたパーティーは長く続いた。そうして皆が十分に食べ、飲み、騒ぐのにいい加減疲れ始めた頃――
「もうすぐ……0時だな」
ソファーに座っていた順平が、携帯電話の待受画面を見ながら呟いた。それは決して大きな声ではなかったのだが、全員の耳に届いたようである。互いに顔を見合わせたり、壁にかけられた時計を見つめたりする。つい先ほどまでの賑やかさが、ラウンジから急激に失われた。
「テレビ、点けましょう」
天田がリモコンを取り、備え付けの大型テレビに電源を入れた。番組はニュースで、ちょうどアナウンサーが気象情報を伝えていたところだった。それによれば、明日の天気は晴れ、ところにより一時雷雨になるとのことだった。
『間もなく0時になります』
0時。1月までは影時間が訪れる瞬間だった。そして『前回』のこの日は、時が空回りした瞬間だった。このまま時が過ぎるのを、誰もが納得できなかったその思いが、期せずして叶えられたその瞬間。それをかつて経験した者も、経験していない者も、全員がテレビに注目した。俄かな静寂に包まれたラウンジに、時を刻む電子音が鮮やかに響く。その音が三度繰り返されて――
『日付が変わりまして、4月1日のニュースをお伝えします』
「いよっしゃあ! 何も起きねえ!」
「ワン!」
順平がソファーから勢いをつけて立ち上がり、両手の拳を握った大きなガッツポーズを取った。その足元でコロマルが元気よく吠えた。
「大丈夫だろうって思ってましたけど……良かったですね」
「一年がかりで、ようやくか……。えらく遠い4月だったな」
天田が安堵のため息を吐き、真田がそれに答えた。他の皆も胸をなでおろしたり、大きく伸びをしたりした。本当に全てが終わったことを、完全に確かめられたのだ。
「自ら選んだ道だが、長かったな……」
美鶴は床を見つめた。かつて突然の襲撃が湧き上がり、初めとは違う結末を見出す契機となった、異界の空間へ繋がっていたその場所を。そして今となっては、何もないただの地下室を塞いでいるだけの、普通の床を。
「そうですね。でもきっと、これで良かったんですよね……」
ゆかりも一緒に床を見つめている。二重の一年間を乗り越えた、万感の思いを込めて。
「……」
そしてそんな二人を、湊は少し離れた位置から黙って見つめていた。自分が生き延びる為のきっかけを作った、そしてそれに対して何も報いることのなかった二人を黙って見つめた。
「リーダー、締めのご挨拶をお願いします」
そんな湊のもとへ、風花がグラスを手に近づいてきた。何の裏表もない、とてもいい笑顔で。湊も笑顔でグラスを受け取り、眼前にかざした。
「二年間、お疲れ様でした……ありがとう」
「卒業したら、進学されるのですか?」
4月1日の昼下がり。暖かな日差しが桜の蕾をほころばせる中で、湊とアイギスは二人でポロニアンモールを歩いていた。手には薬局で買った日用品などを詰めた袋を下げている。この二人は2月から、こうして町で買い物をする機会が増えていた。機械と違って、人間の生活には必需品が色々あるから。
しかしそうは言っても、アイギスの持ち物は普通の人間と比べればまだまだ少ない。そして湊も少ない。だからこの日の朝から始めた男子寮と女子寮への引っ越し作業は、二人とも午前のうちに終わってしまったのである。それで午後はこうして二人でデートをしているわけだ。荷物が人より多い方である、ルームメイトを置き去りにして。
そんな二人の話題は、進路についてだった。
「ああ、もう少し勉強した方がいいかと思ってな」
1月の進路相談では卒業後は就職すると言ったが、進路は変更することにしていた。そもそも就職を考えていたのは、経済的な事情からだ。だが桐条グループから一年間の報酬をむしり取ることに成功した為、敢えて就職する必要はなくなった。大学の学費と就学中の生活費を出しても有り余るくらいの、大金を手に入れている。たとえ子供の養育費が追加で発生したとしても、何の問題もない。
「私も進学しようと思っています。勉強したいことは、たくさんありますから」
「ああ、その方がいい」
二人とも今年は普通の高校三年生として、受験をすることになる。しかし同じ大学に行くのは難しいだろうと、二人とも思っている。アイギスの知能程度は悪いものではないが、成績はかなりの偏りがある。だが何も無理して同じ大学に行く必要もない。高校を卒業後には、きっと同じ屋根の下で暮らすことになるから。
そうして二人の買い物はかなり長く続いた。薬局に続いてアクセサリー屋やCDショップなども見て回って、更に喫茶店でコーヒーを飲みながら話し込んだりして、気付いたら夕方になっていた。恋仲の男女にはよくあることとして、時間の経過を忘れていた。
「何か空模様が怪しいな」
喫茶店を出た湊は、頭上を不安げに見上げた。寮を出た時は青かった空は、いつの間にか濃い灰色に変わっていたのだ。この一年、ほとんど見かけなかった雨雲が天を覆っている。珍しいことだけに、低い空に奇妙な違和感を覚えてしまった。
「雨が降るのでしょうか? 困りましたね。傘は持って来ていないのに……」
アイギスも心配そうに答える。二人の間を通り抜ける風は湿り気があり、雨の気配が匂いにも感じられるようになってきた。その気配に追い立てられるように、二人は急ぎ足でモールを出た。
やがてムーンライトブリッジに辿り着いた。時刻はまだ日没前だが、暗雲で蓋をされた地上はかなり暗くなっていた。車道を走る車の列には、ヘッドライトの灯りが既にいくつか見受けられた。そして遠くの方からは、微かな雷鳴まで聞こえてきた。
「早く帰りましょう……え?」
アイギスは足を速めようとした。しかしその足は突然止まった。ずっと隣に居続けた人の気配が、不意になくなったからだ。それは唐突な不安を呼び起こした。最初の1月31日のように、或いは虚無の夢のように、大切な人が遠くに行ってしまったのではと。そんな既視感に似た不安に襲われたアイギスは、急いで振り返った。すると――
「湊さん……?」
大切な人はいなくなってはいなかった。せいぜい三歩ほどの、僅かだけ離れた位置にいた。しかし様子がおかしい。
「……」
海にかかる橋の歩道の上で、湊は立ち尽くしていた。アイギスの呼びかけにも答えず、ただ呆然と遠くを見つめていた。それが一分ほども続いた頃、小さな水滴が空から舞い降りてきた。そして――
――
湿った空気を引き裂いて伝わる凄絶な音が、二人の耳を襲った。その残響が消えきらないうちに、湊は独り言のように呟いた。
「思い出した……」
雷鳴に似た轟音、反転する天地、炎上する車。やっとの思いで這い出た先で見たものは異様な、だが今となっては見知った光景だった。
無窮に広がる緑、圧倒的に巨大な黒、そして小さな白――
白。それは何の色だったか。思い出した。意識の表面まで上ってきた。言葉の及ばない、意識の届かない遥かな深層から、完全な理解と共に全ての真実が一挙に蘇った。あたかも体の底の方から生まれ出た熱さが、瞬きする間に背骨を走り抜け、頭頂部に衝突して破裂するように。
それは自分を守ってくれた『人』の色だった。十年前のある夜のこと。世界は緑の影時間に覆われた。そして爆発事故を起こした研究所から飛来してきた黒いデスが、開通して間もないムーンライトブリッジに降り立った。そしてそれを追って来た、白い兵器。あの日、アイギスはここでデスと戦ったのだ。
――
黄色い光が一瞬だけ世界を覆い、あらゆる人間が影に隠れた。そしてまたすぐに元に戻る。遠くに聞こえていた雷鳴が、すぐそこで再び轟いた。風は踊って海は荒れ、雨は勢いを増していく。
「悲しい……」
記憶の底の底から、全てが思い出された。事故そのものの情景だけではない。それ以前の、何も知らなかった子供の頃。両親の顔。両親の声。そして人柄。父は厳しく、母は優しかった。家族三人で暮らした平和な、幸せな日々。
「湊さん……」
「両親が死んだことが……今、悲しい」
頬に当たる春の雨は冷たい。しかしそれを感じさせない熱いものが、雨と一緒になって頬を伝っている。信じられない感覚だった。この十年、どんなに辛いことがあっても一度も泣かずにいたのだ。タルタロスの頂上でも結局泣かなかったのに、今になって零れてくるとは。
「わ、私……」
アイギスが近づいてきた。青い瞳は大きく揺れて、雨を浴びた頬は濡れている。
「アイギス、ありがとう」
彼女は謝ろうとしたのかもしれない。だが謝られるべきことなど、何もない。震えた声を遮って、愛しい人を抱き締めた。
「君はあの時……僕を守ってくれたんだな」
『前回』を通じて、アイギスには不条理なまでの親愛の情を抱いていた。ファルロスと綾時に対して抱いていた親子の情とも違う、だが似ている奇妙な気持ち。だが全てを思い出した今は、不条理でも奇妙でもなかったのだと分かる。極めて自然な、人間ならば当然の気持ちだった。それは子供の自分を優しく守ってくれる、とても親しい人への想い。
「忘れていて、済まなかった……」
人間の心というものは、非常に広くて深い。忘却という行為自体が、完全な意味では不可能なほどに。心の底の底では、人間は過去に経験した全てを覚えている。忘れていたのは、逃げ出したかったから。辛い記憶から目を背けて、心の奥深くに自ら封じていたのだ。だがもう逃げることはない。
「湊さん……」
救世主になるはずの男は生き残り、普通の人間になった。母のように守ってくれた機械も、人間になった。父のように怖い死神さえも、いつかは人間として生まれてくる。全ての使命を果たして、なお生き延びて得たもの。命のこたえを超えた先にあったものは、家族の思い出。そして新たに作る家族だった。そんなごく当たり前の幸せだった。
降りしきる雨の中で抱き締めあう二人は、新たな日々を迎えようとしていた。否、迎えると言っては正しくない。逃げても目を逸らしても、時は誰も待たない。時はもはや何者によっても、止められることも進められることも戻されることもない。時は人の想いに関わらず、未来を運んでくる。
ペルソナ3 滅びの意志 ――完――