金曜日の放課後の、遅い時間のことである。運動部の部活も終わって無人となった体育館の前に、女子生徒が何人か集まっていた。背の高い色黒の女子を中心とした柄の悪そうな数人と、怯えた表情を見せている背の低い女子が一人だった。
数人の側は互いに笑い合いながら、怯えた女子を体育館へと入らせた。そして外から鍵を閉めた。閉められた扉の前で、彼女らは再び笑い合った。中には携帯電話を取り出して、保存された画像を周囲に見せる者もいた。そうして一通り面白がってから、全員去って行った。それらの一部始終を物陰から見張っている男子生徒がいることには、気付かずに去って行った。
見張っていた男子生徒、もちろん湊は、それから若干の間を置いてから物陰から出てきた。そして扉の前にしゃがみこんだ。手には小さな針金を持っている。それを鍵穴に差し込み、押したり引いたりの作業をしばらく繰り返した。
ピッキングをするのはこれが初めてだが、されたことは二度くらいある。された時のことを思い出すと、ふと苦笑が漏れてしまう。何の悪気もなく寮の自室に不法侵入してきた『彼女』ならば、この体育館の扉も特に苦労することなく、あっという間に開けてしまうのだろうな、と。
そんなことを思いながら針金を細かく動かしているうちに、鍵穴の奥からピン、と音がした。構造は簡単だった。長い時間をかけずに済んだことに湊は少し安堵しつつ、針金をポケットにしまって立ち上がり、扉を開いた。
体育館の空気には細かな埃が宙を漂い、窓から差し込む夕暮れの日差しがそれを照らしている。染み込んだ汗の臭いと相まって、高校生らしい生活感が空間そのものの中にある。毎晩0時になる度に現れる異界の建造物とは、どこを探しても似た点が見つからない。
扉から少し離れた位置に、一人の女子生徒がいた。小柄で線が細く、儚げな風情がある。女子生徒は体育館に入ってきた湊を見ると、反射的な動作で上体を僅かに仰け反らせた。両手は何かから己の身を守ろうとするように、胸の前で組まれている。
傷つけられることが日常となった人間にはよくあることだが、彼女は人を見れば怯える。その顔をよくよく観察してみれば、目元が少し赤い。今の今まで泣いていたのであろう。思わず同情の念が湧き上がってしまう。だがそれを表に出してはならない――
「おや、何してるんだい?」
何があったのかを知って同情まで抱きながら、湊は笑顔でこんなセリフを言った。自由に動かせる顔と口は、こういう時に便利である。
「あ、す、済みません……。えっと……」
「二年F組の有里だ。君は?」
本当は聞くまでもないのだが、敢えて聞いた。自分だけでなく、相手にとっても知り合いになるように。
「や、山岸です。E組の……」
「ここ、もうすぐ閉めるよ。帰ろう」
湊はそう言って、『前回』共に戦った仲間である女子生徒、山岸風花を促した。ただし部活の終わった遅い時間にどうして体育館にいたのか、といったことは口にしなかった。聞かれても答えにくい話であろうし、名前と違って敢えて聞き出す必要のないことであるから。
二人は体育館から廊下に出て、扉を閉めた。鍵はかけず、両開きの扉を単に閉じただけである。
「あの……鍵は?」
「僕は持ってないよ。そのうち先生が来て閉めるさ」
体育館に限らず、校内の施設の戸締りは教職員が行うのが原則である。もっとも実際にそれが守られているかは、甚だ疑問であるが。現に今日などは生徒が鍵を持ち出しっぱなしにするわけだから、管理体制がどうなっているかが良く分かる。
「で、でも……」
風花は困惑顔で湊を見上げる。鍵を持ってないならどうやって開けたのだ、と聞きたそうにしていることが見て取れた。
「何?」
そんな相手の疑問を察しながら、湊はわざと疑問形で返した。優しい笑顔と共に。
「な、何でもないです……」
風花は慌てて疑問を飲み込んだ。それを聞いては、そもそもどうして鍵のかかった体育館の中にいたのかを説明しなければならなくなる。そうした極めて個人的な事情は余程のことがない限り、他人には話したくないものである。まして初対面の男に話したい事柄では断じてない。
従って細かな経緯に疑問を持ったところで、追求することはできない。月日が過ぎればともかく、現時点の風花では無理だ。よって実は元々鍵がかけられていなかったか、もしくは扉を塞ぐ形で物が置かれていただけ、とでも考えて自己解決するであろう。
共に戦った仲間であるばかりか、特別な関係にまでなった風花の性格を良く知る湊にとっては、こうした反応はあらかじめ織り込み済みである。
二人は連れ立って学校を出た。夕日を受けて影が長く伸びた校門前に、他の生徒はほとんどいなかった。生徒の誰もが帰宅する時刻である。
「……」
やはり生徒の姿をあまり見かけないモノレールの車両の中で、風花と湊は並んで吊革に掴まって、外の景色を何とはなしに眺めていた。赤い夕陽の差す海上を、静かな駆動音で滑りゆく列車から望む風景は美しい。人によってはロマンチックな気分にもなるだろうが、二人の間の空気は今一つ気まずい。会話がまるで弾まない。
だが当然である。現時点の風花から見れば、湊はほとんど未知の人物だ。しかも人に見られたくないところを見られている。そんな相手と会話が弾むはずがない。だが湊の方は、そんな気まずさは始めから問題にしていない。今日の時点では、特に打ち解けておく必要はないからである。むしろ下手に打ち解けてしまってコミュニティが今日発生するようなことがあっては、今後の計画に支障が出る。だから『愚者』の話術を用いることもしない。
ただ一つ、風花の口から言わせなければならないことがある。頃合いを見計らって、湊は口を開いた。
「ところで山岸さん。体が弱くて休みがちだって聞いたことあるけど、元気そうだね」
「あ、はい……。学校はよく休みますけど、別に体が弱いわけじゃ……」
風花は言葉を濁した。嘘を吐けず、かつ他人を悪く言うこともできない風花らしい受け答えだ。
今月初めの真田の検査入院の時、特別課外活動部は初めて風花の存在を認識し、中間試験を終えた23日に皆に周知された。これは『今回』も『前回』と同じだった。しかし病弱で学校をよく休むくらいなので、加入は無理との結論に一旦は達した。だがその情報が誤りであることを、『前回』の経緯から湊は知っている。知った上で、敢えて本人の証言を取った。
「そうか。僕はここで降りるから、また今度ね」
タイミングよく必要なことを聞き出したところで、モノレールは巌戸台駅に到着した。
「あ、はい……。ありが……とう、ございました……」
湊が降りようとすると、風花は礼の言葉を口にした。だが礼を言わねばならないような出来事は、表向きには二人の間にはない。もちろん本当はあるが、それは当人同士も認めていないことだ。それにも関わらず礼を言ってしまい、そして言いながら風花はそれと気付いた。しかし言葉を途中で止めるのも変だと思ったか、結局最後まで述べた。
そんな歯切れの悪い礼の言葉に対して、湊は反応を示さなかった。何も聞こえなかったかのようにホームに降り、風花のいる車両の側を振り返りはしなかった。ただ車両からは見えないその顔には、ごく僅かな苦笑いが浮かべられていた。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
やがて車掌のアナウンスが発せられ、ドアが閉められた。モノレールが夕暮れの中を再び滑り出してから、ようやく湊は振り返った。そしてその場に立ち止まって、モノレールが視界から消えるまで見送った。
(これでよし。簡単なものだ)
湊の顔に浮かんでいた小さな笑みから、苦味が抜けた。物事が計画通りに進むのは、気分が良いものだ。風花の言葉には一部余計なところもあったが、それでも事態は及第だ。
『前回』の風花は今日のように同級生にイジメられ、体育館に閉じ込められた。そして十日後の6月8日に湊たちが救出するまでタルタロスに迷い込むことになったのだが、『今回』は未然に防いだわけである。
湊としては『前回』の通りに十日間風花を放置しておくこともできたが、敢えて最初の影時間が来る前に助け出した。それは別に風花の身を案じたわけではない。今後の為には風花の能力は絶対に欠かせないが、その能力のおかげで十日くらいタルタロスにいても大した危険はない。放置した場合に危険があるのは、他のメンバーだ。
(これで十日後に万全の状態で戦える)
『前回』は折悪く、風花の救出と満月のシャドウとの戦いが重なってしまった。その結果、特別課外活動部はかなりの危機に見舞われることになったのだ。
いつになく熱くなった真田の発案により、湊、真田、順平の三人で体育館で影時間を迎え、風花が迷い込んだのと近い場所を狙って侵入するという荒業を行ったのだ。侵入そのものは成功したが、タルタロス内でバラバラになって合流に時間を取られ、挙句にエントランスに残ったゆかりと美鶴は、当初二人だけで大型シャドウ二体に襲われる羽目になったのだ。
『前回』のゆかりと美鶴はボロボロになりながらも、全員戻るまで何とか持ちこたえた。だが『今回』のシャドウの強さを思えば、間に合わずに二人が死んでしまう危険がある。それを回避する為、今日の内に風花を助け出したのだ。これは5月の満月において、モノレールで突っ走った順平に敢えて同調し、各個撃破される危険を回避したのと同じ理屈である。
そうして風花と別れた湊は一人で寮に戻った。そしてラウンジで美鶴を捕まえて、今日の出来事を報告した。ただし他のメンバーには聞かれないよう作戦室に美鶴を呼び、二人だけの状況を作った上で報告した。
ただしイジメの件は話がややこしくなりそうなので伏せ、一緒に下校したことと、健康に問題がないことだけを話した。
「では、山岸は病弱ではないのか?」
「ええ。病院のカルテでも調べれば、裏も取れるでしょう」
そうなのである。風花の健康状態は、通っていた辰巳記念病院を調べればすぐに分かるはずである。それもせず、恐らくイジメを隠す為に流布されたであろう病弱という話を鵜呑みにしたのは、お粗末である。
「ブリリアント! 実にいい知らせだ」
美鶴は目を閉じて、満足そうに頷いた。新人の勧誘に積極的な、美鶴らしい反応である。それを見て、湊は内心で頷いた。
(計画通りだ)
今日の帰り道で、湊は風花に影時間やシャドウの話は一切していない。それは話が唐突すぎるとか、そういうことではない。最初は遠回しに話を振って寮に連れ込み、影時間になるまで引き止めるとか、やろうと思えばできないことではなかった。
それをせず、健康のことだけを確認するに留めたのは、風花の勧誘を美鶴にやらせようと思ったからだ。
『前回』は風花の加入に真田と順平は喜んでいたが、ゆかりは消極的だった。むしろ強引に風花を巻き込んだ美鶴に反感を抱いたくらいだ。ここで自分が風花を特別課外活動部に勧誘しては、ゆかりの印象を悪くする。『今回』ゆかりと特別な関係になるつもりはないが、それでも悪く思われるのは得策ではない。
だから美鶴を使ったのだ。そして案の定、美鶴は簡単に乗ってきた。この様子ならば、数日中にでも風花が特別課外活動部に加入する段取りがつくと予想できた。
(悪いな美鶴。ゆかりとはそのうち仲直りできるから、今は恨まれてくれ)
やはり未来を知っているとは、大変なアドバンテージだ。危険を回避して最善の状況を作り出す為、あらかじめ色々な手が打てる。計画が順調に推移していることに、湊は密かな満足を得た。ただし――
(敢えて問題があるとすると……)
湊にとってここまでは計画通りの展開だが、今後に関しては一つだけ問題がある。今日の救出劇で、風花が自分に余計な恩を感じる可能性だ。『前回』と違って『今回』は自分しか動いていない為、これを原因として『前回』より感情の発展が早くなる可能性がある。表向きには、湊は風花を助けたわけではない。だが風花自身は助けられたのだと当然考えるはずだ。別れ際に礼を言ってきたことがそれを証明している。
風花と特別な関係にならないようにする為には、今日の行動は決して良いことではない。だが仕方がない。次の満月でゆかりと美鶴を失うことに比べれば、それくらいのリスクは軽い。それに既に対策は考えてある。
(そこは荒垣に何とかしてもらえばいいな)
思えば荒垣と初めて会ったのは、入院していた真田に風花が在籍するE組のクラス名簿を届けた5月1日だ。奇妙な符号もあるものである。風花は荒垣に引き取ってもらう、今後の予定を考えれば。
そして翌日、学校で妙な噂が流れ始めた。噂は巌戸台分寮の寮生たちの耳にも入って来ていたが、誰も特別構うことはなかった。皆が普段通りに授業を受け、放課後の時間を過ごし、寮に戻ってきた。そんな寮生たちの中で、美鶴は帰りが遅かった。土曜日であるから授業は午前中で終わるのだが、日が暮れた時間になってようやく寮に戻ってきた。
「ちょうど良い。皆いるな」
玄関の扉を開けるや否や、美鶴はその場でラウンジを見回して寮生全員がいることを確認した。そして後ろを振り返った。
「新人を紹介する。入って来てくれ」
美鶴は女子にしては背が高い。その影に隠れていた小柄な人物が、おずおずと遠慮がちに寮に足を踏み入れた。
「あ、あの……お邪魔します……」
「山岸だ。我々に協力してくれることになった」
「え……山岸さんって……。協力って、いいんですか!?」
ラウンジにいた寮生たちの中で、最初にゆかりが反応した。風花に適性があるとの話は、一週間前に全員に周知されている。だが病弱との話があったのと、元々新人の加入には消極的なゆかりだけに、思うところが色々ありそうな気配が声色にも表れていた。だがそんなゆかりの心情を知ってか知らずか、美鶴は胸を張っている。誰が何と言おうと、風花を特別課外活動部に加入させるつもりでいるのは明白だった。
そんな微妙な空気が漂い出したラウンジの中にあって、湊はゆかりとは全く異なる感慨を抱いた。
(仕事が速い……)
風花の健康状態に関する情報を美鶴に渡したのは昨日である。それから僅か一日の早業だった。美鶴の行動力を褒めるべきか、狙った獲物は逃がさないと恐れ入るべきか。