風花が初めて巌戸台分寮を訪れた翌日、5月31日の日曜日。夜に寮を抜け出した湊は、ポロニアンモールのクラブ・エスカペイドにいた。天井の中央から下げられたミラーボールの光が乱反射するフロアの中で、ステージ上で演奏されるテクノ音楽が際限なく流れている。
本来なら高校生が入れるような場所ではないが、ここのチェックは平日に制服姿で来ても特に何も言われないくらい甘い。まして私服を着ていれば、たとえ中学生でも平気な顔で居座っていられるであろう。
言い方を変えれば、エスカペイドは未成年がいられるくらいトラブルの少ない、平穏なクラブだということだ。突飛や予測不能という意味を持つ店名とは裏腹に。だが今日ばかりは様子がいつもと違う。独創的なセンスの青い服を着た、様々な意味で人間離れした一人の女性が君臨していた。
「ああ! これがクラブ! 内なるパトスのままに踊る、光と音の地下庭園! 夜にお誘いいただいた甲斐がございました!」
湊はこの日、エリザベスの依頼でポロニアンモールを案内しているのだった。『前回』も案内はしたが、昼間で営業時間外だった為にクラブに入れず、酷く悔しい思いをしていた。『今回』はそのリベンジということで、夜にと頼まれたのだった。
「あ、あの子、何者だよ……」
「どっかの芸能人か?」
遠巻きに見つめる客たちは、いずれも口をぽかんと開けている。ただしエリザベスに呆れているのではなく、見惚れているのが大半である。特に男はほとんど一人の例外もなく当てられていた。
エリザベスはクラブに入った途端、文字通り狂喜乱舞してフロアの中央に陣取り、音楽に合わせて踊りだした。最初はテンションの高すぎる一見さんに周囲は不審がったが、あっという間に皆が乗せられてしまった。
と言うのも、どこで練習したのかエリザベスはダンスが上手かった。いや、恐らく玄人の目から見れば、上手いとは必ずしも言えない。技術は優れているが、何か足りない。言うなれば、『精巧』な踊りだった。だがクラブに集う者たちは、何もプロのダンサーではない。技術だけでも人目を惹きつけるには十分だ。そして何より、彼女の美貌がそうした足りないものを補って余りあっていた。
「美しいお嬢さん。僕と踊ってください……」
エリザベスは男の理想をそのまま形にしたような、まさにアニマの化身と言うべき姿をしている。何もせずただそこにいるだけでも、魅了の魔法をまき散らしているようなものだ。本人が意図してやっているのかは不明だが。
だから恍惚とした男が、代わる代わるやってくる。そしてエリザベスはいずれも断らない。そうしてひたすら踊り続け、いつしかエリザベスを中心とした巨大な輪がクラブに出来上がった。まるで女王蜂とそれに従う働き蜂の群れだ。
(クイーンエリザベス……ってか)
ポートアイランド駅の外れにあるバーで作られた、彼女と同じ名前のカクテルがある。あれは爽やかな味わいのノンアルコールカクテルだが、もしあのバーテンが今の彼女を見たら、きっと誰もが酩酊せずにはいられない、強烈極まる酒をイメージすることであろう。
「下は何だか、えらい盛り上がってるねえ……」
「凄い人がいるみたいで」
湊は二階でクラブの常連である破戒僧、無達と話していた。一階の雰囲気に飲み込まれる前に、さっさと避難してきたというわけである。
手摺越しに一階を覗いてみれば、もはやバーテンやウェイターさえも仕事を放り出して輪の中に加わり始めている。ステージ上のバンドはどこか焦点の合わない泳いだ目をして、ギターやキーボードをメチャクチャに弾きまくっている。もはや曲の態をなしていない。
間違いなくクラブ開業以来の未曾有の混沌が、フロア一帯に渦巻いている。たとえ今ここでシャドウのような異形の怪物が現われたとしても、何の違和感もなさそうだ。あのサバトに合わせられる仮面は、さすがの湊にもちょっと持ち合わせがない。
「わしゃここの連中に、純粋に踊りや音楽に興じている奴なんかいるんかいと思っとったがよ。どうやらあの姉ちゃんは本物みてえだな。惜しいねえ。わしがあと三十年若けりゃあ……」
無達はそう言って邪な笑みを浮かべた。片手に葉巻を持ち、もう片方の手でブランデーを煽る生臭坊主には、とても似合う種類の笑顔である。だが――
「若ければ、何でございますの?」
「おわ!」
背後から突然かけられた『本物』の声に、無達はソファーから転げ落ちそうになった。思わず取り落とした葉巻とブランデーグラスは、床に落ちる前に湊が受け止めた。
「ど、どっから湧いて出やがった! 坊主を脅かすたあ、罰当たりな……」
いつの間にか背後に立っていたエリザベスに、無達は泡を食う。悟りには寸毫も至っていないとはいえ度胸は並外れている破戒僧の虚を突くとは、まさに神出鬼没である。無達にすれば、何があったのか理解が追いつかないだろう。
だが湊は見ていた。エリザベスは一階から二階まで、文字通り『跳んで』来たところを。察するに、自分の噂をされているところを聞きつけたのであろう。エキセントリックな知り合いは大勢いるが、このエレベーターガールは色々な意味で規格外だ。
「湊様、踊られないのですか?」
そんなここの店名通りに予測不能な彼女は、改めて誘いの言葉を向けてきた。
「……」
湊はこのクラブには『前回』から何度か足を運んできたが、踊ったことは一度もない。ここですることと言えば、今のように無達と話すくらいである。やろうと思えば踊れないこともないが、ここの客は無達以外にコミュニティの担い手がいない為、敢えて店の雰囲気に自らを合わせる必要を感じなかったのである。
だが嫣然とした微笑みを浮かべるエリザベスを見れば、どうやら断る選択肢は与えられていない感じがする。
「無達さん、ちょっと下りてみませんか?」
湊は葉巻とグラスをテーブルに置き、立ち上がった。
「お、お前……」
困惑する無達に向けて、湊は唇の両端を持ち上げた強烈な笑みを作った。煩悩に塗れた衆生を笑い飛ばす、仏の裏の顔。いわゆる暴悪大笑面を作って、現役の僧侶に見せてやった。
クラブに立ち現われた混沌の輪の勢いは、未だ衰えを知らない。その中心付近で、己の年齢を忘れたらしい無達は袈裟の裾を持ち上げてステップを踏んでいる。しかも意外なことに、なかなか上手かった。昔はディスコと呼ばれていた、こういう場所で鍛えた経験があるのかもしれない。それを見届けた湊はこっそりと輪から離れ、バーテンのいなくなったカウンターで一息ついた。
(疲れるな……)
エリザベスの相手をするのは、色々な意味で疲れる。何しろ絆を教える『我』が間に立つコミュニティの担い手ではないから、仮面で相手に合わせる『愚者』の常套手段が通用しない。
しかもそれは言い方を変えると、仮面で接すれば十分のコミュニティの担い手と違って、エリザベスには事と次第によっては心からの感情を抱いてしまいそうになる、ということにもなる。それを自覚している湊は、できればエリザベスと親密になりすぎるのは避けたいのである。だから無達を生贄として残した上で、混沌の輪を一人で抜け出てきたのだ。
そんな風に思っていながらエリザベスをクラブに連れてきたのは、依頼の報酬が目当てである。『前回』より遥かに厳しい戦いを強いられる『今回』は、他では手に入らない報酬の品々は一年間を生き抜く為に欠かせないものがあるのだ。
ついでに言うと、エリザベスの依頼は『前回』同様に種々様々である。だがそのいくつかは、内容が『前回』から変わっていた。今日の案内もその一つだし、何か物を持って行く依頼に関しては、品物が変わっていた。例えば副作用のある飲み物を持って来いとの依頼は、寮の自販機で買える栄養ドリンクに変わっていた。他にも仲間たちから物をもらってくる依頼や、タルタロスで見つかる文書を集める依頼は、シャドウを倒す依頼に変わっていた。その変化は、シャドウが強い『今回』にあっては、『前回』に比べて難度が格段に上がったことを意味している。『今回』の難しさは、こんなところにも現れている。
(全く……何でこんなことになったんだろう?)
そうして時間が戻った理不尽さを改めて感じていた湊に、後ろからかけてくる声があった。
「ねえ、あんた」
振り返ると、見覚えのある色黒の少女がそこにいた。私服姿で、手にはグラスを持っている。
「ああ、やっぱり。あんた有里でしょ。F組の」
「ああ。E組の森山さん……だっけ?」
疑問形で尋ねるまでもなく知っているが、敢えてこう言った。『今回』はお互い顔を合わせるのも初めてだ。風花をイジメていた生徒たちのリーダー格の少女、森山夏紀だ。まさか鉢合わせるとは思わなかったが、場所を思えばここで会うのは不思議ではない。
「そ。よく知ってるね」
森山はそう言って持っていたグラスをカウンターに置き、バーテンはどこに行ったのだとぼやいた。グラスは既に空になっているが、微かに感じる匂いからアルコール入りだと湊は察した。もちろんそれを咎める気など、湊にはない。
ここの客には服装に関わらず一見して未成年と分かるような、いかにも背伸びして入ってきましたと言わんばかりの者もいる。だが森山はポートアイランド駅近くの溜り場に出入りしていただけあって、クラブの雰囲気にも馴染んでいる。だから酒を飲んでいようと、何の違和感もない。
「ね、何なのアレ? 気晴らしに来たのに、訳分かんない……」
森山は混沌の輪を指差した。馴染んでいるとは言っても、それは普段のクラブの話であって、今の魔界の如き惨状からはむしろ浮いている。そして今日の森山の顔をよく見てみると、疲れが滲んでいる。察するに、嫌なことがあって気晴らしに来たのに、来てみたらこの有様だったので余計に疲れた、と言ったところなのであろう。
「さあ……」
湊は改めて混沌に目を向けた。よくよく観察すれば、輪の中にいる女は女王だけで、他の取り巻きは男ばかりである。ひょっとするとエリザベスの魅了効果は、男にしか効かないものなのかもしれない。そんなことを思っていると、森山は唐突に話題を変えてきた。
「ところでさ……あんたのトコの寮に新しい子が来たでしょ。山岸って、小動物っぽいの」
(ああ……)
これまで会ったこともない森山が突然話しかけてきた理由を、湊は察した。
昨日の土曜日の夕方遅く、風花は『今回』初めて寮を訪れて特別課外活動部のメンバーへの面通しを済ませ、引っ越しの作業は日曜の今日に行われた。従って噂好きな順平辺りが学校で言いふらす時間は、まだないはずである。だが人の口に戸は立てられない。風花を勧誘した美鶴が話を広めるはずはないが、入寮の手続きくらいは昨日の間に学校で行ったはずだ。その辺りから情報が漏れたのだろう。そう推測できた。
何しろ巌戸台分寮は生徒会長の美鶴やボクシング部主将の真田がいるせいで、良くも悪くも異質で目立つ。そんなところに入るとなったら、その日のうちに噂となってもおかしくない。まして大人しいタイプでイジメられっ子の風花が、ともなればなおさらであろう。
だから風花の入寮を森山が既に知っていることは、不思議ではない。ついでに言うと、その目立つ寮の住人である湊のことを森山が知っていても、やはり不思議ではない。
「ああ、君と同じクラスだったね。仲良くしてやってくれよ」
風花の早期の加入に関して、実は未解決の問題が一つあった。風花と森山の関係だ。『前回』の6月の満月の時、森山は失踪した風花を案じて一人でタルタロスにやって来て、風花の覚醒を促した。その後、森山は影時間の記憶を失ったが無意識の領域に何かしら残ったのか、風花と親友の間柄になった。『今回』はその機会を奪ってしまった為、今後の二人の関係がどうなるか、少々不透明だ。
だがこの点に関しては、湊は大して心配していなかった。風花と森山の関係が実際のところどのようなものだったのか、『前回』に詳しいことは聞いていない。だが大方は察しがついていた。二人は一種の似た者同士なのだ。表向きの性格は正反対と言っていいほど違うが、根の部分で良く似ている。簡単に言うと、家庭的な面から生じる陰、即ち孤独だ。
『前回』を含めた湊の交友関係でたとえるなら、ファルロス及び綾時との関係に近いものがある。要するに、影時間の体験などなくても、二人は親友になれる下地が元からあったのだ。
ただ加入前の風花はエネルギーが内向きであった為、外向きな森山から見て気に障ったのであろう。そんな調子だから、風花が特別課外活動部に加入して気持ちの充実を得れば、放っておいてもそのうち仲良くなると思っていた。
「冗談でしょ。だってあいつ……」
しかし昨日の今日では、二人の関係が急に変化することはさすがにあり得ない。仲良くしてくれなどと言われた森山は、きつい目をして睨んできた。だがセリフは言い終える前に、突然現れた闖入者によって中断された。
「ご案内、ありがとうございました」
エリザベスが戻ってきた。かなりの長時間に渡って踊っていたはずだが、磨き抜かれた白磁の肌には汗一つ浮いてない。こうしたところでも、彼女は人間とは一線を画している。
「もういいのか?」
「ええ。それでは戻りましょう。あら……」
エリザベスは森山を見つめている。無遠慮なくらいに、しげしげと。もっとも彼女が遠慮するところなど、めったにお目にかかれないが。
「何? あたしの顔に何かついてる?」
「いえ……お気をつけください、お嬢さん。と申しましても、お忘れになってしまわれるでしょうが……」
「は……」
エリザベスが踵を返すと、森山の目から急に力が抜け、何もない中空を見つめて呆然としてしまった。フロアに目をやれば、先ほどまで踊り狂っていた人々も足を止め、皆が一様に呆然としている。まるで象徴化せずに突然影時間に迷い込んだ、適性のない人間のようである。だが時刻はまだ0時になっていない。
「どうしたんだ?」
湊はエリザベスに尋ねた。ただし人々が急に自失してしまったことにではなく、森山に言いかけたことを尋ねているのである。
「申し上げても詮無いことでございます。皆さん、私のことは覚えておれませんから」
「そうだったな」
エリザベスは時間の流れの存在しない、ベルベットルームの住人である。そんな彼女は存在そのものが、実は影時間のそれに近いのである。
普通の人間は影時間に何か体験してもその記憶を保てず、何か別のことに置き換わって認識される。それと同様に、エリザベスと接した人間は彼女に関する記憶を保てない。常人はおろか、ペルソナ使いさえ例外ではない。彼女のことを覚えていられるのは、『契約』した人間のみである。
事前にそう説明されたから、エリザベスをクラブに連れてくる気になったのだ。そうでなければ、いくら報酬が貴重とはいえ依頼を断っていただろう。こんな異常に美しい女を連れてクラブに、などと噂が立ったら特別課外活動部のメンバーやコミュニティの人々との関係にどれだけ影響を及ぼすか、想像もつかない。
しかも『前回』は彼女とも色々あった。もしそれを他人に知られでもしたら、一大事だ。
また独自解釈が出て参りました。
エリザベスの存在を記憶できるのは、契約者のみとしております。だってそうでないと、あんな人を学校に連れて来た主人公は、その日の内に噂の的になったり質問攻めに遭うだろうと……。
※ドラマCDでは噂になっていたようなのですが、原作にはないのでその辺は無視しています。ちなみに後日談のラストでメンバー全員がベルベットルームを訪れ、目覚めた後にそれを記憶している描写があります。しかしあれはイゴールにとってさえ予想外の出来事のようだったので、訪れた事自体を含めて、契約者と長期間接した事による例外的な事象と解釈しています。