シーシュポスの神話(2009/4/9、4/19)
(ん……?)
何かが目の前で起きている。人型のレリーフが施された板を首からいくつもぶら下げ、動物の頭蓋骨のような仮面をかぶった黒い怪物がいる。怪物は足元に転がった無数の黒い手を、執拗に切り刻んでいた。その度に不快な音が繰り返され、緑色の空気に反響する。
緑色――
見慣れてはいるが、空気の色としては通常はあり得ない。
(これは……そうか。去年の4月の……)
人は死の直前に一生を思い出すと言うが、どうやら本当のようだ。これは去年の4月9日、自分がこの土地に戻って来て最初の満月の日。初めてペルソナを召喚した時だ。オルフェウスを召喚し、次いでタナトス、即ちファルロスが暴走したのだ。
(確かこの次は、ベルベットルームで……)
やがてテレビのチャンネルを変えたかのように、場面がふっと青い部屋へと切り替わった。思った通りだ。これから人生最後の一年間を、走馬灯のように振り返るのか。と、思いきや――
「お久しぶり、と申し上げるべきでしょうかな」
走馬灯は急に途切れた。テーブルの向かいのソファーに悠然と座る謎の老人、イゴールははっきりとした言葉でもって出迎えてきた。その隣に佇む美貌の女性、エリザベスは言葉は発さなかったが、にっこりと微笑んだ。
(夢……じゃない?)
いや、ベルベットルームは夢と現実、意識と無意識の狭間に存在する部屋だという。現実とはもちろん異なるが、夢や幻でもない。ならばこういう形の訪問も、不思議はないかもしれない。つまりここは、死後の世界でもあったというわけか。
「そうだな」
ここを訪れるのはニュクスと戦って以来だから、一ヶ月以上ぶりとなるか。あの日から影時間もタルタロスも消えてしまったし、ポロニアンモールの裏路地にあった入口も消えてしまった。もっとも死んだ後では時間の概念などあってないようなものだろうから、一ヶ月も何もないかもしれない。久しぶりなのかそうでないのか、いささか判断に迷う。どうでもいい話ではあるが。
視線を浮かせて室内を見回してみたが、ベルベットルームの装いは前と全く変わらない。床やカーテン、テーブルなどの調度品は全て青色で統一されている。正面は透かし扉になっているが、外の景色はそこから見えない。部屋自体が高みへ昇っていることを示す為だけに存在するかのような、延々と続く暗い壁が下へ下へと落ちていく様が見えるだけだ。そして扉の上には、光の速さで針が回る金色の時計がかけられている。
1月31日の決戦の時もここを訪れたが、その際にエリザベスは最上階に到着したと告げた。だがこの通り、ベルベットルームはなおも上昇を続けている。タルタロスよりもなお高い遥かな上方、地上から32万由旬の宇宙にまで昇る、神秘なる軌道エレベーターとでも言ったところか。
最後に首を後ろに回して自分が座っている椅子を見てみると、それも元のままだった。色はやはり青色で、形は竪琴に少し似ている。
竪琴――
自分が初めて召喚したペルソナ、オルフェウスの持ち物だ。ギリシャ神話に登場する吟遊詩人で、冥界の番犬をも虜にするほどの名手だそうだ。ちなみに神話ではなく科学的な話においては、オルフェウスとは原始の地球に衝突した小惑星の名であり、月が誕生した原因となったらしい。
思考が脱線した。そんなことは今考える必要はない。差し当たっては――
「僕はこれからどうするんだ。ここでベルボーイでもするのか?」
「まあ……」
エリザベスは顔を赤らめた。初めて会った時は無機質な印象のあった彼女だが、近頃はすっかり人間的になった。変わり幅の大きさで言えば、アイギスといい勝負だ。
自分の死が無念でないとは言わない。だが死後の生をここで過ごすのなら、そんなに悪くはないかもしれない。しかし――
「いいえ。貴方には再びの戦いが待っております」
幾許かの邪念を含んだ淡い期待を、イゴールは首を振って否定した。
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。あの世でも戦えと言うのだろうか。そもそも、あの世に出てくる敵とはどんな敵なのだろうか。同じような死人同士で戦うのか、それともペルソナのオリジナルたる、伝説上の神や悪魔と戦うのだろうか。どちらにしても、勘弁してもらいたい。面倒くさいことこの上ない。自分はそんなにケンカ好きなわけではないのだ。
「少しは休ませてくれよ」
「お気の毒とは存じます。ですが、これからも私どもは貴方のお手伝いを致しますので、どうかお励みください」
気の毒などとは絶対に思っていない。一見してそう分かる、含みのある笑みをイゴールは浮かべた。文句を言いたくなってくるが、口を開く間もなく意識が遠のいていった。
(え? この感覚は……)
ベルベットルームで意識が遠のくとは、目覚める前兆だ。
「では、ご機嫌よう……」
イゴールの別れの挨拶が耳から消えると同時に、目が自然と開いた。視線の先には、白い天井がある。知らない天井ではない。見上げるのはかなり久しぶりだが、それでも知っている天井だ。
(病院……だな)
近くに人の気配がする。首を動かしてみれば、見知った顔がそこにあった。
「あ……気が付いた? 気分は……どう?」
ピンクのカーディガンを着た少女、岳羽ゆかりだ。病室のベッドのすぐ脇に置かれた椅子に座っていた。
「僕は……生きてるのか?」
死んだとばかり思っていたのに、どうして生き延びられたのだろう。生きていることそれ自体を喜ぶより、疑問の方が先に頭に浮かんでくる。そんなに生命力に溢れた体を持っていただろうか、と。
ベッドから起き上がろうとして、入院服に包まれた体の節々が悲鳴を上げた。全身が妙に重たい。だが卒業式の頃に感じていたような、死の前兆としてのものではない。単に疲れているだけの重さだ。
「良かったあ……やっと起きたよ! 十日も眠ったままだったんだもん。心配したよ……」
「十日……」
「あの……ごめんね。あの時は何もできなくて……」
僅か十日。普通なら眠りすぎだが、やはり意外に感じる。死んだと思っていたのに、たったそれだけで目が覚めるとは、一体どういうことだろうか。神話のオルフェウスよろしく、冥界から帰還したとでも言うのだろうか。神話と違って連れ戻すような妻はいないが、自分自身だけは帰って来られたとでも? そんな疑問に意識を捉われていたからか、湊はゆかりの話に耳を傾けることができなかった。
「あのさ……私も貴方と一緒なんだ」
「……?」
どこかで聞いたようなセリフで、意識の向かう先が内心からゆかりへと移った。聞いてみれば、ゆかりは身の上を簡単に話し始めた。父親を事故で亡くし、母親とは疎遠になっているとか。
そんなことはとうに知っている。父親の遺言のビデオを見ているし、電話越しに母親とケンカするところも見ている。おかげで一緒に母親と会ってほしいと頼まれたくらいだ。ある意味では、ゆかり以上にゆかりの親を知っているつもりでさえいる。それなのに、どうして今さらこのようなことを言うのだろうか。
「……ゆかり」
「え……な、何?」
ゆかりは驚いた顔をしている。やはり妙だ。話す内容もそうだが、態度が奇妙に他人行儀だ。名前で呼ばれたくらいで動揺している。まるで出会って間もない頃のようなゆかりの姿が、猛烈に嫌な予感を与えてきた。
「今日は何日だ?」
「あ、ああ……19日よ」
「3月の?」
言いながら、それはおかしいと思った。自分が死んだはずの日は3月5日だ。今日が3月19日なら、眠っていたのは十日ではないことになる。
「ちょっと、大丈夫? 今日は4月19日よ。貴方、始業式にも出たじゃない」
案の定と言うべきか、ゆかりは怪訝な顔をして答えた。3月ではなかった。しかも始業式とは、一体いつの始業式のことを言っているのだろうか。
嫌な予感が更に膨れ上がってきた。たとえて言うなら、散々苦労して山の頂上まで岩を運び上げたのに、その途端に問答無用で麓まで突き落とされたような。不条理の概念そのものが形になって襲いかかって来たような、とてつもなく嫌な予感がする。
「何年の、4月19日?」
「ねえ……本当に大丈夫?」
ゆかりはますます怪訝な顔をした。眠りすぎで、頭がおかしくなったのかと思っているのかもしれない。失礼な、と普段なら言うべきところだが、むしろ本当におかしくなったのだと自分でも思いたい。
「答えてくれ」
「2009年に決まってるじゃない。いくらなんでも、一年も二年も眠ったりしないわよ」
「ふざけるなあ!」
重たい体を無視する勢いで跳ね起き、腹の底から叫び声を上げてしまった。この一年間で初めて、いや恐らく全人生でも初めての雄叫びだ。理不尽は飽きるほど経験しているが、さすがにこれはやり過ぎだ。
(2009年の4月19日!? 十日間眠ってた!? まさか初めてペルソナを召喚してぶっ倒れた、あの時に戻ってきたって言うのか!?)
ベッドから飛び降りて備え付けのカレンダーを見ると、確かに2009年4月のページがかかっている。続いてハンガーにかけられた自分の制服を手に取り、ポケットから携帯電話を取り出した。待受画面の日付表示は4月19日だ。
「マジかよ……」
訳が分からない。いや、そんな生易しいものではない。一体どこの神話の登場人物にされたのだろうか。死の間際に悪夢を見ているに過ぎないのなら、どんなに良いことか。
「あの……有里君?」
「ああ……悪い。寝起きでちょっと混乱しただけだ。もう大丈夫」
壁を見つめて、ゆかりに背を向けたまま、咄嗟に開いた口からこんな言葉が出てきた。心と言葉が一致しないことには慣れているが、この時ばかりは自分の口が呪わしい。
少しも大丈夫ではない。心の中は大嵐だ。困惑と怒りが混ざり合って渦を巻いている。振り返ってゆかりと目を合わせることすら億劫だ。
数秒間の沈黙の後、ゆかりは寮に帰って美鶴に知らせてくると言って、病室を後にした。居心地が悪そうにそわそわとしている様子が背中越しにも伝わって来たが、それにフォローはしなかった。自分のことだけで精一杯だ。病室の引き戸が閉まる音を聞いてから、ようやく湊は振り返った。密室状態になったことを確認して、少しだけ冷静さを取り戻した。
(夢落ち……? いや、違う……)
夢なら記憶が鮮明すぎる。ゆかりの話も、聞く前から内容を知っていた。何を言うのか事前に予想がついて、その通りだったのだから、ただの既視感ではない。ならば、まずするべきことは――
(取り敢えず、あいつに聞いてみよう)
湊は入院服を脱いで制服に着替えた。ブレザーのポケットを確認すると、携帯電話以外の持ち物もあった。ほとんど中身の入っていない薄い財布やら、愛用の音楽プレイヤーやらだ。そして青く光る鍵も、そこにあった。それからナースコールを押して、看護師と医師を呼び出した。
湊は辰巳記念病院を退院した。十日も眠っていた患者が目覚めてすぐに退院するなど、普通は無理だ。だから医師はもう一日くらい経過を観察して、と言っていたが湊は即刻退院させるよう強く主張した。今すぐにでも会って、問い詰めたい相手がいたから。
結局、簡単な検査だけは受けることになった。その結果は、少々過労気味だが日常生活には影響ないとのことだったので、それで退院できた。こんな無理が利くのは、そもそも辰巳記念病院は桐条グループの系列で、美鶴辺りから何かしらの話があらかじめ通されていたのかもしれない。ついでに言うと、入院費を請求されることもなかった。更に言うと、湊の記憶に残る『最初』の4月19日も、その日のうちに退院できていた。
そうして病院を出て、その足でポロニアンモールに向かった。
時刻は既に午後の遅い時間になっている。平日のこの時間帯であれば、この辺りには制服を着た月光館学園の生徒が大勢いる。特にゲームセンターやカラオケ店の周りでは、必ずと言っていいほど見かけるものだ。だが今日は、制服姿は湊一人しかいない。そんな些細なことに、苛立ちを感じずにはいられない。
(卒業式は金曜だった。今日がその十日後なら、月曜のはずなんだけどな……)
歩きながら携帯電話を取り出し、待受画面を見た。そして思わず舌打ちをした。認めたくないが、断固として認めたくないが、画面の日付は2009年の4月19日を示している。曜日は日曜だ。
(実はやっぱり2010年の3月15日で、制服を見かけないのは春休みだから……ってことはないかな)
そんな無理やりな言い訳めいたことを考えながら、すぐさまそれはないと思った。三学期の終業式は3月20日だ。学校の行事日程などを無駄に覚えている、己の記憶力を恨めしく思った。
歩くごとに募っていく苛立ちを何とか表に出さないようにしながら、湊は早足でモールの奥へと向かう。中央の大きな噴水を横目に通り抜け、改装中の骨董屋と交番の間にある裏路地に入った。
人気のない路地の最も奥まった場所、繁華街の喧騒がやけに遠くに聞こえる袋小路で、湊は立ち止まった。普通の人間には何もないただの壁にしか見えないが、湊の目には青く光る扉が見える。それを見つめながらポケットに手を入れ、扉と同じ色の鍵を取り出した。
契約者の鍵――
もう二度と使うことはないと思っていたのだが、使わざるを得ない。僅かばかりの諦念と、それを覆い尽くさんばかりの苛立ちの渦を抱きながら、湊は鍵穴に鍵を差し込んだ。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
イゴールはいつものように、慇懃な言葉で迎えてきた。そして湊もいつものように、椅子に座っている自分を発見した。だが湊は挨拶もそこそこに、椅子から立ち上がって責めるような口調で問い質す。
「これは一体どういうことだ?」
病院で目覚める前、イゴールは『再びの』戦いと言っていた。聞いたその時は特に気に留めなかったが、よくよく考えればおかしな表現だ。タルタロスのシャドウやニュクスとは別の何者かと戦うのなら、『新たな』か『次の』戦いと言うべきだ。
『再び』とは即ち、既にやった戦いをもう一度行う――
イゴールはあの時そう言った。つまりこの鼻の長い怪人は、自分を襲ったこの意味不明な事態を理解している。湊はそう睨んでいた。と言うより、確信があった。
まさかイゴール自身がこの事態の原因とまでは思っていない。だがそれでも苛立ちをぶつける相手が他に見当たらないので、つい口調が厳しくなる。だがそんな湊の八つ当たりを、イゴールはさらりと受け流す。
「さてさて、どういうことでございましょうな」
「ユニバースの力なのか?」
人生を暗示するタロットの大アルカナの終着点に位置する、世界または宇宙のカード。ニュクスと戦う直前に、湊はそれを得た。何事も奇跡でなくすとまで言うその力であれば、このような事態をも引き起こせるかもしれない。即ち、時間を戻す――
もっとも湊自身はそんなことを望んだ覚えはない。少なくとも、意識的には。
「ユニバースが今の貴方と全く無関係……とは申しますまい。なぜ戻ってきてしまったのか、その答えは貴方様ご自身で得られると良いでしょう」
イゴールは相変わらず謎かけが好きだった。ここまであからさまに答えを避けられると、苛立ちを通り越して逆に気抜けしてしまう。
「はあ……」
怒りや困惑はため息となって、体から流れ出て行った。それと同時に、肩や膝に入っていた力も抜けて姿勢が崩れそうになる。張り詰めた気が抜けて、疲労感が改めて襲ってきた。
分かっていたことではあるが、イゴールをいくら問い詰めても無意味である。『初めて』の2009年の4月からずっとそうだったが、イゴールはこちらが何かを聞いても、ほとんど何も答えてくれない。思わせぶりな言葉だけを与えて煙に巻いてくる。いや、正確にはごまかしたりはぐらかしたりしているのではなく、最低限の情報だけ与えておいて、真相が向こうから立ち現われてくるのを待つのがイゴールのやり方だ。
だから物事をストレートに聞いても、絶対に答えてくれない。遠回しに聞けば、更に遠くへ追いやろうとしてくる。
答えは自分自身で得ろ――
要するに自分の責任で物事を進めさせようとしている。それが即ち『契約』だ。
「一つだけ忠告いたしましょう。時が戻ってきたと申しましても、全てが前と同じとは限りません。運命とは決まっているようでいて、決まっていないもの。前とは異なる絆を築くこともありましょうな」
「ああ、そう……」
せっかくの忠告だったのだが、湊は生返事だけを返してイゴールに背を向けた。これ以上物事を考えるのは、本気で嫌になってしまった。
シーシュポスとはギリシャ神話の登場人物で、タルタロス(!)にある山の麓から岩を運び上げては、頂上まで辿り着くと岩は転げ落ちてしまい、また運び上げる苦行を永遠に繰り返すという神話です。