6月17日の放課後、湊は実習室前の廊下を歩いていた。この日から文化部の追加募集が始まるはずなので、『前回』同様に写真部に入部するつもりなのである。
既に剣道部、生徒会、ファッション同好会、『今回』はそれに加えて保健委員と、校内の活動を四つも掛け持ちしているのに更に増やそうとするとは、傍から見れば無茶な話である。だが怠けているわけにはいかない。絆の力はできる限り集めなければならないのだ。
世界の平和の為に――
などと言うと、目的の壮大さに比べて、やることはいささか卑近に思えてくる。だが世界などと大上段に構えずに、自分が生き延びることが目的だと思えば、友人を作ることは案外それに相応しい行動であるのかもしれない。実際のところ、湊の意識の中では使命感の類は希薄である。義務感はあるが。
そんなことを思いながら化学準備室の扉を開けてみると、薬液の臭いと共に見覚えのある光景に出くわした。
「拙い僕について来てくれて本当にありがとう、みんな」
「部長、何か男らしくなった?」
「ほ、褒めすぎだよ!」
写真部の部長である平賀慶介が大勢の部員たちに囲まれながら、ひたすら照れている。そんな様を見せられた湊は、扉に手をかけたまま一瞬固まってしまった。
「あれ、有里君?」
平賀を取り囲んでいた部員たちの中に風花がいた。部員たちの間をすり抜けて近寄ってきたので、何があったのかと聞いてみた。すると案の定の答えが返ってきた。
「うちの部長がね、部を引退するの。お父さんがお医者さんで、後を継ぐから医大を受験するんだって」
『前回』の運命のコミュニティの担い手だった平賀はコンクールで入賞するなど、なかなかの才能の持ち主だった。しかし将来を芸術家か医者かで悩んだ末、結局医者を選んだ。そしてちょうど今のように、受験勉強の為に部を引退したのだった。
(僕が何もしないうちに……。いや、別に不思議じゃないか)
平賀は元々困っている人を放っておけない性格をしているし、しかも行く先々で病人に遭遇してしまう謎の習慣がある。よって医者を目指すのは実は当然の選択とさえ言える。だからたとえ湊と接することがなくても、自分自身でその決断を下すことに不思議はない。もっともそうした点は、平賀に限らず他のコミュニティの担い手も似たようなものであるが。
「ひょっとして……写真部に入ってくれるの?」
思考に沈みながら佇んでいた湊に、風花は期待を込めた視線を向けてきた。だが湊はその視線を敢えて外した。
「いや……ちょっと覗いてみただけなんだ」
平賀がいないのでは、写真部に入る意味はない。かくして運命のコミュニティは『前回』の担い手を失ってしまった。だが湊はそれほど動揺しなかった。こんなことは今まで何度もあったし、きっと別の人とコミュニティを築くことになるのだろう。問題は、それが誰なのかだ。
邪魔したな、と風花に一言詫びて化学準備室の扉を閉めた。そしてこの日は放課後の時間をベベと過ごすことにして、隣の家庭科室へ向かった。
夜の時間、寮の自室に戻った湊は、机に肘をつきながら考え込んだ。平賀とはもうコミュニティを築けないことは間違いない。では運命は誰と築くことになるのか。
(ん? 運命を……築く?)
運命(のコミュニティ)を築く。間に入るべき言葉を省略すると、何やら妙な響きがする。
運命の人。平賀はいい人だが、この表現に適した人物ではない。
(何、馬鹿なことを考えてんだ……)
思考が脱線してしまった。真面目に考えよう。
(何か今までの傾向を考えると、天田やコロマルともコミュが発生しそうだよな。でもあいつらは多分、ペルソナ通りに正義と剛毅だ。結子とは結局無理だったし、千尋とは今までろくに話してもいないから、きっとそうなる。あと残ってるのは……綾時? いや、あいつとコミュってのはないだろう。今回あいつが出てきたら、ファルロスの記憶を初めから持っているはずだ。ファルロスとは、もう死神を築いてるしな……)
当てはまりそうな人は、すぐには浮かんで来なかった。そうすると岩崎や長谷川のように、『前回』は全く接点のなかった相手とコミュニティを築く可能性もある。だがどこの誰かも分からない人と、しかもいつどのように発生するのかも分からないのでは、今後の計画を立てようがない。可能な限り、既知の人物と築くようにしたかった。
湊がこのように考えるのは、未来を知るアドバンテージを活用する為であった。穿った見方をすれば、陰謀が常習となった彼の思考習慣であったのかもしれない。計画的と言えば聞こえがいいが、裏を返せば想定外の事態に対応しにくくなる、ということでもある。それを俗に、策士策に溺れると言う。
人生において最も恐ろしいのは、先行きが見えないことだ。だがなまじ先が読めるというのも諸刃の剣である。いつ何が起きるか予想できれば、計画を立てられる。しかしいざその時が来ると、現実の事態は彼の想像を超える。そんなことが何度も繰り返されていながら、なおも計画なるものを立てようとしていた。
臨機応変が基本の『愚者』にとって、緻密な計画というものはそもそも相性が悪いのである。そうした根本的な錯誤を自ら犯していることに、彼は未だ気付いていない。
彼にもっと自分を省みる習慣があれば、或いは出たとこ任せな無計画さがあれば、この二度目の一年間は大分違った展開を見せていたかもしれない。だが今の彼にそんな考えは浮かんでこない。頭がいいとは、試験で学年トップの成績を取ることだけではないのである。
湊は更に考える。不可避な吉凶の連環を表す運命のアルカナ。正位置では幸運、出会い、解決。逆位置では不運、別れ、混乱。ペルソナで言えば、フォルトゥナ、エンプーサ、クシミタマ、モイライ三姉妹、ノルン。そしてヒュプノス――
「あ、ストレガのタカヤ!? そう言えばあいつのアルカナは運命だった!」
しかもペルソナはヒュプノス。ギリシャ神話では夜の女神ニュクスの息子で眠りを司り、死を司るタナトスの双子の兄弟だ。神話の関係で言えば、これほど自分と近い人物は他にいない。
(あいつとコミュか……できるかな?)
タカヤの思想は『前回』に何度か聞いている。過去に捕われず、未来を望まず、今この瞬間だけを生きる――
こうした考え方そのものはそう珍しいものではないし、理解できないこともない。仲間の皆は揃って反発していたが、状況が違えば分かり合えたかもしれない。いや、たとえ分かり合うのは無理でも、もう少し話してみたかったとの思いは『前回』も抱いた。
あの男には、自分と通じるものを感じていたから――
それに加えて、タカヤは荒垣との因縁がある。『前回』に荒垣を直接殺したのはタカヤだが、なぜそんなことをしたのか、どうもはっきりしない。10月の天田の復讐のまさにその日に溜まり場にいたのは、偶然かもしれない。だがなぜ荒垣を撃つ必要があったのか。
(こっちの戦力減を狙った……とか、そんな即物的なことじゃないよな。あいつに限って)
あの時の状況は天田から一応聞いているが、タカヤと荒垣の間にどんなやり取りがあったのか、その辺りの詳細は分からない。だがきっと、滅びや命に関するタカヤの思想の問題だったのではないか。そんな気がしてならない。
そしてまた、チドリの死に関してもそうだ。チドリは順平に好意を抱くと共に、死を恐れるようになった。それがタカヤは気に入らなかったのだろう。
(何にしても……やってみるべきだな)
危険はあるが、やはり独自にストレガと接触を持つ価値はある。上手くいけば、荒垣やチドリを撃たないよう仕向けることもできるかもしれない。更に上手くいけば、こちらの仲間に引き入れることもできるかもしれない。何しろストレガの実力は折り紙つきだ。仲間にできれば、戦力の大幅な増強が見込める。
やるとなったら、最初の問題は接触する方法だ。そして会ってから何と言うか。何に利用するか。湊は考え出した。
6月21日の夜遅く、湊はポートアイランド駅外れの溜まり場に来た。ここで不良相手にケンカしてからまだ二週間ほどしか過ぎていないが、絡んでくる者はいない。誰もが無関心を決め込み、仲間内だけで騒がしく喋っている。
場所の空気が前に来た時と異なっていることを、湊は感じていた。ピリピリと張り詰めた気配が消え、その代わりにどこか弛緩した無力感が漂っている。よそ者に対する反発力が不良たちから失われ、逆にそれらを恐れているかのようだ。ただし湊を恐れているのではなかろう。
(奴らが現れ出した証拠だ)
夜に寮を抜け出し、0時が近くなるとこの場所に来る。そんなことをここ何日か湊は繰り返していた。だが目的は未だ達せられていない。これがあまり長く続くようだとタルタロス探索の計画に響くし、夜遊びは控えろと美鶴に咎められかねない。いい加減、今日辺りに出てきてほしいものだと思いながらぶらついていると、影時間になった。
「こんばんは」
弛緩した空気が邪悪な緑色に変わるのとほぼ同時に、背後から声をかけられた。その声に脅すような色はなく、酷く丁重なものだった。
振り返ると、上半身裸で両腕にタトゥーを入れ、ダメージジーンズを穿いた男がいた。ジーンズのベルトには、物騒にも拳銃が差されている。服装のみならず、体格も異様な男である。ウェーブのかかった長髪と細身の体、何より目を引くのは肌の白さだ。北国の女にあるような、透き通る美しい白ではない。生まれてから一度も日に当たったことのない深海の軟体動物を思わせる、不吉な白だ。
男は一人ではなく、眼鏡をかけた知的な風貌の少年と、いわゆるゴスロリの少女を連れている。目当ての人物にやっと会えた。
「こんばんは」
相手に合わせて律儀に返答した。こういう誰にでも敬語で話す慇懃無礼タイプには、形式が重要だから。
「これはどうも、ご丁寧に」
白い男、タカヤは唇の端を持ち上げ、目を僅かに細めた。皮肉を込めた微笑である。ただし極端な悪意は抱いていないことが『愚者』の目には見える。第一印象としては、それほど悪くないものを与えられたと言ってよい。
「あんた、この時間に平然としとるっちゅうことは、やっぱ迷い込んだんやないな。ペルソナ使いやな」
タカヤの挨拶に続いて、知的な少年、ジンが問い質してきた。随分とストレートな物言いだが、湊は素直に応じる。
「ああ。あんたたちもか?」
「いかにも。私はタカヤ。こちらはジンとチドリ。私たちをストレガと呼ぶ者もいます」
「有里だ」
「ええ、存じ上げております」
煙が消えるように微笑を顔から消したタカヤの返答に、湊は眉をぴくりと動かした。ストレガが既に自分を知っている。これは予想外だった。
『前回』ストレガと初めて会ったのは8月6日だ。当然その前から下調べくらいはしていただろうが、6月下旬のこの時期に既に知っているとは想定より早い。そうすると情報が漏れている可能性がある。どこから漏れたのか、いくつか想像はつく。だがまずは直接聞いてみることにした。
「なぜ、僕のことを?」
「あんた、ここ何日か影時間にこの辺をうろついとったやろ。迷い込んだようには見えんかったから、ちょいと調べさせてもろうた。ここはわしらの仕事場やさかいな。あんまうろちょろされると困んねん」
(あ、そういうこと……)
湊は思わず拍子抜けした。誰かさんが情報を漏らしているのかと思いきや、自分の動きが原因だった。確かにペルソナ使いの出所など限られているから、ストレガの情報収集力なら調べもつくだろう。たとえ些細なことでも、『前回』と異なる動きをすればどこかで影響が出る。
「それは悪かったな」
「ほんなら、さっさと帰っとくれ」
ジンは手の甲をこちらに向けて、ひらひらと振ってきた。犬でも追い払うかのような仕種である。お前に興味はない、と言わんばかりである。
実際のところ、現時点ではストレガは特別課外活動部にそれほどの興味はないのだろう。『前回』彼らがこちらに興味、と言うか敵意を持つようになったのは、察するに影時間とタルタロスを消す方法が部の皆に周知された7月以降であろう。
そして『今回』はその方法、正確には偽りの方法は、未だ皆に明らかにされていない。昨日に幾月が寮を訪れて、満月ごとに現れる大型シャドウは全部で十二体存在し、アルカナの順に沿って現れることが語られたばかりである。だからストレガは特別課外活動部をたとえ知ってはいても、積極的な妨害はおろか接触さえ仕掛けてこない。
だが言われるままにここで帰るつもりは、湊はもちろんない。
「そう言うなよ。一つ仕事を頼みたいんだが」
「あん? あんた、マジで言っとるんか?」
「ほう……」
「……」
眉間に皺を寄せるジンとは対照的に、タカヤはその顔に再び笑みを戻した。ちなみにゴスロリの少女、チドリはずっと無言のままで眉一つ動かさない。
「有里さん。念の為にお聞きしますが、我々が何の仕事をしているかご存知なのでしょうね?」
もちろん知っている。最近ネットで話題の復讐代行だ。この辺りで原因不明の死傷者が出たと、先日もニュースになっていた。
ここで素直に知っていると答えることはできるし、誰に復讐するのかと聞かれた時の回答もあらかじめ用意してある。だが、これはチャンスだ。コミュニティで磨いてきた話術の勘が、好機の到来を『愚者』に告げている。湊は相手の質問に乗じて、核心を不意打ちした。
「祝祭……か?」
「何やと……!?」
余程意表を突かれたのか、ジンはそれまでの舐めた態度から一変して、驚愕に顔を強張らせた。そんなジンを余所に、タカヤは笑い出した。
「く……はっはっは! 素晴らしい……素晴らしい答えです!」
タカヤは拍手をして、楽しそうに歯を見せて笑っている。悪意が人の姿に化身したかのような異形の男が、こんな表情を持っていたのかと少々意外に感じる。だが湊としては、好都合な意外さである。
「正しく言えばそれは仕事ではなく、私たちの生きる目的そのものなのですがね。一度会っただけで見抜くとは……。貴方は大変面白い方だ」
実際は『前回』に本人の口から聞いていたに過ぎない、言わばテストのカンニングのようなものなのだが、それはこの際関係ない。自分のことを理解してくれる人がいるのは、大抵の人間にとって嬉しいことだ。タカヤの性格は大抵の範囲からは大きく外れているが、この点は普通の人間と変わらないようである。
笑い声が収まった後も、タカヤの表情から微笑は消えなかった。面白い玩具を与えられた子供のように、或いは新種の生物を発見して勇み立つ学者のように、身を乗り出さんばかりの好奇に満ちた視線を向けてくる。先ほどまでの皮肉な気配は、すっかり消えていた。
それを確認したその時、影時間が停止した。影時間にも動けるペルソナ使いをも停止させる瞬間が、遠くて近い二人の間に訪れた。
『我は汝、汝は我……』
(来た!)
既に聞き慣れた声が頭に響き、絆が心の中でカードの形を取ってコミュニティとして具現化した。アルカナは運命。タカヤのペルソナ、ヒュプノスと同じである。ここまでは想定通りだが、問題はここからだ。コミュニティの結論が、どこに向かうのか。
目標はタカヤに滅びの思想を捨てさせること。そして最終的には、仲間に引き入れる。容易なことではないだろうが、不可能ではないと睨んでいる。なぜなら全く未知の人物とのコミュニティではないからだ。むしろタカヤの思想は、あらかじめ大方を理解できている。これは大きなアドバンテージだ。非常に観念的な人物である為、議論を重ねていけば論破や説得は可能なはずだ。
そして何より、こちらには絆を教える『我』がついている。下手にやってコミュニティを壊してしまわない限り、担い手は必ずこちらに好意を抱く。コミュニティとは、そのようにできている。
「さて……話を戻しましょう。当然ご存知でしょうが、私たちは復讐の代行を生業にしています。誰に復讐をお望みなのです?」
「幾月修司」
「あんた……」
再びジンの表情が強張った。だがタカヤは笑みをますます深める。本当に仲間なのかと思ってしまうくらい、この二人は反応が対照的だ。
「くっくっく……本当に面白い方ですね。自分たちの元締めを殺せ、ですか」
元締め――
これではっきりしたことがある。ストレガは幾月の今の立場も、湊が特別課外活動部の一員であることも知っている。それは元から知っていたか、或いはここ数日で自分を調査する過程で知ったのか。どちらもあり得るが、どちらでも構わない。大事なのは、幾月の殺害を断らないことだ。
湊が最も心配していたのは、ここで依頼を断られることだった。可能性は低いと睨んでいたが、ゼロではないと思っていた。と言うのも、幾月とストレガが実際どのような関係なのか、いささか不明瞭だからだ。
『前回』の1月31日、タルタロスの頂上付近でジンは幾月の話をした。ジンは名前を知っている程度と言っていたが、鵜呑みにするわけにはいかない。とは言え、両者が完全に手を組んでいたとは考えられない。もしそうなら、8月や11月の満月の時に自分たちを妨害する必要はないからだ。そして幾月とストレガは思想や目的が似ているようでいて、実は微妙に異なる。
だが両者の間に多少の情報のやり取りがあっても不思議ではない。少なくとも互いの存在くらいは、今の時点で知っていてもおかしくない。と言うより、知っていないとおかしい。何しろ幾月は彼らを作ったのだから。だがタカヤの反応から、ストレガは幾月の死にデメリットがないか、あっても些細なものだと判断できる。利用価値くらいは見出しているかもしれないが、湊の依頼を優先している。
(そりゃそうだよな。こいつらは幾月に恨みこそあれ、恩なんかあるわけないもんな)
湊は納得し、内心でにやりと笑った。もちろんそれを顔には出さず、依頼の詳細を詰める為に淡々と言葉を連ねた。
「ただし条件がいくつかある。まず、理由は聞くな」
「構いませんよ。私たちはいつも理由を聞きません」
「やる時期は、僕が改めて指示を出す」
幾月を今すぐ殺しては色々とまずい。最低限、屋久島に行ってアイギスを起こしてもらってからでないといけない。
「いいでしょう」
「最後に、依頼したことはもちろんだが、知り合ったことも誰にも言うな。もし他人がいる所で会ったら、知らない振りをしてくれ」
「ふむ……それは難しいかしれませんね」
「秘密は当事者だけで共有すべきもの、だろ?」
絆にも色々な種類があるが、それらの中でも『共犯』は最も強力な繋がりの一つである。
「そうですね。努力はしましょう」
とんとん拍子に話が進む。順調すぎて怖いくらいだが、これも道理かもしれない。どんな相手にも言えることだが、コミュニティを通して接してみると普段とは異なる一面を見ることができる。例えば順平は熱血漢だし、真田は意外と繊細だ。そしてタカヤはこうだ。実は物分かりがいい――
と思っていたら、落とし穴が仕掛けられていた。
「さて、それでは報酬の話に移りましょうか」
(あ……しまった!)
突然やってきた不意打ちの返礼に内心で狼狽が湧き上がり、表情に出さずにおくのにかなりの労力を使った。いや、これは不意打ちではない。単にこちらが迂闊だっただけだ。仕事を依頼するのだから、当然報酬が必要だ。
「いくらだ?」
タルタロスにはなぜか金が時々落ちているので、財布の中身は普通の高校生よりはある。だが殺しの相場とはどれくらいの額なのか、ちょっと想像がつかない。
「普通は金で払ってもらうのですが、貴方には金よりも払ってほしいものがありますね」
タカヤはそれまでの楽しそうな微笑みから、笑顔の種類を変えてきた。獲物に狙いを定めた爬虫類系のハンターの笑みか、或いは新入りに通過儀礼を与える教導者のそれか。いずれにせよ一筋縄ではいかない類の表情である。元より不気味な影時間の空気に、物理的な質量さえ感じられる重さが加わった。
やはりタカヤは只者ではない。気の弱い人間ならば、目が合っただけで失神しそうな迫力がある。コミュニティの分岐点が早くも訪れた気配を感じて、湊は腹に力を入れて次の言葉を待ち構えた。だがタカヤが口を開く前に乱入者が現れた。
「おい……てめえら何してやがる」
タカヤとは種類の違う迫力のある声と共に、荒垣が現れた。夏の初めのこの時期でも、いつもと変わらずロングコートとニット帽を身に着けている。ただ帽子のすぐ下から覗く目はいつもより鋭い。緑色に淀んだ泥濘のような重さの中に、触れる者を切り裂く硬さが新たに加わった。
(あ……これはちょっとヤバい)
本日二つ目の迂闊だ。場所が場所だけに、鉢合わせする可能性は当然あった。それをあらかじめ考慮に入れておかなかったのは失敗だった。事前に周囲を見回すなりして、荒垣がいるかどうかくらい確かめておくべきだったのに。
「やあ、先輩」
「やあじゃねえよ……」
硬質化した空気を少しでも和らげようと、わざと軽い口調で言ってみたのだが、荒垣の表情は変わらない。咄嗟の軽い口調は、あまり効果がなかった。
「帰れ。こんな奴らとツルんでんじゃねえ。火傷じゃ済まねえぞ」
「ふっ……三つ目の条件、早速破れてしまいましたね」
「ちっ……」
片目を瞑るタカヤに対して、荒垣は舌打ちする。そして湊の肩に手を置いて、強引に後ろを向かせた。
「帰るぞ」
「どこから聞いてました?」
溜まり場を出て裏路地を歩きながら尋ねてみると、荒垣は足を止めた。そして聞かれたことに直接的には答えず、目を覗き込むようにして尋ねてきた。
「薬か?」
(ああ……なるほど)
荒垣はペルソナを抑える制御剤を使っているが、その出所はストレガだったはずだ。湊もあれが必要でストレガに頼んでいたのでは、と早合点したわけだ。
だがこんな質問をしてくるということは、荒垣は今の会話をほとんど聞いてはいなかったということである。ならばそうそう大きな問題にはならない。今の時点では、たとえ荒垣でも幾月殺害計画を知られるとまずい。報酬の話を打ち切ってくれた分、むしろ良いタイミングで現れてくれたと考えるべきかもしれない。
「何の薬ですか?」
ストレガと接触していた理由として、薬欲しさというのは一応筋が通る。だがそう言い訳しては、特別課外活動部を抜けろと荒垣なら必ず言ってくるだろう。たとえそれをこの場で断ったところで、後で真田辺りに言われたりすると話がややこしくなる。
「違うなら、いい」
荒垣は一言だけで追及の手を収め、再び歩き出した。
(おや、あっさりしてるな……)
薬でないなら、何を頼んでいたのだと突っ込んでくるかと湊は少し心配していた。突っ込まれたら、仲間にならないかと誘っていたのだ、と事実の一部を交えて言い訳しようと思っていたくらいである。だがその必要はなかった。
荒垣は基本的に善人だし物事の気配りもできるが、他人の事情に深く踏み込むことは避けるタイプだ。そうしたところが、ここでは幸いした。この分では、今日のことを真田や美鶴には黙っていてくれと釘を刺す必要もなさそうである。
「帰れ。もう来るな」
駅前まで辿り着くと、荒垣はそれだけ言って去って行った。まだ影時間は明けていないが、湊は溜まり場には戻らず、モノレールが動き出すのをその場で待つことにした。
6月23日の夜、荒垣は巌戸台商店街にあるラーメン屋、はがくれで夕食を取っていた。連れはいない。
ここの常連になって久しいが、大抵は一人で食べている。だがこの日はいつもと勝手が違った。二口三口とラーメンを啜った頃、新しく来た客がわざわざ隣の席に座ってきたのだ。何だと思って目をやれば、見慣れた顔だった。
「よく飽きもせず同じものを食えるな」
孤児院時代からの友人、真田だった。自分とはアキ、シンジと互いしか使わない名で呼び合う仲でもある。だが親友かと問われれば、微妙なところだ。腐れ縁、という呼び方が最もしっくりくる。
そしてそんな腐れ縁の男が言う通り、自分の前には魚介系スープの濃厚な香りが漂う特製ラーメンが置かれている。自分はこれを毎日のように食べている。単純に好きな味というのもあるが、他に店を開拓するのが面倒というのもある。例えばここの商店街には、ラーメンよりずっと体に良さそうな料理を出す定食屋もあるが、そちらに行ったことはほとんどない。
だが自分としては、別にそれで良いのである。そもそも健康に気を遣う必要など、自分にはないのだから。そして何より、眼前の男が言うべきセリフではない。
「飯とプロテインを並べて食う奴に言われたくねえぜ」
ちょうどアキは早速とばかり、プロテインの缶をカバンから取り出していた。だがアキはちょっと得意そうな顔になった。
「ふん……俺だけがやっていると思うなよ。最近、この食い方を覚えた奴がいるんだ」
「んだと……?」
思わず義憤を感じてしまった。料理が可哀想になるあの食べ方を、他にもしている奴がいると言うのか。それが本当なら、そいつは床に正座させた上で説教の一つもくれてやらねばなるまい、などと埒もない考えが浮かんでしまった。だがプロテインの話はそれ以上続かなかった。
「まだ迷ってるのか」
そちらの話だった。二年前に特別課外活動部を抜けて以来、復帰を誘ってくるのはこれが初めてではない。
「今年になって、新人が一気に四人加わった。俺たちの活動は、お前がいた頃とは様変わりしているんだ。あそこの探索は苦労も多いが……着実に進んでいる。戻ってこい、シンジ」
「……」
すぐには答えず、少し考えた。今月の上旬、ポートアイランド駅外れの溜まり場にやって来て、不良どもとケンカして帰った四人組。あの連中が加入した新人であろうことは、容易に察しがつく。色々と甘い奴らだと、今後が少し心配になった。当の四人もそうだが、あんなガキどもをアキと桐条に任せておいて大丈夫なのかと。
昔からアキは単純馬鹿だし、今も変わっていない。桐条はアキよりはいくらかマシだが、似たようなところがある。要するにガキがガキの面倒を見ているようなもので、先行きに不安を抱かせたのだ。理事長は大人だが、裏方が守備範囲の顧問は現場にまで手が届かない。
だがそれから三日後、町中で新人の一人と偶然会って少し話をした。有里というあの男――
(あいつは……切れる)
他人と関わらないようにしている自分の柄ではないが、有里には若干の興味を覚えた。頭がいいことは少々の話だけで分かったし、心構えもなかなかのものだ。あいつがいれば特別課外活動部はそうそう酷いことにはなるまいと、その時は思った。だが――
(あの野郎、何してやがった……)
一昨日の影時間、有里は溜まり場でストレガと何かを話していた。話の内容は聞いていないが、あんな奴らと関わらせてはいけないと思って強引に有里を去らせた。我ながら甘いことだと思う。だが気になることがあった。
「新人に有里って野郎がいるだろう」
「ん? ああ、なかなか大した奴だぞ」
「そいつ、ちゃんと呼べてるのか?」
自分も使っている、あの薬が有里は必要なのかと。もしそうなら、有里は特別課外活動部を抜けた方がいい。薬は自分から回してやればいい。不安定なペルソナ召喚は本人だけでなく、周囲にも多大な危険をもたらす。最悪の場合、自分の二の舞になってしまう。
一昨日に本人に聞いた時は、何の薬かと問い返された。あの場では話をそこで終わりにしたが、有里は頭が切れる。平然とした顔で嘘を言っていたのかもしれない。そこで単純馬鹿に改めて確認してみたのだが――
「もちろんだ。部で一番上手いくらいだぞ」
アキは何の淀みもなく、至極簡単に答えた。
「そうか……」
単にアキが気付いていないだけかもしれないが、有里の目的は本当に薬ではない、という気がしてきた。そもそもの話、特別課外活動部の現役メンバーが薬をストレガに頼むのは不自然だ。自分はレールを外れたからあの薬をストレガから買っているが、レールに乗っている有里がそうする必要はないはずだ。薬がいるなら、桐条か理事長辺りが対処するだろう。
だとするなら、有里は連中と何を話していたのか。条件がどうとか言っていたので、何かを頼んでいたことは確かだ。ストレガがすることと言えば――
ここ最近、シャドウの仕業とは思えないものの、影時間が関係しているらしき不可解な事件がいくつも起きている。昨晩もあの場所で、常連の不良が重傷を負う事件が起きた。
有里は、実はとんだ食わせ者かもしれない。ここでアキに警告しておくべきだろうか。そう思ったが――
(いや……それこそ俺の柄じゃねえ)
ストレガが関わっていることだ。どうせろくなことではあるまいが、自分が干渉する筋合いはない。先輩面して余計な世話を焼いたところで、何がどうなるわけでもあるまい。これはプロテインがどうとかの問題ではないのだ。そもそも言ったところで、アキが信じるとは限らない。逆に藪蛇になる。気になることがあるなら自分の目で確かめろとか言って、この場で寮に引きずって行きかねない。
「その力、無駄にするな。俺たちには必要だ」
考え事をしている間に、アキは話を戻してきた。だが自分の答えは考えるまでもなく、とうに決まっている。
「無駄でいいんだ。俺は力を捨てたんだ。戻る気はない」
これまで復帰を誘われる度に、自分はこう言って断ってきた。あの事故があって以来、二度と力は使うまいと固く誓ったのだ。ケジメをつけることさえできないのだから、長生きしないことだけが自分にできる償いだ。そして何より――
「てめえの遊びに付き合ってられっかよ」
5月の病院でも言ったことを繰り返し、席を立った。
自分もそうだが、アキも影時間やタルタロスの発生には何の因縁もない。詳しいことは聞いていないが、あれは桐条の身内が生み出したもので、それ以上でも以下でもない。忌々しいとは思うものの、結局は自分たちと無関係の代物だ。そんなものに関わるのは、遊び感覚だからできることだ。自分が抜ける前、アキが一人で熱を上げて突っ走っていた頃を思えば、それがよく分かる。
そしてそんな自分たちの遊びの為に、巻き込まれて死んだ人がいるのだ。それでどうして戻ることができようか。
「おい、待て!」
店を出ると、アキが追いかけてきた。強引に振り向かせて、左手で胸倉を掴んできた。そしてこちらを真っ直ぐ睨みつけてくる。
「俺は遊びでなんかやっていない」
(?……)
「俺は命を懸けてるんだ!」
アキが激するのは別に珍しくないが、少々意外に感じる類の剣幕だ。トレーニング感覚でシャドウと戦っていた二年前の姿からは、なかなか結びつかない物言いである。
自分がいた頃はタルタロスを本格的に探索したことはなく、主に相手をしていたのは外で暴れるイレギュラーのシャドウだった。だが人数が増えて戦いが本格化した分、アキも本気になったということであろうか。だが本気になるなど今さらのことだ。遅すぎるくらいである。
「ふん……だから何だってんだ」
そもそも特別課外活動部のやることは実戦なのだから、命を懸けるくらい当然だ。そんなことを改めて言う方がおかしい。そして命を懸けることは、別に特別ではない。免罪符にもなりはしない。
「命懸けるだけなら、バイクで峠攻めたりすんのと変わりゃしねえ」
「何だと……?」
世の中には遊びで命を懸ける人間もいる。遊びでないのは仕事でやるプロか、譲れない目的がある人間だけだ。例えばプロの研究者である理事長とか、身内の後始末の為に戦っている桐条とかだ。そしてアキはそのいずれもない。
敢えて言うなら孤児院の火事で死んだ妹を助けられなかったことの代わり、という考えがアキにはあるかもしれない。だがそれは単に過去を切れないというだけの話で、戦う目的にはならない。
胸倉を掴んだアキの左手首を握り、ゆっくりと離させた。アキの腕に込められた力は強くはなく、簡単に外れた。
「てめえも俺と同類だろうが」
今度こそ背を向けると、アキは追いかけてこなかった。
遂にオリジナルのコミュを出しました。これがやりたくてコミュとは何か、という話をくどくど語ってきたようなものです。
タカヤは非常に強烈なキャラクターですが、原作での扱いは今一つ小さいです。最終戦の前座という感じですね。それは原作主人公の最大の敵は、ニュクス及びニュクス・アバターだからなのでしょう。だから主人公自身はタカヤと個人的な因縁は特になく、因縁があるのは順平、真田、天田、荒垣とストーリーの本筋に直接に関わらない人たちにしているのでしょう。
極端な言い方をすれば、主人公の仲間はゆかり、美鶴、アイギスの三人だけでもP3のストーリーは成立し得るでしょう。穿った見方をすれば、主人公以外の男性陣に活躍の場を与える為に、ストレガが生み出されたのかもしれませんね。
しかし本作では、タカヤを主人公と大きく関わらせていきます。
ちなみにこの話のタイトルを『運命1』としていないのは、運命コミュは他と異なり、本編の中で語っていく予定だからです。原作での愚者や死神コミュと同等の扱いだと思ってください。