ペルソナ3 滅びの意志   作:三尺

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隠者2(2009/6/30、7/2)

 湊は保健委員である。しかしこれまで委員会の仕事は、ほとんどしてこなかった。

 

 『今回』はなぜかY子と会う前にネットゲームがサービスを終了してしまい、代わりに担任の鳥海から押し付けられる形で、『前回』は全く縁のなかった委員会に入ることになってしまった。そうして年上の同級生である長谷川と隠者のコミュニティを築いたのが、5月8日だった。

 

 それ以降、湊は度々保健室に顔を出していたが、保健委員の活動日である火曜と木曜以外の日に来ることが多かった。目的は保健室の主である江戸川と話すことである。タルタロスに行った次の日に疲労が抜けなかった時などに、怪しい薬を貰うと共に江戸川を引き留めて話をするのが、これまでのパターンである。ちなみに江戸川の薬は臭いこそ強烈だが、別に体に害はないので湊はいつも平気な顔で飲んでいる。ただ体に良いわけでもないので、疲労が回復したりはしないのだが。

 

 これまでの江戸川との話題は、タロットに関することが多かった。『前回』から総合学習の授業で学んできてはいるが、『今回』はより深く話を聞いていた。二十二枚の大アルカナのカードのそれぞれの意味の学び直しから始まり、最も一般的なマルセイユ版とウェイト版やトート版タロットの解釈の違い、更にはシャッフルの仕方なども学んでいた。コミュニティを進める上で、役に立つことがあるかもしれないと思ったからである。

 

 そのようにかなりの頻度で保健室を訪れながら、委員会の活動日は意図的に避けていた。コミュニティの担い手である長谷川と特別な関係になってしまったら困る、という考えがあったからである。

 

 そして長谷川の方も、湊が来るのを期待している様子は希薄だった。休み時間に廊下で偶然会った時などは、今日は来るかと聞かれることもあった。だが無理だと言っても長谷川は嫌な顔をしない。元々保健委員は一人でもこなせる程度の仕事しかないので、暇で暇でどうしようもない時だけ来てくれればいい、などと言って笑っていた。

 

 そうした言葉は本心とは限らないが、それに甘える形で湊はこれまで委員会に本腰を入れてこなかった。しかし岩崎と特別な関係にならないまま戦車のコミュニティを極められたことなどもあって、そろそろ隠者も進める気になっていた。

 

 『前回』はなかったコミュニティだけに、隠者は今後の展開が読めない。だが今さらそれを言ってはいられない。一度発生したコミュニティは取り消しが利かないのだ。何とか上手くやっていこう、くらいの気持ちで湊は委員会に顔を出した。

 

 

 保健委員は基本的に暇である。主が怪しすぎることを原因として、保健室を訪れる生徒は元々少ない。そして皆それを分かっているから、湊に限らず保健委員はサボってばかりの生徒が多い。この日に出てきた委員は、湊と長谷川の二人だけだった。江戸川はいるが、怪我や病気の生徒が来ない限りは奥の小部屋に籠っているので、二人きりも同然である。

 

 「新聞?」

 

 そんな中で、この日は珍しくやることがあった。何でも学級新聞に保健室から記事を掲載することになったらしい。

 

 「そうなの」

 

 長谷川の担任で図書委員の顧問も務めている化学の大西から、正しい手の洗い方とか、風邪の予防方法とかを書けと話があったとのことだった。

 

 「先生が書くのか?」

 

 「江戸川先生には任せないんだって。黒魔術……? の実践方法とか書くから駄目って、大西先生が却下したんだって」

 

 (黒は書かないと思うが……)

 

 江戸川はいわゆる黒魔術に代表される邪術に対しては、否定的な見解を持っている。総合学習の最初の授業でも、邪悪な者は無力になるか破滅するかの二通りしかないと言っていたくらいだ。故に江戸川からすれば大西の言い分は不本意だろうが、敢えて擁護はしない。

 

 「それがいいだろうな」

 

 黒ではなくとも魔術に関することは絶対に書くだろう。『祓いの歴史と実践について』とか題して、消毒とは異なる意味での清めに関する文章くらい書きそうだ。

 

 余談だが、江戸川の授業によれば黒魔術とは古代ギリシャに起源を持つオルフェウス教の信者たちが、神話で語られる行為を実際に行おうとしたことに端を発するそうである。そしてそうした乱痴気騒ぎをオルギアと称するのだとか。

 

 そんな他愛もない(?)話をしていると、突然乱入者がやって来た。

 

 「長谷川いる!?」

 

 保健室の扉がけたたましく開けられ、一人の女子生徒が乗り込んできた。かなり派手な化粧をしているが、それを覆い隠すほどに顔を真っ赤にしている。

 

 「人の彼氏に手出してんじゃねえよ!」

 

 そしていきなり長谷川に詰め寄った。視線と声色には憎しみが満ち、胸倉を掴んで締め上げんばかりの勢いである。対する長谷川は、状況を理解できずに目を白黒させている。

 

 「彼氏……?」

 

 「とぼけてんじゃねえよ! マー君言ってたんだから! 長谷川に誘惑されたって!」

 

 女子生徒は何やかやと大声で喚きたて、遂に手を振り上げた。長谷川は肩をすくめ、目を閉じた。だが――

 

 「その辺にしとけ」

 

 振り上げられた女子生徒の手は、肩の高さの辺りで止められていた。手首を掴まれている。掴んでいるのは、もちろん湊である。ただの女子生徒の平手打ちくらい、素手のケンカにはさほど慣れていなくても止めることは難しくも何ともない。

 

 「何よ、あんた!」

 

 派手な女子生徒は湊を睨みつけ、掴まれた手を振りほどこうとする。しかし湊は瞬きせずに睨み返し、相手の手首も離さない。

 

 「僕は保健委員で、ここは保健室。怪我や病気なら先生を呼んでやる。そうでないなら帰れ」

 

 そして聞かれたことに対して律儀に返答してやった。こうした周りを見ずに騒ぎ立てるタイプには、荒すぎず、かつ穏やかすぎないプレッシャーをかけてやるのが一番だ。『前回』ポロニアンモールの薬局で千尋に言い寄っていた男を追い払ったことがあるが、あの時のようなものである。

 

 「……」

 

 睨み合いはそのまま数秒間続いたが、女子生徒が先に折れた。抵抗をやめるように腕から力が抜け、そして湊も手を放した。

 

 解放された女子生徒は視線を長谷川に戻した。その視線は相変わらず憎々しげだ。ただ顔色からは赤味が大分抜けているので、当初よりは落ち着いている。しかし怒りが収まったわけではない。

 

 「ったく、ババアのくせにイキがんなよ。男漁るなら、こいつにでもしとけって」

 

 言い捨てるや女子生徒は保健室の扉へと向かい、そのまま出て行った。開けっ放しになっていた保健室の扉を勢いよく閉めながら。二人の委員と気まずい感じが保健室に残された。

 

 乱暴に閉められたせいで、保健室の引き戸は枠に当たって跳ね返り、開いたままになっている。湊は扉まで歩いて行って、しっかりと閉めた。閉めるその動きは淡々としたもので、動作に感情は表れていない。しかしそれは『愚者』らしく己の立ち振る舞いを制御しているだけで、内心では苦々しい思いを感じていた。

 

 (余計なことを……)

 

 騒ぐのは勝手だが、一言余計だ。これはフォローせねばなるまい。

 

 「何なんだ、あいつ?」

 

 「うん……」

 

 振り返ると、意外と落ち着いた表情の長谷川がそこにいた。ただし本心まで顔と同じとは限らない。内心を隠すことは『愚者』だけでなく、誰でもある程度はできる。

 

 話によると、少し前の委員会の活動日、湊が来ていなかった日に長谷川と同じクラスの男子生徒が保健室を訪れて、カラオケに誘ってきたらしい。長谷川は高岡という名のその男子のことはよく知らないのだが、誘いは受けたとのことだった。

 

 「馬鹿な奴らだ……」

 

 そこまで聞いて、湊は大体の事情を察した。先ほどの女子生徒は高岡の彼女で、カラオケに行った二人の姿を目撃した。もしくは人づてに聞いて、後で男を問い詰めた。そして男の方は誘われたと言い訳した。そんなところであろう。

 

 「悪く言わないであげて。彼氏を信じているのよ。それに……私にも下心あったし」

 

 「下心?」

 

 聞き返した湊に向けて、長谷川は弱弱しく微笑んだ。

 

 「同じ年頃の子を好きになれたら……って思ってたから。駄目だったけど」

 

 「……」

 

 同性相手ならともかく、異性に対して自分の恋愛話をするのは、なかなかあることではない。まして湊と長谷川は、まともに会話をするのも初めてに近い関係である。それでいながら、こんなことを言うのはなぜだろうか。

 

 表情こそ平静なものの、いきなり怒鳴り込まれてさすがに動揺しているのか。それとも助けられた感謝の気持ちと共に、湊に急な親近感を抱いたのか。はたまた絆を教える『我』が、裏でまた何かしているのか。

 

 普段の湊であれば、長谷川のそうした心の動きの原因を探るところである。だがなぜかこの時は、長谷川の発言そのものだけに意識が捕われた。

 

 (まるで年の離れた人を好きでいるみたいな口振りだな)

 

 世の中には少年を偏愛する女もいる。そうした女の間では、きっと天田のような少年は大人気を博すことであろう。

 

 (長谷川はそういうタイプじゃない……気がする。すると年上か?)

 

 年上好きと言うと友近のようだが、長谷川はあれとはタイプが全く異なる。ファッション感覚の友近と違って、本気で好きな年上の男がいる。だが何かの事情があって、報われることはないと半ば諦めている。そこまで推察した。

 

 「無理してないか?」

 

 これで相手が男ならば、察したことをぶつけてみる手もあるが、女相手なのでさすがに自重した。すると長谷川は笑顔の種類を変えてきた。

 

 「私ね……自分なんてないの。引っ張ってくれる人がいたら、喜んでついていくわ」

 

 (喜んで……か)

 

 何とも受け身だが、こうした考え方は理解できる。長谷川の人との接し方は、湊のそれと通じるものがある。ただ『愚者』の湊と違って、隠者を象徴とする長谷川は相手に完全に同調はできない。だがそれは言い方を変えれば、実は自分を持っているということだ。それも普段は穏やかな表情に隠されている分、かなり強烈な代物を持っていると見た。

 

 隠者のアルカナ――

 

 タロットの解釈では、隠者は愚者と深い繋がりがある。簡単に言うと、隠者は愚者の先輩だ。愚者が当てのない放浪者なら、隠者は放浪を終えて帰ってきた人物だ。放浪の旅から、果たして何を持ち帰ってきたか。

 

 『前回』の担い手だったY子はインターネットの住人という意味で隠者だったが、長谷川は内面においてそれだ。少ない言葉の裏側に自然と寄り添うように、理解が進んでいく。理解が行き過ぎて、うっかりするとこちらが好意を抱いてしまいそうになる。

 

 (注意しないとな……)

 

 長谷川は自分に好意を寄せる男が現れたら、全てを捧げてでもその男を愛するタイプだと湊は判断した。男がその気持ちに十分応えられれば問題ないが、応えられないと大変なことになる。

 

 もし『今回』の女関係で何かしら失敗して、長谷川を含む複数の相手と特別な関係になってしまったら色々と危険だ。世界の終わりを生き延びておきながら、女に刺されて死ぬという間抜けな結末を迎えてしまうかもしれない。何しろ『愚者』は相手の気持ちに対して、真実でもって応えることができない。

 

 「もう新聞とかの気分じゃないな。続きは明後日にしよう」

 

 そう言って湊は長谷川を促し、帰り支度をした。既に時刻は放課後の遅い時間になっている。

 

 「ん、そうね。ごめんなさいね。貴方にも嫌な思いをさせてしまって……」

 

 「構わないさ」

 

 湊は何気なく答えた。口を動かす前に何も考えることもなく、勝手に言葉が出てきた。

 

 

 女子のコミュニティを安全に進める為には、誰か別の男に引き取ってもらうのが最善である。たとえそこまで行かなくても、担い手の気持ちが他の男に向いているだけでも良い。『今回』の戦車のコミュニティの顛末から、湊はそう判断している。だから長谷川に好きな男がいるのなら、歓迎すべきことである。

 

 それでいながら、湊の心に喜ぶ気持ちはなぜか湧いて来なかった。その代わり、自分自身に注意を払っていた。次の活動日にまた委員会に顔を出すことを、さりげなく口にしながら。

 

 

 

 

 保健室に女子生徒が殴り込んでくる騒動があってから、二日後の7月2日。委員会の活動日に再び湊は保健室にやって来た。二日前に話に上がった学級新聞に掲載する記事の仕事を行う為である。ただこの日の放課後には、長谷川が既に文章の大方を作り終えていた。それだから湊がしたことは、文面の見直しと体裁を考えるくらいだった。

 

 そうして新聞の仕事を終えるまで、保健室を訪れる生徒は一人もいなかった。ちなみに二人以外の保健委員も来ておらず、江戸川も奥の部屋に閉じこもったままである。一昨日と同じく、二人きりの状況が今日も続いている。

 

 そんな中、廊下に通じる扉が開いた。見れば一人の女子生徒がそこにいたが、長谷川と目が合うや、回れ右で戻って行った。扉は静かに閉められた。

 

 「……帰っちゃったね。今日暇なの、私のせいかな。やっぱり」

 

 「いつも暇だろう」

 

 「そうなんだけど……私、ちょっと浮いてるみたい。何て……それこそいつものことよね」

 

 長谷川は弱弱しく微笑んだ。既に何度か見せているその表情で、最近の状況を口にした。クラスでも誰にも話しかけられず、挨拶しても返ってこないらしい。ただ直接何かされるわけではないので、イジメとは違うと思う、とも言い添えた。

 

 「凄く……遠くにいる感じよ」

 

 生徒の中で最も年上であることを原因、或いは契機として、長谷川は周囲に馴染めていない。それがここ最近になって、より顕著になったようである。

 

 (この間の件か)

 

 一昨日の騒ぎのことだ。あの時の女子生徒か高岡という男子生徒が何か言いふらしたかして、良くない噂が立っているのだろう。長谷川はイジメとは違うと言うものの、それは言い繕いだ。イジメとは以前に風花が受けていたような、直接的な行動を伴うものばかりではない。無視を決め込まれるのも、十分に辛いことである。

 

 「あ、貴方も私といると変な噂が立つかも」

 

 そんな辛さを隠して、こんなことを言ってきた。対する湊は何も答えなかった。

 

 「……」

 

 それは困るな、と冗談めかして言うことはできる。実際問題、誰とも特別な関係になるつもりのない湊は、長谷川との仲を噂にされるのは迷惑なはずである。或いはフォローのつもりで、構わないと敢えて答えることもできる。

 

 自由に動かせる口を持つ『愚者』は、どんなセリフでも望むままに言える。それにも関わらず、どうしてか何の言葉も出てこなかった。そればかりか、心の中でも言葉が浮かばなかった。

 

 とは言うものの、何の感慨も抱いていないわけではない。長谷川が言葉の裏側に隠している辛さを察することができている。だが察していながら、応じる言葉が浮かんでこないのだ。心の中では何かが確かに動いているが、外へ向ける為の明確な概念や言葉の形になってこない。

 

 顔の周りに空気はあるのに、息の仕方を忘れた。そんな気分である。胸の辺りが痺れて苦しくなる。

 

 そうしたどこか不自然な沈黙が夏の暑い空気をやや冷たくする感覚の中で、再び保健室の扉が開いた。今度の訪問者は回れ右をせず、そのまま遠慮なしに入ってきた。ただし生徒ではない。化学の大西だった。

 

 「ああ、いたいた」

 

 大西はそう言って、保健室の二人の間の奇妙な感覚を一息で吹き飛ばすように、無遠慮に話を始めた。例の学級新聞のスペースが予定より余ってしまったので、追加で何か書いてほしいとのことだった。

 

 「何を書きましょう?」

 

 「長谷川が書きたいこと、ない?」

 

 「ないです」

 

 即答である。自分なんてない、などと言う長谷川らしいと言えばらしいが。

 

 「あっそう。じゃ、恋愛相談でも書いてくれ。お便りと回答、適当にな」

 

 図書委員の生徒を中心に、読みたい記事を調査した結果がそれだったらしい。

 

 「恋愛相談……ですか」

 

 「低俗だよな。けど読みたいってんだから書いてやれ。スペースはキッチリ埋めろよ。江戸川先生に変なこと書かせないようにな」

 

 大西はこの学校の教師たちの中では比較的まともな部類に属するが、堂々と生徒にヤラセをさせようとする辺り、やはりいい加減なところがある。しかも恋愛相談が保健委員のところに舞い込んでくるのは不自然なのに。保健室の主である江戸川のことを思えばなおさらだ。

 

 ついでに言うと、非科学的なものを信じない大西はオカルティストの江戸川を疎ましく思っているようである。だがそんな二人であるからか、逆に実は良い仲なのでは、との噂も一部の生徒の間ではある。本当かどうかは湊も知らないが。

 

 それはさておき、大西は新聞の原稿を長谷川に渡して去って行った。追加の仕事を押し付けられてしまったわけだ。

 

 「こんなに書けるかしら……」

 

 大西が去ってから、長谷川は不安げな声を漏らした。見てみれば、スペースはかなり余っている。

 

 「恋愛相談か……。どんな悩みだと本当っぽいかな?」

 

 彼氏ができない、彼氏がしつこいとか色々思い付くが――

 

 「彼氏が浮気している……とか?」

 

 湊の口から、どうしてかこんな言葉が出てきた。思わず我が身を省みてしまったのかもしれない。

 

 「そういうものなのかな?」

 

 「……知らん」

 

 知らない。と言うより、知りたくもない。『前回』は学級新聞なるものに目を通したことはなかったが、もしかすると特別な関係になった誰かが、実際にそうした相談を投稿していたかもしれない。そう思うとぞっとする。

 

 そんな身から出た錆に恐れを抱いた湊から長谷川は視線を外し、保健室の机に向かった。そして原稿のスペースを見つめながら、何か書こうとしている。だが考え込む仕種が続くばかりで、ペンは止まったままである。そのまましばらく時間が経過してから、長谷川は振り返ってきた。

 

 「駄目、全然書けないわ。記事の見出しとか体裁は私が書くから、中身書いてもらえる?」

 

 (書きたくないな……)

 

 書きたくない。後ろ暗いことが山ほどあるだけに、浮気問題など書きたくない。文章の中に無意識的に事実を紛れ込ませてしまいそうだ。恐怖を知らない『愚者』でありながら、何だか猛烈な不安感を自分自身に感じてしまう。

 

 「私よりずっとマシだと思うわ。私、全く分からないから」

 

 「……」

 

 「……」

 

 湊は沈黙を続け、長谷川もしばらくは言葉を重ねなかった。そうして視線の交換を数秒間行った後で、長谷川は急におかしなことを言い出した。

 

 「私の経験なんて、クソの役にも立たないもの」

 

 「……何か言ったか?」

 

 耳を疑う、とはこういうことを言うのであろう。思わず聞き返した湊に、長谷川は声を上げて笑い出した。

 

 「ふふっ……あははは!」

 

 耳に続いて、目も疑ってしまった。笑うにしても悲しむにしても、常に何かを隠している長谷川のこんな表情を見るのは初めてだ。もちろん付き合いは長くはないが、奇妙なほどに意外に感じる笑い方だった。

 

 「ごめんなさいね。一度悪い言葉を使ってみたかったの。どうだった? 似合ってた?」

 

 「……全然」

 

 実際のところ、全く似合わないと思う。例の怒鳴り込んできた女子生徒じゃあるまいし、長谷川が悪い言葉を使っても不自然なだけだ。これがもし役者であれば、何を言わせるんだと監督や脚本家にクレームが行くだろう。

 

 「はあ、おかしい……。言いたいことを言うのって素敵ね。心と言葉が同じって、何て気持ちいいのかしら」

 

 「……」

 

 長谷川は腹を抑え、目に涙まで溜めながら笑っているが、対照的に湊は再び沈黙した。ただ動こうとしないのは口だけで、その裏側の内心では急激な葛藤が湧き上がっていた。

 

 心と言葉が同じ。今まで考えたこともなかった。

 

 もし『前回』常に心のままに喋っていたら、どのような一年間を送っていただろうか。コミュニティをことごとく壊してしまって、猛烈な悪評を校内にまき散らしていただろうか。それともかえって好感を持たれて、より良い結果を得られただろうか? 例えば卒業式の日を越えて生き続けたり、そもそもニュクスの来訪を未然に阻止できたり。

 

 (ちょっと待て……何かおかしいぞ。どうして僕はさっきから自分のことばかり考えているんだ?)

 

 長谷川の近況を聞いてもフォローの言葉が出てこなくて、胸の辺りに苦しさを覚えた。『前回』の女関係の不誠実さを意図せず思い起こして、ペンを握ることに恐れを抱いた。相手を目の前に置いたコミュニティの活動をしていながら、自分自身の内面ばかりを見てしまっている。だが長谷川の次の言葉で、平手打ちを頬に食らったように全ての葛藤が張り飛ばされた。

 

 「貴方を見ててそう思ったの。きっと羨ましかったんだわ」

 

 聞いた瞬間、湊は呆れた。思わず顔に出してしまいそうになるくらい、本当に呆れた。

 

 (何を言っているんだ、こいつは……)

 

 大嘘吐きの『愚者』を捕まえて、何を言っているのだろう。イゴールに褒められるほどの仮面を使い分ける名人を正直者などと評するのは、ファルロスが陰険だとか、綾時が真面目だとか言うのと同じくらい間違っている。

 

 正直者の有里湊。それは言葉の矛盾とさえ言ってよい。乾いた水と同様にあり得ない。

 

 コミュニティとは道理に合わないものである。『今回』の戦車でそれを悟ったが、隠者においても一つの裏付けを得た気がする。善人と評するよりもなお間違った印象を、相手に与えるとは。

 

 (どんな仮面を見てたんだか……。まあ、どうでもいいか)

 

 自分が今まで何の仮面を付けていたのか、意識するのを忘れていた。だから彼女は自分の何を見て羨ましいなどと思ったのか、想像もつかない。だが理由がどうあれ、こちらに良い印象を持ったのなら、コミュニティを進める上では有益である。そのくらいで湊は思考を停止させ、それと共に己の内面ばかりを見つめる視線も切り捨てた。

 

 「分かった。僕が書くよ」

 

 湊はそう声を出して己の沈黙を破り、机に置かれた新聞の原稿を手に取った。そしてスペースを何で埋めようか、改めて考え出した。冷静さを取り戻したので、自分のペンももう恐れはしない。やろうと思えば浮気問題でも書けるだろう。

 

 (でもこれは高校生向けだからな。あんまり不穏なものは書けないな)

 

 クソの役にも立たない彼女の恋愛経験とは、どんなものなのか知らない。だが学級新聞に載せられる類のものではないのかもしれない。自分の経験も浮気問題は新聞には載せられない。だがそれ以外にも書くネタはある。

 

 (ただ……紀貫之で書いた方がいいな)

 

 平安時代は女が使うものとされていた仮名文字で日記を書いた人、鳥海が言うところのネカマになることにした。何しろ保健委員に男は湊しかいない。男の視点で書いてしまっては、この記事がヤラセであることを大西が漏らしたりしたら、作者がバレてしまう。そうなって話の元ネタを人から追及されたりしたら面倒である。

 

 そうして湊は『彼氏が遠くにいて寂しい』というお便りを書いた。今は遠く南の島にいる女性、正確にはそれに近い存在を思い浮かべながら。

 

 (まあ、もうすぐ再会するんだけどな)

 

 そんな近い将来に予定されていることを思いつつ、湊は『寂しいなら会いに行け』という主旨の回答を書いた。そちらも女の視点で。

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