ペルソナ3 滅びの意志   作:三尺

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太古の日々より(2009/7/11)

 「みんな、いつもご苦労様。今日集まってもらったのは、朗報があってね……」

 

 七夕の戦いから四日が経過した。今日はあれ以降で幾月が初めて寮を訪れ、全員が作戦室に集合している。

 

 夏の暑さが夜にも浸透し始めるこの季節にあっても、幾月はスーツを綺麗に着こなしている。ウェーブした長髪に縁どられた顔には汗が一つも浮かんでおらず、まさに紳士然とした佇まいである。そんな穏やかな大人の雰囲気を醸し出しながら、集まった皆に向けて話を始めようとしていた。

 

 『前回』のこの日の会合では、幾月の話に先立って美鶴が7日の戦いのあらましを報告していた。しかし『今回』は前線メンバー全員で白河通りのホテルに向かい、風花は作戦室からサポートを行っていた。そして幾月も作戦室に残っていた為、戦いがどのようなものだったのか、リアルタイムに見聞きしていたはずである。従って報告の必要はない。

 

 だから幾月は最初から本題に入ろうとしている。だがそれを遮る人がいた。

 

 「待ってください。この際なんで、桐条先輩に聞きたいことがあります」

 

 ゆかりである。何事かと皆の視線が集中し、湊もそちらを見た。ゆかりは『前回』もこのようにして幾月を遮っていた。いつも強気な彼女であるが、今日は取り分け気合が入っている。ある種の決意が漲っていると言っても良い。

 

 「ずばり聞きますけど……先輩、私たちにまだ大事なこと言ってないんじゃないんですか? 例えば影時間やタルタロスのこと、分かんないみたいに言ってましたけど……。あれって、十年前の事故と関係あるんじゃないんですか?」

 

 「ゆ、ゆかりちゃん……」

 

 前置きもそこそこに、いきなり踏み込んだ。風花は心配そうにしているが、ゆかりはそちらを振り返らない。誰に止められようと、止まる気はないようである。

 

 6月の終わり頃、この二人は作戦室で何か密談をしていた。湊はその内容を『前回』も『今回』も聞いていないが、大方は察しがつく。今から十年前、ゆかりの父である岳羽詠一朗が死んだちょうどその頃、月光館学園の生徒が一度に何十人も不登校になる事件があった。ゆかりはそれが本当に不登校であったのか疑問を持ち、シャドウに精神を奪われた影人間と結びつけて考えた。その裏付けを風花に頼んだのであろう。そしてその推測は正解だったわけである。

 

 「ちゃんと説明してください! あの日、本当は何があったんですか!?」

 

 「……」

 

 「あの、ちょっといいすか」

 

 美鶴が沈黙する中、『前回』のこの会合では特に発言のなかった順平が口を挟んできた。重い雰囲気を嫌う順平だが、その表情にふざけた感じはない。

 

 「十年前の事故とか、俺は分かんねえっすけど……何か隠し事してるってんなら、やめてほしいっす。俺だって命懸けてんすよ」

 

 「……」

 

 「つか、みんな一緒っすよね?」

 

 順平は作戦室の一同を見回した。美鶴は俯き、真田は僅かに眉を顰めている。そして彼らとは対照的に、幾月の表情には何の変化もなかった。そんな皆の反応を確認してから、湊は順平に視線を送った。するとちょうど目が合った。

 

 「……」

 

 湊は口に出しては何も言わなかったが、順平の言い分は正しいと思えた。真実を何もかも明らかにすることが正しいとは限らないが、それでもこの場では、ゆかりと順平が正しい。

 

 「そうだな……君の言う通りだ。命懸けのことをさせて、隠し事をするのはフェアじゃない。分かった、全て話そう」

 

 美鶴は顔を上げ、『真実』の告白を始めた。湊は既に知っていることだが、この日ばかりは改めて耳を傾けることにした。

 

 「シャドウにはいくつも不思議な能力がある。研究によれば、それは時間や空間にさえ干渉するものらしい。私たちは敵と思っているからあまり意識しないが、もしそれを利用できるとしたら……どうだ? 何か大きな力になるかもしれないと思わないか?」

 

 「え……?」

 

 一見すると関係のなさそうなことから始まった話に、ゆかりは怪訝な顔をした。だが美鶴はそれに構わず、告白を続けた。曰く、今から十四年前にシャドウの利用を実行した人物がいる。桐条グループの先代にして美鶴の祖父、桐条鴻悦である。

 

 鴻悦がシャドウを利用して何をしようとしていたのかは、美鶴も詳しくは知らない。だがとにかく鴻悦は研究者を雇ってシャドウを大量に集め、その能力を研究させた。しかし十年前、計画の最終段階で暴走事故が起き、実験は失敗に終わった。その時の痕跡として残ったのが、影時間とタルタロスである。

 

 集められたシャドウは飛散して姿を消した。満月の度にやって来るのは、この時のシャドウである。そしてタルタロスが月光館学園に現れるのは、そこが十年前の実験の場所であったから。当時の生徒が大量に不登校、ではなく入院したのも、事故が原因である。

 

 そこまで話が進んだところで、ゆかりは核心に噛みついた。

 

 「それじゃ、この部の活動って……無関係の私たちを使って、その時の後始末ってこと?」

 

 (ゆかりは無関係……だな)

 

 湊は口には出さなかったが、内心でゆかりに同意した。彼女の父親は事態の中心に極めて近いところにいたが、彼女自身は無関係である。そして順平、真田、風花は完全に無関係だ。

 

 「……騙したんですか?」

 

 「……」

 

 ゆかりは怖い目をして美鶴を睨む。だが美鶴は再び俯いて答えようとしない。するとゆかりは矛先を転じた。

 

 「真田先輩だって知ってたんでしょ? これじゃ私たち、都合よく利用されてるだけじゃない!? それとも先輩は、戦う理由なんてどうでもいいってことなんですか?」

 

 「……理由か」

 

 真田はゆかりから目を逸らした。奥歯を噛み締めたようで、顎が僅かに揺れた。だが黙り込みはしなかった。

 

 「理由がなければ……遊びと同じなのか。目的がなければ、流す血に価値はないのか?」

 

 (おや……?)

 

 『前回』の真田はこの時、理由ならあると言っていたはずである。ただいかにも歯切れの悪いもので、ゆかりの非難は図星だったと湊は見ていた。だが今の真田は大量の苦虫を噛み潰しながらではあるが、前と異なることを言い出した。

 

 「明彦……! お前は何も悪くない。黙っていたのは、私の意思だ」

 

 すかさず美鶴が真田を庇った。美鶴は美鶴なりに、責めを自ら負うつもりでいる。

 

 「隠す気などなかった。だが筋道よりも、君らを確実に引き入れることの方が、私には大切に思えた。理不尽だろうと、戦えるのはペルソナ使いだけ……。世界で私達だけだからだ」

 

 「今さら……!」

 

 (確かに、今さらだ)

 

 ゆかりの怒りはなおも収まらない。だが当然である。ほぼ全ての真相を知っている湊の目から見ても、この件の非は美鶴にある。ただ隠し事を非と言うならば、美鶴より遥かに大きな非が湊にはある。それを自覚している湊は、視線を床に落としてゆかりを見ないようにした。

 

 もし自分の隠し事を知ったら、ゆかりはどんな顔をするだろうか――

 

 もちろん『前回』の存在そのものは誰にも伝えるつもりはないし、発覚する危険があるとも思えない。だが万が一自分の真実を彼女が知ったら、きっと今以上に激しい怒りを見せるだろう。

 

 (済まないな……)

 

 『前回』のことを明かさないのは、到底信じられる話ではないから、というのが最大の理由である。しかし『前回』得た知識を元にして、ゆかりと美鶴の仲を取り持ってやるくらいはできたはずである。何しろ二人の性格と立場は、本人以上に理解できていると言っても過言ではないのだから。

 

 それにも関わらず二人を放置していたのは、いずれ特別課外活動部の主導権を湊が握る為だ。もし二人が早々に和解してしまったら、部全体の人間関係が大きく変化することは間違いないし、今月下旬に予定されている屋久島での出来事も『前回』と様変わりしてしまう可能性がある。そうなると計画が狂う。

 

 もちろん湊が部を掌握することそれ自体も、『前回』にはなかったことだ。だがそれを実行に移すのは、もう少し先の予定なのだ。それまでは可能な限り、部の状況を『前回』と同じにしておきたい。もっとも今日の順平と真田のように、既に変わってしまっている点もあるのだが。

 

 そしてそんな部の中で、言動が『前回』と変わっていない男がいる。幾月だ。

 

 ただ変わっていないのが良いのか悪いのか、湊は時々迷うことがあった。コミュニティで磨いてきた観察力をもってしても、幾月に裏を伺わせる点を全く見つけられないのだ。『今回』初めて顔を合わせた4月20日以来、幾月が寮を訪れる度に観察を重ねてきたが、善良な仮面の下の本性がどうしても見えない。

 

 『前回』の11月に風花とアイギスが言っていたが、幾月の振る舞いは演技だとすれば完璧すぎるのだ。普通の人間は嘘を吐くと何らかのサインが必ずどこかに出る。暑くもないのに汗をかいたり、視線が不自然に泳いだりする。美鶴が良い例だ。だが幾月はそうしたところがない。もしかするとこの幾月は『前回』とは別人で、実は本当に嘘を言っていないのでは、と疑ってしまうことさえある。

 

 そんな幾月はやはり『前回』と同じセリフを口にした。

 

 「岳羽君。罪は過去の大人たちにある。そして彼らは、みんな自らの行いによって命を落とした。今はもう当事者はいないんだ。謂れのない後始末なのは、みんな同じなのさ」

 

 「でも……」

 

 正論である。実際には当事者は何人か生き残っているが、それでも正論である。幾月の本性を考慮に入れてさえ、言っていることそのものは正しい。むずかる子供を諭すような言葉に、さすがのゆかりも怒りを飲み込んだ。

 

 「事故から十年……シャドウたちがどうして今になって目覚めたかは、本当に分からない。でも目覚めたってことは、見つけて倒せるってことでもある。これ、どういうことか分かるかい?」

 

 ゆかりが大人しくなった隙を突いて、幾月は本題を改めて語り出した。沈滞した部屋の窓から外の風が流れ込むように、作戦室の空気が急激に入れ替わり、全員の視線が幾月に集中する。

 

 「あの十二体こそ、全ての始まりなんだ……と言ったら、分かるかな?」

 

 「奴らを全部倒せば……影時間やタルタロスも消える?」

 

 皆の中で真田が最初に気付き、目を見開いた。

 

 「その通り!」

 

 幾月は笑顔で宣言し、皆が一斉にざわついた。本当かと確認の声が飛ぶが、幾月は自信を持って頷いた。確証となる記録の類もあるらしい。

 

 「事情はどうあれ、人を守る為なのは変わらない。シャドウたちは、段々力をつけている。待っているだけじゃ勝てない」

 

 「……はい」

 

 かくして作戦室の雰囲気は完全に変わってしまった。こうなっては、戦いを降りるとは誰も言い出せないだろう。『前回』と若干の違いはありつつも、全体の流れは変わらなかった成り行きを見守っていた湊は、内心で頷いた。

 

 (今日のところはこれでいい。どうせ十年前の真相や影時間とタルタロスを消す本当の方法は、僕の口からは言えないんだ。色んな意味で……)

 

 そうして集まりは解散となった。ゆかりと美鶴に気まずい感じは残ったままだが、決定的な対立には至っていない。去り際には互いが目を合わせたが、黙って作戦室を出て行った。順平は話の全体像を今一つ理解しきれていないようで、風花に改めて説明を頼んでいる。真田は誰とも目を合わせず、足早に出て行った。そして幾月は悠然と席を立った。

 

 

 湊は作戦室を出るとラウンジには行かず、二階の自室に直行した。そして椅子に座って机に肘をついて両手を組み、思考の海に潜ってみた。今日の会合はかなりの長時間に渡って行われた為、既に夜は更けている。普段であれば床に就く時間帯だが、この日は考え事を続けていた。

 

 (あの時、僕は何をしたんだろう……)

 

 影時間とタルタロスを消す方法である。今日の会合で幾月が語った方法は嘘だ。だが消す方法は実際に存在する。存在するのだが、その具体的な中身は湊にも分からない。と言うより、覚えていない。どうやってニュクスに立ち向かえば良いのか、『前回』の1月31日に自分は何をしたのか、未だ思い出せていないのである。

 

 だが覚えていないことそれ自体は、それほど深刻に考えていない。いざその時が来れば、必ず分かることだからだ。『前回』は何の成算もないままその日を迎え、それでいて実際に何とかできたのだから。ならばたとえ記憶を取り戻せなくとも、再びユニバースを得てニュクスと直接対峙すれば改めて気付くはずである。

 

 問題なのは、方法が直前まで分からないままでは、卒業式の日に死んでしまった『前回』と同じ結果に終わる可能性が高いことだ。どうすればあの日を越えて生き続けられるか。この『今回』最大の難問に対しては、ずっと解答が見つからないままでいる。

 

 (そもそも解答なんかないのかもしれない。でもまあ、シーシュポスにさえならなければ、まだ許せる……)

 

 もちろん生き延びられれば、それに越したことはない。だが時間が再び戻りさえしなければ良い、という考えもあるのだ。時間が戻った原因も不明だが、『前回』の一年間に後悔を感じていた為ではないかと思っている。そちらへの対処は今のところ順調に進んでいる。現在進行中の計画と今後に実行予定の計画が上手く運べば、荒垣と桐条武治、そしてストレガの三人は助けられるはずだ。そうなれば、たとえ卒業式の日に再び死んでしまっても、この世に残す未練は『前回』よりずっと少なくなる。

 

 (もっとも、ニュクスが来るまで生きられたらの話だが)

 

 唯一の問題は、ニュクスの来訪前にシャドウとの戦いに負けて死ぬことだ。『今回』の戦いにも少しずつ慣れてはきている。だが油断はできない。たった一つのミスが命取りになるほど苛烈なのだ。そして負けたら最後、もう誰にもどうしようもなくなる。この世の終わりが静かに訪れるのを、黙って見ていることしかできなくなる。

 

 (いよいよとなったら……ファルロスと心中するしかないな)

 

 組んだ両手を解き、机の引き出しから召喚器を取り出した。拳銃を模した無骨なフォルムのそれを目の前に立て、じっと見つめる。普段は指一本で回せるくらい軽いのに、どうしてかやけに重く感じる。

 

 もしシャドウとの戦いで完全に追い詰められたら、取れる手段は二つ。タナトスを召喚して目に映るもの全てを皆殺しにするか、或いはファルロスを殺して自分も死ぬか。どちらもやりたくないことだが、覚悟だけはしておかねばならない。ただし、それとて11月3日までの期限付きの手段だが。

 

 そんなことを改めて考えている間に、0時になった。

 

 「こんばんは」

 

 一日の間に隠された神秘の時間は、毎晩必ず訪れる。だがその原因となった存在は、毎晩は訪れない。現れるのは何か伝える事柄がある時か、注意を促す時だけである。そんな究極の神秘に包まれた少年は『前回』のこの日は姿を現さなかったが、『今回』は現れた。

 

 「ああ」

 

 湊は召喚器を机にしまい、椅子を回転させて座ったままファルロスの側に向き直った。たった今、最終手段として殺すことを考えていた当の少年に。そんな湊の心中を知ってか知らずか、少年はいつも通りの笑顔だった。湊の側もいつも通りに真摯に応じた。四日前のホテルでは怒鳴りつけたが、それをいつまでも引きずるようなことはない。『愚者』は気持ちの切り替えが得意だし、ましてこの少年には他のコミュニティの担い手に対するものとは明らかに違う感情を抱いている。ただしその感情が何と呼ばれるものであるのかは、本人も理解していないのだが――

 

 「懐かしい話だったね」

 

 「そうだな。お前が生まれた時の話だもんな」

 

 作戦室での美鶴の告白である。ファルロスは通常の二十四時間の間にも、湊の目を通して外界の事象を認識できる。ただし何から何まで全部見ているわけではなかろうが。

 

 「ねえ、ちょっと話したいことがあるんだけど」

 

 「何かまた思い出したのか?」

 

 『前回』の明日の影時間では、思い出したことがあったと話をしていた。曰く、『終わり』が来る原因は十年前にある、とのことだった。今にして思うと、ファルロスが要所ごとに語ってきた思い出話は、一連の事態の核心に関わることばかりだった。

 

 「いや、前から知ってたことだけどね……。前は言いそびれていたけど、ひょっとしたら大切なことかもしれないと思って」

 

 「何だ?」

 

 「シャドウって何なのかってこと。君は知ってる?」

 

 「ニュクスの復活だろ」

 

 『前回』の12月2日、ムーンライトブリッジでアイギスを半壊まで追い込んだ綾時は、シャドウの正体についてこう言っていた。

 

 「そうなんだけど……それは目的だよ。そもそも何者かってこと」

 

 「タルタロスから湧いて出てくる化け物だろ」

 

 「違うよ。みんなそう思ってるみたいだけど、それじゃおかしいでしょ。僕が生まれる前からシャドウはいたんだから」

 

 「……」

 

 現時点での特別課外活動部は、シャドウはタルタロスから生まれる謎の怪物だと認識している。今日の集まりの後で風花が順平におさらいをしてやっていたが、タルタロスがシャドウを生み出すとそこでも話していた。そして実際のところ、シャドウはタルタロスでは無尽蔵に出現するから、それは間違いではないはずである。

 

 だがファルロスが言う通り、十年前にタルタロスや影時間が発生する前からシャドウは存在した。そうして集められたシャドウによって、ファルロス即ちデスが生み出されたのだ。よってタルタロスはシャドウの起源ではない。繁殖地ではあるかもしれないが。

 

 「興味ない?」

 

 「いや……続けてくれ」

 

 「簡単に言うと、シャドウはペルソナと同じものだよ。同じだから倒せるんだ」

 

 人間は誰しも無意識の下に抑圧された精神を持っている。それは己の暗部であったり、こうなりたくないと思う姿であったりする。そうした精神的な存在を意識的に制御したものがペルソナであり、制御を離れて出て行ったものがシャドウ。ファルロスの話を総合すると、大体このようなところだった。

 

 「すると何だ。毒をもって毒を制すってことか?」

 

 「そうだよ。僕を生み出した人たちなんかは、それを知ってたはずだけどね……。君たちは聞いてないんだ?」

 

 幾月なら知っているだろうが、そうした話は一度もなかった。恐らくは美鶴も知るまい。だがこの情報は今現在の戦いそのものにはあまり役立たない。シャドウは倒すしか対処のしようがないのだ。正体を知ったところで、特別課外活動部のやることは変わらない。変わるとしたら、戦いの意義だ。

 

 「ということは……ニュクスを何とかして影時間とタルタロスを消しても、シャドウは絶滅するわけじゃないのか?」

 

 「しないね。数は少なくなるだろうけど」

 

 「それは……参ったな」

 

 思わず額に手を当ててしまった。命と引き換えにしても事態の完全な解決に至らないのでは、一体どうすれば良いのだろうか。無力感と徒労感が合わさった、憂鬱な気持ちに襲われてしまう。

 

 「仕方ないんじゃないかな。人間がいる限り、シャドウはいなくならないよ」

 

 人間がいる限り――

 

 真理である。災いは常にあるもの、とストレガのタカヤは『前回』の8月の満月で言っていたが、それと同様に真理である。残念なことではあるが。

 

 「そうか……まあ、犯罪と同じようなものか」

 

 湊は憂鬱を切り捨てた。悪がこの世からなくなることはあり得ない。神ならぬ身には悪の根絶など夢物語に過ぎず、現実には絶対に不可能だ。人間にできることといえば、悪の数を減らすことくらいである。ただ時代によっては、過去より悪が増えることもあっただろうが。

 

 「要するにシャドウは大昔から存在して、将来もずっと存在し続ける。それこそ人類の歴史と共にあるわけか」

 

 「そうだよ」

 

 「するとシャドウは昔からニュクスを呼び続けていたってことか? 十年前どころか、何千年も前から」

 

 「まあ、そうだね」

 

 母なるものニュクスの復活こそが、シャドウの目的。そして太古の昔から連綿と受け継がれてきたシャドウの系譜。タカヤに言わせれば、人類の歴史とはシャドウの歴史。そして歴史そのものの目的が、もう間もなく果たされようとしている。ニュクスを呼び続けた声が、まさに今この時に実を結ぼうとしている。それこそが『祝祭』である、とでも言うのであろう。

 

 「何と言うか……ご苦労様ってとこか。月に恋したって、降りてくるわけじゃないのにな」

 

 『Cry for the moon』という英語の慣用句がある。意味は『不可能を望む』。大昔からシャドウは月に向かって吠え続けていた。しかしその行為そのものには何の意味もなかったはずだ。意味があるなら、とうにニュクスはこの世に舞い降りていたはずである。望むのは勝手だが、望んだからといって叶うわけではない。信仰がいくらあっても、山は動かせない。動かすことができるのは、宣告者だ。

 

 「うん……ニュクスを呼ぶのは僕だよ。僕だけだ……」

 

 ファルロスは表情を沈み込ませた。『前回』はただ無邪気だった少年は、『今回』は己が何者であるのか初めから知っている。自分の意志ではなく、ただ存在意義として世界の終わりを呼ぶ者。人の心を持つ死神とは、それ自体でどれだけの悲劇であろうか。

 

 「……」

 

 他人に対する真実の気持ちを持たないはずの『愚者』の心に、痛みを伴う何かが湧き上がってくる。それが何であるのか、慣れない湊にははっきりとは分からない。諸悪の根源に等しいファルロスに対してどうして親愛の情を抱くのか。5月の満月の際に思ったこの疑問に対する解答は未だ得られていないが、それと同様に分からない。

 

 「ごめんね……僕は生まれて来なければ良かったんだ」

 

 しかし頭で理解できなくても、心には動いているものが確かにある。顔と口を自在に操れる『愚者』であっても、情が全くないわけではないのだ。

 

 湊は椅子から立ち上がり、悲しむ少年の元へ歩み寄った。そしてその小さな肩に、そっと片手を置いた。他人の目には見えない幻のような存在であるはずのファルロスの体は、不思議と温かかった。普通の人間より高いくらいの温もりが掌から伝わってくる。

 

 「いいんだ。責任は僕が取るから」

 

 床に膝をつき、両腕を子供の背中に回して抱き締めた。

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