旅行二日目の夜が来た。この日の夕食は寮生全員に幾月を加えた面々でもって、桐条別邸のダイニングルームで取ることになった。メニューは本格的なフランス料理で、アミューズから始まって前菜、スープ、更に主菜が複数と、フルコースが順番にテーブルに運ばれてきた。
ちなみに桐条武治は屋敷にはいるものの、食事は別らしくこの場にはいない。その代わりと言っては何だが、アイギスがいた。彼女はものを食べることは一応可能なのだが、本来は必要ない。だから彼女の分は用意されていなかったのだが、席には着いていた。もちろん湊の隣である。
「食べるか?」
「はい、頂きます」
湊はそうやって一皿ごとに、自分が手を付ける前にまず一口分をアイギスに渡していた。大抵のものは使用人に用意してもらった小皿に乗せるのだが、スープのように盛るのが難しいものはスプーンから直接食べさせた。
「ぐぬぬ……」
そんな二人の向かいの席で歯ぎしりしているのは順平である。
「ロボなのに、ロボなのに……でもカワイイ……。何なんだ、この敗北感は……」
『前回』のこの頃の順平は、可愛いのにロボットとは、と妙な具合で悩んでいた。だが『今回』のアイギスは言動に機械らしさが希薄な為か、前提と結論が逆転している。もちろん今も体は機械そのものなのだが、ワンピースを一枚着ているだけでそれらしい箇所はほとんど隠れる為、印象としてはどうしても人間に見えてしまうのかもしれない。
それであるから、湊とアイギスのやり取りはまるで恋人のそれのように見えるのだろう。実際、順平以外の面々もいささか微妙な視線でもって二人を見ている。特にゆかりと風花は少々恥ずかしそうにしている。
(全く……後でどうやってフォローしたらいいんだ?)
順平はともかく女性陣とはいずれコミュニティを築くことを思えば、この振る舞いはあまりよろしくない。だがやむを得ない。アイギスに食べさせているのは、実は毒見なのである。
湊を殺す為に、幾月が料理に一服盛っている危険を考慮してのことだ。もちろんいくら幾月でも、厨房に潜り込んでピンポイントで毒を盛るなど容易なことではないだろうし、足がつくリスクも大きい。だから可能性としては低い。だが油断はできない。少なくとも幾月が身近にいる旅行中は、用心に越したことはない。
ちなみに毒見をすると言い出したのはアイギスである。人間なら死ぬような毒でも機械には効かないし、体内に取り込めば成分分析は一瞬で可能だから、とのことだった。
食事を終えると、皆でダイニングルームから応接室に移動した。しかしアイギスだけは機関のクリーニングをすると言って、別行動をしている。寮生と幾月だけになったところで、湊は作戦を開始した。
「理事長、何か面白い話はありませんか?」
最近出番の多い、道化師の仮面を再び使うことになった。『愚者』の仮面は相手に合わせて千変万化するが、その裏にある本性は無気力症だ。だがその更に裏にある顔は道化師であるのかもしれない。
「おや、僕のオンステージをご希望かい? そうかそうか……」
幾月は人の良さそうな笑みと共に、スーツの内ポケットから手帳を取り出した。それと共に、寮生たちは一斉に顔を引きつらせた。
「ちょ、お前、何つーことを……! 南の島に木枯らしを吹かす気か!?」
慌てて順平が止めてきた。確かに順平が言う通り、この流れでは幾月のダジャレリサイタルが始まってしまう。しかし湊は平然と返した。
「夜は暇じゃないか。今から海に行くわけにもいかないだろ」
「え……えと、理事長! ここって遊べるトコはないんすか? ゲーセンとか」
「はは……ゲームセンターはさすがにないけど、レジャー設備は色々あるよ。テニスコートとかプールバーとか、カラオケも完備されてるね」
「へえ、凄いですね。歌うか、順平?」
「お、おう! 歌うともよ! みんなに俺の美声を聞かせてやるぜ!」
かくして皆でカラオケをすることになった。湊にとって、狙い通りの展開である。今月13日に屋久島行きが決まった際もそうだったが、道化師を演じる時には順平は役に立つ。事前の打ち合わせもなしに話を作れるのだから、いいコンビであると言える。友近との漫才の受けが良かったことなどから考えても、愚者と魔術師はこの手の相性がいいのかもしれない。
順平のメドレーが三曲目まで進んだ頃、湊はトイレと称してカラオケルームを抜け出した。むやみに広い桐条別邸であるが、湊は迷うことなく廊下と階段を次々と渡り歩いていく。途中で使用人とすれ違うこともあったが、特に見咎められることはなかった。そして目的のドアの前まで来ると、アイギスがそこにいた。
「部屋には何人いる?」
「一人だけです。桐条武治さんと思われます」
重厚感を発する黒色の扉を、アイギスは目で示した。元々兵器として作られた彼女には、銃撃以外にも様々な機能が搭載されている。人間の体温を感知して、壁の向こう側にいる人の数を数えることもできる。
ここは桐条武治の書斎の前だ。二人はあらかじめ時間を決めて、待ち合わせしていたのである。ただしこれから一緒に行動するわけではない。
「よし、君は行ってくれ」
「私もご一緒した方が良いのではありませんか?」
「万が一幾月に来られたら困る。奴を抑えててくれ。言った通りにな」
「はい……」
あからさまに残念そうに俯いて、アイギスは廊下を湊が来た方向へと歩いていった。その背を見送りながら、湊は昨日に話し合ったことを思い返した。
一生ものの不覚により、アイギスを知っていることを幾月に知られてしまった。その結果として、幾月に狙われかねない状況になったと湊は判断した。その考えを伝えた途端、彼女は血相を変えた。
「私がやります。メンテナンスが必要と言えば、簡単に幾月と二人になれますから。今からでもやります」
怒りの表情を目や口の形で作るだけでなく、顔の人口皮膚も赤く染まった。感情の表現がすっかり板についている。だが湊は首を横に振った。
「駄目だ」
「どうしてですか!?」
「人を殺せば、君は必ず処分されてしまう」
人を殺したペルソナ使いなら、荒垣の例が既にある。だが一般人を事故で巻き込んでしまった荒垣と違って、シャドウ研究の第一人者を意図して殺したとあっては、いかに貴重な戦力になる対シャドウ兵器とはいえ絶対にただでは済まされない。悪くて廃棄、良くても人格領域を総入れ替えされるだろう。もちろん証拠を残さずにおくような、器用なやり方を彼女に期待するのは無理な話だ。
「私は貴方を守りたいんです。私にできることは、それくらいですから……」
「僕は君に生きていてほしい。でないと、今をやり直す意味がない」
これは本音である。大嘘吐きの『愚者』ではあるが、これは嘘ではない。ここでアイギスを失ってしまっては、来年1月まで戦い抜く気力ごと失ってしまう。
「湊さん……」
嬉しいのと悲しいのと悔やまれるのと、様々な感情が同時に現れる微妙な陰影がアイギスの青い瞳に現れた。もし彼女が絵画や彫刻であったなら、どれほど才能溢れる芸術家の手によって生み出されたのかと、人々の感嘆を惹き起こすだろう。人間でもこれ程の表現力を見せる瞳の持ち主はめったにいない。
「ごめんなさい。私、貴方の姿を見たら嬉しくて嬉しくて……抱きついてしまいました。そのせいで、貴方を危険な目に……」
「君のせいじゃない」
そう。この危険は決してアイギスの責任ではない。それを再確認して、湊は意識を現在に戻した。そして覚悟を決めて、書斎のドアを鋭く見つめた。
蛇足であるが、湊と別れたアイギスはカラオケルームに向かった。そして幾月の歌を褒めちぎって煽り立て、次々と歌わせた。これが湊の指示した、桐条武治と会話する時間を稼ぐ方法だったのだ。
考案した湊自身も馬鹿馬鹿しい作戦だと思ったが、成算はあると睨んでいた。なぜなら『前回』も今晩はカラオケで、幾月と順平のメドレーで大いに盛り上がった(?)のだった。今日の昼間のビーチにおいて、それまでの流れを無視して突然ナンパ勝負が始まったように、この二度目の一年間は変なところで『前回』と同じ出来事が発生する。あたかも運命的な強制力が働いているかのように。それだから、カラオケとなれば幾月は大いに歌うはずだと湊は推測していたのだ。
そして案の定と言うか、作戦は大成功だった。その代償として、アイギスは仲間たちから少々恨まれてしまったが。
書斎のドアをノックすると、誰何の声が聞こえてきた。
「有里です。夜遅くに済みませんが、大事な話があります」
「入りたまえ」
普通に考えれば、大企業の総帥を夜中にアポなしで訪問するなど高校生には無理な話である。だが幸いにも、入室は簡単に許可された。してみると特別課外活動部の特殊性からして、桐条武治は美鶴以外のメンバーもそれなりに重く見ているようである。
入ってみると、書斎の広さは二十畳ほどもありそうだった。部屋の中央には応接用のソファーセットが置かれていて、そこを勧められた。言われるまま腰を下ろし、武治の隻眼を真っ直ぐ見つめる形になった。
「何かね、話とは」
『前回』を通じても、武治と一対一で話すのはこれが初めてだ。こうして対峙してみると、まさに鋼鉄でできた人間とでも形容すべき迫力が肌で感じられるほどに伝わってくる。同じ会社経営者でも、時価ネットのたなかなどとは格が違う。しかもたなかとはコミュニティを通じての接触だったが、武治にはそれがない。絆を教える『我』の助力なしにこうした相手と話すのは、かなりの神経を使いそうだと感じた。できればやりたくないことだったが、状況的にやむを得ない。
「十年前の実験で飛散した十二のシャドウは、満月になる度にやってきます。僕たちは既に六体倒し、残る六体を倒せば影時間とタルタロスが消える……と、幾月さんから説明されました。桐条さんも、もちろんご存知ですよね?」
「無論だ」
「残念ですが、それでは事態は解決しません」
「なぜだね。幾月の分析に誤りがあると?」
分析との言葉から、湊は桐条グループのシャドウ研究の内実を少々察した。十二のシャドウを倒せば影時間とタルタロスが消えるとの説について、幾月は例のビデオ以外の根拠を特別課外活動部に示していない。だが根拠はあれだけではないはずだ。もちろん重大な記録ではあろうが、それだけを拠り所とするほど桐条グループは単純ではないはずである。
湊には想像するしかないことであるが、タルタロスや影時間そのものの観測データか何かを満月ごとに分析することで、例のビデオの裏付けが取れたと幾月から報告されているのだろう。そしてそうした分析内容を、専門家でない湊が反駁するのは不可能である。故に武治には本当の真実を話さざるを得ないのだ。全部ではなくても、その一部なりとも。
「始まりのシャドウの数は、十二ではありません。十三です。最後のシャドウを、僕は十年前にこの目で見ました」
「何……?」
武治は訝しげな視線を向けてきた。湊はそれを眉一つ動かさずに受け止めながら、内心ではため息を吐いていた。
(言ってしまった……)
言ってしまった。これから命懸けの化かし合いのスタートだ。
湊は話せる限りのことを話した。残る六体の満月のシャドウを全て倒してもタルタロスと影時間は消えないこと、なぜなら十三体目のシャドウが存在するからであること、十年前に十三体目とアイギスの戦いを目撃したこと、そして幾月に裏があることを。
ただし話さなかったことも色々ある。例えば今は十三体目であるデスがファルロスとして、自分の体内に封印されていることだ。デスは十年前にアイギスを半壊状態に追い込んだ後、どこかへ飛び去ったことにした。更にデスは普通のペルソナ使いには倒せず、倒しても記憶を失うこと、宣告者としてのデスの役割、そしてニュクスの来訪による世界の終わりは伏せた。
もっとも話さなくても、様々な情報からそこに辿り着いてしまう可能性はある。それが心配の種なのだが、幾月に狙われかねない今の状況では武治に話をせざるを得ない。
特別課外活動部の最大戦力でもある『愚者』が、ペルソナを持たない幾月を恐れるなどおかしな話のようだが、人間同士の戦いはシャドウ相手のそれとは本質的に異なる。人間がペルソナ使いを殺すには、拳銃一丁か毒一瓶でもあれば事は足りる。そして幾月も『愚者』だ。嘘と演技で他人を利用することにかけては、湊の上を行くと言ってよい。武治に何かを吹き込んで、湊を殺すよう仕向けることさえ不可能ではない。それを避ける為には、武治を味方にせねばならない。
「ならばなぜ、今まで黙っていたのかね?」
「昨日思い出したのです。十年前に何があったかを。アイギスと会って、あの時の記憶が戻りました。昨日まで忘れていたのは、影時間の適性を得たことによる記憶障害かもしれません」
記憶を失っている原因についてはともかく、取り戻したとの話はもちろん嘘だ。だが『前回』の経験で知っているから、などと話しても信じてもらえるはずがない。また、デスの存在だけを話すのは不自然すぎる。なぜそれを知っているのか、という問題があるからだ。話に信憑性を持たせる為には、十年前の出来事を話さないわけにはいかない。そしてアイギスと出会ったこの屋久島旅行のタイミングなら、その脈絡の中で話ができる。
『前回』は最後まで十年前の記憶を取り戻せなかったし、今も覚えていないが、記憶が戻ったと言い張ることはできる。当時の詳細まで追及されたら、アイギスに説明させればいい。
「君個人の記憶か。それだけかね?」
武治は疑いの目を向けてきた。だがこの反応は想定の範囲内だ。世界的な企業グループの総帥を、他人を容易く信じるようなお人好しが務められるわけがない。
「それになぜ、幾月が我々を謀っていると言えるのだね」
(来た……)
そうなのである。十二のシャドウを倒しても事態が解決しないことと、幾月に裏があることは別の問題だ。普通に考えれば、単に幾月が誤認していたと思うはずだ。信頼している部下ならばなおさらである。研究者として失点ではあっても、それだけで裏切者と見なすのは早計だ。だがこの質問こそ、湊が待っていたものだ。
(大丈夫だ。会話の主導権は握れている……)
顔には出さず、内心だけで決意を新たにした。そして切り札を出した。
「信じられないのも無理はないですね。長年尽くしてきた部下と、昨日会ったばかりの高校生のどちらが信じられるかと言ったら、決まっているでしょう。ですが証拠はあります」
「それは?」
「昨日見せてもらった、岳羽詠一朗さんのビデオです。あれは改竄されている可能性があります」
「何だと……?」
武治の表情が変わった。たとえ鋼鉄のような人間といえども、桐条に取り殺された岳羽詠一朗には色々と思うところがあるだろう。その遺言が改竄されていると聞いては、平常心ではいられない。動揺した隙を突いて畳み掛けてやった。
「研究主任だった岳羽さんなら、例の実験を行えばどうなるか初めから分かっていたはずです。そして彼が……岳羽ゆかりが信じていた通りの人物なら、成功目当てに実験に加担したとは思えません。その点だけでも、あのビデオ自体を疑う理由にはなりませんか?」
実は少々詭弁を混ぜている。幾月への信頼度と比較する相手を、自分から詠一朗へとすり替えた。しかもゆかりをダシにして、詠一朗の人柄に論点をずらした。現時点では武治は湊より幾月を信頼するに決まっているが、幾月と詠一朗ならば迷うだろう。
「むう……」
案の定、武治は真剣に考え込み始めた。こういう時は、相手を更に考えさせるのだ。それには難度が高く、しかも無視できない問題を連続してぶつけてやるのが最良だ。はまり込んだら最後、解決するまで引き返せない思考の袋小路まで一気に追いやってしまうのだ。こちらの詭弁に気付く前に。
「もしかして……実験が失敗したのは、そうなるように岳羽さんが仕向けたからではありませんか? 彼が本気で実験をやるつもりだったのなら、そもそも失敗するはずがないのでは……」
「……」
遂に武治は唸り声をも飲み込んだ。あと一押しだ。迷っている人間を誘導するには、道を示してやればいい。そして道を歩き出したら、もうこっちのものだ。たとえ道案内が嘘を吐いていても、道そのものは正しいのだから。
「あのビデオを調べてくれませんか。改竄の跡が見つかれば……いや、真実を見つけられたら、僕の言うことを信じてください」
「分かった。ビデオは調べさせよう」
「ありがとうございます」
言質を取った。これでいい。とにかくビデオの調査をしてもらいさえすれば、物的証拠が手に入る。それで幾月は終わりだ。物的証拠の威力たるや素晴らしい。入手に至る経緯など吹き飛ばしてしまう。そして証拠の入手は、桐条グループなら確実に可能だ。何しろ『前回』は風花にできたくらいなのだから、その道のプロの手にかかれば容易いはずだ。これで武治は真実の一端を知ることになる。
問題はそれを足掛かりに、全てを知ってしまう可能性があることだ。宣告者としてのデスの役割と、それに続くニュクスの来訪。それらの真実を、幾月が完全に理解しているかは微妙だ。桐条鴻悦や詠一朗さえも、そこまで見通していたかは不透明だ。武治がこれを機にあらゆる情報を洗い直したとして、真実に辿り着けるかどうか。『前回』の経験だけでは判断できない。可能性がある、としか言えない。
だがもし辿り着いたら、武治は事態の解決の為に湊を殺すことを、きっと考える。それを避けるには、どうすれば良いか――
(美鶴と仲を深める? いや……美鶴がどう思っても、父親が本気になったら止めようがない。決め手にはならないな)
ある意味で、武治は幾月以上に危険な相手だ。ただで殺されるつもりはないが、大企業を敵に回しては勝ち目が乏しすぎる。昨日のアイギスの突撃で、計画が大きく狂ってしまった。
(いや……仕方ないさ)
ほんの僅かに首を横に振って、アイギスに非を求める考えを放逐した。彼女は彼女の想いがあって、ああしたに過ぎない。たとえ結果的に自分が武治や幾月に殺されようと、その責任は彼女にはない。悪いのは再会の嬉しさの余り、彼女の名前を口走ってしまった自分だ――
湊はいとも容易く気持ちを切り替えた。特に無理して己に言い聞かせなくても、簡単に自分自身を納得させられる。自らの行動に伴う責任は、自らで負う。『契約』は絶対だ。
これは特別な関係になるまいと、女子のコミュニティの担い手を他人に引き取ってもらうこととは話が異なる。命に関わる責任を他人に、ましてアイギスに押し付けることは意識してそうしようと思ってもできないことだった。