一学期の終業式が行われた7月25日、湊は一人で下校した。『前回』のこの日はゆかりに屋上に呼び出され、恋愛のコミュニティを築いたのだった。だが『今回』のゆかりは何も言ってくることなく、むしろ湊と距離を取ろうとするように余所余所しく、終業式が終わるやさっさと帰って行った。だから誰とも一緒にならず、一人で下校することになったのである。
昨日から予期していたことであるが、案の定だった。夏休みや二学期以降にコミュニティを築けるかどうかも不透明な状態である。いや、ほぼ間違いなく無理だと思う。ゆかりは元々他人に対するガードが固く、異性には特にそうだ。もはやゆかりとの関係は、嫌われすぎない程度に留めるのが精一杯だろう。そしてそれは風花と美鶴も似たようなものだ。この三人分のコミュニティは、今後に誰か別の人物と築ければ幸運くらいに思っておいた方が良い。
そうして湊は寮に戻ってきた。そしてちょうど自室に入った時、携帯電話が鳴った。待受画面を見てみれば、番号は非通知だった。誰からなのかある程度予想しつつ、通話ボタンを押した。
「有里です」
『桐条だ。今夜会えるかね?』
相手は名字しか名乗らなかったが、貫録を感じさせる大人の男性の声だった。
「分かりました」
こちらが即答すると電話の向こうの相手、桐条武治は面会の場所と時間だけを告げ、すぐに通話を切った。時間にして一分もかかっていない、何ともビジネスライクなやり取りだったが、重大極まる連絡だ。
屋久島で頼んでおいた、例のビデオの調べがついたのだろう。湊はある種の覚悟を決め、ゆかりたちの件などの余計な考えを頭から追い払った。今後の展開と、自分の命の行方が今夜に懸かっているのだ。雑念の入り込む余地はない。だが――
(一応、言っておくか)
昨日から用意された、三階のアイギスの部屋に向かった。三階に男が立ち入るのは寮則で禁止されているが、湊はもう気にしないことにした。もちろんアイギスも全く気にすることなく、至極あっさり迎え入れた。
入ってみると、湊は若干の違和感を覚えた。『前回』の1月に入った時と、装いが全く異なっている。部屋の中央に置かれていたメンテナンス用の巨大な装置がなく、床には薬莢一つ落ちていなかった。もっともそれは、単にラボからの持ち込みが未だ行われていないからだ。そうした何もない部屋ならば空虚感があるのは当然だが、湊が感じたものはそうした類のものではなかった。僅かであるが生活感があったのだ。言葉は悪いが兵器の格納庫のようであった『前回』には欠片もなかったものだ。
部屋を見回してみると、生活感の正体に気が付いた。どういうわけか、部屋の隅にベッドが一つ置かれていた。アイギスはメンテナンス装置に座る形で眠る為、ベッドなど不要のはずなのに。もっともそれ以前に、そもそも彼女に本当に睡眠が必要なのかどうかからして謎であるが。だが湊は違和感や謎をそれ以上追求することなく、武治から呼び出しを受けたことを伝えた。伝えるだけのつもりだったが――
「私も行きます」
「アイギス……」
「行かせてください! 私なら銃で撃たれても大丈夫です。桐条さんが何をしようとも……私が貴方を守ります」
ニュクスの来訪を阻止する為、武治が湊を殺そうとする可能性があることは既に話してある。だが武治に情報を渡したのは21日だ。それからたった四日で全ての真相を調べ上げ、その結論まで達するとはさすがに考えにくい。だが敢えて同行を断らなかった。
桐条武治が面会場所として指定してきたのは、ポートアイランドのとある高級ホテルだった。もちろん桐条グループが所有するホテルである。外観は巌戸台分寮と少し似ている。
外出用のワンピースを着たアイギスを連れて、制服姿の湊はホテルのロビーに入った。入った途端、寮のアイギスの部屋に入った時に続いて二度目の違和感を覚えた。と言ってもロビーの内装が変だとか言うのではなく、自分たちが場違いな気がしたのだ。ホテルの外観は寮と似ているが、中身はまるで違う。
あの寮は元々ホテルを改装したものらしく、その名残がラウンジには少し残っている。例えば立派なソファーセットや、それこそホテルのレセプションのようなカウンターだ。しかし長い期間に渡って学生しか住んでいなかったせいで、全体としての生活感は庶民のそれにかなり近付いている。特に人数が増えた最近はそうだ。元は立派なテーブルであっても、カップラーメンや牛丼の容器が置かれていると、それだけで雰囲気が大分変わる。
しかしここは現役で営業しているホテルである。それも高級な。高校生が二人連れで来るような場所ではない。しかも制服のままと言うのがなお悪い。せめて着替えるべきだったかと思う。
そんな思いを抱いているうちに、黒いスーツを着た男が近づいてきた。その顔は初めて見るものだった。
「付添いがおられるとは聞いておりませんが」
男はこちらの名を尋ねてくることもなく、いきなり切り出した。どうやらホテルの従業員ではないようだ。武治のSPか何かであろう。よくよく観察してみれば、立ち振る舞いに隙がない。威圧感さえ感じる程だ。だが湊はそんな威圧を軽く無視して、強気に出た。
「彼女と一緒でなければ、お会いすることはできません。そう伝えてください」
SPと思しき男は一瞬眉を顰めたが、すぐに踵を返して数歩離れた。そして携帯電話を取り出し、通話口の向こうに何事か呟いた。
「ええ……いえ、お嬢様ではありません」
話はそこだけ聞き取れた。やがて男は電話を切り、こちらを振り返ってきた。
「ご案内いたします。お連れの方もどうぞ」
かくしてアイギスの同行は許された。案内の間はSPの男は一言も喋らず、黙って先導した。高校生の少年と外国人風の少女を黒服の男が連れて行くとは、傍から見ればかなり不自然な姿である。しかし途中で誰かに見咎められるようなことはなかった。
やがてホテルの最上階にあるスイートルームに辿り着いた。SPの男がドアを開け、湊とアイギスは並んで部屋に入った。
入ってみると、湊は一瞬呆気に取られた。部屋や建物に何かを感じるのは、今日だけでもう三度目だった。桐条武治の泊まる部屋の豪華さは物凄い。屋久島の別邸でもそうだったが調度は古風なヨーロッパ趣味で統一されており、色彩が極端に派手な訳でもないのに目を眩ませるような感覚を与えてくる。
金持ちの生活とは、こういうものなのだろうか。もし美鶴とだけ特別な関係になったら、将来はこういう暮らしを送ることになるのだろうか。庶民育ちの自分には、何とも辛そうだ――
などと埒もないことを考えてしまった。馬鹿なことを、と湊は瞬き一つで下らない思考を外に追いやった。心配しなくても、『今回』は美鶴とそういう関係になることはあり得ない。昨日アイギスが暴走したおかげで、女関係は総崩れで一掃されてしまった。
4月に女子のコミュニティの進め方を検討したが、今にして思うと何という愚かしい計画であっただろうか。蓋を開けてみれば、彼女らとはそもそもコミュニティを築けない結果になってしまった。
「わざわざ済まないな」
部屋の奥に置かれたソファーに座っていた武治の声で、湊は意識を内心から相手に移した。そう、下らないことを考えている場合ではない。これから大きな勝負をしなければならないのだ。立ち向かう決意を新たにして、湊は武治の前まで進み出た。そして歩きながら素早く部屋に視線を走らせた。ただし調度品の類にはもう目を向けない。他に人間がいないかを確認しているのだ。
(この人だけか)
十人くらいは生活できそうな広さの部屋だが、武治以外に人はいなかった。そして案内してきた男も部屋に入っては来なかった。だが油断はできない。スイートルームは複数の部屋を繋げて作られている。廊下に通じていないドアの先で、誰かが控えているかもしれないし、案内してきた男もすぐ外に留まっているだろう。
武治がこの場で自分を殺そうとする可能性は低い。だが警戒する必要はあると考えていた。
「かけたまえ」
勧めに従う形で、湊は武治と対面する位置のソファーに腰を下ろした。だがアイギスは座らず、湊の後ろに立ったままだった。
「なぜ彼女も?」
「私のことは、お気になさらないでください」
言葉とは裏腹に、アイギスの声は低く熱く、猛烈な気迫を感じさせるものだった。きっと声だけでなく、視線も相当に厳しいものを武治に注いでいるのだと思われた。目で見なくても背中越しに殺気が感じられるほどだ。事と次第によっては、問答無用でマシンガンを乱射したりするかもしれない。
「彼女も当事者ですから」
湊は自分から武治と揉め事を起こす気はない。だがアイギスの気持ちも分かるし、むしろこうした物理的なプレッシャーを少しくらいかけてやるのは、交渉する上で有効かもしれない。だから彼女の態度を制しはしなかった。だが武治の反応は意外なものだった。
「聞いた話とは大分違うな。まるで本物の人間のようだ。部下の報告を鵜呑みにするな、とは経営者の心得だが、こんなところでもそれを思い知るとは……」
そう言って、武治はため息を吐いた。肺の空気を全て吐き出すほどの、酷く長いため息だった。経済界の大物にしては、弱弱しい印象を受ける。
「まずはこれを見てくれ」
武治はリモコンを手に取り、ビデオのスイッチを入れた。そしてテレビに岳羽詠一朗の姿が映し出された。
『この記録が……心ある人の目に触れることを願います』
音声は屋久島で見たものと同じセリフでもって始まった。しかし映像は粗くはあるものの、詠一朗の姿がはっきり確認できた。唇の動きまでも見える。画面に映る本当の詠一朗は、ビデオが進むに連れて屋久島のそれと異なることを言い出した。曰く、実験は詠一朗が強引に中断させた為、シャドウは飛散してしまった。それらが後世に悪影響を及ぼすことは間違いない。だがそれでもシャドウに触れてはいけない、と。
『あれらは互いを食い合い一つになろうとする。そうなれば、もう全てが終わりだ。もう一度言う、散ったシャドウに触れてはならない!』
そして最後に娘への想いが語られ、それが終わると共に激しい轟音が発せられた。記録していた現場も爆発に巻き込まれたのであろう。やがて映像も音声も途絶えて、画面は完全なノイズだけになった。
武治はリモコンを再び操作してテレビを消し、湊に向き直ってきた。湊も視線をテレビから武治に戻し、改めて正面から対峙した。
「君の言った通りだった。ビデオを精査してみると、改竄の跡が確認できた。そこで幾月の私物のサーバーをハッキングし、削除データをサルベージしたところ……オリジナルが見つかった」
「やはりそうでしたか」
想定通りだ。これでまずは幾月と武治の間を引き裂くことができた。そうすると次の目標は、事態の解決の為に自分を殺さないように仕向けることだ。
「このこと、お嬢さんには?」
あまり効果があるとは思えないが、取り敢えず美鶴をこの一件に巻き込んでおきたい。少しはプレッシャーになることを期待して。美鶴とコミュニティを築くことは既に諦めているが、それとこれとはまた話が別である。
「伝えるつもりはない。君たちも黙っていてくれ」
「良いのですか?」
一つ食い下がってみた。だが武治は僅かに俯いて隻眼を閉じると、苦悶するような表情を見せてきた。
「あれは幾月に全幅の信頼を置いている。と言うのも、他に頼れる人間がいなかったからだが……。これ以上、あれを傷つけたくないのだ。岳羽主任の娘には、時期を見て私から伝えよう」
(?……何を今さら言ってるんだ)
傷つけるなど、今さらである。美鶴がペルソナやシャドウに関わってきたのは何年も前からだし、そもそも美鶴が戦ってきたのは父親の為だ。それくらい武治も分かっているはずだ。それにも関わらず、こんなことを言う。それは鋼鉄の人間らしくない。閉じられた隻眼にどんな色が浮かんでいるのかと思った瞬間、武治は目を開いた。
「有里君。君を信じて……良いのだね?」
そこにあったのは厳格さや威圧感ではなかった。助けてほしいと縋るような、或いは教会で十字架の前に跪いて救世主に祈るような、そんな色だった。
(あれ、ひょっとしてこの人って……)
信じて良いか悪いか本人に直接聞いて、出てきた答えを信用するつもりなのだろうか。こんなセリフを吐くのは、余程のお人好しか世間知らずの子供か、或いは――
(実はお人好し……? いや、まさか……ストレスで潰れる寸前だったってことか!)
湊は今の今まで気付かなかったが、実は桐条武治の精神はとうに限界に来ていた。十年前の事故以来グループの罪を背負い続け、実の娘にまで償いをさせ、百人もの孤児を実験台にしてきた。美鶴に言わせれば、死に場所を探し続けてきた、という状態だったのだ。挙句に辛い思いをさせてきた娘が、研究主任だった男の娘に責められている。屋久島の夜の時点で、武治の心はそろそろ糸が切れるか切れないか、というところまで来ていたのだった。
そして最後のとどめの一撃を、信頼していた部下の裏切りという形で食らってしまった。その結果、武治は完全に追い詰められてしまった。一度か二度会っただけの高校生を、唯一の頼みの綱と思ってしまうほどに。
(そういうことか……。だったら、まず大丈夫だな)
その綱を自ら断ち切るなど、思い付きもしないだろう。いや、たとえ思い付いたところで、まず間違いなく実行できまい。むやみに広いこの部屋にも他の人間は本当に誰もおらず、武治の懐には拳銃一丁すらも仕込まれていない。湊はそれを確信すると共に、心配の種が杞憂であったことを知って内心で安堵のため息を吐いた。もちろん顔には出さず、代わりに誠実な仮面を表に出した。
「はい。貴方が僕を裏切らない限り、僕は貴方やお嬢さんの味方です」
「……済まない。恩に着る」
人は幾つもの仮面を付けて生きているが、それは大人も子供と同じだ。むしろ大人の方が数は多い。では大人の方が仮面の扱いが巧みかと言えば、そうとは限らない。逆に付け続けた仮面に疲れてしまって、子供より地が出てきやすい人もいる。例えば塔のコミュニティの担い手である無達は、絶望したくなければ期待しなければ良いなどと嘯いていたが、事あるごとに家族を恋しがる本心を覗かせていた。酔っ払って湊を息子と勘違いした時など、まさに地が出ていた。
桐条武治の場合で言えば、貫録のある声や容貌が与えてくる厳格な印象は仮面に過ぎない。それも長年のストレスで砕け散る寸前まで疲労した、ひびだらけの仮面だ。武治の本当の顔は、ただの善人だ。誰かの助けがなければ立っていられないくらいに、優しい人だ。
(そう言えば、幾月はこの人を思い切り馬鹿にしてたな)
『前回』の11月4日、事故から十年たっても滅びの素晴らしさを理解できない、武治のような跡取りを持った先代鴻悦は不幸だと幾月は言っていた。滅び云々は別にしても、父親と比較され続けてきたであろう武治は、シャドウ関係以外にも色々と苦労が多かったことだろう。何しろ鴻悦は一代で世界的な企業グループを築き上げた辣腕の持ち主だ。武治にしてみれば、良くも悪くも偉大すぎる父親を持った息子の不幸、という立場そのものに置かれていたわけだ。
何とも憐れみを誘う。そんな不幸な立場にいながら、なおも狂わず良識を保ち続けているところなど、特に。
(なるほどな。こういう人なら、美鶴がどうしても助けたいと思うのも道理だな)
それから二人は今後の方針を詰め始めた。最大の問題は、満月のシャドウ討伐を続けるかどうかである。
「岳羽主任は散ったシャドウに触れてはならないと言っていたが」
「しかし奴らを放置するわけにもいきません。あんなものが町で暴れたら、大変なことになります」
「この一帯の住民を全て避難させることはできる」
(力技だな……)
強引極まる武治の提案に、湊は面食らった。そんなことをすれば、どれだけの損失を出すか。下手をすればグループそのものが傾きかねない大事を、武治は簡単に口にする。話の展開次第では、グループを丸ごと破産させても構わないとでも言い出しそうだ。こういうところは、やはり責任感が強い人物だ。
(けどまあ、奴らは倒さないわけにはいかないんだよ)
『今回』の4月19日にファルロスに聞いた話によれば、シャドウを倒さないまま満月の影時間が過ぎると、次の満月に次に予定されているシャドウと共に再び現れるとのことだった。つまり放置すればするだけ数がまとまってしまい、状況はより困難になる。しかも湊が巌戸台を離れれば、満月のシャドウは追いかけてくるのだ。ここは武治を説得せねばなるまい。
「岳羽さんは、奴らは互いを食い合うとも言っていました」
詠一朗のこの警告は、普通に考えれば現在の状況とは合わない。ペルソナ使いがシャドウを倒せば、『互いを食い合う』ことにはならないはずである。デスが湊の中にいることを知らなければ、実感のある警告にならない。
もっとも実際のところは、まさに詠一朗の言う通りなのである。やはりファルロスに聞いた話によれば、満月のシャドウはどこで誰が倒しても結果は同じで、どうしてもファルロスに取り込まれてしまうのである。だがそれを武治に教えることはできないし、教える必要もない。むしろ詠一朗の警告を逆利用することで武治を誘導できる。
「奴らを放置すれば、一ヶ月ごとに現れては集まっていくだけです。それこそ岳羽さんが心配した通りになるかと」
「確かに……」
「事故から十年間、奴らはずっと眠ったままでした。触れるなとは、起こしてはならないという意味ではないでしょうか」
「うむ……筋が通るな。どうして今になって目覚めたのかは分からんが、結局は倒さざるを得ないというわけか」
武治は天を仰ぎ、大きなため息を吐いた。部下の裏切りを見破りながら、やること自体は変わらないのだ。それはいかにも口惜しいだろう。
「はい。ですが想定より数が一つ多いことが分かっただけでも、大分違うと思います」
「十三体目……か。呼び名は差し詰めデス、となるか」
十年前の実験を行った現場の研究者たちは、生み出された存在をデスと呼んでいた。だが『前回』は幾月の死後も名前すら桐条グループから出て来なかったことから考えれば、当時の記録は幾月が隠蔽したのだろう。だがタロットの大アルカナの順番を考えれば、十三体目の呼称は当然デスとなる。
武治は視線を天井から湊に戻してきた。その中にあるのは疑念か期待か、少々複雑なものだった。
「十年前に君たちが見たシャドウが十三体目ではなく、十二体のいずれかである可能性はないのかね?」
(おや……そう来たか。まあ例のビデオでもデスのことは直接言及されていないから、仕方ないが)
武治の表情や声色からは既に仮面が剥ぎ取られている。それらの色合いから、武治は全てを頭から信じたわけではない、と湊は判断した。ただ湊自身を信用していないのではなく、単に誤認している可能性を排除していないだけだ。
「いえ、あのシャドウの仮面は十二のアルカナのそれではありませんでした。そうだろう、アイギス?」
「あ……はい」
シャドウのアルカナを見分ける方法はいくつかあるが、最も手っ取り早いのは仮面を確認することである。アルカナごとに異なっている為、現物を見れば一目瞭然である。だが湊は十年前に見たデスの姿を覚えていないから、これは嘘である。だが当時のデスの映像など残っているはずがないので、武治が確認する術はない。
ついでに言うと、完全体のデスと言うべきニュクス・アバターは例外的に独自の仮面を付けていた。綾時の顔をベースにしながら目も口も深淵そのものの暗黒であり、しかもにやりと笑った表情が作られていた。あれを思い出すと、身震いしてしまいそうになる。
「どうかしたかね」
内心の思いから、はたと我に返った。どうやら不意に『前回』最大の死闘を思い返して、本当に身震いしてしまったようだ。死を恐れない『愚者』であるのだが、あの本物の死神との戦いだけは恐怖を禁じ得なかったものだった。
「いえ……失礼しました。つい十年前のことを思い出してしまって……」
「そうか……君はあの時、ご両親を失っていたのだったな。どれだけ詫びても足りないだろうが……済まない」
(謝らないといけないのは、僕の方なんだが……)
仮面を外した素の武治は、誰にも分け隔てのない善人だ。そんな人に謝られると、大嘘吐きな己が心苦しくなってくる。
今はデスがファルロスとして自分の中にいることを、湊は話していない。デスは十年前にアイギスと戦った後、どこかへ飛び去ったことにしている。もちろん宣告者としてのデスの役割と、それに続くニュクスの来訪も話していない。それは綾時が現れてから、綾時の口から説明させるつもりでいた。
信じて良いと言った相手に対して何とも不誠実だが、仕方がない。ニュクスの来訪を未然に阻止する手段はたった一つ。十二のシャドウを倒す前にファルロスを殺す、即ち湊が自殺することだが、それだけはどうしても教えられない。そしてその真実に辿り着かせない為には、最低限の情報しか渡せないのだ。
(済みません、とも言えないな……)
口では言えない謝罪の言葉を、心の中で言った。そして口では話を逸らした。
「幾月さんはどうしますか?」
「そこは私に任せてくれたまえ。岳羽主任の遺言を改竄した罪は許し難い。相応の報いを与えよう」
武治は鋼鉄の仮面を付け直し、口調に断固たる意志を込めた。根が善人な武治であるが、屋久島で見せていた幾月への信頼はすっかり拭い去られている。当然だ。オリジナルのビデオの出所という動かぬ証拠がある限り、幾月に未来はあり得ない。まさに死を宣告されたも同然である。つまり当面の最重要課題であった幾月の排除は、無事に成功した。
「今後の特別課外活動部は君に任せる。娘を……頼む」
「はい。任せてください」
最後に再び仮面を外した素の武治に向けて、湊は頭を下げた。下げながら、内心では勝利を確信した。
(大丈夫だ。この人は絶対に僕を殺せない。この人が頼れるのは、この世に僕しかいないんだからな)
幾月の排除に成功し、特別課外活動部を裏も表も掌握する準備が整った。美鶴さえ介さない武治との直接的なコネクションを作れた。そして殺される心配は限りなく少なくなった。かくして武治との会談は、湊の完勝に終わったわけである。
「逃げられましたか」
桐条武治と手を組んだ翌朝。寮の自室にいた湊の携帯電話に、武治から再び連絡が入った。幾月の身柄を確保する為に自宅に人員を差し向けたが、もぬけの空だったらしい。もちろん研究所や学校にも姿を現しておらず、携帯電話に連絡しても繋がらないとのことだった。
『うむ。恐らくハッキングを受けたことに気付いたのだろう。痕跡は決して残すなと部下には指示したのだが……失敗したようだ』
幾月もプロの研究者だ。その目を掻い潜ってハッキングするのは容易なことではなかっただろう。『前回』は風花がオリジナルのビデオを見つけたが、それは幾月が死んでからだった。生きているうちに探し出すのは、桐条グループが抱えるプロの技術者でもリスクが大きかった。結果的に幾月は自分の窮地を知り、行方をくらましてしまったわけだ。
「仕方ありませんよ」
この結果は予想外だった。だが大した問題ではない。取り逃がしたのは失敗だが、どうせ今の幾月は仲間がいない状況だ。一人でできることには限りがある。もはや幾月は脅威でなくなったと考えていい。逆に逃げたことによって、かえって完全に裏切者として武治に認定されたはずである。
『済まんな。だが奴は必ず見つけ出す。始末がついたら、また連絡しよう』
(始末ね。この人は基本的にはいい人なんだろうけど、さすがに裏切者に容赦はしないか。まあいい。煮るなり焼くなり好きにしてくれればいい。どうせもう幾月に利用価値はないんだし……って、あれ?)
『どうかしたかね』
しばらく続いた沈黙のせいで、武治は電話越しに怪訝な声を届けてきた。だが湊はなおも内心に浮かんだ疑問に捕われていた。
(何か忘れてないか……。僕って元々は9月辺りに幾月をやるつもりだったんじゃ……あ、そうだ!)
武治に情報を渡す前、当初に考えていた幾月殺害計画では、利用価値が完全になくなった後でやるはずだった。幾月の利用価値とは、第一に屋久島旅行でのアイギスの起動。そして第二に――
「桐条さん、天田乾という小学生をご存知ですか?」
『見込みがある少年だと聞いているが』
「ええ。僕らも幾月さんからそう紹介されました。適性を見極める為、夏休みからうちの寮に入る予定だったんですが、なぜかまだ来ていません。もしかすると……」
『まさか……幾月が連れ去った!?』
「はい、僕もそう思いました」
『これは捨て置けんな。分かった、そちらも調べてみよう』
それで通話は終わった。湊は携帯電話を耳から離すと、頭を抱えた。
(忘れてた……。前は昨日に天田が仮入寮したんだった)
昨日は武治の呼び出しで意識が完全にそちらへ行ってしまい、天田のことを失念していた。これは相当な大失敗だ。幾月が失踪したせいで単に仮入寮の手続きが遅れているだけなら良いのだが、楽観はできない。
(天田をどうするつもりだ?)
こちらに対抗する為の手駒として使う気だろうか。だが今の天田は適性の見込みがある段階で、ペルソナにはまだ目覚めていないはずだ。また目覚めても、戦力として使えるようにするのは大変なことだ。ペルソナ能力の鍛練にはタルタロス探索が最善だが、覚醒したての小学生が一人だけでは、シャドウの餌食になるだけだ。
(何にしても……取り返さないとまずい)
特別課外活動部への天田の加入には大きな意味がある。本人の戦力はもちろんだが、荒垣の復帰を促す意味もある。もし天田が加入しないと、荒垣も復帰しなくなる可能性が高い。二人分の戦力ダウンは大きな痛手だし、9月以降の荒垣の動きも読めなくなってしまう。