夏休みは既に始まっているが、この7月最後の週は学校で剣道部の特訓である。明王杯には出場しないが代わりに他校へ合宿に行くとかで、それに備えての部活である。部の状況は『前回』と全く異なるのに、この時期にやることは同じである。奇妙な符号もあるものだと思いながらの特訓の日々だった。
もっともどちらかと言えば、湊は特訓をさせる側である。しかも『前回』は大会に備えての強化期間だったが、『今回』は遊び感覚に近い程度のものである。だから今週の練習は普段の部活より長時間に及ぶのだが、大して疲労を覚えなかった。
だから昨日は練習を終えた後でタルタロスに行った。『前回』もそうだったが、7月から8月の満月に向けてのこの時期は期末試験や屋久島旅行がある為に、タルタロスの探索ができる期間が短いのである。だから探索ができる日には、なるべく行かねばならない。
そして29日の夜。23時を過ぎた頃、湊とアイギスだけが残っていたラウンジに、トレーニングウェア姿の真田が下りてきた。
「ランニングですか?」
「ああ。これくらいはしておかないとな」
今晩はタルタロスに行く予定はない。なるべく行かねばならないとは言っても、連夜の探索はかなり骨が折れる。そしてまた、今日はたまたま上級生二人に用事があるとかで、夜遅くまで出かけていたこともある。既に皆には伝えてあるので、これからの時間は思い思いに過ごすところである。順平などは部屋でマンガを読んだりテレビを見たりするところだが、用事から戻ってきた真田はトレーニングである。
「ご一緒します」
湊がそう言うと、真田は少し驚いた顔をした。しかし部活だけだと物足りませんからと言うと、快活な笑顔を見せてきた。トレーニングは一人でやるより、二人以上の方がやりがいがあるものだ。
「コースはどうしますか?」
「そうだな。軽く流す程度の予定だったが、せっかく三人もいるんだ。影時間まで走るつもりで神社まで行くか」
(結構)
『前回』の真田は普段から影時間にパトロールを兼ねたランニングをすることが多かった。だが『今回』はタルタロスの外でたまに現れるイレギュラーと呼ばれるシャドウも、タルタロスのそれと同様に強い。だからさすがの真田も一人で影時間にランニングをすることは避けている。だが複数人ならば話はまた別だ。トレーニングは影時間に行う方が高い効果を得られるので、走りに行こうと寮生を誘うことはままある。ただし誘いに応じる者はほとんどいないのだが。
「あいつ、速いな」
「時速130キロまで出せるそうですよ」
三人の先頭を行くのはアイギスである。相変わらず両腕を体の後ろに固定した独特なフォームだが、体力には自信のある男二人がついて行くのがやっとくらいの速さで走っている。夜の町は人通りが少ない為、これまで人や車とすれ違うことはほどんどなかった。だがもしこれが昼間であれば、相当な注目を浴びていただろう。学校の陸上部からスカウトくらい来そうなものだ。
「本当に機械なんだな。一昨日までは信じられなかったが」
昨日のタルタロス探索は、新加入したアイギスのデビュー戦を兼ねていた。『今回』の彼女は『前回』と違って言動に不自然な点が少ない為、実は人間がコスプレしているだけなのではとの噂があった。主にそれを言っていたのは順平だが、真田までそう感じていたくらいだから、彼女の人間らしさの程度が伺えよう。だが昨日の探索で指に仕込まれたマシンガンを乱射したり、助走もなしに三メートル以上も跳躍したりする様を見せた為、コスプレ疑惑は一発で解消された。
ちなみに彼女が機械であることを皆が皆、単に納得したわけではない。再確認したことで、より複雑な感情を抱くようになった人もいるのだが、それはまた別の話――
「お二人ともご注意ください。そろそろ0時になります」
前を行くアイギスが振り返り、注意を促してきた。時計を見れば、あと一分で影時間が訪れる。そして改めて前を見れば、目標の地点である長鳴神社の鳥居が目に入った。
(ちょうどいい頃合いだ)
三人揃って鳥居に辿り着くと、神社へ続く階段の下に一匹の白い柴犬がいた。鳥居の柱に寄り添うようにして、何をするでもなく座り込んでいる。その犬のすぐ目の前で先頭のアイギスが立ち止まり、湊と真田も先導役に従うように止まった。ちょうどその瞬間、空気が緑色に変わった。
影時間では普通の人間は棺桶の姿に変わるが、それは人間に限らない。精神を持つ存在であれば象徴化、即ち存在そのものに流れる時間が停止した状態になる。つまり人間以外の生物も時間が止まるのだ。これが植物であれば単に生命活動を一時停止するだけで、さすがに棺桶の姿に変わったりしない。だが犬などの動物ならば姿は変わる。しかし――
「この犬、象徴化しない!?」
真田が目を剥いた通り、犬は元の姿のままだった。何も不自然な様子はなく、緑の空気の中で座り込んでいた。いや、不自然ではないが普段通りでもない。首を下げて姿勢を低くし、三人が走ってきた方角に向けて唸り声を上げ始めた。そして瞳は燃え盛る炎を映したように激しい光を放っている。この神社によくいる青年によれば、その瞳の色は凡百とは違う孤高を表しているらしい。
「グルル……」
異色のペルソナ使い、コロマルだ。湊は『今回』会うのは6月4日に神社で順平と話した時、そして同月20日に寮の玄関前で遭遇した時に続いて三度目である。
「先輩、後ろです」
真田を促し、背後を振り返らせた。そこには数匹の黒い塊がいつの間にか集まっていた。いずれも地面にへばりつく不定型なゲル状の体で、中央には仮面が貼り付いている。そして仮面の横合いから、手のような突起が生えている。
「イレギュラーか!」
タルタロスの外でもシャドウは出現するが、普通は暴れたりしない。だが時には暴れることもある。例えば今日のように。
(予定通りだ)
これまで真田が夜のランニングに誘ってきても、湊はそう頻繁には応じなかった。今日に限って同行したのは、コロマルを助ける為である。『前回』のこの日、コロマルは神社に出現したイレギュラーのシャドウと戦って重傷を負い、真田に発見されたのだ。
『前回』のコロマルは真田に加勢されたわけではなく、独力でシャドウを倒した。召喚器もなしにやったのだから、コロマルのペルソナがいかに優れたものかよく分かる。だが『今回』のシャドウは強い。さすがのコロマルといえども、一人では勝ち切れない可能性がある。だから湊は自分と同じく事情を知るアイギスと共に、影時間のランニングに出たのである。
「アイギス! 行け!」
「承知しました。パラディオン!」
アイギスは爪先立ちになって背筋を伸ばし、それと同時にヘッドホンのような形状の耳当てのファンが音を立てて回転した。アイギスの召喚器は頭部に内蔵されており、人間のペルソナ使いと違って拳銃を頭に当てる必要がない。その分、召喚は人間より一手早く行える。
知恵と戦争を司るギリシャ神話の女神、ではなくて、それを模した木像がアイギスの頭上に現れ、シャドウの群れへと吶喊した。槍を構えたペルソナは電光の速さで衝撃波を放ちながら飛翔し、敵の機先を制して薙ぎ倒した。
「先輩!」
「おう!」
すかさず真田が続いた。今日は元から影時間まで走る予定だったので、召喚器は持って来ている。ポリデュークスを召喚し、電撃を放った。そして――
「ワオーン!」
コロマルは一旦前足を屈めて身を伏せ、柔らかい背を反らしながら伸び上がった。それと同時に、天へ向かって一声吠えた。だが吠えているのは実は天ではなく、地の底へ向けてのことなのかもしれない。
「何!?」
真田が目を見張る中、コロマルの頭上に巨大なビジョンが顕現した。それは使用者とは対照的な黒い毛皮に覆われた獣で、一つの胴体に首が三つ付いていた。ギリシャ神話に語られる冥界の番犬、ケルベロスだ。
姿形が変わるかどうかは別にして、影時間の中では適性を持つものを除いてあらゆる生物が等しく象徴化、即ち時間が停止する。そして影時間の適性とペルソナは、決して人間だけが持ち得るものではない。人間以外の存在が人間同様に、場合によっては人間以上の領域でペルソナを行使することは可能である。
人間以外の動植物にも、更には無生物にも人間と同様の精神や霊魂が存在するのか。これは哲学上の重要な命題の一つである。湊はこれに対して、『存在する』という解答を『前回』を通じた経験から導いている。その証拠は二つある。今まさに眼前に提示されている。
一つはアイギスだ。彼女は機械であるのだが、精神は人間と変わらない。それは即ち、自然の生命と人工の生命に差はないということであると、湊は結論づけている。そして命題の答えのもう一つの証拠であるケルベロスは、精神の顕現であるシャドウを前にして己の存在を高らかに主張した。反論の余地がないほど明確に、強力に証明した。
魔獣の三つの首はいずれも顎を大きく広げ、鋭い牙の間から猛烈な咆哮を発した。使用者のそれと重なり合った四重奏は緑の空気を激しく震わせ、同時に地面から炎の壁が立ち上がった。その勢いは大地の生命活動、即ち火山の噴火のように激しく、しかも広範囲に及んでいる。ほぼ文字通りの意味での地獄の業火は、シャドウの群れを一息に包み込んだ。
「……!」
この不定型なシャドウは口を持たないか、実は持っているとしても仮面で塞がれている。だから悲鳴を上げることはできない。ただ赤い炎の中で身悶えしながら、見る間に焼け崩れていく。どうやら火炎に弱いタイプであったようである。
「シャドウの消滅を確認しました。もう大丈夫です」
炎が消えると、アイギスが周囲を見回しながら言った。アイギスと真田の先制攻撃で怯んだところに、コロマルの一声がとどめとなって一匹残らず焼き尽くされた。誰一人反撃を受けることなく、湊に至っては指示出しの他は何もしないまま、殲滅に成功した。会心の勝利である。
「驚いたな。犬がペルソナを使うとは……」
「お前は凄いな、コロマル」
「ワフッ……」
湊は地面に膝をつき、コロマルの頭を撫でた。先ほどまでの緊迫感は既に消えており、黙って撫でられている。
「知ってるのか?」
「ええ。この辺りじゃ有名な犬ですよ」
湊はコロマルの頭に手を当てながら、アイギスの側を振り返った。その事情と内心を、人間の言葉に訳して説明してもらおうと思ったのだが――
「あれ……コロマルさん?」
アイギスはコロマルの目を見つめている。人間と同じか、或いはそれ以上に人間らしい青い瞳を、犬の赤い瞳と真っ直ぐ合わせている。そうしながら、不思議そうに首を傾げている。
「意思が……読み取れません」
(何だって?)
「意思? お前は犬と会話できるのか?」
「いえ、会話とは違います。動物に言葉はありませんから。ですが言葉だけが意思疎通の手段ではないので、私にはそれを読み取る機能が備わっているのですが……」
『前回』のアイギスは11月28日にチドリの絵を確認した頃から、口調に変化が現れた。そして12月2日に綾時によって一度半壊させられ、30日に修理を終えて寮に戻ってきた。この二段階の経験でもって、彼女はそれ以前から大きく変わったのだ。言動から機械らしさが後退し、今のような人間性が現れてきた。ペルソナによって既に証明されていた彼女の生命の真実性が、更に補強されたわけだ。だがその後もコロマルとの意思の疎通はできていた。それにも関わらず、今になってできなくなっている。なぜだろうか――
「よく分からんが……それよりこいつだ。何で動物がペルソナを?」
真田が疑問を呈してきて、湊は気持ちを切り替えた。アイギスの機能不全の理由を今ここで詮索しても仕方がない。まずは事情を知らない真田に、ある程度説明してやらねばならない。
「先輩、あれを」
湊はコロマルの頭から手を離して立ち上がり、鳥居の柱の脇を指差した。一本の花束がそこに置かれている。
「ここで何かあったのか?」
「多分、飼い主の事故でしょう」
湊は6月に順平に説明したことを、ここでも繰り返した。コロマルの飼い主は長鳴神社の神主だったのだが、半年前に事故で亡くなっているのだと。そして花束が置かれていることから、ここが神主の事故現場である。そしてもしかすると、その事故は今のようなイレギュラーのシャドウの仕業であったのではないかと、推論の形で真田に説明した。
「主人の居場所を守ってたってことか。いや……守り抜いたんだ」
「取り敢えず、連れて帰りませんか」
「そうだな……いつまたイレギュラーが出るか分からん。一匹では置いておけんな」
「コロマル、分かるか? 一緒に来てくれ」
「ワン!」
ついて来るように促すと、一声鳴いてそのまま後について来た。通訳がない状態であるが、コロマルは賢い犬である。こちらが意思を読み取れなくても、向こうは人間の言葉を理解できるに等しい。何しろ『前回』から実戦の現場では、湊の指示に正確に従えたくらいなのだから。
かくしてこの日の作戦は想定通り、コロマルに怪我をさせずに完了した。『前回』のコロマルの正式加入は次の満月を過ぎた8月8日だったが、この分では満月前に加入させることもできるかもしれない。だがその前にクリアせねばならない問題が出てきた。
そもそもの話、コロマルを今日まで迎えに来なかったのは、コロマルがペルソナに目覚めたのは今日なのかそれ以前なのか正確には分からないことと、アイギスの加入を待つ必要があったからだ。コロマルは今後の為には欠かせない戦力である。元々非常に強力なペルソナを持っているし、意志の強さも並ではない。だが見た目は単に愛らしい犬なので、特別課外活動部への加入にはゆかりや風花辺りが反対する可能性があった。だから通訳が現れるまで待っていたのだ。
だが想定外なことに、アイギスはコロマルとの意思疎通ができなくなっている。これでは本人の意思の確認が難しくなる。コロマルの加入をどうやって皆に納得させるか、話の持って行き方を考える必要がありそうだ。