「これが夏祭り……ディオニュソスの儀式!」
(確か……ギリシャ神話の酒の神だっけ?)
総合学習の授業で聞いた覚えがある。黒魔術の起源となったオルギアと呼ばれる乱痴気騒ぎは、神の名の下に行われていたという。オルフェウス教で信仰されるヘリオスまたはアポロンがその代表だが、それと並び称される狂神の一柱がディオニュソスだったような。
「ここで祭られる神は……常世の長鳴鳥でございますか。岩戸に隠れた太陽神を呼び戻す、古代日本のオルギア。その始まりを告げる鳥。つまり夏祭りとは、天岩戸の故事の再現なのですね。日常の社の聖性に敢えて反する……いいえ、非日常の狂騒によって聖性をより高めるもの! しかもそれを限られた聖職の者のみでなく、市井の人々にまで広く門戸を開くとは。大変素晴らしいことでございます」
「……そういうものか」
何か間違っているような、でも実は正しいような。突っ込みどころが分からないエリザベスの感想を聞かされた湊は、早速疲れてしまった。
(前途は多難だな……)
今日は年に一度の夏祭りである。元々こうした祭礼行事には、あまり興味がない。だから『前回』は複数人に誘われながら、いずれも断った。ただ最後にアイギスが行きたがっていると言うので、美鶴に見張り役を頼まれて来たのだった。
そして『今回』のアイギスは美鶴を介さず、一緒に行こうと直接誘ってきた。人が集まるところのデータ収集が目的だった『前回』とは、大分違った意味合いでもって。だが湊は敢えてそれを断り、エリザベスと来ていた。もちろん依頼されたからである。『前回』も依頼で神社の案内はしたが、『今回』は夏祭りに行きたいとのことで日を限定しての依頼だった。
5月にクラブへの案内を頼まれたように、『今回』のエリザベスの依頼は『前回』から内容が変わっているものがいくつかある。もっとも彼女は『前回』を覚えているので、当たり前のことかもしれないが。
熱帯夜に人いきれが加わる為、夏の祭礼は得てして暑い。しかしエリザベスはそもそも汗腺が体にないのではと疑えるほど、一滴も汗を浮かべることなく神社の参道を歩く。そして人々を好奇の視線でもって観察する。
「皆様、変わった服をお召しになってますね」
浴衣である。特に女性客は着ている人が多い。思い返してみれば、『前回』も美鶴とアイギスは浴衣を着ていた。当時のアイギスによると、専用の特殊兵装であるらしいが。
「随分と緩くまとった服でございますね。あれでは帯を引くだけで、容易く脱げてしまうのでは?」
確かに浴衣は洋服と比べて無防備な服だ。涼しいから着るのだが、風が通る感触は慣れない人もいるだろう。こうした服を日常的に着ていた昔の人は、大らかだったのかもしれない。
「なるほど。生贄の服……というわけでございますね」
「は?」
「祝祭に供犠は付き物。しかしその服を取り払うのに、余計な手間があっては神への非礼となりましょう。故に容易く外れる形にしていると……。配慮の行き届いた服でございます」
これは間違っている。明らかに。大昔はともかく、現代日本の祭りで人身御供があっては堪らない。だが――
「残念に存じますわ。私もああした服を着てくれば良かったです……」
「……」
直前の不穏なセリフとはうって変わって、エリザベスは拗ねたような顔をした。こうした表情は『前回』も何度か見ている。元々彼女の容貌は客観的に言って非常に魅力的だが、普段はどちらかと言えば無機質な印象がある。それが今のような子供っぽい顔に変わると、ギャップの衝撃が普段の美貌に上乗せされる。仮面を自在に操る『愚者』の心にさえ、無視できないざわめきを与えるほどに。
もし彼女が浴衣を着たら、どんな装いになるだろうか。色はやはり青で、帽子の代わりにかんざしを髪に差し、ペルソナ全書の代わりにうちわを持つ。そんな姿を思わず想像してしまったが――
「湊様、もしも……もしも三回目がございましたら、またよろしくお願いいたしますわ。次は私もあれを着て参りますから」
妄想は一瞬にして吹き飛ばされた。暑さで首筋に浮かび始めた汗が、冷たいものに一瞬で取って代わる。
(恐ろしいことを言わないでくれ……)
死を恐れない『愚者』であっても、これはさすがに怖い。再び時間が戻って『三回目』が発生してしまったら。シーシュポスよろしく、タルタロスで永遠に岩を運び続けろと宣告されたも同然だ。考えただけで冷や汗が出る。
「な……何か食べるか?」
浴衣の話を打ち切るつもりで、参道沿いに立ち並ぶ屋台を目で示した。
「そうですね……。あれは何でございましょうか」
エリザベスは最も手前にある屋台を指差した。そこでは祭りには付き物の、ピンク色の砂糖菓子が売られていた。
「綿飴だ」
「わた、あめ……? 綿花を食べるのですか?」
違う。確かに形や感触は似ているが、綿花は煮ても焼いても食べられはしない。
「……分かりました! あれはスキタイの羊でございますね!」
「何だ、それ?」
「木から生まれる羊……伝説の珍獣でございます。まさかここで目にするとは……」
中世以前のヨーロッパでは、服と言えば動物の毛や皮だった。だがスキタイ、即ち東方ではそれと同じものが樹木から取れるという話があった。即ち綿である。正体を知らないままヨーロッパで噂話が広がった結果、東方では羊が生る木がある、というお伽話が出来上がったのである――
と、江戸川辺りがここにいれば解説の一つも付けてくれるだろうが、ギリシャ神話やキリスト教はまだしもフォークロアにまでは詳しくない湊には、何のことやらさっぱり分からない。
理解できない湊を放置して、エリザベスは綿飴を自分で買った。人間の顔より大きく膨らんだそれを、彼女は感嘆の面持ちでもってぱくぱくと口に運んでいく。
「まさに羊毛のように軽く、甘い……。珍獣の味、堪能いたしました」
綿飴には『前回』もアイギスが膨張率がどうとか言って、普通の人間とは異なる観点で驚いていた。だがエリザベスは更にその上を行っている。突っ込む気力をなくしてしまうほどに。
「では続きまして順番に、全て頂きましょう」
(全部かよ……)
普段であれば夕飯時なので、それなりに空腹ではある。しかし自他共に認める健啖家とはいえ人間の胃袋しか持たない湊は、エリザベスの食道楽に付き合うのはかなりの苦労がある。だが断る選択肢は初めから与えられていない。依頼に応じた以上は、付き合わないわけにはいかない。湊の本来の性格は周囲に流されやすいが、そうしたところがここでは発揮されることになった。
「あら……こちらは前に商店街で頂いたものと同じものを売っているようですね」
屋台の食い倒しツアーの途中で、巌戸台商店街にあるたこ焼き屋オクトパシーの出店を発見した。早速彼女は向かうと、店主と何かを話し始めた。
「へえ、これが何か分かるんかい!」
そんなセリフが聞こえたところで、湊はそっぽを向いて二人の会話を耳に入れないようにした。あの謎のたこ焼きは食材にたこ以外の何かを使っており、エリザベスによるとタルタロスで手に入るような代物らしい。たこ焼きそのものはうまいので、できれば正体を知らないままでいたい。
「おまけしといたから、そっちの彼氏と仲良くね!」
「彼氏? はて……三人称と敬称を重ねて、どのような意味になるのでしょう?」
「次行こう、次」
意味の説明を求められる前に、エリザベスを促して歩き出した。流されやすい性格であっても、限度はある。
「お二人さん、くじ引いてかない? うちのは空くじ少なめだよ!」
綿飴に始まってたこ焼き、焼きそば、串焼き等々を食べ尽くした後で、ミラクルくじと書かれた屋台の店主から声をかけられた。
「くじ引き……おみくじと同じものでしょうか」
「まあ、似たようなものだ」
『前回』に神社を案内した際、彼女はおみくじを引いていた。自らの運命を紙切れ一枚に託し、そのリスク感を楽しむ遊戯だとか何とか言って。言いながら、何十回も引いていた。
「しかし前に行った時とは、趣が異なっておりますね。これも祝祭の日だけの、特別な作法なのですね」
エリザベスは早速とばかり箱に手を入れて、くじを一つ取り出した。店主はそれを受け取って開くが――
「残念、外れだね」
「では、もう一度」
「待て」
再び箱に手を入れようとするエリザベスを制した。彼女と出かける際には基本的に好きにさせるが、他人の迷惑になることはさすがにやめさせた方がいい。
「え? これは全種類コンプリートするまで、引き続けるものではないのですか?」
「それじゃリスク感を楽しむことにならないだろう」
「ああ……その通りでございますね。私としたことが。では湊様、どうぞ」
エリザベスに促され、自分でも引くことになった。箱の中の三角くじから、上にあるものを掴んで取り出した。店主にそれを示すと――
「おおっと、おめでとう! いや、うちで当てるたあ、凄え強運だな!」
賞品はカレイドスコープだった。『前回』くじ引きをして当てたものと同じである。これも運命的な強制力の賜物であろうか。
(どうするか……)
店主から渡された金色の筒を見つめながら、少し考えた。この手の品物は『前回』に何度かコミュニティの担い手にプレゼントしてきたので、これもそこで使うべきかと考えた。しかし『今回』は女の担い手が少ないし、しかも戦車と永劫は既に極まっている。舞子は元々プレゼントをするような間柄ではない。すると渡して意味がありそうな相手は、長谷川しかいないことになるが――
(彼女はこういうのが割と好きそうだが……)
とは言うものの、長谷川とは電話番号の交換もしていないから休日を一緒に過ごす機会は当分ない。かと言って学校でプレゼントしたりするのは、周囲の目があるからなおさら良くない。そもそもの話、彼女と特別な関係になるつもりはない。ならばコミュニティで使うべきではない――
などと思っていると、視線を感じて振り返った。見ればエリザベスは好奇に満ちた視線を投げかけてきていた。浴衣の話をしていた時とは少し違うが、何となく子供っぽい風情がそこにあった。
「やるよ」
「私に? なるほど……幸運とは他人と分かち合うものなのですね」
アイギスに渡してもよいのだが、今日は一緒に行こうとの誘いを断ってエリザベスと来ているのだ。そうして当てたものを渡すと言うのは、さすがに気が引けた。しかも彼女の物に対する趣味や嗜好については、実はよく分からない。もちろん自分が渡したものならば、彼女は何であっても喜んで受け取るだろうが。
ちなみに『前回』のアイギスはここで水鉄砲を当て、シャドウとの戦闘で有効かどうか聞かれたものだった。下手をすると本当に実戦で使われそうだったので、美鶴が当てたビー玉と交換させられていた。懐かしい話である。
「これは……どうやって使うものなのですか?」
筒を撫でたり振ったりしながらまごついているエリザベスに、中を覗いて先端を回転させてみろと説明した。すると彼女は早速試してみた。
「何と美しい! 幻覚を生み出す妖精が閉じ込められているのでしょうか……。しかも回すごとに色彩が変わる! 一人ではなく複数の妖精を、こんな小さな筒に閉じ込めているのでございますね。残酷なアートでございます」
いつものことであるが、エリザベスの解釈は人間の常識から遠く離れた方面に向かってしまう。だがそうした解釈に害がない限りは敢えて正すまでもないので、湊は何も突っ込まなかった。
「素敵な贈り物、ありがとうございました。戻りましたら、あの部屋の装いをこの筒のように致したいと存じますわ。もちろん、一歩進むごとに彩りが変わる仕組みに……。次にご訪問いただく時を、楽しみになさってくださいませ」
「……」
万華鏡と化したベルベットルーム。もし本当にそうなったら、訪れるたびに目を回してしまいそうだ。だがイゴールがそんな改装を許可するはずがないので、やはり湊は何も言わなかった。
「あれは……仮面でございますね」
祭り会場の最も奥まで来た時、エリザベスは出店の一つに目を留めた。いくつもの仮面、と言うよりお面が売り物として飾られていた。特撮物のヒーローや歌手やアイドル、更には犬のお面などもある。
「湊様……私は時々思うのでございます。貴方がたが操り、私が管理する力はなぜ『仮面』と呼ばれるのか。どうお思いになられますか?」
「ん……?」
『ペルソナ』とは人そのものや人格という意味の他に、顔につける仮面という意味がある。自分たちの能力がなぜそう呼ばれるのか、今まで考えたこともなかった。力は目的の為に使えればいいだけで、呼称の由来などどうでもいい話である。だがエリザベスはこちらをじっと見つめてくる。投げ遣りに答えることは、どうやら許されていないようだ。
「そうだな。ペルソナは神話の登場人物の名前を持つのが多いが……」
話しながら、『今回』の4月21日にタルタロスの出現を見ながら考えたことを思い返した。ギリシャ神話ではタルタロスは大地に空いた穴だが、現実には塔として聳え立っている。それは単に名前が同じなだけで、神話と現実は別だから――
「ペルソナは神話の存在そのものじゃないよな。演劇とかで役者が神の役を演じるみたいなもので、人が神を演じる為の仮面ってことかな?」
「なるほど。人は古来より祭儀において神々を演じて参りました。即ちペルソナとは演劇の道具……。鋭いご意見と存じますが、いささか困難がございますね」
「何がだ?」
「仰せの通り、ペルソナは本物の神々ではございません。またペルソナはペルソナ使い自身である……と、単純に言い切れるものでもございません。この事実は己が何者であるのかという問いに答えるのを、より困難に致しませんか? 特に多くの仮面を持つ、貴方にとっては」
「己が何者か? えらく哲学的だね」
「いいえ。極めて現実的な問題でございますよ。いつか……私はその問いの答えを得たいと存じております」
エリザベスは小さく微笑んだ。何かを期待するように、憐れむように。小さな表情の中に多くの想いを閉じ込めた、謎に満ちた微笑みだった。
「……」
「ご案内、ありがとうございました。それでは戻りましょう」
黙っている間に、依頼は終了となった。やっと終わったかと安堵する気持ちは、なぜか心に湧いて来なかった。
神社の出口へ向けて、参道を二人並んで歩いた。時刻は既に遅くなっており、祭り客も当初より少なくなってきている。そうして比較的遠くまで見通せるようになったからか、見知った三人の人物が前方にいるのが目に入った。
(おや……)
程なくして、三人もこちらに気付いた。
「あれ、有里君も来てたんだ……って!」
「す、凄い綺麗な人……」
「湊さん……」
ゆかりと風花、そしてアイギスだった。生贄の服、もとい浴衣を着ていた三人は、最初は驚き、続いてあからさまな不審さが顔に表れた。原因が何であるかは言うまでもない。三人の一番後ろに立っていたアイギスはゆかりと風花の間をすり抜け、こちらへ真っ直ぐ向かってきて不審人物と正対した。
「貴女は……?」
「まさかここで貴女とお会いするとは……。運命とは時に私や主にも読み切れない、特異な事象を発生させるものですね。これも今日が祝祭の日だからでしょうか」
二人の会話は噛み合っていない。だが視線は互いに外そうとしない。
こうした修羅場を湊は『前回』一度だけ見たことがある。文化祭の後片付けの際の、ゆかりと千尋と結子だ。ただあの時よりも緊迫の度合いは遥かに高い。何しろこの二人はいずれも『人』ではない分、人間的な良識が期待できない。二人の間に散る火花が目にも見えそうだ。他の祭り客の人々さえ、関わり合いになるまいと遠巻きに、だが密かに固唾を飲んでいる。
「……」
アイギスは足を肩幅に開いて腰を落とした。浴衣の下の体は金属であるはずの彼女だが、構えはむしろ猫科の猛獣を連想させるしなやかなものだ。視線は僅かに上目づかいになって、唇を引き結んでいる。人間と違って目に見える武器も召喚器も必要としない彼女は、今すぐ戦闘を開始することも可能である。
「……」
対するエリザベスは姿勢や表情に変化がない。エレベーターガールの彼女に荒事の心得があるのかどうかは不明だが、臨戦態勢に入った対シャドウ兵器の殺気を正面から受け止めて瞬きもしない。これはもはや修羅場を通り越した、決闘の雰囲気である。
「ちょ、ちょっと! その人、誰なのよ!? てか、何とかしなさいよ!」
二人を結ぶ線を迂回しながら、ゆかりが近付いてきた。殺気の漲る空気に当てられたか、その顔には暑さが原因ではないと思われる汗が浮かんでいる。だが湊は素っ気ない。
「どうでもいい」
実際のところ、至極どうでもいい事態である。なぜならエリザベスの存在は契約者以外には記憶できないのだ。適性のない人間が影時間に迷い込んだ時のように、彼女の存在は何か別のことに置き換わって認識される。常人は無論のこと、ペルソナ使いさえそうなってしまうのだ。だからこの三人が彼女を見たところで、何の問題もない。
「良かない! マジで血を見るわよ!」
とは言うものの、このまま放置しては周囲の祭り客にまで被害が及びかねない。たとえ記憶できなくとも、怪我でもさせたらさすがにまずい。湊は決闘の空気を軽く無視して、エリザベスを促した。
「帰ろう」
「そうですね。今日のところはこれにて引き上げましょう」
そう言ってエリザベスは歩き出した。正面に立ちはだかるアイギスの脇を、悠然と通り過ぎる。相手の側は見もしない。湊は黙ってそれに続く。ただアイギスとすれ違いざまに、彼女の側に顔を向けた。
「……」
アイギスはまさに銃口のような鋭い視線を向けてくるが、湊は軽く目を伏せるだけで通り過ぎた。悪いとは思うが、仕方のないことである。記憶できない以上、言い訳さえできないのだから。
「良い時間を過ごさせて頂きました。日常から離れた神聖時間……こうした形で経験させていただくのは初めてでした。光と音の地下庭園も結構ですが、やはり祭儀として執り行われるのが本来の形なのですね」
神社の参道を通り抜け、道路に面した鳥居に続く階段を下りながらエリザベスは話しかけてきた。湊もそうだが、彼女も先ほどの決闘を全く気にしていない様子である。それは良いのだが、彼女の発言に引っ掛かりを感じた。
「神聖?」
「ええ。祝祭は太古の昔から、人々に非日常を与える機能を果たして参りました。もっとも貴方がたは毎夜、聖なる時間を体験しておられるわけですが。ただ、私とは感じ方が少々異なるのでしょうが」
湊は眉を僅かに動かした。聖なる、とは0時に訪れるあの時間を表す言葉としては相応しくない。
「悪い冗談だな」
「冗談……? いいえ、あの時間は確かに聖なるもの……神に捧げられた時間です。いささか不自然に創造されたものではございますが、聖であることには変わりありません」
「そういうものか」
影時間はシャドウが月に吠える時間だ。月即ちニュクス、即ち夜の女神に捧げられた時間、と言ってもあながち間違った表現ではないのかもしれない。
色々と疲れた、だが充実していたような夏祭りの翌朝、湊は自室からラウンジに下りてきた。するとゆかりと風花がそこにいた。この二人は朝が遅い湊よりも、早い時間に起きているのが常だ。
「おはようございます」
「おはよう」
いつも通りの様子で、風花は挨拶を送ってきた。湊もいつも通りに返す。だがゆかりはいつもと少し違い、困惑した顔でいた。
「ねえ、アイギスが昨夜から変なんだけど。何かあった?」
「いや?」
見ればラウンジの奥、テーブル席にアイギスはこちらに背を向けて座っていた。普段であれば、湊が現れれば必ず振り返って挨拶の一つも寄越すはずなのだが、何も言ってこようとしない。
そちらへ歩いて行ってみたが、やはり彼女は反応を示さない。テーブルには何かの冊子が一つ置かれているが、それを読んでいるわけでもない。じっと壁を見つめている。
「どうしたんだ?」
「……」
アイギスは答えない。それどころか、目を合わせようともしない。
「おい……」
「昨夜はお楽しみだったようですね」
「は?」
ここでようやくアイギスは振り返ってきた。普通の日本人よりずっと白い人工皮膚は僅かながら赤く、突き刺さんばかりの怒りが目に満ちている。いや、もっとよく観察すれば、そこにあるのは怒りと言うより妬みのような。こういう類の表現も身に付けていたのか、と思わず感心してしまうほどに、はっきりとした感情が顔に出ている。
「とても綺麗な方でしたね」
(!……どういうことだ?)
彼女が何を言っているのか、ようやく理解できた。だが浮気現場を見られたような気まずさよりも、驚きの方が先に立った。『契約』していない限り、エリザベスの存在はペルソナ使いでも記憶できないはずなのだ。それはゆかりと風花の反応を見ても明らかだ。だがアイギスは記憶できている。
「あの方は……どなたなのです」
(まさか……)
どうして記憶できるのか。一瞬だけ考えて、閃いたことがあった。
「タルタロスのエントランスにある、青い扉の先にいる人さ」
知らぬ間に彼女も何かの『契約』をしていたのかもしれない。そしてあの部屋に招かれる資格を得たのかもしれない。だとすれば特別課外活動部の戦力は大きく上昇する。そう期待したのだが――
「何ですか、それは?」
期待は外された。彼女は目を丸くしている。嘘が得意なはずのない彼女だから、知っていてとぼけているとは思えない。
(見えてないのか? すると……あれのせいか?)
『契約』以外で理由として考えられるのは、彼女の精神中枢であるというパピヨンハートだ。『前回』を記憶できていることも、それの影響だと彼女は言っていた。時間に干渉することさえ可能というそれならば、エリザベスも記憶できるのかもしれない。
「言い訳が下手なのですね」
推測している間の沈黙を言葉に詰まったと受け取ったか、アイギスは再び視線を外して壁を見つめた。見つめながら、不穏な気配が全身から立ち上り始めた。彼女は『前回』の今頃とはまるで違って、表情や声色以外の手段で感情を表現する術までも身に付けている。大した変わりようだ――
(って、そんなことを気にしてる場合じゃない。これはまずいぞ……)
現実逃避をしている場合ではなく、これは本当にまずい。永劫のコミュニティは既に極まっているのに、改めて壊れてしまいかねない雰囲気だ。いや、コミュニティがどうと言う以前の問題として、彼女に嫌われるのはさすがに辛い。大嘘吐きで鉄面皮の『愚者』といえども、何を言われても平気なわけではない。心に響く打撃というものは、やはりあるのだ。
「悪かったよ……」
こうなってしまっては、素直に謝るしかない。そもそもエリザベスと出かけたのは依頼の報酬が目当てで、何も好きで行ったわけではないのだ。多分。きっと。恐らくは。
「済まない。許してくれ」
「では、次はご一緒してください」
「次……?」
『三回目』があったら――
エリザベスのようなことを、彼女も言うのだろうか。一瞬、恐怖を感じてしまったが。
「来年です」
「あ、ああ……そうだな。来年は一緒に行こう。再来年も」
そう言うと、彼女はやっと笑顔を見せた。卒業式の日を越えて生き続けて、来年の夏祭りに一緒に行く。ほんの些細な日常の一風景だが、夢や目標として悪いものではない。
「しかし夏のイベントはまだありますね」
そう言って彼女は机に置かれた冊子を手元に取り寄せた。明日からポートアイランド駅前の映画館スクリーンショットで開催される、映画祭りのパンフレットだった。
「忍者ものか?」
「ええ。それもよろしいですが、これも行きましょう」
そう言って彼女が指差したのは、21日の欄だった。テーマは『悲恋大特集』である。
「分かったよ」
「それから、こちらも」
30日のも指差した。21日のそれと同じく、恋愛ものである。
「これも面白そうですね……ああ、これも良いですね」
アイギスの希望は留まるところを知らなかった。かくして二週間に渡って行われる映画祭りの半分以上に、一緒に行く約束をさせられてしまった。もちろん断る権利は与えられなかった。
8月3日の話でも述べましたが、本作の主人公は『一周目』で刈り取る者を倒していません。従って『最強なる者を倒せ』の依頼は、発生すらしていないという設定にしています。