夏休みも残り一週間となったこの日の昼間、巌戸台商店街で二人の男が話していた。二人は最初は犬の話をしていたが、途中から昔話に変わった。
「一昨年の10月、俺たちの前でやはり一人の人が死んだ。あれからもう二年になるな」
そして会話は現在へと移る。話しかけた男は熱意を込めて説得するが、相手の男は取り合わない。
「あれは俺がやったんだ。一度起きたことは消えねえ。てめえ勝手なケジメを付けたからって、そんなことでどうなる。何が戻る。美紀の……お前の妹の時とは違うんだ」
そんな二人の会話を、物陰から見張っている人物がいた。ただし一人ではなく、こちらも二人。最初の二人はいずれも気付いていない。
「ツラは見たな」
「はい」
「名前は荒垣真次郎。あいつがお前の相手や」
「今夜、またお願いします」
この地方では珍しい関西弁を話す男に向けて、小学校高学年くらいの少年は年に不相応な声を発した。からくり仕掛けの器物が発しそうな、感情を失くしてしまったかのような声を。ただ声色とは対照的に、少年の瞳には凄まじい気迫が漲っていた。
最初の二人と後の二人が立ち去った後で、また別の一人の男が商店街のネットカフェから出てきた。彼はこの日、朝からかなりの時間を費やしてインターネット上のあるサイトを探していて、つい先ほどようやく目的を達したところだった。
もしあと数分でも早く終えていれば、今後の為に極めて重要な場面をその目で見られたかもしれなかった。だが一歩遅かった。
夜の遅い時間になって、ポートアイランド駅外れの溜まり場に湊は一人でやって来た。人と会う約束をしているのである。指定した時間には少々早いが、敢えてそうした。そして溜まり場をしばらく歩き回り、人がいないか見て回った。会う約束の人を探しているのではない。会っては困る人がいないかどうか探しているのである。
溜まり場には相も変わらず不良がたむろしているが、絡んでくる者はやはりいない。6月6日に初めて来た時と違い、誰もがすっかり大人しくなっている。だから人を探すのに余計な面倒はない。
数分をかけて一通り見て回ったところ、幸いにも困る人はいなかった。その確認を終えた直後、空気の色が変わり、人は棺桶の姿に変わった。そして地面には赤い血溜まりが浮かび出した。
時々疑問に思うのだが、この血は一体どこから湧いて出てくるのだろうか。地面や壁から直接滲み出てきたようにも見えるが、アスファルトやコンクリートに血が通っているはずがない。ただ単に不気味さを強調する為の装飾であるのなら、大変な趣味の悪さだ。
「こんばんは。今日も良い夜ですね」
そんな意味のないことを考えている間に、背後から声をかけられた。以前に同じ場所で会った時と同様に、酷く丁重な声で。
「そうだな」
返答と共に振り返ると、影時間の邪悪な趣味がとても似合う男がそこにいた。ストレガのリーダーにして運命のコミュニティの担い手、タカヤだ。だが一人だけで、ジンとチドリはいなかった。
「用意してくれたか?」
「ええ」
タカヤはジーンズのポケットから小さなピルケースを取り出し、こちらに手渡してきた。何の装飾もない、白いプラスチック製のものだった。開けてみると、いくつかのカプセルが入っていた。
湊はこの日の昼間、ネットカフェで復讐依頼サイトに書き込みをしたのである。ただしサイトで主に受け付けている殺しの依頼ではなく、薬が欲しいと書いたのだ。名前や連絡先などは書かなかったが、代わりに場所と時間を『今晩0時に前と同じ場所』とだけ書いた。誰からの書き込みなのか、それだけでストレガには分かるはずだから。
ちなみに例のサイトを探し出すのは、ネットにさほど詳しくない湊にはかなりの苦労があった。風花に頼めれば良かったのだが、目的を知られるわけにはいかないので自分でやる以外になかったのだ。何しろ今日ストレガと会うことは、アイギスにさえ話していないのだから。
「使い方は?」
「一度に一つ、カプセルごと飲むか、静脈に注射してください。持続期間は三日から四日です」
「依存性は?」
「薬そのものにはありません。ですがご注意ください。何せ劇薬ですから」
そう、これは劇薬である。ペルソナの制御が上手くいかない場合、それを抑え込む為に使う制御剤だ。効果は十分あるのだが、寿命を削るほどの強烈な副作用がある。
「余計な気遣いさ」
そう言ってやると、タカヤはにやりと笑った。一見すると皮肉なそれだが、コミュニティを通じての接触であると思えば、親近感を表しているつもりの笑みのように見える。実際、これを常用するようになれば、自分はまさに彼らと同じ宿命を負うことになる。
「いくら払えばいい?」
「金はいりません。その代わり、聞かせてもらいたいことが」
「何だ?」
「貴方がそれをお求めになるのは、先日の宴を休まれたことと関係があるのではありませんか?」
(ご明察……)
ストレガと荒垣はペルソナを抑える為に、制御剤を使用している。なぜなら彼らはペルソナに対する適性が元来高くないから――
湊は『前回』からそう思っていたが、実は違うのではないかと疑いを持ち始めていた。今月3日にタルタロスで刈り取る者と遭遇した際に召喚した、タナトスの暴走がその根拠だ。4月もそうだったが、暴走したのは制御するだけの『力』が湊になかったからだ。
そしてストレガのペルソナ、特にタカヤのヒュプノスはタナトスに匹敵する潜在能力を持っている。そんなヒュプノスをタカヤが自在に操れるのは、薬の効用があるからに他ならない。それはジンのモロスもチドリのメーディアも同じだし、荒垣のカストールも同じだ。彼らのペルソナは皆、彼ら自身に見合わない程に強大だ。
薬が必要なのは、それが最大にして唯一の理由。タナトスが暴走した時の感覚から、湊はそう判断したのである。
もし彼らのペルソナが特別課外活動部の他の皆の初期のもの程度であれば、薬など必要なかっただろう。つまり適性の問題ではなく、ペルソナと使用者の力量のバランスの問題だ。だから『前回』は1月にはタナトスを制御できるようになった。ならば自分もこれを使えば、今の時点でもタナトスを制御できるはず。そう思って薬を頼んだのだ。
もちろん可能ならば使用は避けたい。だが切り札として用意しておいて損はない。刈り取る者と遭遇してしまう可能性は、どれだけ注意してもゼロにはできないのだから。
「まあな」
タカヤの質問に対して、敢えて否定はしなかった。満月のシャドウを全て倒しても影時間とタルタロスは消えないことを、ストレガは既に知っているはずである。その情報源は幾月が残していたデスに関する記録のはずだ。ならばデスが湊の体内にいることも、既に知っている可能性は高い。
この事実は桐条武治に知られるとまずいが、ストレガなら特に問題はない。ただいずれ彼らを仲間に引き入れた後には、皆に説明を迫られる可能性はある。だが計画ではその頃には綾時が現れているはずなので、必要なら綾時に説明させればいい。色々とやりようはある。
「ふふ……力には代償が伴うのが常ですからね」
微笑を浮かべたまま、タカヤは首を回して後ろを振り返った。その視線の先にあるのは、タルタロスだ。
「ご覧ください。貴方がたも良く出入りしておられるあの塔は、何の為に存在するのか……。貴方にはお分かりですか?」
「シャドウの巣窟だろ」
何の為に、との問いに対する答えとしては適切でない。だがこういう聞かれてもいないことを唐突に話し出すタイプには、こうした微妙に論点をずらした受け答えをした方が、舌が滑らかになると思って。
「ふ……間違いではありませんがね。仰せの通り、あの塔には無数と言って差し支えないシャドウが住んでいます。人類の発祥以来、大地に生まれた全ての人間と同じ数だけいるのかもしれません。彼らは毎夜、月に向けて吠えているのです。満月の度に現れる者たちも、また然り……」
案の定、タカヤは饒舌になった。そして一区切りを置いてこちらを振り返ると、その顔からは微笑が消えていた。
「シャドウは私たちのペルソナと同じなのです。呼び方が異なるだけで、両者に変わりはありません」
ファルロスによれば、シャドウとペルソナは同じものであるとのことだったが、どうやらストレガはそれも知っているようだ。その観点から考えると、この言葉は意味深だ。
「我は彼、か」
「面白いことを仰いますね……。しかも正しい」
ペルソナは『我は汝、汝は我』。シャドウは『我は彼、彼は我』。これは言葉が違うだけで、意味は同じだ。それを正確に理解したか、タカヤは再び笑みを浮かべた。真理を追求してやまない非情な探究者の笑みだ。
「ペルソナ能力そのものは悪ではありません。よって否定する理由などありません。ならば同じものである以上、シャドウそのものも悪ではないと私は考えます。彼らは人に災いをもたらすこともありますが、それが何だと言うのでしょう」
「災いなんか常にあるものさ。シャドウがいなくたって、犯罪も戦争もこの世にはある」
「まさに……」
タカヤは我が意を得たりとばかり、笑みを深めた。当然の反応である。何しろこれは『前回』の8月の満月で、タカヤ自身が言っていたセリフのほぼそのままだ。
「ただし人間の犯罪とは異なり、シャドウはある真理を体現する存在です。それを単に倒せば良いなどと考える方々は安易すぎるのです。まして己の個人的な思いを遂げることしか頭にないのに、善を僭称するなど論外です」
「……」
『前回』の8月の満月において、ストレガは特別課外活動部の行動は偽善に過ぎないと論難してきた。だがアイギスに聞いたところによると、『今回』はそうした話はなかったらしい。それは満月のシャドウを倒しても事態は解決しないのだから、敢えて妨害を仕掛ける必要などないことが分かっているからだろう。
だがそれとは別に、タカヤはやはり偽善を憎む。『前回』から分かっていたことであるが、タカヤはこういう点で極めて観念的な人物だ。つまり偽善を憎むあまりに、悪を容認するのだ。それ自体ももちろん悪ではあるものの、絶対悪ではない。一種のロマンティシズムに過ぎない。
「真理にどう向き合うべきか、何を為すべきか……。世界で唯一彼らを認識できる者として、私たちはもっと考えるべきなのですよ」
たとえシャドウの正体を知ったところで、やはり倒すのみと特別課外活動部は考えるだろう。だがタカヤの言い分も一理ある。人間がいる限り、シャドウは絶滅することはあり得ないのだ。ならばシャドウ、即ち真理との向き合い方は考えなければならない。そこがタカヤを攻略する糸口になる。
「よく考えて、結論が同じだったら?」
「その時は……私たちは分かり合えるでしょうね」
タカヤに必要なのは、共に考え、議論する相手だ。そしてそれができる人物は、タカヤの周囲には湊以外にいない。ジンは絶対服従だし、チドリはそもそも人と話をしない。『前回』立ち上げたカルトの信者などは、ものの数にも入らない。
(大丈夫だ。こいつと分かり合う道はある。僕ならできる……)
今日のように話を重ねていけば、タカヤを説得することは可能なはずだ。絆を教える『我』が間に立っている限り、どんな人間も味方にできる。しかも『我』を抜きにしても、タカヤは自分と通じるところがある。タナトスの双子の兄弟をペルソナとして得たことが、それを暗示している。
(我は彼……か)
『前回』の1月31日、タルタロスの頂上一歩手前でタカヤと戦った時のことを思い出す。あの時、もう少し話をしたかったとの思いを抱いた。そこでは状況がそれを許さなかったが、『今回』は時間が十分ある。
ただしストレガを今すぐ仲間に引き入れることは考えていない。計画では11月から12月頃になると見ている。今の段階では、取り敢えずタカヤの思想を引き出しておくことが重要だ。その観点から考えると、今日はこのくらいで十分である。そう判断した湊は別の話を切り出した。
「ところで、先日うちの連中と揉めたらしいな?」
『今回』の8月の満月の件である。湊はその三日前にタナトスを召喚して寝込んでしまい、作戦に参加できなかった。特別課外活動部とストレガを繋ぐ楔が不在であった為、両者は言い合いになってしまったと聞いている。特に美鶴はかなり感情的になったようである。
「ふふ……獲物を横取りされたくないようでしてね」
「お手柔らかに頼むよ。何しろ温室育ちだからな」
「善処しましょう」
タカヤはまた笑みを深めた。ただしこれは親近感ではなく、皮肉の意味だ。それを見て、また少し考える。運命のコミュニティがある限り、自分とタカヤの関係は良好なものに持っていける。だが仲間の他の面々は別だ。
(こいつらも被害者だってことを、どこかで皆に教えてやらないとな)
1月31日、ジンはタルタロスでそれを話した。だがその上で、結局ストレガを倒すことに皆は躊躇いを見せなかった。とどめは刺さなかったが、許してもいなかった。その最大の理由は荒垣とチドリの死であろう。もちろん『今回』は二人の死を回避するつもりだが、それとは別に感情的な行き違いにも注意する必要がある。特別課外活動部のほぼ全員に言えることだが、皆は良くも悪くも情が激しすぎる傾向がある。道理や利点がどれだけあろうと、単なる好き嫌いだけでストレガを拒絶してしまう可能性はある。
(その辺の対処は……先に上に話を通すようにするか)
仲間に引き入れる目処がついたら、桐条武治に先に話すべきかと考えた。話の持っていき方次第であるが、根が善人な武治はグループの罪の生き証人であるストレガを決して悪くは扱わないはずだ。武治に認めさせれば、美鶴を始めとする皆は少々の不満があっても受け入れざるを得なくなる。
そしてストレガを仲間にすると言っても、何もあの寮で同居までさせる必要はない。極端な話、金を払って実戦の現場でだけ合流する雇用関係でも良いのだ。形だけでもビジネスライクなものにすれば、感情的な対立を緩和するクッションにはなる。
今後の方針をある程度決めたところで、今度はタカヤが別の話題を振ってきた。
「ところで、もう一つの依頼はどうなさいますか?」
運命のコミュニティを築いた日に依頼した、幾月の殺害だ。やる時期は湊が指示を出す。そういう約束だった。
「ああ、ちょっと状況が変わってな。あいつ、海外に飛ばされたんだ」
「海外……ですか」
幾月は海外に転任になったと今月初めに特別課外活動部には連絡されたが、それはもちろん嘘である。その辺りの真相も、ストレガは既に知っている可能性はある。だがそれをここで言う必要はない。幾月については、既に桐条グループが追っ手を差し向けている。ただ失踪以来、既に一ヶ月が経過しているにも関わらず未だ見つかっていない。この状況では、たとえ依頼の実行を指示したところでストレガが幾月の居場所を掴める可能性は低いだろう。
「だからまあ、もう無理にとは言わないよ。やってもやらなくても、どうでもいい話さ」
「なるほど……分かりました」
(それより問題は天田なんだよな……)
幾月のことは特に心配していない。そもそも今の幾月は脅威ではないから、たとえ桐条グループの捜索で見つからなくても大きな問題はない。問題なのは同じく失踪中の天田だ。そちらも併せて捜索させているが、やはり見つかっていない。
「さて、今日はこれで失礼しましょう。また近いうちに」
「ああ」
心配事が頭をよぎったちょうどその時、話は終わりになった。タカヤは踵を返し、溜まり場の奥へと向かっていった。
「おっと、一つ言い忘れていました」
数歩進んだところで、タカヤは不意に足を止めて振り返ってきた。今日何度も見せてきた微笑みはそこになく、仮面のように完全な無表情になっていた。
「荒垣さんのことはご心配なく」
「何?」
「あの方は、近いうちに誰の邪魔にもならなくなりますから」
(?……)
それだけ告げて、棺桶が立ち並ぶ緑の空間の奥へとタカヤは去って行った。影時間の闇の中では、タカヤの白い肌は近い距離でも輪郭がぼやける。まして歩いて離れて行けば、すぐに姿は見えなくなる。何もない緑の暗黒を見つめながら、湊は数秒の間、タカヤの言葉を理解できずにいた。全く予期していなかったセリフだけに、言葉の表を理解するだけでかなりの時間を要してしまった。
今日この場所に来た時、荒垣がいないかと周囲を歩き回って確認した。その様子をタカヤも見ていて、それに対するフォローなのだろうか。誰の邪魔にもならなくなるとは、もうすぐ死ぬという意味か。荒垣は制御剤の副作用が既に出ているから、ということだろうか。それとも――
(あいつら、まさか……!?)
脳裏に閃くものがあった。幾月の殺害を依頼した日、話が報酬に及んだ時に荒垣が乱入してきた。その口封じとして荒垣を殺すつもりなのか。もしくは――
(荒垣と天田の因縁を知ってるのか……? まさか天田はストレガと!?)
特に根拠のない、ただの勘である。冷静になって考えれば、反証がすぐに思いつく。口封じならば、あれから二ヶ月も過ぎた今になってやるのは不自然だ。天田の事情を知っていることはあり得るが、天田とストレガに接点はない。ないはずである。
(まだ分からない。分からないが……)
死を恐れない『愚者』の心にも、身近な人の死の予感は不安となって襲いかかってくる。あらゆる計画を台無しにしかねない、拭いようのない後悔を与えうる不安に対して、完全に否定する根拠は見出せなかった。