ここ数日、順平の様子がおかしい。芸術とかゴスロリとかの呟きに加え、熱中するものがどう、とかも言い出した。とうとう暑さで脳が溶けたのかとゆかりなどは言っていたが、湊は事情に察しがついている。チドリと色々話をしたのであろう。ただしその正体には未だ気付いていないだろうが。
特別課外活動部とストレガを結ぶ最大の縁は、タカヤとの間に築かれた運命のコミュニティだ。だが順平とチドリの仲も重要である。『前回』は9月の満月、つまり今日に二人の関係に転機が訪れた。この日、順平はチドリに捕まったのだ。後で聞いた話によると、満月の作戦を中止させる為の人質だったそうだが。
だが『今回』のストレガの行動は『前回』から変化している。その最大のものは、シャドウを守ろうとしなくなったことだ。十二のシャドウを倒しても影時間とタルタロスは消えないことを、ストレガは既に理解しているはずである。アイギスから聞いた8月の満月でのタカヤの言動から考えて、まず間違いない。従って順平を人質にして、特別課外活動部を妨害する必要はない。
もしまた順平が捕まる危険があったのなら、放課後からずっと行動を共にして事態を未然に防ぐとか、或いは敢えて捕まえさせ、アイギスを寮に残すなりして順平に危険が及ばない内にチドリを逆に捕まえるとか、色々と策を講じる必要があった。だが『今回』の状況ではそんな必要はない。だから湊は順平に関しては特に何もしないまま、この日を迎えた。
影時間の作戦室に、ルキアを召喚した風花を見守るように特別課外活動部は集合した。その中には順平もいつもと同様にいる。いや、いること自体はいつもと同じなのだが、様子は少し違った。テンションがやたらと高い。
「待ちわびたぜえ……月に一度のフルムーンフィーバー! シャドウちゃん! 俺様がぎったんぎったんにしてやるぜえ!」
「何を言ってるんだか……」
ゆかりは呆れ顔だ。だが反応を示してやるだけ、ゆかりは優しい方かもしれない。他の面々は、頭の中がお花畑の一人をほぼ完全に放置している。シャドウの探査をしている風花は当然だが、他の者も順平には注意を払わない。
「どうだ、シャドウは見つかったか?」
ガラス容器のようなルキアの腹の中にいる風花へ向けて、美鶴は声をかけた。だが風花の表情は冴えない。
「いいえ……どこにも反応がありません」
今日のシャドウはポロニアンモールのクラブ・エスカペイドに現れるハーミットである。地下に埋設された大量の電源ケーブルを乗っ取っている為、風花の能力をもってしても『前回』は位置の特定に苦労した。だが全くの無反応ではなかったはずである。
「妙だな……今日は出ないのか?」
(そんなはずはないが……)
美鶴は訝しむが、湊も困惑してしまった。現時点での風花の探査能力は、『前回』の今頃と比べて変わらないレベルにある。だからハーミットの居場所はピンポイントにはともかく、大雑把にはすぐに分かるはずである。だが今もって何の反応も見つけられないとは――
(隠れる能力も前より上がってるのか?)
何度も思い知らされているが、『今回』のシャドウは『前回』よりやたらと強い。それと同じように、ハーミットの隠形の能力も向上しているのだろうか。隠者だけに。
全員が作戦室に待機したまま、影時間は刻一刻と過ぎていく。もっとも時間が停止した状態に等しい影時間に刻一刻という表現が適切かどうかは微妙なところだが、とにかく『時間』は有限である。
(まずいな……)
あまり長いこと見つけられないと、時間切れになってしまう。そうなると次の満月に大きく響いてくる。4月にファルロスに聞いた話によれば、シャドウを倒さないまま影時間が過ぎると、次の満月にまた現れるとのことだ。次に出てくる予定のシャドウと一緒に。そうなると来月の難度が格段に上がってしまう。ただでさえ10月の満月は二体出るのに、三体同時になったら手に負えなくなりかねない。しかもそれに加えて、その日は荒垣と天田の因縁の日だ。毎月のことではあるが、今日は普段以上にシャドウを逃がすわけにはいかないのだ。そう思って、一つ提案してみた。
「外へ探しに出ましょうか?」
傍から見れば無茶な案である。巌戸台の地区全体を僅か数人で探し回っても、見つけられるわけがない。だがハーミットの居場所は、湊とアイギスは当然分かっている。真っ直ぐポロニアンモールに行って偶然を装って発見し、それから皆に無線で連絡するなりして戦闘に持ち込むことは可能である。だが風花はルキアの中から声を高くしてきた。
「待ってください! お願いします、やらせてください! これは私の役目だから……!」
「……」
聞き覚えのある風花のセリフに、湊は重ねては提案しなかった。風花は目を閉じ、更に集中力を高めた。
「ルキアの指が触れる……土の答え。髪が触れる……風の答え。唇が触れる……水の答え。教えて……シャドウはどこ?」
半透明のペルソナの腹の中で目を閉じて両手を組むその様は、何かに祈る姿に似ている。江戸川の授業によれば、祈りや瞑想は魔術師になる為の基礎修練の一つだそうだ。ペルソナ使いも魔術師の一種だとすれば、風花の集中はまさに魔術の実践である。そのまま体感時間にして数分が経過した頃、とうとう反応が出た。
「あ……見つけた! え、ええ……!?」
ルキアの中で風花は目を見開き、組んだ両手を解いた。だがその手は長時間の緊張の為か、凍えたように強張っている。目は開いているが、目の前のものを見てはいない。無意識の海底から一気に水面まで上がった反動で、五感が正常に働いていないかのようだ。
「シャドウと……人間が戦ってる!? きゃっ……な、何!? は、入ってくる!?」
風花は頭を抱えてうずくまり、それと共にルキアが消えた。
「山岸、どうした!」
ただ事でない様子に、美鶴とゆかりが駆け寄った。その時、作戦室のスピーカーから突然声が発せられた。いかにも面倒そうな、不愉快さを隠そうともしない声だった。
『貴女たち、目障り……』
(!?)
「何だ!? 通信が乗っ取られたのか!?」
美鶴は目を剥くが、湊も驚いた。風花の探査が突然破られ、逆に外から声が届けられるこの事態は『前回』にもあった。11月22日、チドリと戦った日だ。大きな後悔の原因となった忌まわしい出来事が心の中で蘇り、急激な不安感が襲ってきた。
『タカヤの考えが分からない……。どうして貴女たちに手を貸すの?』
「こ、この声……チドリ!?」
「タカヤ……? ストレガか! お前たち、どこにいる! シャドウをどうする気だ!」
順平も気付いたようだ。そして美鶴はそれ以上のことに気付いた。
『……』
だがスピーカーから返答は来なかった。余計な一言を残しただけで、そのまま通信は途絶えてしまった。
「風花! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫……それより! 場所が分かりました! ポロニアンモールです!」
ゆかりに支えられて、風花はよろめきながら立ち上がった。激しい頭痛に襲われたように頭を手で押さえ、目にはうっすら涙が滲んでいる。
「ふっ……まあ、そこそこ楽しめましたね」
影時間のクラブの中では、三人の男が佇んでいた。彼らの足元には一体の巨大なシャドウが倒れている。そしてシャドウを中心として無数の電源ケーブルがフロア中に散らばっており、所々から電気の火花を散らしている。屋内でありながら、台風が通り過ぎたかのような惨状だ。たった今まで苛烈な戦闘が行われていたことをフロア中が示している。
だがシャドウとフロアの無残な様相と違って、三人の男はいずれも無傷に近い。してみると、苛烈だったのは実はシャドウにとってだけで、三人には遊び程度のものだったのかもしれない。事実、三人の中心に立っている男、タカヤは怪我はおろか疲労の色さえ浮かべていない。白い顔に貼り付いた皮肉な笑みでもって、巨大な怪物を解剖された小動物のように見下ろしている。
「てか、何でわしらがやらんといかんのです」
「応援すると言いましたから」
8月の満月の際に、タカヤは有里湊の一党にそう言った。あれは皮肉のつもりだったが、反応が予想以上に滑稽だったので本当に応援してやる気になったのだ。
「まあええですけど……ホンマに大丈夫なんですか? わしらが倒してもうて」
「心配はいりません。本来シャドウは時間や空間を超えた存在です。いつどこで滅びようとも、滅んだ後に向かう先は同じですよ。初めからそのように宿命付けられているのですから」
説明に合わせたかのように、タカヤの言葉が終わると共にシャドウは赤黒い煙へと姿を変えた。体躯が大きい分だけ煙の量も多い。しかしそれはクラブのフロアを覆い尽くすようなことはない。四方の壁や天井に届く前に緑の空気に溶けてしまう。ほとんど間を置かずに無色の存在へと変わり、ペルソナ使いにさえ見えなくなる。ただし目に見えなくなったからと言って、存在しなくなったわけではない。本来あるべき場所へと向かって行ったに過ぎない。その点に関して、タカヤは論理を超えた確信を持っている。
「あんたが言うなら、そうなんでしょうな……」
「では、引き上げましょうか」
タカヤは踵を返してクラブから出た。連れの二人もそれに続く。
「チドリ、ご苦労でした」
外に出たタカヤはチドリに声をかけた。チドリは戦闘能力もない訳ではないのだが、実戦の現場にまで出て来ることはめったにない。今日はクラブの外、ポロニアンモールの中央に置かれた噴水前のベンチからサポートを行っていたのである。
「……」
チドリは三人の男に背を向けている。返事もせず、噴水を見つめたまま動こうとしない。小脇には一冊のスケッチブックを抱えている。
「どうしました?」
「絵を描く……。先に行ってて」
「そうですか」
チドリはジンと違ってタカヤに絶対服従ではない。そしてタカヤも基本的に仲間に対して放任主義なので、必要なこと以外はチドリに命令しない。その為、三人の男はそのままねぐらへ帰って行き、白いドレスを着た少女だけが満月の照らすモールに残された。
湊たちは全員でポロニアンモールへとやって来た。影時間は既に半分が過ぎている。モールの中央と入口の左右に置かれた三つの噴水はいずれも赤く光って、空中で静止している。静止しつつも動感溢れる赤い液体は、真新しい傷口から吹き出す鮮血を連想させ、元より不気味な影時間の空気に恐ろしくよく似合う。だが似合っているのはそれくらいで、本物の流血の痕跡はモールにない。
「シャドウの反応はもうありません……。でも、確かにここだったんです」
「ストレガが既に倒したというわけか……」
敵のいなくなったモールを一通り見回しながら風花は呟き、美鶴は腕組みをして忌々しげに言う。二人だけでなく、皆が困惑を隠せていない。湊にとってさえ、完全に予想外の状況だ。
(不覚だった……)
考えてみれば、シャドウの横取りはストレガならできないことではない。風花以上の探査能力を持つチドリがいれば、先回りは十分可能だ。更に風花にはないジャミング能力で、こちらの探査の妨害もできる。完全に出し抜かれてしまったわけだ。
「山岸、奴らを探してくれ。まだそう遠くへは行っていないはずだ。何をするか分からない連中だ。このまま野放しにするのは危険だ」
「はい……」
風花は再びルキアを召喚し、探査を始めた。だが反応は出ない。
「どうして……? 何も見つからない……」
(無駄だろうな)
風花は作戦室でハーミットとストレガの戦いを一瞬だけ感知した。だがあれは限界以上の集中力を発揮して、ようやくできたに過ぎない。あんな荒業を一日に二度もできるとは思えないし、そもそも感知できたこと自体も、風花を鬱陶しく思ったチドリがわざと見せてやった可能性も否定できない。風花には悪いが、今日はこのまま帰る他にない。と思いきや――
「サーモスタットに反応あり! 目標、裏路地です!」
突然アイギスが声を上げた。チドリのジャミング能力は風花の探査は妨害できる。だが人間の体温を感知するアイギスのサーモスタット機能は、ペルソナではなく機械的な装置によるものなので妨害を受けない。全員の視線が彼女に、そしてベルベットルームに続く裏路地へと向けられる。
そこへ向けて真っ先に飛び出したのは順平だった。重い大剣を肩に担ぎながら、翼が生えたかのような速さで走って行く。
「チドリ!」
果たしてチドリはいた。タカヤとジンはそこにおらず、一人だけだ。もちろん見えてはいないだろうが、ベルベットルームの青い扉に背中を預けるようにして一人で佇んでいた。足元には一冊のスケッチブックが投げ出されている。順平の肩越しにチドリの姿を見た湊は、作戦室で通信が乗っ取られた時以上に驚いてしまった。
(な、何してるんだ!)
とうに立ち去ったかと思いきや、なぜこんな所に一人で残っているのか。何か絵に描いておきたいモチーフでも見つけたのか。
「チドリ! どうして君が……!」
順平は裏路地の半ばで立ち止まり、必死な声を送る。対するチドリは嫣然と微笑んだ。過剰な装飾が施されたドレスの上にある端正な顔が、普段の無表情から急激に妖しい笑みに変わるその瞬間は、見る者の時間を停止させるほどの魅力を発揮する。そして柄から鎖が伸びている小型の斧と、拳銃を模した召喚器を持つその装備が奇怪さを更に増幅させる。
大剣を持った順平の目の前に置いて、チドリはゆっくりと右手の召喚器を持ち上げた。そして鎖をぶら下げた左手を添え、祈るような仕種で銃口を顎に当てた。
「メーディア、出ておいで……」
召喚器に特有の破砕音と共に、燭台とククリナイフを持った女のペルソナがチドリの頭上に現れた。ただし女と言っても、頭部はヤギの頭蓋骨のような仮面に覆われて顔は見えない。
「うわっ!」
蛇が鎌首をもたげるように燭台の炎がうねり、順平に襲いかかる。躊躇も遠慮もそこにはない。火に弱いタイプのシャドウやペルソナ使いであれば、一瞬で火葬される勢いの猛火が順平を包んだ。
「くそっ!」
だが順平は倒れない。全身を覆うほどの大量の火炎を、大剣を持っていない左手を大きく払っただけでかき消した。服さえ燃えていない。
「貴方、火に強いのね。でも、いつまで耐えられる……?」
チドリは珍しい笑顔を浮かべたまま、再び召喚器を顎に当てた。
「やめろ、やめてくれ! 何で俺らが戦わないといけねえんだ!」
順平は自分からは仕掛けようとしない。そんな中、美鶴が後方から大声を上げた。
「伊織、下がれ!」
ベルベットルームに通じる裏路地は狭い。それでも普段なら人が二人くらい並んで通ることはできる。しかし路地の中央で大剣を持った順平が立ち止まっていては、後ろのメンバーはチドリに手を出せない。
「待ってください! 俺が何とかします!」
順平は首だけ回して美鶴を押し留めた。そしてすぐにチドリの側を振り返り、剣の腹を相手に向けて構えた。普段の順平は敵に斬りかかりやすいように大剣を野球のバッターのように構えるが、この型は防御のそれだ。長大な剣を横に向けると、ただでさえ狭い路地をすっかり塞いでしまう。つまり順平は自分自身よりも、チドリを仲間の皆から庇おうとしている。既に好意を抱いていたはずの、戦う目的にさえ密かにしていたであろう少女を。その正体を突き付けられながら、なおも庇おうとしている。
そんな順平に対して皆は動けなかった。それは地形と人の配置も要因としてある。だがそれ以上に、順平の常ならぬ本気の形相が皆を押し留めた。普段の軽い仮面しか見ていない者であれば、思わずたじろいでしまうほどの気迫が漲っていた。
しかしチドリはそんなことに構いはしない。更にペルソナを召喚しては炎を立て続けに浴びせかける。元々火炎に強い順平は、そう容易く焼かれはしない。だがいつまでも受け続けては、いつか限界が来る。ジリ貧の状況であることは誰の目にも明らかだ。しかし――
(まずい……! これは本当にまずい!)
この場でただ一人、湊だけは全く別の理由でもって状況に危惧を覚えていた。そんな中、白いものが湊の足元を走り抜けた。
「ワン!」
路地を塞ぐ大剣の隙間は狭い。だが人間には無理でも、犬の体ならば通り抜けることもできる。順平とチドリの間にコロマルが割り込んだ。
「ふっ……」
チドリは微笑みを少しだけ薄くして、左腕に巻き付けた鎖を解いて斧を手に持った。強いだけの順平と違って、コロマルは火炎を完全に無効化することができる。チドリは一目見てそれを分析したか、それとも事前に知っていたか、攻撃の手段を変えるつもりのようだ。眼下のコロマルに向けて、柄に鎖が繋がった斧を投げ付けた。
「危ねえ!」
だが順平の方が速かった。両腕を伸ばしてコロマルに覆いかぶさるようにして、大剣をコロマルの鼻先に突き立てた。次の瞬間、チドリが投げた斧が大剣に当たり、鎖が刀身に絡まった。
「くっ……」
この時、チドリは初めて動揺を見せた。鎖を介して順平と綱引きの形になっている。魔力はともかく、膂力では順平に分がある。
「もうやめようぜ……」
この期に及んでなお、順平は優しい声をかけた。だがチドリは順平と一瞬だけ目を合わせると、鎖を握る手を離した。綱引きの片方が急になくなった弾みで、順平は半歩よろけた。
「おわっ!」
「メーディア!」
チドリは再び召喚器を両手で捧げ持ち、顎に当てた。だが順平も崩れた体勢から素早く立ち直って、召喚器を抜いた。
「このっ! ヘルメス!」
二重に響いた破砕音と共に、二人のペルソナはほぼ同時に顕現した。メーディアはククリナイフを振りかぶり、対するヘルメスは金色の翼を広げて飛び掛かる。普通のペルソナは一つ動くとすぐに消える為、ペルソナ同士がぶつかり合うことはめったにない。ましてストレガのペルソナは三人とも接近戦より遠距離攻撃を得意とする為、『前回』を通じても初めてのことかもしれない。
人間の体とも金属とも違う独特の衝突音を一度だけ響かせて、二体のペルソナが交錯した。その一度だけで、ヘルメスはメーディアを空中から地面に叩き伏せた。メーディアは戦闘能力もそれなりにあるが、その本領はルキアと同じサポート能力にある。魔法の撃ち合いならまだしも、正面衝突ではヘルメスが一瞬で勝負を決めた。
「ああっ……!」
ペルソナが受けた衝撃は使用者にも影響するのか、打ち落とされたメーディアと共にチドリ自身も地面に膝をついた。その瞬間を見逃さず、順平が叫ぶ。
「コロマル! 召喚器!」
「ワン!」
コロマルは順平の意図を汲んで機敏に動いた。倒れ込んだチドリの召喚器を口に咥えるや、間髪入れずにもぎ取った。一瞬の早業と言ってよい。
「いやっ! か、返して!」
チドリは地面に膝をついたまま這うようにして手を伸ばすが、コロマルは皆の足元をすり抜けて素早く後方へと下がって行った。伸ばされたまま何も掴めなかったその手を、順平が逆に掴んだ。力は入れず、優しげに。
「チドリ……頼むよ。大人しくしてくれ……」
掴んだ手と同じように優しい声色で言う順平を横目で見て、チドリは俯いた。召喚器を奪われ、斧からも手を離したチドリに抵抗する手段はもはやない。勝負あった。周囲の空気から緊迫感が急激に失われていった。
(まずい……結果だ)
為す術がないまま成り行きを見つめていた湊は、密かに頭を抱えた。勝負を決めるのが誰になるかはともかく、この結果そのものはチドリの姿を見た瞬間から分かっていた。チドリ一人に対して特別課外活動部全員では、地形や相性をどれだけ利用しようと勝負になるはずがない。アイギスに発見された時点で、チドリの命運は決まっていたと言ってよい。だから普段は皆を指揮するリーダーといえども、どうすることもできなかった。
「聞きたいことが色々ある……。伊織、君にもだぞ」
ようやく道の空いた路地を通って、美鶴が順平とチドリに近付いた。順平は黙って頷いたが、チドリは虚ろな目をして同じことを呟くばかりだった。
「私は……死ぬ……なんて……怖く……ない……」
かくしてシャドウと戦わないまま、湊たちは寮に戻ってきた。チドリは話を聞ける状態になかった為、アイギスが拘束し、美鶴と真田に付き添われて辰巳記念病院に連れて行かれた。順平もついて行こうとしたが、美鶴に窘められた為、他の二年生組と一緒に寮に戻ってきた。
影時間が明けるまで体感時間であと数分と言う頃、自室に戻った湊はベッドに仰向けに倒れ込んだ。照明のつかない天井を見上げながら、猛烈な疲労感が襲ってくるのを感じた。それでいながら、眠る気にはなれない。今日は戦っていないから体は疲れていない。だが精神的には最悪なまでに疲れてしまった。ここ数日溜まっていた心労のレベルが、一段上の領域に入ろうとしているのを感じる。
「こんばんは」
妙に冴えた目をベッドの脇へと向ければ、ファルロスがそこにいた。いつも笑顔で現れる少年は、今日ばかりは少し困ったような表情でいた。
「他の人に倒されちゃったね」
「ああ……取り込んだか?」
「うん」
否定の返事が来てくれることを僅かだけ期待していた。だがファルロスは嘘を吐かない。そして誤認もない。湊は事がシャドウや影時間に関する限り、ファルロスの知識と認識に絶対の信用を置いている。よって事実をありのままに受け止めるしかない。
「まあ、先月もそうだったしな」
ストレガが倒したことによってハーミットがファルロスに取り込まれず、結果的にデスの復活が阻止されるのであれば、今日の結果は大歓迎だ。だが現実はそんなに甘くない。4月に確認した通り、満月のシャドウはどこで誰が倒してもファルロスに取り込まれてしまう。寝込んでいた8月の満月でもそうだったから、今日も同じである。
それでも単にストレガがシャドウを倒しただけなら、こちらは楽ができた分、それなりに喜ぶべきことかもしれない。しかしそんな気には全くなれない。チドリの身柄を『前回』のように確保してしまった。これは非常に大きな問題だ。
(失敗だった……)
事態を予想できなかったことが悔やまれる。考えてみれば、チドリは『前回』からタカヤとジンとは一線を画している。そもそも『前回』の9月に動いたのはチドリだけで、あとの二人は出て来なかった。あの時三人が連携してもっと狡猾に動いていれば、こちらはより深刻な危機に見舞われていたはずだ。従って『前回』の順平の捕縛は計画から実行まで、全てチドリの単独行動だったと考えていい。
(あいつは訳が分からん……)
本人と順平には悪いが、チドリは本当に訳が分からない。元来の性格なのか病気なのか、行動に合理性がない。下手をすると、タカヤとジンの考えを理解していない可能性もある。ならば『今回』も理に適わないことをしでかす可能性は考慮すべきだった。それをせず、成り行きに任せたのは失敗だった。
(タカヤは今後どう動く?)
ストレガを仲間に引き入れる方法として、順平とチドリの仲を利用することも考えていた。だがそれにはここでチドリを確保せず、ストレガの一員のまま順平と交流を持たせなければならなかった。と言うのも、確保してしまっては特別課外活動部とストレガの対立を先鋭化させるからだ。『前回』のタカヤは11月21日の深夜に病院を襲撃してチドリを連れ出し、翌日の影時間にチドリと戦う羽目に陥った。あの時のように、チドリを奪い返そうと画策する可能性は高い。そうなるとまずい。
『今回』のタカヤは湊に対しては親近感めいたものを感じている。無論、絆を教える『我』が間に立っているからであるが。だがチドリを巡って直接的な交戦にまで事態が発展するようなことがあっては、運命のコミュニティがどう進んでも関係ない。このままでは湊の行動に関わらず、タカヤとジンを仲間に引き入れることはできなくなる可能性が高い。
「彼らに随分こだわるね」
思考の海に沈んでいたところへ、ファルロスが尋ねてきた。
「戦力になるからな」
8月にもアイギスに説明したが、『今回』は仲間たちが新たなペルソナに覚醒する機会を得られなくなる可能性がある為、戦力としてのストレガは是非とも欲しい。そしてそうした打算的な理由以外にも、彼らを助けたいとの思いはある。特にタカヤに対しては、湊は自分と通じるものを感じている。
「そうだね……でも気をつけてね。彼らは毒のある花だよ」
「ああ……」
ファルロスは『前回』の8月7日に同じことを言っていた。曰く『毒のある花が芽を出す。隣の花壇に三つ、こちらの庭に一つ』。その意味するところは、ストレガと幾月だ。幾月はともかく、ストレガの毒は薬に転用するつもりでいた。
しかしストレガは荒垣と天田の因縁に一枚噛んでいるのでは、という問題が既にある。だがそれは飽くまで可能性で、確証はない。だが今日のチドリの件は明らかに大問題だ。小細工でどうにかできるとは思えない。
(あいつらを仲間にするのは無理かな……)
来年1月までの計画を、根底から見直さなければならないかもしれない。だがこの夜は、どうでもいいと全てを投げ出してしまいたくなるのを抑えるのに精一杯で、これと言った有効な考えは湊の頭に浮かんで来なかった。