二学期が始まって二週目の月曜日、授業を終えた湊は廊下に出た。一学期の間はほとんど参加できなかった、生徒会の定例会に出席する為である。悩み事の多い最近ではあるが、気持ちの切り替えは得意である。ましてペルソナ使いと高校生の二重生活は『前回』も含めれば既に丸一年を超えているから、学校にまで悩みを引きずらずにいることはできる。と言うか、慣れている。そうでなければ、やっていられない。
そうして二階の廊下を歩いて生徒会室の前まで来ると、ちょうどそこで呼び止めてくる声があった。
「あ、有里君。ちょっと……時間あるかな」
風花だった。小柄な体を更に縮めるようにして、若干の恥ずかしさを浮かべている。
「それで……お腹もちょっぴり減ってたりすると、嬉しいんだけど」
(?……)
これと似た流れの話は『前回』も6月にされた覚えがある。屋上に連れられて手作りの混沌、もとい弁当を食べさせられ、女教皇のコミュニティを築いたのだった。『今回』のその時期は、風花を荒垣に引き取ってもらう為にコミュニティの開始を荒垣が加入する9月にしようと企んでいて、学校では意図的に風花を避けていた。だがその後に色々あった為、コミュニティが発生しないまま破綻に近い状態になってしまった。ちなみにその点は、ゆかりと美鶴も同様である。
だが今になってこのように言ってくるとは、知らぬ間に時間が解決してくれたのだろうか。とは言え、『今回』は風花と特別な関係になるつもりはない。誘いに応じて良いのか悪いのか、一瞬悩んだが――
「暇だよ」
敢えてこう答えた。絆の力は多いに越したことはないのだ。特別な関係になっては困るが、『今回』の戦車のように回避する手段はきっとあるはずだと思って。
「良かった……。じゃあちょっと、来てもらっていいかな」
そう言って風花は廊下を歩き、階段へと向かった。屋上へ行くのかと思いきや、なぜか風花は階段を下りて行った。
(あれ?)
疑問に思いながら連れて行かれた先は家庭科室だった。入ってみると、緑のマジックで大書された模造紙が黒板に貼られているのが目についた。
「ふふっ。料理部、立ち上げちゃいました!」
(そう来たか。しかし……部なのか?)
ちょっと楽しそうな風花の紹介を聞きながら、いくつかの点で不審に思った。『前回』は個人的な付き合いで料理を食べさせられたが、『今回』のこの様子では他の人も関わってくる形になるのだろうかと。この学校では部を立ち上げるには、何人か集めないといけないはずだ。
そんなことを考えていたが、思考は手元に現れた小さな弁当箱と割り箸によって中断された。一見すると何の裏もなさそうな風花の笑顔と共に差し出されたそれに、胃が緊張して収縮する感覚を与えられてしまう。だが『愚者』は死を恐れない。平然とした顔を繕いつつ、黙って弁当箱を受け取った。そして傍目には何気ない動きで蓋を開けた。外からは見えない胃袋が強張っていても、手は震えたりしない。
(あれ? 見た目はまともだな)
中身を見て密かに驚いた。『前回』初めて風花に出されたものは、筆舌に尽くし難いとんでもない代物だった。蓋をされた状態でも妙な臭いが漂ってきて、しかも理由は分からないが、食材が脈打っていたりもした。
だが弁当箱の中に収められているものは、見た目は普通だし変な臭いもしない。いつの間にか練習していたのだろうか。『今回』のコミュニティは『前回』と異なる点がいくつかあるが、もしや風花の料理の腕前も初めから人並みなのだろうか。もしそうなら、女教皇のコミュニティは危険がずっと少なくなる。そんな期待を抱いて、口に運んでみると――
世界が暗転した。未だ9月のこの時期に、もうこの世の終わりがやって来たのかと錯覚してしまった。
「え……有里君!? だ、大丈夫!?」
「しかしまた、何で料理を?」
暗い世界から復帰した湊は、額に浮かんだ脂汗をハンカチで拭きながら尋ねた。これを食べさせられるのは、冗談ではなく本当に身の危険を感じる。荒垣がいるなら風花の料理趣味は使い道があるが、今の状況では健康が脅かされるだけだ。
「だって私、みんなの役に立ててないから……」
「ペルソナがあるじゃないか」
風花の能力は特別課外活動部には絶対に欠かせない。極端な話、他のメンバーは誰が欠けても他で補うことは不可能ではない。現実に可能かどうかはともかく、理屈の上では代わりが利くのだ。湊が務めるリーダーの役すらサブリーダーのアイギスに代行させることが可能だし、8月の満月では実際に代わってもらった。だが風花だけはそうはいかない。サポートそのものは美鶴も一応できるが、タルタロスの探索は美鶴の能力が及ばない階層にまでとうに達している。風花はある意味で、湊以上に不可欠な人材なのだ。だが――
「でも……タルタロスでは有里君とアイギスがいつも上手に指揮してるし。私ができることって、フロアのマップ情報を組み立てるくらいじゃないかって……」
(それは……確かにそうだ)
風花の能力が最も発揮されるのは、敵シャドウの解析だ。だが湊は『前回』の経験から、ほとんどのシャドウの特性をあらかじめ把握している。アイギスに至っては湊以上の正確さで把握している。だから初見の敵でも二人の指示で弱点を的確に突き、風花の解析が終わる前に片付いてしまうこともあった。二人としては『今回』は敵がやたらと強い為、わざと攻撃を外したりする余裕がないからそうしてきたのだが、結果的に風花が活躍する場を狭めてしまったわけだ。
「それに……こないだの満月では何もできなかったわ。もし……もしもチドリさんが私たちの仲間になったら、私がいる必要は何もなくなっちゃう……」
(ああ、なるほど)
湊はアイギスを除く仲間の皆には、ストレガを仲間に引き入れようとしていることを話していない。意図せずチドリを捕えてしまったことでタカヤとジンは難しくなったが、チドリ自身はまだ見込みがある。何しろ順平との仲があるし、湊もチドリを死なせる気はない。
だから今後にチドリが仲間になる可能性はある。そして本当にそうなったら、確かに風花の言う通りになりかねない。実際、チドリのサポート能力は風花を上回っているし、敵の探査を妨害するジャミング能力もある。しかも高いとは言えないものの戦闘能力まである。タルタロスの探索時には風花に護衛を最低一人はつける必要があるが、チドリは必要ない。考え方によっては、チドリは全てのペルソナ使いの中で最も汎用性が高い、究極の万能型とさえ言える。ストレガは全般的に個々の能力では特別課外活動部に勝っているが、それはサポート役に関しても同じだ。
(ストレガに出し抜かれたことが、こんな方面にまで影響を及ぼすとはな……)
事ここに至って、問題の深刻さをようやく理解できた。風花の代わりはいないと思っていたが、実はいたのだ。居場所というものにこだわる風花の性格からすれば、ここで自分がいる意味を見失いかけても不思議はない。
「そんなことないさ」
「……」
簡単な慰めをかけてやっても、風花は沈み込んだままだ。ここは気休めではなく、本格的なフォローが必要になる。しかも後々で本当にチドリが加入した場合のことを考えると、ペルソナ能力とは別の方面で必要だ。ついでに言うと、機械やコンピューターに強いこともジンの方が上だろうから、そちらも避けた方が良い。そうなると風花の核心にまで触れなければならない。それは――
「君には帰る場所があるんだ」
「え……?」
ペルソナ使いになる為の条件が何であるのかは不明だが、家庭環境がその一つであるのかもしれない。十分条件ではないにせよ、必要条件ではあるのかもしれない。何しろ特別課外活動部の面々は、家庭に問題を抱えている者ばかりである。風花も例外ではなく、両親と上手くいっていないのだと『前回』に聞いたことがある。だが両親とも死んでいる湊や真田、片親が死んでいるゆかりなどと異なって、風花の家族は両親とも健在である。
「たとえ部を辞めたって、家に帰れば家族がいるだろう?」
普通の人間関係は少々の後退や破綻があっても、時間さえあれば取り返しがつく。一年で決着をつけなければならない湊のコミュニティと違って、風花は両親との関係を再構築することが可能なのだ。だからたとえ部で居場所をなくしてしまっても、再び家に戻る選択肢が依然として残されている。
「……」
しかし風花は辛そうな顔をした。しかも一つのことだけでない様々な辛さが複雑に絡まり合っているのが、『前回』特別な関係になった湊の目には見える。
風花は逃げ道に誘われやすいタイプだ。そもそも特別課外活動部に参加したのも、寮に入れば息苦しい家庭から離れられるとの動機は確実にあっただろう。他にも『前回』の12月、綾時からニュクスの来訪を告げられた時は試験が近いことを言い訳にして、勉強に没頭していたりした。
「うん……そうだね。ゆかりちゃんはお父さんがいないし、有里君はご両親ともいないのに……。私、恵まれてるよね……」
「そうじゃなくて」
単に役に立てていない以上の、更なる自己嫌悪に陥りそうな風花を遮った。風花の性格を咎めるようなつもりはない。辛い現実から目を背けて逃げ道を求めるのは、人間の心理として当然だ。何も恥ずかしいことではない。重要なのは――
「君は誇れることをしているんだ」
逃げたいと思うことと、実際に逃げることは全く別だ。『前回』の風花は他の仲間たちと同様に、ニュクスに立ち向かう道を選んだ。そしてそれだけでなく、12月には家にも顔を出すようにしていたらしい。つまり結局のところ、風花は周囲のあらゆる困難から逃げなかった。
「誇れる……?」
意外なセリフで虚を突かれたか、風花はきょとんとして言われた言葉を繰り返した。自己嫌悪で築かれた壁に隙間が空けられた。
これがゆかりや美鶴であれば、また事情が異なる。あの二人はどちらも父親の遺志を継ぐ為に逃げる道を拒否したが、風花にはそうした自分自身以外の目的はない。その点において風花は順平やコロマルと同じく、自分の勇敢さのみを拠り所にしてニュクスに立ち向かったのだ。それは誰にでもできることではない。まして綾時に感じた友情と、『契約』、言い方を変えれば強制が主な動機であった『前回』の自分とは全く異なる。その分、風花の戦いはより称賛されるべきだ。誇りに思っても良い。湊はそう思っている。
しかし『前回』の経緯などは説明できないので、壁の隙を突いて畳み掛けてやった。
「第一、サポート役だって十分怖い仕事だろう? 影時間に外を出歩くだけだって、普通に考えれば危険じゃないか。タルタロスのエントランスや満月の現場でだって、周りに人が少ない中でサポートするのは怖いだろう。でも君は逃げていない。安全な家に帰ることだってできるのに、そうしていない。君はこれまでずっと、勇気を証明してきたんだ」
いささか詭弁じみていると自分でも感じる物言いだ。だが客観的な正しさなどは、この際どうでもいい。ここはとにかく喋ることだ。
「だから皆は居場所を与えてくれるんだ。その気持ちがありさえすればいい。たとえ今後誰が部に加わっても、君の居場所は決してなくならないさ」
「うん……そんなふうに言ってくれると、ちょっと楽になるな……」
風花は表情を戻してきた。取り敢えずフォローは効果があったようだ。しかし――
「でも気持ちだけじゃ駄目だと思うの。些細なことでもいいから、みんなの役に立ちたいんだ。だから……これから頑張るから、時々食べに来てくれないかな?」
話を振り出しに戻された。この流れでは、嫌だと答えることはできそうもない。結局は風花の料理を食べざるを得ない様子だ。
(どうしたものか……)
命に関わるようなことは多分ない(絶対ではない)だろうが、体調を崩すくらいなら大いにありそうだ。定期的に腹でも壊そうものなら、タルタロス探索の計画に響く。ペルソナ能力は精神面が大きくものを言うが、体調が影響するところもある。せめて被害を少なくする方法はないか――
「料理部に入ろうか?」
荒垣には及ばないが、湊は自分でも少しは料理できる。ここは好きに作らせるより、教えてやった方が良いだろうと思って言ってみた。すると風花は驚いた表情を見せた。
「え……本当に?」
戦う理由や目的の話をされた時よりも、より大きな驚き方だ。呆気に取られていると言っても間違いではない。だがその直後、表情に赤いものが混じってきた。
「嬉しい……実は入ってほしかったんだ。また……助けてもらっちゃったね」
「また?」
「ほら、私が体育館に閉じ込められた時。あの時のお礼、ちゃんと言ってなかったから……ありがとう」
短い礼の言葉を言いながら、風花は更に顔を赤くした。頭は下げずに、朱が差した顔を男に向けたままでいる。正常な神経の男であれば、思わず抱き締めたくなる衝動に襲われるだろう。だが寄せられる好意に真実で応えることのできない『愚者』の心に、そんな衝動は襲って来ない。その代わり、酷く嫌な予感がしてきた。
(忘れてくれよ……)
『今回』の5月29日、森山たちに体育館に閉じ込められた風花を湊は出してやった。だがあれはある種の打算があってやったに過ぎない。そんなことに対して礼など言われると、嫌な予感がする。何しろ『前回』も女教皇のコミュニティでは、風花は湊を恩人のように思っているとか言っていたのだ。恩義が好意へと発展していった経緯を思うと、礼の言葉がやけに不吉に聞こえてくる。コミュニティを築きたくない気にさえさせられる。
そんな可憐な不吉さが頭をよぎったその瞬間、時間が停止した。影時間にはなっていないが、時計が砕け散るのに似た瞬間が二人のペルソナ使いの間に訪れた。
(あっ……!)
恥ずかしそうな風花の笑顔が視界に映った状態のまま、感覚だけを残して世界のあらゆる事象が停止した。絆を教える『我』の宣告が始まる瞬間だ。停止した時間の中では、思考さえ動かせない。やめてくれと心の中で叫ぶ暇さえない。だが――
『我は汝、汝は我……。汝、新たなる絆を見出したり。汝、女教皇、女帝、恋愛のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん……』
声を聞き終えた後で、不吉な予感を軽く凌駕する驚愕を覚えた。動揺を顔に出さずにおくのが精一杯だ。7月のアイギスの暴走以降、ほとんど諦めていたコミュニティが発生した。心配の種もあるが、発生したこと自体は取り敢えず良しとしよう。だが三つ同時とはどういうことなのだろう。『今回』のコミュニティは不可解なことが色々あったが、これは極め付けだ。
(何がどうなってんだ、一体……)
これは適当に流すことはできない。非常に重大な問題だ。表情には出さずに内心だけで怪しみながら、ふと黒板に目をやると家庭科室に入った時に感じた疑問を思い出した。まずはそこから確認してみることにした。
「ところで、これって部なの? 同好会じゃなくて?」
「部だよ」
風花は一瞬の迷いもなく答えた。嘘を吐いているようには見えないし、そもそも嘘を吐く必要などないはずだ。
(となると……少なくとも美鶴は裏で手を引いているな?)
『前回』の卒業式の前日、風花はメカ部の立ち上げ許可を担任の江古田に申請していたが、五人は集めないと部にはできないと却下されていた。あれは別に江古田の意地悪ではなく、学校の決まり事だ。実際、二人しかいないファッション同好会は部ではない。料理部も今のところ二人、昨日までは一人だったはずなのになぜか部になっている。それは何か裏技が使われたからに違いあるまい。そしてそんなことが可能なのは、風花の周囲には一人しかいない。
考えれば考えるほど、陰謀の臭いを感じた。
「お帰りなさい。あの……お伝えしなければならないことが」
寮に戻ると、アイギスが出迎えてくれた。少しだけ困ったような顔をしている。
話によると、何か部活をしてみたらどうかとゆかりに勧められて、今日アイギスは弓道部の見学に行ったとのことだった。彼女が普段使っている銃器は弓と勝手が違うものの、同じ遠距離武器なので参考になることがあるかもしれないと思ったらしい。だが試しに弓を何度か引いたら存外に当たりを連発してしまい、感心したゆかりばかりか他の部員にまで熱心に入部を誘われ、断りきれずに弓道部に入ることになってしまったらしい。
「部活をすること自体は構わないのですが……今後は学校で貴方の傍にいるのが、少し難しくなるかもしれません。済みません……」
アイギスは謝ってくるが、湊は別の方面で一つの確信を得た。
(やっぱりゆかりも一枚噛んでいるわけか)
料理部と弓道部で同時に動きがあるとは、偶然とは思えない。しかも片方は自分にではなく、アイギスに対して動いてきた。あの三人が三人揃って何か誤解しているのか、とにかく自分と彼女に関係する何かが裏で働いているのだろうと、湊は事情を察した。しかし事情は察せても、対処の方法までは思いつかなかった。
(一体……どうすればいいんだ?)
複数のコミュニティが同時に発生するなど、これまで考えたこともなかった。あの三人の性格や嗜好は把握しているが、これではコミュニティの展開はまるで読めない。元々彼女ら三人と特別な関係にならずにいるだけでも苦労がありそうなのに、輪をかけて苦労させられる予感がする。
余談であるが、この翌日にファッション同好会に顔を出した湊はベベに料理部の件を話した。同じ家庭科室を使うグループとして何気なく話したつもりなのだが、ベベは聞いた瞬間に血相を変えた。何でも『前回』に風花とコミュニティを築いた際に食べさせられた、あの混沌料理をベベは数日前に食べたらしい。恐るべき勇気の持ち主である。
それだから、風花の料理に関わるのは絶対にやめろと必死な面持ちで説得された。曰く、君子危うきにどうとか、あれは料理ではなく致死性の猛毒であるとか。最後には自分を置いて死なないでくれと泣いて縋ってくるものだから、宥めるのに一苦労だった。
もう一つ余談を重ねると、金髪碧眼の美少女の袴姿を一目見ようと、かなりの数の男子生徒が弓道場に押し掛ける事件がやはり翌日にあったらしい。だが付き添っていたゆかりが言い放った『この子はもう売約済みだから』の一言で大半の野次馬は蹴散らされた。なおも残った一部の粘り強い野次馬も、弓道部で一番の強弓を軽々と引き、鉄板でも貫通できそうな猛射を次々と放つアイギスの姿を見て、色々と諦めたらしい。
部の女性陣とのコミュが開始されました。今後、このコミュは各回で一人ずつメインにしながら、同時進行していきます。ちなみに原作では、料理部は部とは言うものの同好会です。