9月10日の木曜日の夕方、巌戸台分寮のラウンジには何人かの寮生が集まって、揃って俯いていた。つい先ほど辰巳記念病院から美鶴の下へある連絡が入り、皆に周知されたのだ。聞いた者は皆一様に驚き、どうしてそんなことになったのかと詰め寄った。ある程度の説明が済むと、皆が一斉に沈み込んだ。そして三々五々、各々の部屋へ引き上げて行った。時刻が夜へと変わる頃に部の現場リーダーが戻ってきた時には、ラウンジにはアイギスしか残っていなかった。
「お帰りなさい。あの……」
私はソファーから立ち上がり、彼を迎える為に玄関へ向かった。いつも冷静な彼は、今日も至って普段通りだった。その姿を目にすると、これから伝えなければならないことが余計に辛く感じる。だが伝えずにおくことはできないし、伝えるのは私でなければならない。同じ出来事に対しても、彼は他の皆さんとは受け取り方が違う。彼と同じ知識を持つ私でなければ、彼と認識を共有することはできない。
「今日……チドリさんが亡くなられました」
告げた途端、彼は目を見開いた。まるで時間でも停止したかのように、口を半開きにしてしばらく硬直していた。前置きもなく言ってしまったのが、いけなかったのかもしれない。だが何を置けば良かったのだろうか。私には分からない。
「な……何だって?」
数秒が過ぎてから、彼はやっと声を出した。私は思わず俯いて、彼から視線を逸らしてしまった。
「医師によると、首に絞められたような跡が残っていたと……。恐らくペルソナが暴走したのかと……」
「そんな馬鹿な……だって前は二ヶ月以上も……」
「……」
私は何も答えられなかった。彼の言う通り、『前回』のチドリさんは捕縛されてから11月22日に亡くなるまで、一度もペルソナを暴走させなかった。と言うより、暴走の有無を私たちはそもそも話として聞いていなかった。だからこんなことになるとは、思いもしなかった。
「順平は……どうした」
「まだ病院から戻って来ていません。チドリさんは……順平さんの目の前で亡くなられたそうです」
「……!」
彼は片手を口に当てて、何かを飲み込むような仕種を見せた。そしてそのまま何も言わず、私の脇を通り抜けて二階へ続く階段へと走って向かって行った。私は彼の背へ向けて手を伸ばしたが、届かなかった。だが仮に届いていたところで、何をしようがあっただろうか。順平さんにはもちろんだが、彼にかける言葉さえ思いつかない。
言葉がない――
死のない機械は、死に対して言葉がないのは仕方のないことなのだろうか。だが死のある人間であっても、誰も死に対しては言葉がないかのようだ。死は決して不意に来る狩人ではないし、世にも稀な不運でもない。人間ならば誰もが知っていて、誰も逃げられない自然現象であるのに。人間は誰も死に対して言葉を用意していない。
夜遅い時間になった頃、気が引けつつもやはり彼を訪ねてみることにした。
「あの、アイギスです」
二階の一番奥にある彼の部屋のドアをノックしてみたが、返事はない。ドアノブに手をかけても回らない。鍵は閉められている。だが私のサーモスタット機能にはドア越しに反応がある。彼が部屋にいることは分かる。
「開けますよ……いいですね?」
この部屋の鍵を開けるのは、『前回』を通じてこれで四度目だ。これが他の人であれば不法侵入になるところだ。しかし彼はもう私が部屋に来ることを気にしていない様子なので、私は逡巡することなく鍵穴を操作した。解錠に要した時間は一分もなかった。
入ってみると、彼はベッドに腰掛けながら両肘を膝に置いて俯いていた。何か重量のあるものが肩の上に乗っているかのように、背中を丸めている。彼のこんな姿を見るのは『前回』を通じても初めてだ。
ドアを閉めてから歩み寄ろうとしたら、床に何かが落ちているのに気が付いた。よくよく見回してみれば、落ちているのは一つではなく、同じものが十個くらい床に散らばっている。手近にあった一つを拾い上げてみると、カプセルだった。何かの薬だろうか。
「湊さん……これは?」
「……」
彼は俯いたまま答えない。まるで光の届かない深海の暗黒に身を置いているかのように、周囲に気を払っていない。私が部屋にいることさえ、もしかすると気付いていないのかもしれない。
「湊さん」
「今日は……順平は一人で見舞いに行ってたんだよな?」
再び声をかけると、彼はようやく口をきいた。こちらが聞いたことには答えなかったが、取り敢えず私がいることは分かっているようだ。
「ええ」
チドリさんを捕縛したのは今月5日で、翌6日は美鶴さんや真田さんが尋問していたが、その次の日から順平さんも加わるようになった。そしてその次の日からは順平さんだけになった。そのはずだ。
「前のこの時期は、まだ美鶴と真田も尋問していたはず……。荒垣もいた……」
「荒垣さん……?」
彼が上級生たちを呼び捨てにするのは、今まで聞いたことはない。そんな些細なことを気にしている余裕がないのだろうか。だとすると、彼は何に心を捉われているのだろう。
「持続期間は三日か四日。捕まえてから今日で五日目。前は……荒垣がチドリに薬を打ったってことか……」
彼は両手で顔を覆い、髪の毛の間に指を掻き入れた。そして頭を強く掴み、指が頭皮に食い込んでいった。何かに襲われて頭部を庇うように、内から湧き出る激しい感情を手で抑えようとするように。或いは己の身を傷つけて罰するように、強い力が指に込められていた。
「知っていたら……気付いていれば……僕が打ってやったのに……!」
「貴方が……? まさかこれは!?」
彼は両手を頭から離し、ようやく顔を上げた。だがすぐに目を逸らしてしまった。私の手に触れている部分は世間に普通にあるカプセル薬と同じで、ゼラチンでできた入れ物に過ぎない。しかしその中身は普通のものではない。私は薬物ならば体内に取り込めば成分を分析することもできるが、もはやそんな必要はない。機械の機能を用いるまでもなく、彼の仕種が答えを告げていたから。
「ペルソナの制御剤……! どうして貴方がこれを持っているのです!?」
「……」
彼は答えなかった。だがこれは絶対に看過できない。この薬は命に関わる毒薬だ。
「湊さん!」
「先月、タカヤに貰った」
彼は今、とても恐ろしいことを口にしている。この世の終わりと同じくらいに恐ろしいことを。それなのに彼は一切の情感を声に込めない。プログラムで制御された人工知能が音声デバイスから計算結果を報告するような、心のある人間のものとは思えない声で告げてくる。
「そんな……どうして!? チドリさんの為……? いえ、違いますね。何の為にこんなものを!?」
メーディアが暴走してチドリさんが亡くなる危険を、彼は知らなかった。ではなぜ制御剤などを持っているのか。何の為に毒薬を手に入れたのか。
「それを使えば、今でもタナトスを制御できると思ったからさ」
タナトス――
彼の中に住まう死神、ファルロスさんをペルソナとして召喚した時の姿だ。『今回』の8月3日、タルタロスで彼が召喚したところを私たちは見ている。だがあの時の彼は、圧倒的な能力を持つタナトスを暴走させるに任せてしまい、制御は全くできていなかった。力が足りないのを、薬によって補おうとしたのか――
「まさか……もう使っているのですか!?」
堪らずに彼の元へ駆け寄り、肩を掴んで揺さぶった。この薬は常用すれば内分泌液のバランスが崩れ、結果的に余命まで削られてしまう。この薬の為に、荒垣さんとストレガは命の終わりが人よりずっと早く来るように宿命付けられたのだ。
彼が、彼の未来が薬に奪われる――
そんなことは許せない!
しかし彼は黙って首を横に振った。思わずため息が漏れ、私は彼の肩から手を離して床に膝をついた。金属の足が床にぶつかる音が虚しく響く。私はそのまま彼を見上げるが、彼は脇を向いて視線を合わせてくれようとしない。
「どうして……」
「もしまた刈り取る者と出くわしたら、タナトスを召喚するしかない……その備えさ」
「そんな……」
逃げればいいのに。そう言いたくなったが、言えなかった。刈り取る者から常に逃げられるとは限らない。だからあの日、彼は命を懸けてまでタナトスを召喚しなければならなかったのだ。そうしなければ、私たちは一人も残さず全滅させられていただろう。
私はどこまで役立たずなのだろうか。彼を守ると決めたのに、結局は何もできない。逆に彼の力に頼らなければ、どうしようもない。
「僕は……勘違いしてた」
脇を向いて私から目を逸らしたまま、彼は告白を始めた。荒垣さんとストレガの三人は制御剤を使っているが、彼らのペルソナはいずれも非常に強大な潜在能力を秘めている。これは偶然ではないと彼は考えた。即ちペルソナがペルソナ使い自身の力量を超えているから、彼らは薬を必要とするのだと。逆に言うと、もし部の他の皆さんも覚醒後のそれのように強大なペルソナを初めから持っていたら、薬が必要になっていた。8月にタナトスを召喚した時の感覚から、彼はそう判断した。
そしてもう一点。十年前からずっとタナトスは彼の中にいるのに、4月と8月に召喚した時を除いて暴走することはなかった。つまりペルソナは召喚しない限り、暴走する危険はない。そう思っていたから、チドリさんのメーディアが入院中に暴走することはないと判断した。
だがそれは誤りだった。考えてみれば、二年前の荒垣さんの暴走事故はイレギュラーのシャドウを倒した後、影時間の明けた深夜に起きていた。つまりペルソナを召喚した時が最も危険であることには違いないのだが、召喚しなくても勝手に暴走を始めることはある。なぜなら彼らは適性が十分でないから。つまり彼らは召喚する機会があるかどうかに関わらず、薬が必要になる。更に『前回』の荒垣さんは特別課外活動部に復帰する前から薬を常用していた様子だった。その点からも、薬の恒常的な使用が彼らに必要なのは明らかである。
彼はそう述べた。話しながらも思考を様々な方面に巡らせるように、己を苛むように、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「僕の……せいだ……」
薬を持っていたのに、持続期間もタカヤから聞いて知っていたのに。チドリさんを助けることはできたはずなのに、見す見す死なせてしまった。そう呟いた彼は天を仰いだ。
「とんでもない馬鹿だな、僕は……。前より悪い結果だ」
「貴方のせいではありません」
「……」
「悪いのは私です。5日に私がチドリさんを見つけてしまったから……」
彼はストレガを仲間にしようとしていることを私は知っていた。チドリさんを捕まえたら、タカヤとジンが取り返そうと動くだろうことも分かっていた。それでも私はあの時チドリさんの居場所を探り、そして見つけてしまった。チドリさんの死の責任は、彼よりも私にこそある。
「違うよ。君は何も悪くない」
「そんなはずがないです!」
私は立ち上がって、ベッドに座ったままの彼を抱き締めた。鉄でできた私の体は硬い。人を抱くには向いていない。それでも抱き締めてやらないといけない。そうしなければ、彼は遠くへ行ってしまう。
「責任は……僕が取らないといけないんだ」
「違います!」
私は彼の体を離し、視線を真っ直ぐ合わせた。彼の瞳には知性が溢れている。勇気が漲っている。人を惹きつけて離さない魅力も湛えている。それでいながら、己の無力を嘆いている。
そう。この人は無力だ。この世の誰より強い彼は、世界を一人で飲み込むにはあまりに無力だ。無力であるのに全ての責任を抱え込んで、死の淵へと急いで飛び込んでしまう。そんなことは、絶対に許さない。
「貴方の責任を……私に分けてください」
私は自分の胸に右手を当てた。それと共に、拾ったカプセルが手から零れて床に落ちた。
「……」
彼は答えず、落ちたカプセルを追って床に目を向けた。だが私は彼の視線を遮るように、終わりを早める毒薬を拾い上げた。そして――
クシャ、と小さな音を立ててカプセルを握り潰した。
「……」
それでも何も言わない彼の顔を、私は両手で挟んだ。そして床に向けられた彼の視線を、私の視線に出会わせた。指呼の距離にある彼の瞳の中に、私の姿はある。死んだ人と違って、彼の瞳はまだ何かを映すことができている。
「どうか私に隠し事はしないでください。皆さんに話せないことがあるのは分かります。ですが、私にだけは隠さないでください。私たちは全てを明かしあえるはずじゃないですか。この世でたった二人だけの……全てを共有できる同志のはずです」
薬の件を私に明かしてくれていれば、チドリさんの為に使うことを思い付いたかもしれない、などと言うことはできない。私の知性そのものは、戦闘に関すること以外では普通の人間と比べて大きな差はない。賢い彼より正しい推論を展開できるほど、私の思考系は優れているわけではない。だが『責任』を分け合うことくらいはできるはずだ。
「済まなかった……」
私の手の中で、彼は目を閉じた。
私は床に散らばったカプセルを一つ一つ拾い上げた。これがタナトスを制御するのに有効であるとの見解は、筋が通っているようにも見える。だが本当に有効とは言い切れない。私たちはこの薬の用法と効果について、正確なところを知らないのだ。飲んで即座に効果が出るとは限らないし、効果があったとしてもタナトスの能力を減殺することになるかもしれない。もしそうなら、薬は刈り取る者への対策にならない。リスクが極端に大きいだけで、メリットは乏しすぎる。私がそう言うと、彼は薬を処分することに同意してくれた。
全てのカプセルを集め終えると、ベッドに座ったままの彼は話を切り出した。
「話しておきたいことがある。天田の件だ」
それは私も気になっていた事柄の一つだ。『前回』の天田さんは7月25日にこの寮にやってきて、8月28日に特別課外活動部に正式加入した。だが『今回』は夏休みの開始以来行方不明で、一度もここを訪れていない。彼は幾月が誘拐したと判断し、幾月共々行方を桐条グループに捜索してもらっている。私はそう聞いている。
「実は……天田はストレガと一緒なんじゃないかと、僕は疑っている。根拠はあまりないけどな」
「どういうことですか?」
彼は話し始めた。8月24日に薬を貰う為にタカヤと会った際、荒垣さんは間もなく誰の邪魔にもならなくなる、とのセリフを残してタカヤは去って行ったらしい。それ以降はタカヤと接触できていないので未確認だが、天田さんが復讐するから、との意味かと思ったとのことだ。
「だけど天田とストレガに接点はない。だから可能性はそんなに高くないが……」
「そうでしょうか? 接点はあると思います」
「それは?」
「幾月です」
ストレガにペルソナを植え付ける実験をしたのは幾月のはずだ。ならば幾月がストレガの存在を知っている可能性は高い。そして誘拐した天田さんを、ストレガに紹介したとすれば――
「それはない。もし幾月がストレガと接触したら、奴らは必ず幾月を殺すか捕まえるはずだし、先月会った時にタカヤは僕にそれを言ったはずだ」
彼は6月に『今回』初めてストレガと接触し、幾月を殺す依頼をしたことは既に聞いている。私としては、彼らに依頼はおろか接触することにも反対なのだが。
「そうでしょうか? 貴方はどうしてタカヤをそんなに信用するのですか? 貴方の依頼を反故にはしないと、どうして言い切れるのですか?」
「……」
彼は答えず、ただ私の目をじっと見つめてきた。思わずたじろいでしまうが、言うべきことは言っておかねばならない。
「済みません……。私が人をこんなふうに言うのは、おかしいかもしれません。ですが、裏切る可能性を排除しないでください。タカヤはとても危険な相手です」
彼はどうしてタカヤを信用するのか、私には分からない。正直、理解しがたい。もっとも彼は私よりずっと人間というものを理解しているはずだから、私には分からない何かでもってタカヤに信用できる点を見出しているのかもしれない。しかしあの男はやはり危険だ。
彼はそれ以上反論せず、目を逸らした。そして話題を転じてきた。
「もう一つ話さないといけない。これも根拠は乏しいが……時間が戻った原因だ」
彼は『前回』の結果に心残りを感じていたと語った。荒垣さんと桐条武治さん、そしてストレガの三人の死に対して後悔を感じていたと。その思いが時間を戻してしまったのではないかと、彼は『今回』が始まった時から考えていたと告白した。
「貴方の後悔が……」
「さっきも言ったが、特に根拠があるわけじゃない。むしろ荒唐無稽すぎるくらいの話だ」
確かに時間が戻るなど、一人の人間の感情が引き起こしたにしては事態が大きすぎる。しかし私は不思議と納得できた。まるでずっと引っ掛かり続けていた疑問の解答が不意に与えられたように、心の中に抵抗なく落ちてきた。そんな私とは対照的に、彼は視線を床に向けながら声を僅かに震わせた。自分自身に納得できないように。
「でも……他に思い当たる節もないんだ。だから……もしかしたら……」
『三回目』があるかもしれない――
とても長い間を置いて、彼はそう言った。そんな彼の下へ私は歩み寄り、再び床に膝をついた。そして彼の手を取り、苦悩に満ちた顔を下から見上げた。
「お付き合いします。何度でも……」
チドリさんが亡くなって一週間近くが過ぎた9月16日、寮生の皆さんが一階のラウンジに集まった。ただし順平さんはいない。順平さんはあれから学校にも行かず、自室に籠りがちになっている。ドアの前に食べ物を置いておくと、空になった食器が翌朝には廊下に出されている。だからちゃんと食べてはいるのだが、部屋から出てくることはめったにない。
大切な人を亡くした悲しみは言葉に表せない。ましてその人を目の前に置きながら、何もできなかったとあってはなおさらだ。人の心を捨ててしまいたくなるほどの苦痛だ。順平さんの気持ちは、私にもよく分かる。
「順平の奴、彼女と知り合ってから一ヶ月も経ってないらしいが……。いや、こういうのは長さの問題じゃないか……」
「いつもおちゃらけてた順平が、本当にマジだったのね……」
「どうしてこんなことに……」
「クゥン……」
「ああ……だが時間は待ってくれない。残酷なようだがな……」
美鶴さんはそう言って、一冊のスケッチブックをテーブルに置いて彼の方へと差し出した。
「有里、頼まれていたものが届いたぞ」
これはチドリさんの遺品だ。病院に保管されていたこれを取り寄せてくれるようにと、数日前に彼は美鶴さんに頼んでいた。
「ありがとうございます」
彼はスケッチブックを手に取り、早速開いて中身を見た。冊子そのものはこれとは違うだろうが、チドリさんの絵は『前回』も11月28日に皆さんで確認した。それは克明に描写された順平さんの似顔絵だった。それも一枚ではなく、何枚も描かれていた。あれは『前回』私が経験した様々な出来事の中でも、彼に関することを除いては最も強く印象に残ったものの一つだった。今にして思うと、あの時から私は『心』を理解し始めたのだろう。人が人を想う気持ちを、目に見える形で認識することによって。
だが彼は最初のページを見るや、眉根を僅かに寄せた。続けて紙をめくって絵の描かれた全てのページに目を通すが、彼の眉は最後まで開かれなかった。そして無言のままスケッチブックを閉じ、テーブルに戻した。彼の手を離れたそれは、テーブルクロスの上を少し滑った。
「……」
それを私も手に取ってみた。触れてみると、表紙の厚紙が少しよれているのに気が付いた。持ち主の絵に懸ける真剣さが、そこから伝わってくるようだ。そして中を見てみると、赤と黒が一面に踊った不思議な絵が描かれていた。最初から最後まで、そのような絵ばかりだった。『前回』見たような写実的な絵は一枚もない。だが――
「順平さんを呼んできます」
彼や美鶴さんの返答を待つことなく、私は椅子から立ち上がって二階に向かった。
しばらくの時間をかけて、私は順平さんを連れてラウンジに戻ってきた。疲れを滲ませた順平さんを、私と彼の間の席にいささかの強引さでもって座らせた。そしてテーブルに置かれたスケッチブックを目で示した。
「順平さん。これを覚えてらっしゃいますか?」
「それ、チドリの……」
表紙の閉じられたそれを見ても、順平さんは手を伸ばそうとしなかった。ただ一言呟いただけで、俯いて何も言わなくなってしまった。チドリさんの遺品を見てしまっては、彼女が本当にいなくなったことに、今以上に実感を持ってしまうからかもしれない。
「ねえ順平、見てもいい?」
沈黙がしばらく続いた後、向かいの席に座っていたゆかりさんが声をかけてきた。
「どうせ理解できないぜ。チドリの絵はさ……」
俯いたまま言われた言葉を遠回しな許可と受け取ったか、ゆかりさんは手を伸ばしてスケッチブックを手に取った。丁寧な手つきでそれを開き、隣に座っていた風花さんと一緒に中身を確認し始めた。しかし二人とも難しい顔をしている。
「抽象画だね……」
「落書きだとか、自分で言ってたしな……。自分にしか分かんねえって」
順平さんは脇を見ながらそう言う。確かに今のチドリさんの絵は、他人には分かりにくいものかもしれない。まして機械の私には、なおさら分かるはずのないものかもしれない。しかし人間はその想いを何かで表現できることを、私は知っている。そしてチドリさんは生命維持の本能をも上回る意志の持ち主であることも、私は知っている。だから先ほど絵を見た時、私はある明確な何かを感じたのだ。
「ゆかりさん」
私はゆかりさんに頼んで、スケッチブックを再び受け取った。そしてテーブルの上で、最後から二枚目の絵のページを開いた。そこに描かれている絵は黒の背景に、中央に大きな赤い線が一つ、左右に小さな赤い線が一つずつ描かれていた。三つの線はいずれも下から上へ走るものが太く、上から下へ零れていくものが細い。そんな絵だった。
「この絵はポロニアンモールの噴水ではありませんか?」
「え?」
「皆さんも赤い噴水をご覧になったではありませんか。先日の影時間に」
「言われてみれば……そうかも」
ゆかりさんと風花さんは身を乗り出して、改めて絵を確認した。順平さんも恐る恐る、私の隣から絵を覗き込んできた。しばらくの時間をかけて皆さんに見せてから私はページをめくり、チドリさんの最後の絵を順平さんに示した。
「順平さん。ここに描かれているのは、貴方ではないでしょうか」
「俺……?」
「よく見てください。赤と黒の二色しか使われていませんが、同じ色でも部分ごとに微妙に筆遣いが異なります。何かの形を表していると思われます」
チドリさんの絵は色の数こそ少ないが、線を引く力の強弱や、線の方角は非常に多岐に渡っている。私の視覚機能ではすぐに判別がつくそれらに、皆さんも顕微鏡を使えばきっと分かるはずだ。例えば一見するとただの黒一色の背景の中に、風のない影時間の空気のように、沈滞しつつも実戦の躍動を予感させる、揺らぐような微細な気配が表現されていることが分かるはずだ。
そして最後の絵の中心に置かれた、力感に溢れた赤色は――
「この幾つも重ねられた赤い線は、翼ではないでしょうか」
「ヘルメス……」
順平さんは声を漏らした。あのペルソナは両腕から翼が伸びている。空中を飛翔して敵を叩き伏せるその勇姿を、チドリさんはあの満月の夜に見たはずだ。実物の翼は金色だが、赤は影時間の水の色、即ち生命の色であり、かつ象徴化した生物の色でもある。つまりチドリさんの抽象画は影時間の景色を描いたもの。だから背景は黒、人間やペルソナは赤で描かれる。私にはそう見える。
「は、はは……チドリってば、こんなの描いてたんだ……。俺を……」
「力強い、素晴らしい絵だと思います」
「うう……チドリ……」
これまで堪えてきたものが、順平さんの目の表に現れてきた。きっと『前回』から通じて心の底の底にずっと溜まっていた想いが、とうとう零れて表に出てきた。
「もしかして、他の絵にもちゃんと意味があるんじゃ……」
「これ……落書きなんかじゃないよ」
風花さんとゆかりさんが言う通り、これは決して落書きではない。芸術と呼ばれるものに関するデータは何も記録されていない私にも、それは分かる。
「へへっ……何てメッセージだよ。分かりにくすぎんだよ……」
ずっと触れようとしなかったチドリさんのスケッチブックを、順平さんは手に取った。そして何より大切なもののように、胸の中に抱き締めた。力を入れ過ぎて壊してしまわないように、しかし力を込めて抱き締めた。声を立てずに、順平さんは泣いた。皆さんはもう何も言わず、黙って順平さんを見つめている。
「湊……俺さ、あん時何もできなかったんだ……」
やがて順平さんは目元を拭い、顔を上げてきた。
「いつもみたいに見舞いに行って……校庭で摘んだ花を持ってって、手渡してさ。それをチドリが花瓶に挿すんだ。俺、行くたびに花をちょっとずつ持ってったんだ。そのうち花瓶が一杯になる頃には、退院できるといいなってさ……」
帽子から覗く目は赤い。しかし辛さを耐えて言葉を繋いだ。
「そしたら突然……首を押さえて苦しみだしてよ。俺が助けてやんなきゃいけなかったのに、何もできなかったんだ。ただオタオタしちまって……先生を呼ぶこともできねえで……」
「……」
彼はただ黙って聞いている。やがて順平さんは目元を改めて拭い、椅子から立ち上がった。
「俺、影時間を消す為に戦うよ。あんなモンがなけりゃあ……チドリは死なずに済んだんだ。ずっとサボってたけど、明日から俺もタルタロス登るからよ……。また頼むぜ、リーダー」
彼も応えて立ち上がった。そしてどちらからともなく手を差し出し、固く握り合った。
「順平……力が湧き上がってきたか?」
「おう! やるぜ! 今まで以上に俺はやるぜ!」
順平さんは目の赤い笑顔で元気に答えた。大切な人を失った悲しみから立ち直ることができた。彼を失った時の私より力強い意志を込めて。そんな順平さんに彼は複雑そうな小さな笑顔で答えた。この中では私にしか分からないことだが、彼は順平さんが答えた意味だけでもって、力が湧き上がってきたかと聞いたのではない。
スケッチブックを取り寄せた彼の期待は、どうやら半分だけしか叶えられなかったようだ。順平さんは立ち直ったものの、『前回』チドリさんの命と引き換えに得た新たなペルソナに目覚めてはいない。最後の絵に描かれた、ヘルメスのままのようだ。
もし荒垣がいない状況でチドリを捕まえてしまうとどうなるか……という話でした。色々とミスの多い本作の主人公ですが、とうとう最大級の失敗をやらかしました。
荒垣とストレガは召喚する時に限って制御剤が必要なのか、逆に召喚しない時にこそ必要なのか、原作からは今一つはっきりしません。ですが本作では常時必要としています。