タルタロスは六つの層に分かれて構成されており、それぞれに装いが全く異なっている。その中の一つ、どこかの外国の宮殿のように豪華絢爛な装いのフロアにおいて、ジンと天田は二人でシャドウを狩っていた。
天田は8月4日にストレガと初めて会って以来、多くの時間をタルタロスで過ごしペルソナ能力の鍛練を続けていた。その甲斐あって、二ヶ月弱という短期間で100を超えるフロアを踏破してきた。得物としている槍の扱いも巧みになり、ペルソナも大きく成長した。ただ召喚器なしでの召喚までは、さすがにできないが。
「あの、ジンさん。タカヤさんはどこに行ってるんです?」
シャドウの消滅を確認してから、天田はジンに話しかけた。これまでの探索では、天田はジンと二人のことが多かった。タカヤを含めて三人で探索する機会もあったが、いない時の方が多い。
「ああ、あの人はこんな低層のシャドウは相手にせん。今頃は5、60階くらい上に行っとるやろな」
「50……ですか」
天田は驚いた。タルタロスは登れば登るほどシャドウは手強くなる。この二ヶ月の間に、それを嫌と言うほど実感している。今いるこのフロアのシャドウでも、天田一人では対抗できないほどに強い。ジンが一緒にいるから、何とか戦っていられるのだ。
「タカヤはわしやお前なんかより、ナンボでも上に行けるお人や」
そう言うジンの表情は、ちょっと得意げだ。しかし直後に、すぐ顔を苦くする。
「ったく、ホンマやったらわしもガキのお守なんぞしとらんと、タカヤと一緒に上に行かないかんのに……」
「済みません」
二人に噂されている当の人物、タカヤはその頃一人でタルタロスを探索していた。そしてとあるフロアにて、待ち構えていたシャドウとの戦闘を開始していた。一個の巨大なダイスを輪が囲っている姿の、運命のアルカナに属するシャドウだ。
(ふ……人生は賭け事だとでも言いたいのですかね?)
このシャドウのアルカナは自分と同じだが、『運命』がこのような形をしているというのは、なかなか皮肉が効いている。やはりシャドウとは、ある種の真理を体現する存在であると改めて思う。
「ヒュプノス」
一声呼んで、慣れ親しんだペルソナを召喚する。だが本来は声を出す必要もないし、召喚器を頭に当てる必要もない。ギリシャ神話の眠りの神の名を持つこのペルソナは、瞬き一つで出現させられる。ただ以前は召喚する度にかなり強い頭痛に襲われたものだが、最近はそれもなくなっている。そうすると――
「踊りなさい」
ヒュプノスが両手をかざした先に紫色の光が現れ、轟音と共に炸裂する。そしてそれが消えきらないうちに、再び光を放つ。また放つ。間断なく爆発が起こり、その度にダイスは宙に舞う。床に落ちて目を出す暇もない。
間を置かずにペルソナを連続して召喚することができれば、或いは一度の召喚で持続する時間を数秒から数十秒程度まで伸ばせれば、攻撃を連発することができる。そうすると、先手を取りさえすれば敵に反撃の隙を与えることなく、一方的に殲滅することも可能になる。ちょうど今やっているように。
「他愛無い……」
かくしてシャドウは為す術がないまま、黒い煙となって消滅した。簡単なものである。戦闘と言うより、遊戯のようなものだ。しかも退屈な。どうも近頃はこういうことが多い。これでジンも一緒にいてはますます退屈になるので、一人で探索する機会が多くなっている。だがそれでも刺激が不足気味である。
更に階段をいくつか登ると、広さが数メートル四方のごく小さな部屋に出た。部屋の奥には上へ続く階段があるが、床から天井まで届く柱が格子状に並んでおり、行き止まりになっていた。部屋の隅には脱出用の装置が設置されているので外には出られるが、先には進めない。
(今はここまでですか)
このようにして道が塞がれているのは、このフロアに限ったことではない。全部で六つあるらしいタルタロスの各層はこのようにして仕切られており、時期が来ると先へ進めるようになる。ただ面白いことに、誰もが同じ層までしか行けないわけではない。タルタロスはペルソナと同じで、人間を映す鏡だ。よって同じ日でも、人によって行ける階には差が出てくる。要所ごとの番人シャドウも、時が過ぎて別の人が来れば再び蘇る。
熱帯のジャングルを思わせる極彩色の模様が壁や床に描かれ、見る者に目眩を惹き起こしそうなこの層には、ジンならば来れる。だが天田少年は来れないだろう。無論エントランスの時計扉を自分たちと一緒に通り抜ければ来れるだろうが、少年一人では無理だ。
戻る前に部屋を軽く見回してみた。すると脱出装置の反対側の部屋の隅に、一枚の書類が落ちていたので拾い上げた。これはかつて桐条グループの研究機関に籍を置いていた、ある人物の手記だ。これまでも同じものをいくつか見つけたことがある。
(ふん……下らない)
瞬きを一つして、手の中の書類に火をつけた。これまでに読んだものはどれもこれも逡巡や悲嘆を綴っただけで、中身がないものばかりだった。そしてこれも同様だった。だからいつもの通り、一読してすぐに燃やしてしまう。
(さて……)
脱出装置を操作して、下の階層に降りた。ただしエントランスではなく、ここから50階ほど下のあるフロアだ。
「こんばんは」
降りてきた先のフロアの中央に、スーツを着た四十代くらいの男がいた。一脚だけ置かれた折り畳み式の椅子に座っており、ノートパソコンを操作している。パソコンはもちろん影時間にも稼働する特別製だ。足元にはナップサックを一つ置いている。
「やあ、こんばんは」
自分の姿を確認するや、男は善良そうな微笑と共に挨拶を返してきた。幾月だ。
「次の場所に行くのかい?」
「ええ」
幾月は7月の終わり頃に接触してきて以来、身柄はストレガが保護している。だが保護とは言っても、別に幾月を探している者たちと交戦したりはしていない。失踪から今日に至るまで、桐条グループは一度として幾月の居場所を掴めていない。当然だ。天田少年を拾った頃から、幾月はほぼ全ての時間をタルタロスで過ごしているのだから。
幾月は影時間の適性はあるものの、ペルソナ能力は持っていない。そんな無力な人間がシャドウの巣窟に居続けるなど普通は無理だ。だがタルタロスには安全な場所もある。先ほどまでいたような、各層の最上階や番人のシャドウが居座っているフロアだ。そして影時間では普段より体力を早く消耗するが、ただじっと座っているだけならば話は別だ。体感時間で数十時間続けてタルタロスで過ごそうと、肉体的な疲労は深刻なものにはならない。疲れを取る為の簡単な薬でも飲めば、それで十分である。
ただ同じフロアにずっと居続けては、有里湊の一党にいずれ鉢合わせる。だから時期が来ると、上のフロアへと適宜移動させているのだ。
「じゃあ行こうか」
幾月はノートパソコンの蓋を閉じて立ち上がり、ザックを背負った。そして椅子を畳んで脇に抱えた。今やこの男の持ち物はこれだけだが、それで何の問題もない。
新たな隠れ場に到着すると、幾月は椅子を置いてそこに腰掛けた。
「もう10月か……時間が経つのは早いものだ」
タルタロスは影時間の間しか存在しない。よってその内部に入り込んだ人間にとって、通常の二十四時間は存在しない。タルタロスに入ったまま影時間が過ぎると、当人は次の影時間まで移動してしまう。つまり幾月は一日を一時間としか認識しないのだ。だから時間が過ぎるのは取り分け早い。
「ではまた来月に」
幾月にとっては三十時間程度だが、その頃にまた迎えに来ることを告げて踵を返した。だが幾月は自分の背に声をかけてきた。
「タカヤ君、君には本当に感謝しているんだよ」
「……」
振り返りはしない。だが足は止めた。
「桐条君たちは単純すぎるからね。物事を理性で判断することができないんだ。滅びの素晴らしさを理解できる人は、多くはいない……今も昔もね。数少ない理解できる人が、君のような力ある者で助かっているよ」
(昔……)
先ほどに読んだ手記の内容を思い出した。そこには書き手が十年前の計画の実態を知り、罪に手は染めぬと機関を抜ける決心をしたことが綴られていた。それそのものは、下らない限りであったが――
「少し聞かせていただきたいことがあるのですが」
不意に気になったことがあり、振り返った。
「何だい?」
「十年前の実験では、貴方はどういう立場におられたのですか?」
「僕かい? 当時の僕はまだ駆け出しでね。重要な位置にいたわけではないよ。主任にも顔を覚えてもらっていたかどうかくらいさ」
当時の主任とは、岳羽詠一朗のことだろう。自分は彼に会ったことはないが、話は聞いている。そして例の手記の書き手は彼に好意を抱いていて、そもそも機関に参加することを決めたのも彼の為であったようだ。ただ書き手が機関を抜ける際は一緒に出ようと誘ったようだが、彼は来なかったらしい。それはなぜか――
「その主任の方は、滅びをどうお考えだったのでしょうね」
「ああ、僕は彼を尊敬していたよ。ほとんどの研究者がシャドウの能力だけを見ていた中、彼は滅びについて熱心に研究していたね。物事の本質を見抜ける人だった。しかしねえ……彼は本当に不幸だったよ」
幾月は表情を変えた。この男は道化であるが、演技の達人でもある。
道化に曰く、十年前の暴走事故での犠牲者は最終的には五十人を超え、当時研究所の付近にあった学校の生徒たちが集団不登校になったりもした。実際はシャドウに襲われて影人間になったのだが、それも事故による心的外傷だとマスコミが騒ぎ立てた。その結果、岳羽詠一朗は首謀者として吊るし上げにされたのだと。死者に鞭打つかのごとき悪質な報道で、本人ばかりか遺族にまで相当な責めが及んだらしい。
事実として、事故そのものはまさに岳羽詠一朗の仕業であったわけだが、世論は事の本質とは何も関係がない。要は全てを背負わせて袋叩きにする為の生贄が求められて、結果として彼が選ばれてしまったのだと。そう語る幾月は、いかにも辛そうに言う。過剰なまでの表現力でもって、心の痛みを表情に表している。これが映画や演劇であれば、くさすぎると監督や演出家から叱られるだろう。
「酷い叩きようでねえ、可哀想に。人間が鬼よりも恐ろしく見えたものだよ」
(なるほど……)
幾月の態度から、一つの確信を得た。世の中にはいくらでも嘘を吐ける人間もいるが、そういう人間は本当のことを言う場合にこそ、傍目には嘘のように言うものだ。
「それで、貴方は彼の跡を継ぐ決心をされたと」
軽く核心を突いてやると、幾月は表情を戻してきた。
「いや……そもそも彼は滅びの素晴らしさを理解していなかった。彼に同情はするが、彼の跡を継ぐつもりで僕は研究を続けてきたわけじゃないよ。この真っ平らな虚無の王国は、滅びによってしか救われない。それだけのことさ」
(ふん……)
大方は察しがついた。幾月が滅びを求めるのは、幾月なりの岳羽詠一朗へのオマージュだ。もちろん彼は滅びを食い止める為に事故を起こしたわけだが、それを世間は理解せず、逆に彼を生贄にした。その事実が幾月の中で価値観の転倒を引き起こし、世界の破滅を望むようになったのだろう。幾月は『この世界は貴方が命と引き換えに守る価値などなかったのだ』と彼に言いたいのだ。
この世界は本質的に無意味である。それは真理だ。少々頭を使えば誰にでも理解できる程度の、当たり前のことだ。従ってどんな些細な出来事でも、人が真理を認識する契機にはなり得る。だから幾月が滅びを求めること自体には何の不思議もない。だがこの道化は世界を滅ぼす方法を知識として知ってはいるが、自らが滅びを宣告することを運命に許されてはいない。
望みを抱いている者は多いが、誰もが叶えられるとは限らない。叶えられるのは、運命に選ばれた者だ。幾月は違う。その証拠に幾月はペルソナに目覚めることができていない。もし選ばれたのなら、それに相応しい死神の仮面を得ていただろう。力の代わりに得たのは、『皇子』として世界に君臨せんとする妄想でしかない。つまり幾月は力のない愚者、即ち道化に過ぎない。
「救済の日には、もちろん君たちも救われる。その力を得たことが報われる日が来るんだ。近いうちにね……」
道化ではない、力のある愚者は有里湊だ。彼にとって自分のアルカナは一つの暗示である。そしてまた、自分のペルソナは滅びを宣告する死神と深い縁のある存在であることも、一つの証明となっている。
「ええ。その日を待っていますよ」
「ふふ……」
改めて道化に背を向け、その場から立ち去った。
エントランスに戻ると、ジンに連絡して少年共々戻って来させた。幾月ではないが、時間が過ぎるのは早い。もう10月である。満月のシャドウは残り三体にまで減り、天田少年の依頼が完了する日も近い。それを改めて確認する為、少年を呼び出した。
「天田さん。力の使い道は人それぞれですが、私たちは復讐こそが最も有意義だと思っています。ですから、それの代行を仕事にしています」
復讐は美しい行為である。幾月が言うところの真っ平らな虚無の王国にあって、唯一と言ってよい美しい行為だ。もっとも自分たちにとっては飽くまで仕事であって、生きる目的にまではしていない。少年と違って。そしてそんな少年を、幾月は有里湊の一党に加えようとしていた。そうしていれば少年は仇の男を殺して、彼らは瓦解の危機に陥っていたであろうに。愚か者以下の道化らしい仕事である。
ただ少年の加入に関しては一理ないこともない。と言うのも、当時の幾月は彼らを預かる立場の者として、戦力の増強を図る必要があったのだろう。何しろ彼らときたら、とにかく頼りない。リーダーが頭を使っているからまだやっていけているが、他の面々はまるで駄目だ。彼らは人数こそ多いが、烏合の衆に過ぎない。残る満月のシャドウを倒し切れるかどうかさえ、かなり危ないところだ。
しかし三日後は先月のように、直接的に彼らを手助けしてやるつもりはない。彼には薬を渡してあるから、いざとなれば死神を召喚することで乗り切れるだろう。自分は他にすることがあるし、そもそもチドリが死んだ今は先回りが難しい。ちなみにチドリに関しては、先日にジンが興味深い情報を病院から入手していた。その意味はまだ判断できないが、病院の監視は続けるようにしている。
「しかし貴方は自ら復讐を遂げることを望まれたので、貴方の鍛練にお付き合いするという形で依頼を承りました。ご自分の実感としてはどうですか。仇を取る自信はつきましたか?」
「はい。おかげさまで」
天田少年は迷いなく答えた。自分の目から見ても、今戦えば少年は勝てるだろうと思う。互いのペルソナを潜在能力で比べれば仇の男の方が上なのだが、現時点では少年に分がある。つまり実力的には問題ない。後は心構えだ。
「結構。では報酬を頂きましょう」
「僕、お金は持ってないんですけど……」
少年は困惑した表情を見せたが、ジンが呆れ声で遮った。
「んなことはハナから分かっとる。ガキの小遣いなんぞたかるかい」
復讐代行の仕事においては、大抵の場合は報酬を金で受け取っている。だが他のもので請け負うこともある。
「金はいりません。その代わり、復讐を必ずやり遂げること。これを報酬として要求します」
「そんなことでいいんですか?」
「多いのですよ。依頼しておきながら、臆病風に吹かれて撤回する方が。しかし私たちは逃げを認めません」
8月初めに依頼されてから、自分は天田少年を飽くまで依頼人として扱ってきた。だが復讐を遂げ、そしてその後も生きるつもりがあれば、ストレガの一員として迎え入れる。よって言うなれば復讐は少年の試金石であり、通過儀礼でもある。
「あらかじめ言っておきます。貴方の復讐を私も見届けさせてもらいます。もし仇に敗れたり、途中で心が折れたりなさったら……分かっていますね?」
生の輝きとは、死と背中合わせにあってこそ得られるものだ。なればこそ、この少年にも命を懸けてもらわねばならない。死のないところには充実もないし、まして運命もない。
「余計な心配です」