影時間が明けて日付が変わった。10月5日の午前0時をいくらか過ぎた深夜の時刻、荒垣は二年ぶりに巌戸台分寮に戻ってきた。
高校生が住む寮にしては立派すぎる、重厚な扉を見つめて思う。もう二度とこの扉を開けることはないと思っていたのに、戻って来てしまった。しかも今のような形でここを通るなど、夢にも思わなかった。天田を背負って通るなど。
「まだ……眠ってるか」
首を回して背中におぶさっている子供を見てみれば、その目は閉じられている。溜まり場で頬を引っ叩いたら天田は気を失い、そのままずっと眠っている。そして奇妙なことに、その寝息はとても静かな、落ち着いたものだった。親の仇を取ろうとして失敗し、自殺しようとしてまた失敗したというのに。
「……」
天田の腰から右手を外し、寮の玄関扉を押し開けた。腕に負った傷はアキがペルソナで治療したので、血はもう出ていない。重い扉を押しても腕に痛みは感じなかった。
「帰って来たか」
扉を開けた先の寮の玄関では、腕組みをした仁王立ちの桐条が待ち構えていた。その奥のラウンジには、今年に入ってから急に増えたらしい新入りたちがいた。その中には有里もいた。溜まり場からここへ向かう途中で、アキが無線で簡単な連絡を入れていたので、自分たちが来ることはあらかじめ皆が分かっていたようだ。
「ああ」
「ただ今帰還しました」
自分より先に、アキとアイギスというらしい金髪の女が言った。だが自分は、自分のことは玄関先で話す気にはなれない。それより背負ったものの方がずっと大切だ。
「取り敢えず……こいつを寝かせてやってくれ」
「いいだろう。アイギス、二階の空き部屋に連れて行ってくれ。明彦と荒垣は作戦室で待っていろ。皆は疲れているだろうから、今夜はこれで解散だ。詳しいことは明日説明する」
寮生たちは色々聞きたそうな顔をしていたが、その一方で傍目にも疲労困憊な有様だった。まるでついさっきまで、何十キロものランニングでもしてきたかのように。そのせいか皆が桐条の言うことに素直に従い、黙って階段を上って行った。有里も何も言わず、他の連中と共にラウンジから去って行った。そんな後輩たちを見送っていると、アイギスが近づいてきて両手を差し出してきた。溜まり場では余計なことを色々言っていたが、今は無言のままだ。
「……」
訳の分からない女だが、礼の一言くらい言うべきであるのかもしれない。だが普段から巧みとは言えない自分の口からは、何の言葉も出て来なかった。ただ黙って体を回し、背負った天田をアイギスに預けた。アイギスは天田を軽々と抱きかかえて、階段を上って行った。ラウンジでしばらくその姿を見送っていたが、やがてアキが無言で肩を叩いて来たので、自分も階段を上った。桐条はその後からついてきた。
桐条とは二階で一旦別れた。依然として眠ったままの天田とアイギスと共に、部屋の一つに入って行った。更にいつぞやの溜まり場で見た、新入りの女も一人ついて行った。
「……」
階段の踊り場でその姿をしばし見つめていたが、アキに促されて再び階段を上った。言葉はやはりなかった。
アキと二人で四階の作戦室に入り、ソファーに並んで腰を下ろした。昨日の影時間が終ってからいくらも時間が過ぎていないが、何だか遠い昔のように感じてしまう。大型のモニターやよく分からない機材が設置されている作戦室の雰囲気も、装いは昔から変わっていないはずなのに、どこか遠くに感じる。
「……」
目だけを動かして隣の席を一瞥すれば、アキは無表情で前方だけを見つめたまま身動ぎもしない。話しかけては来ないし、目も合わせようともして来ない。言いたいことはきっと山ほどあるだろうが、無言のままだ。ただ足元に置かれたアタッシュケースだけが、その存在を密かに主張している。
ひたすらに重苦しい沈黙がかなり長い時間に渡って続いた後、作戦室に桐条がやって来た。天田やアイギスは連れておらず、一人で来た。
「さて、詳しく聞かせてもらおうか」
そう言いながら、桐条は自分たちの向かいの席に座って腕と足を組んだ。よくよく見れば、その顔には疲れが滲んでいた。だが溢れかえる不機嫌さでそれを隠している。言い方を変えると、不機嫌でいることは隠していない。しばらく会わないでいるうちに、随分と印象が変わったものだ。そんなことを思った。
事の説明はアキがした。大小様々な事実を、あまり感情を込めずに淡々と。自分はその間、何も喋らなかった。
「なるほど。言われてみれば、確かに今日……もう昨日か。昨日は天田の母の命日だったな。それで荒垣が心配になったというわけか。なかなか鋭い読みだったな」
確かにアキにしては鋭い読みだ。もしや誰かが入れ知恵したのだろうか。今の話からして、知恵を付けたのは桐条ではない。すると誰か。
(あいつか……?)
思い当たる人間は一人いる。だがそれをここで言うのはやめた。この際、誰でも構わないことだ。経過がどうであれ、既に出てしまった結果は変わらない。
「だがそれなら、私だけにでも相談してくれても良かったのではないか? しかもアイギスまで連れて行って……。お前たちがいなかったおかげで、こちらは随分苦労したぞ。全員助かったから良かったようなものの、一歩間違えればどれだけ犠牲が出たか……。容易く二正面作戦ができるほど、私たちの戦力は多くないんだ」
「済まなかった……」
俯くように頭を下げたアキを見て、一つのことに気が付いた。満月の影時間に巨大なシャドウが出ることは聞いていたが、言われてみれば溜まり場で見た月は丸かった。桐条と新入りたちが疲れ果てているのは、それが原因か。そしてこの馬鹿は自分の為に、本番の勝負を無断で放り出してきたわけだ。
一発くらい殴ってやりたいところだが、自分がする筋合いはない。それにもっと重要な問題が、今はある。
「それより桐条、天田をどうする気だ」
それが問題だ。元々天田の適性は理事長が見つけたと聞いている。つまり天田を特別課外活動部に加入させることを、理事長や桐条は企んでいたはずだ。
「少し調べてみたが……天田は強い。シャドウ討伐の為に、欲しい人材ではあるな」
作戦室に来るのが遅いと思ったら、天田のペルソナを色々調べていたわけだ。腹の辺りから怒りが急に込み上げてきた。
「ふざけんなよ! 十かそこらのガキを化け物どもと戦わせる気か!」
自分との因縁を抜きにしても、そもそも小学生をシャドウと戦う集団に入れようなどと言うのが間違っているのだ。しかも昨日あんなことがあってなお、まだ加入させるつもりでいるのか。
「強制するつもりはない。それに未遂に終わったとはいえ、お前を殺そうとしたことは事実だ。いかに実力があるとは言え、すぐに加入させるつもりもない」
「んなことは、いいんだ……」
「シンジ……」
この部屋に来てから初めて、アキは自分に対して口をきいた。だが呼び名に続いて出てきたものは、言葉ではなかった。ソファーから立ち上がるやいなや、右手を一閃させてきた。
「ってえ……」
口の中に血の味が広がった。アキは左利きだから今のはジャブだ。体重を全く乗せていない、手打ちのパンチだ。だが高校チャンピオンのジャブは素人のストレートより効く。先月も他の男に殴られた覚えがあるが、あの時より痛みは大きい。
「何がいいってんだ。お前はそんなに死にたいのか?」
続けてこちらの胸倉を掴んできた。いつもながらに、真っ直ぐすぎる視線で刺し貫いてくる。そして掴む手に込められた力は、いつもより強い。首が絞まって息が苦しくなるほどだ。
「お前は自分が死んだらどうなるか、考えたことがあるのか。天田に殺されればお前は満足かもしれないが、それで何が解決するんだ。どんな理由があったって、復讐なんかただの人殺しと変わりはしない。お前をもう一人作るだけだろうが」
アキは大声こそ出さないものの、言葉の端々に怒りが滲んでいた。激しやすいアキにしては珍しい怒り方だが、本気でいるのは分かる。だが言っていることそのものは的外れだ。
「てめえは何も分かっちゃいねえ……」
天田は自分を殺したところで、自分になりはしなかった。ストレガが一人増えただけだ。タカヤの影響であろうが、天田はああいう怪物になる片鱗を見せていた。もっともそれはそれで、より始末が悪いのだが。
「分かってないのはお前だ。少しは俺の身にもなれ」
アキは手を離し、ソファーに座り直してため息を吐いた。
「それからな、お前はもう溜まり場でいじけてる場合じゃないんだ」
アキは足元に置いていたアタッシュケースを手に取った。これは溜まり場にも持って来ていて、自分に押し付けていったものだ。自分はあの場でこれを放り捨てたが、アキはしっかり持って帰ってきていた。こいつがしつこい男であることは分かっていたが、どうやらまだ諦めていないようだ。金属製のケースを些か乱暴にテーブルの上に置き、自分の目の前まで押しやってきた。ケースの蓋は閉じられたままだ。
「あのタカヤという男……詳しいことは知らんが、天田は奴のトレーニングを受けていたんだろう。だが昨日のことで、天田は奴と切れた。今後は天田が狙われるだろうな」
「てめえ……」
全力で睨みつけてやるが、アキは引かない。違うかと言わんばかりの顔だ。
(どうだかな。だが……)
タカヤのようなタイプは行動が読みづらい。果たして奴は今後に天田を狙ってくるかどうか。そんな意趣返しに興味を持つかどうかは微妙なところだ。だが奴を放置しておくことはできない。事実として、奴は天田を撃った。その落とし前は付けなければならない。もはや過去から逃げている場合ではない。
「俺の部屋、まだ空いてんだろうな?」
「もちろんだ」
アキから視線を外し、目の前に置かれたアタッシュケースを開けてみた。その中身はやはり自分の召喚器だった。拳銃の形をしたそれを二年ぶりに手に取ってみると、片手に収まる程度の大きさでありながら、骨まで響く重量感が伝わってくる。これはこんなに重い代物だったのかと、今頃になって感じてしまう。既に塞がっている腕の傷が、改めて開いてしまうのではと思うほどだ。
(当たり前だ。こいつは殺しの道具だ。軽いわけねえ……)
こんなものを十歳かそこらの子供に使わせてはいけない。天田をこれ以上血生臭いことに関わらせてはならない。殺しの業を背負うべきなのは、悪党だ。例えば自分のような。
同じ悪党同士、タカヤは自分が倒す。否、奴と刺し違えて死ぬ――
殺されてやることもできなくなった以上、自分にできる償いはもうそれだけだ。
「桐条、俺が復帰する。だからこれ以上あいつを巻き込むのはやめてくれ」
「……」
桐条はしばらく答えなかった。代わってアキが言う。
「本人次第だ」
アキは単純明快だ。桐条も似たようなところはあるが、それでもアキよりはいくらか合理的だ。だから間を置いて出てきたセリフは、かなり長いものになった。
「荒垣、お前の復帰は歓迎する。だがお前がどう思ってもな……天田は既にペルソナ使いだ。影時間とタルタロスがなくならない限り、天田は普通の小学生でいることはできないんだ。この寮に置いておかないなら、病院や研究所で身柄を保護することになる……。そうせざるを得なくなる。そこは理解しておけよ」
「……」
保護と言えば聞こえはいいが、要は病院なりで監禁することになる、という意味だ。力を込めて睨んでやるが、桐条は逸らそうとはしない。腕組みをしながら、視線を真っ直ぐ受け止めている。
レールを外れて初めて見えるようになったものはある。例えば世の中には何でも表と裏がある、とかだ。桐条はどちらかと言えば表側の人間だが、裏側も知らないわけではない。だからいくら睨んでやっても駄目だ。
全くもって、世の中は思い通りにいかない。泣いても叫んでも、どうにもならないことばかりだ。
一方その頃、二階の湊の部屋にはアイギスが来ていた。消灯後に自室以外の部屋に入室することは寮則で禁止されているが、そんなことは二人とも全く気にしていないし、他の寮生も特別問題視していない者が大半である。湊はベッドに腰掛けて、アイギスはそれに向かい合う形で椅子に座っている。
「……という次第でした。荒垣さんと天田さんを両方確保できましたので、作戦は成功です」
美鶴が真田から聞いたように、湊はアイギスから溜まり場での顛末を報告されていたのである。ただし美鶴と違って、二人が溜まり場に向かうことは事前に知っていた。と言うより、行くように指示したのは湊である。当初は真田が一人で行くと主張していたのを、アイギスを同行させるように説得したのも湊である。
そして結果だけ見れば、成功に終わったわけだ。色々と失敗の多い『今回』にあって、珍しいとさえ言ってよい作戦成功だった。ただ問題が何もないわけではない。
「それはいいが……大丈夫なのか?」
アイギスは普段から全身を白い装甲で覆っているが、今日は普段と違って胸元に小さくへこんだ穴があった。弾痕だ。
「ご存知の通り、私は弓矢や槍などの攻撃に強いです。銃撃も同様ですから、全く問題ありません」
アイギスは事も無げに言う。実際のところ、タカヤの銃撃は彼女に大して効いていない。胸元の傷は少々の修理で跡さえなくすことができるだろう。だがそれは結果的にそうなったに過ぎない。もしタカヤが銃ではなく、ペルソナの魔法を使っていたらどうなっていたか。その想像は鉄でできた『愚者』の心をも揺るがしてくる。
「済まなかった……。まさかタカヤが今の時点で、そこまで強いとは予想しなかった。もっと人数をそっちに割くべきだった」
『前回』の経緯から、天田の復讐にタカヤが割り込んでくることは予想していた。だが実力を読み誤った。昨日に真田がタカヤと対決する可能性を考慮して、9月のタルタロス探索では真田を重点的に鍛えさせた。その結果、現時点の真田は『前回』の今頃よりも高い実力を得ている。
タカヤは元々一対一なら湊以外の特別課外活動部の面々に勝てるくらいの実力者だが、今の真田なら痛み分けくらいには持って行けると読んでいた。しかし実際はまるで勝負にならなかったようである。
「他の方がこちらに来られては、シャドウに勝てなかった可能性が高いです。元々そのように相談した上での作戦だったではありませんか」
これはアイギスの言う通りである。『今回』のタルタロスに出現するシャドウはやたらと強く、満月のシャドウも同様に強い。その傾向から昨日の戦いをシミュレートした結果、溜まり場に向かわせるのは二人が限度だったのだ。だが甘かった。話を聞く限り、まるでタカヤもシャドウと同じように強化されているかのようだ。
「そうなんだけどな……」
この10月の満月はある意味で、今までで最も薄氷の勝利だった。これでよく犠牲が出なかったものだと本気で思う。いつものことだが、昨日の成功は自分の手柄では全くないと湊は痛感した。単に運が良かっただけだ。
「湊さん。昨日の作戦で、私たちとストレガの対立は決定的になりました。貴方は個人としてタカヤと繋がりを持っていることは承知していますが、今後はお控えください」
『今回』既に何度か向けられている、叱るようなアイギスの視線を貰った。こういう時は、いつも彼女が正しい。
「ああ……分かってる」
6月にタカヤと運命のコミュニティを築いた当初は、仲間に引き入れることを目標にしていた。そして成算は十分あると睨んでいた。だが次々と起こる想定外の事態により、不可能に近い状況になってしまった。これではたとえタカヤを説得して滅びの思想を捨てさせたところで、真田や荒垣が許しはしないだろう。惜しい人材ではあるが、無理をして特別課外活動部を瓦解させては本末転倒だ。もはや諦めるしかない。そして何より――
(まかり間違えば……アイギスが死んでいたんだ)
もしそうなっていたら、やはり自分もタカヤを許せないと思ったであろうと、湊は自分自身を分析した。感情論であることは承知しているが、損得で感情を抑え込むにも限度がある。
(運命のコミュはもう駄目だな。ニュクス戦に響かなければいいが……)
ニュクスに対抗する鍵である、ユニバースの力。その力で具体的に何をすればいいのか分からないが、とにかくユニバースが必要になることは確かだ。そしてそれを得るには、多くの絆を持っておかなければならない。立ち止まった、或いは壊れたコミュニティがある状態で果たして手に入るか――
(やってみないと分からない……)
ユニバースは湊やファルロスにも実態の分からない力だ。『前回』は絆をアルカナの数だけ全て揃えたが、それが必須であるのかどうかも分からない。不確定要素が余りにも多い。どれだけ計画を立てても、指の隙間から砂が零れ落ちていくように漏れが出てくる。そして最大の山場であるニュクスとの戦いに至っては、確かなものが何一つない。
この一年間は二回目であるにも関わらず、最初よりも気苦労が遥かに多い。これではニュクスの来訪を待つまでもなく、心労で倒れてしまうのではと自分自身に心配をしてしまう。精神衛生の観点から、今後はもう何も考えずに無計画に過ごした方が良いのではとさえ思えてくる。