夢見る機械(2010/3/31)
2010年の3月31日、私たちは寮で最後の夜を過ごした。
最後の夜なのである。良くも悪くも多くの思い出のある巌戸台分寮は、4月から閉鎖されることになったのだ。ここは元々、シャドウに対抗する特別課外活動部の拠点として使用されていた寮だ。シャドウが殲滅されて部も解散された今、寮の役割は終わった。シャドウ掃討を任務として作られた、私の役割と同様に。
それに合わせて、皆さんの召喚器も桐条グループに回収されることになった。実際、もう使うこともないから。ただ私の召喚器は頭部に内蔵されているから、皆さんが使う拳銃を模したそれは初めから持っていない。その代わりに、預かっていた彼の召喚器を美鶴さんに返却した。
一ヶ月近く前に亡くなった、彼の――
卒業式の日、彼は私の膝の上で息を引き取った。心臓が停止して、体温が徐々に下がっていって、私がどれだけ呼びかけても目を開くことはなかった。もう二度と彼に会えなくなった。声を聞くことも、手の温もりを感じることもできなくなった。それを改めて確認するのが辛くて、私は彼との最後の別れにも出ないでしまった。
そうした虚ろな一ヶ月の最後の夜に、寮のラウンジで夕食会が開かれた。しかしゆかりさんと真田さんは来ず、集まった皆さんもあまり気乗りしていないようだった。だからだろうか、0時になった瞬間に奇妙な違和感が走ったことにも、テレビのニュースキャスターが日付を間違えたことにも、私たちは特に気に留めることがなかった。
皆さんの誰もが、悔いを残していた。
そんな中で、私は早めに会を切り上げることにした。学校に通うのもやめて、ラボで生活することになる明日からの準備もあるからと皆さんには説明した。しかし実際のところは、特に準備するようなことはない。せいぜい自室を片付けるくらいだ。私は単に、何もかもがどうでもよくなっていただけなのかもしれなかった。
自室に戻ると、私は学校の制服を脱いで床に捨て置いた。もう二度と着ることもない為、服に皺が寄ることにも気を留める必要はない。兵器の装甲を剥き出した状態でメンテナンス装置に腰掛けて、目を閉じた。
「……」
視覚機能は閉ざしたが、思考系は止まらなかった。眠れない。考えなければならないような事柄もないのだが、休眠状態に入れない。彼が亡くなってから頻繁に見るようになった夢も、もう見なくなってしまった。そうして無為に装置に座り続けたが、一時間ほどして眠ることを諦めて床に下りた。足元には薬莢が散らばっている。
「……」
部屋を見回して思う。以前彼を招いた時と同じような、スペアの装甲や予備の弾倉を所狭しと並べ置いた兵器の為の部屋だ。いや、これは部屋と言うより格納庫だ。もし彼が生きていれば、もう少し部屋の装いを人間らしいものにしたかもしれない。しかしそんな必要はもうなくなった。
私はもう、誰の為の私でもない。『生きる』ことができなくなったただの機械には、家具一つさえないこんな部屋が相応しいだろう――
(ん……?)
その時、不意に細やかな音が頭上から聞こえてきた。見上げてみれば、青い光を放つ物体が楽器のような音を奏でながら、床と天井の間を浮遊していた。
「?……蝶?」
どこから迷い込んだのだろうか。蝶は悠然と泳ぐように部屋を舞っている。生き物が住むには相応しくない、機械と兵器しか置いていない格納庫の中に蝶がいる。やがて蝶は私の胸元に降りてきて、私はよく分からないまま両手を差し出した。しかし蝶はその上には乗らなかった。私の胸部の装甲に触れるか触れないかの位置で、唐突に姿を消したのだ。何かの見間違いか、幻だったのか。
だが何であったのかを考える暇はなかった。階下から突然、爆発音が響いたのだ。そこから先は、唐突な出来事の連続だった。そして無数の疑問が浮かんでは消えていった。そんな状況だったから、自室で見た蝶の正体を考える暇は全くなかった。
突然の敵襲を知らせに来た風花さんと共に、私は一階のラウンジに下りた。最初に目に入ったのは、壁際の床に座り込んでいる皆さんの姿。先程までなかったはずの、一階から床下へと開けられた下り階段。そして手に長柄の鈍器を持って、こちらに背を向けて立っている、黒い装甲に覆われた一人の見知らぬ人物だった。
いや、人物と呼ぶのは適切でないかもしれない。後姿を一見して分かったが、その体は人間のものではない。そうかと言って、シャドウでもない。これは私と同じ体――
私に気付いた侵入者は振り返ったが、顔は見えなかった。蝶の羽根のように左右に広い赤いバイザーで、顔のほぼ全体を隠していた。顔の下にある胴体の前面を見て分かったのは、やはり私と同じ女性型であるということくらいだった。
「貴女が……アイギス」
侵入者は声を発した。バイザー越しのくぐもった声は、機械らしく感情を覆い隠している。だが感情が見えなくても、声色は女性であることを示していた。
「貴女は誰? どうしてこんなこと……」
「私は……メティス。貴女を守る為に来ました」
(?……)
聞いた途端、疑問が浮かんだ。守る――
「彼らは貴女を危険に晒す存在……よって排除します」
『彼女』が何を言っているのか、私には分からなかった。守ることは私の役割だ。人を守るのが私で、人が私を守ることなどない。ただ私はその役割を既に失ってしまっている。しかしそうであっても、私が守られる側に回ることはない。だが言っていることが理解できなくとも、行動は認められない。皆さんが私を危険に晒す。そんなことがあるはずがないから。
「そんな……!」
私は二ヶ月ぶりに戦闘の構えを取った。パピヨンハートを起動し、普段通りにアテナを召喚する。何事もなく、ごく普通に召喚はできた。私自身が役割を失っていても、私のペルソナは稼働可能な状態にある。
女神の名を冠した、槍と盾を構えたペルソナを彼女へ向けて吶喊させた。二ヶ月前まで頻繁に行っていたことと同様に、対シャドウ兵器の日常的な機能でもって攻撃を加えた。そのことに私は何の不思議もなかった。
「く……」
ペルソナの打撃を受けた彼女は一歩後退した。だが後退しただけで倒れはしない。やはり機械らしく、人間よりずっと頑丈な体を持っている。
「仕方ありません」
そう言うと共に、彼女の体から発せられる駆動音がその音量を急激に上げた。そして外からの光を通さない赤いバイザーの中で、白い光の破片が無数に浮かび上がってきた。光は赤い枠から零れて外へと拡散し、更に彼女の背中からも猛烈な勢いで溢れだした。光の破片はどれも二つ一組で重なっており、蝶のような形にも見える。私の首の奥に格納された、精神中枢と同じ形をしている。
「これは……」
彼女が何を行おうとしているのか、私には分かる。これは対シャドウ兵器の切り札だ。安全性の観点から設定されたリミッターを意図的に解除し、戦力を爆発的に増大させる非常戦術だ。これができるということは、彼女はやはり――
「はっ!」
ロケットのような推進力で、彼女は床を蹴った。私は反射的に身構えたが、それはあまり意味がなかった。
「あっ……!」
オルギアモードを発動した対シャドウ兵器の膂力は、通常モードとは比較にならない。突進と共に振り回された十字型の鈍器に対して、私は両腕を交差して防御した。しかしほとんど無駄だった。打撃の威力は鉄のガードを容易く通り抜けて、私の体幹機構にまで響いた。
「アイギス!」
「マジかよ!?」
私は一撃で壁際まで弾き飛ばされた。それと共に、思考系に急な混乱が走り始めた。打撃を受けたせいで回路に故障が起きたのか、それとも別の原因があるのか。すぐには分からない。詳細な分析が必要になる。
「うあっ……!」
外から届けられたうめき声により、私は認識機能の向ける先を自分の内側から外側へと戻した。侵入者が最初の標的として狙ったのは天田さんのようだった。鈍器で打たれたか、私とは反対側の壁際でうずくまっている。
「ワン! ワン!」
コロマルさんが彼女の足元で吠えている。やめろ、と言っているようだ。だが彼女はコロマルさんを意に介さない。皆さんは武器も召喚器も手元に持っていないから、いくら吠えられても何の脅威にもならない。それを彼女は分かっている。
彼女は右手で天田さんの胸倉を掴んで持ち上げた。抗う術を持たない人間の首を折るくらい、兵器にとっては片手で可能だ。この場で唯一彼女に対抗可能な戦力である私の体は、思うように動いてくれない。
「くっ……」
それでも無理に立ち上がろうとすると、視界から色が消えた。彼女に締め上げられて苦悶の表情を浮かべる天田さんの姿が、モノトーンに見える。しかも視界の端から映像が徐々に途切れ始めた。明らかに視覚機能に異常がある。しかもそれに加えて、聴覚機能に連続した信号音が届けられてきた。これは全機能の停止に繋がる危険状態にあることを、警告するものだ。
「障害となる者は排除します」
信号音の隙間から彼女の声が漏れ聞こえてきた。まずい。このままでは皆さんが全員やられてしまう――
そう思った瞬間、時間が停止した。影時間は既にこの世から失われている。いかなる存在によっても、もう時間が止められることはないはずなのに、それでも止まった。ただしその色は影時間とは異なった。緑の暗黒ではなく、白い光だった。
停止した白い時間の中で、私の記憶映像の中から一つのビジョンが浮かび上がった。それはやはり白い景色の中で佇む、一人の男性。私が守ると決め、それを自分の生きる証にすると決めた人。そしてもう、永遠に叶わなくなってしまった人。これから私はどうやって『生きて』いけばよいのか、分からなくさせてしまった人――
「そんなの、もう……!」
警告信号を無視して立ち上がった。そしてパピヨンハートから、ペルソナ召喚の為の心的エネルギーを再び生み出す。しかし――
(!?)
エネルギーの中にはあるノイズが混じっていた。喉の奥が焼けるような、胸が疼くような、本来ならば機械には縁のない奇妙な感覚が襲ってくる。だがその奇妙さに、私は覚えがあった。今から二ヶ月以上前、彼を部屋に招いて私の中枢に触れてもらった時だ。気にはなるが決して不快ではなく、むしろ甘い。極めて人間的で、それでいながら永遠に忘れられない、ある感覚――
だが今はそれを検証している時間はない。奇妙な感覚を振り切り、私は召喚の動作を続けた。膝を伸ばして直立し、下腹部まで降ろしたエネルギーを人工脊髄に通した。するとノイズは更に勢いを増していった。パピヨンハートが唸りを上げ、許容量の何十倍もの膨大な力が突如として思考系や感覚系を襲った。
かつてないほどの力の奔流。タルタロスの頂上でニュクスの化身となった綾時さんと戦った時以上に強大な、そして異質な力が止めどなく湧き出してきた。まるで私自身の内部から生まれてくるのではないように。私の外の遠い宇宙のどこかと繋がっていて、そこから光の速さで送られてくるように。沸騰した力に襲われた回路は一瞬にして決壊し、溢れ出たものが全身を駆け巡った。
(あ、あああ……!)
暴走する力は私を下から隈なく蹂躙しながら上昇し、最後に頭頂部に衝突して破裂した。それと共に私の頭上に現れたのは、慣れ親しんだアテナだった。だが何かが違う。槍も盾も帯電したように、力の破片が至る所から漏れ出て周囲の空気を焦がしている。異様な気配を感じ取ったか、彼女も振り返って私の側を向く。
その瞬間、アテナが変化した。境界線を越えるように、或いは母親の胎内から子供がこの世に生れ出るように、その姿が急激に変わった。
ペルソナが変わることならば、私は既に一度経験している。『生きる』ことを初めて決意した12月30日、私のペルソナは当初のパラディオンから今のアテナへと進化した。だがこれはあの時とは違う。仮面に加工や追加の装飾を施すのではなく、素材も様式も異なる全く別の仮面への、言わば『変容』。
現れたのは、器物の体と人間の頭を持ったペルソナだった。大きな楽器を背負っている。
「あ、あれは……」
驚いた声を漏らしたのは、皆さんのうちの誰だったのだろう。力に翻弄され尽くした私は、それを識別することもできなくなっていた。
――
人間の形をした顔を歪ませて、頭上のペルソナが吠えた。音だけで人を殺せそうな、大地に空いた奈落の穴から吐き出された噴火のような叫び声だ。言葉にならない衝動のままの雄叫びだ。その意味するものは嘆きか恐怖か。或いは怒りや殺意。はたまた欲望か。いずれにせよ、とてつもなく暗い想念に満ちた波動をペルソナは発した。まるで影時間に人間を落とすという、シャドウの声のように。
「ああっ……!」
声をまともに受けた彼女はたじろいだ。膨大な質量のある音声の波に煽られて、身動きが取れなくなっている。そうしているうちに、やがて彼女の体から白い煙が立ち上り始めた。オルギアモードが終了したのだろう。力尽きたように床に膝をつき、その弾みでバイザーが上がった。
「姉……さん」
最後にそんな言葉を聞いた気がした。
気付いた時には、私は見知らぬ青い部屋にいた。正面には大きな透かし扉があり、その向こうでは黒い壁が下へ下へと落ちていっている。部屋の中央にはテーブルが置かれ、その向かいに一脚のソファーがあった。色はいずれも青い。そしてやはり青い椅子に、私はいつの間にか座っていた。
「わた、し……」
「ようこそ、我がベルベットルームへ」
鼻の異様に長い怪異な容貌の老人が、ソファーに悠然と腰掛けていた。その隣には、美しいが表情のない女性が一冊の本を手に佇んでいる。私の記憶映像の中にはない、初めて見る人々だ。
「ほう……これはまた、とびきりの珍しいお客人ですな。貴女は『人形』、それとも『人間』……。どうも、私どもと似た定めをお持ちのようだ」
そう言う老人は、自分をイゴール、そして隣に立つ女性はエリザベスであると私に紹介してきた。女性は紹介されたその時だけ僅かに微笑んだように見えたが、すぐにまた元の無表情に戻る。
私は改めて周囲を見回してみたが、正面にいる二人と同様に、部屋も記憶映像の中にはなかった。寮にいたはずなのに、どうしてこんな場所に来てしまったのだろうか。
「ここは精神と物質の狭間にある場所。『契約』を果たされた方の為の部屋」
説明のつもりらしいイゴールさんの言葉のうち、前半から一つの仮説が展開できた。私のパピヨンハートの素である黄昏の羽根は、物質と情報の中間の存在だと私の知識には記録されている。精神と物質の狭間にあるとは、それと似た意味であるのかもしれない。しかし――
「契約?」
契約とは、約束を取り交わすこと。何かを得て、それに代わって何かを支払うこと。人間同士で交わされるものだが、それが私と何の関係があるのだろうか。
「そう……貴女は『契約』を為されたのです。ワイルドの力にお目覚めになったことでね。今から貴女は、このベルベットルームのお客人だ」
ワイルドの力、ベルベッドルーム。いずれも聞き覚えのない言葉だ。この人は一体何を言っているのだろう――
「ご存知のはずです」
私の疑問を察したのか、イゴールさんは説明を始めた。曰く、ワイルドとは複数のペルソナを使い分ける力のこと。そしてつい先日までこの部屋の客人だった少年が、同じ力を持っていたと。
(!……)
聞いた途端、思わず椅子から立ち上がった。この老人は彼を知っている。ということは、彼はここを訪れていたのだろうか。しかし私は彼からそんな話を聞いたことは一度もない。私は彼のことなら何でも知っている。それなのに、この老人は私の知らない彼を知っているのだろうか――
「彼は見事『命のこたえ』にまで辿り着いた……」
「命の、こたえ……」
これも知らない言葉だ。しかも奇妙な表現だ。本来は結びつかない二つの言葉を、無理に繋ぎ合わせたように聞こえる。
『こたえ』とは問いに対する解のこと。では命とは問いなのだろうか。生命体は何かの問いを、その存在自体の内に持っていると言うのだろうか。命そのものは、何の言葉も持たないのに。何によって記され、何によって答えられる問いなのだろうか。
そもそもの話、この状況は一体何なのだろう。彼が恋しい余りの夢なのだろうか。しかし私はもう夢を見ない。眠ることもない機械なのに、どうしてこんな情景を見ているのだろう。仮に夢であるなら、どうして『命のこたえ』なる言葉が湧いて出てくるのだろうか。命のある人間ならまだしも、命のない機械はそもそも問いですらないではないか。
私が疑問に囚われている間に、イゴールさんは更に言葉を続けた。
「貴女の得たワイルドの力は、それへと至る前触れなのです」
(!……)
聞いた途端、一つの疑問が弾けた。そしてまた、別の疑問が湧き上がってきた。今はもういない彼。私の膝の上で亡くなった彼。彼がそれを得たとはまるで――
「こたえに辿り着くとは……死を迎えるという意味ですか?」
「命ある者は皆、こたえを求める旅路にあり、旅の終わりでそれを知る……」
イゴールさんの言うことは分かりづらい。私が聞いたことに対する答えになっているような、なっていないような。
ああ、ここでまた『問い』と『こたえ』だ――
「貴女にもし絆で結ばれた同朋がおいでなら、このように覚えておかれると良いでしょう。『心の力が一つに集う時、いかなる扉も開かれる』、とね。あの少年の時も、そうでございました」
心の力。扉。いずれも抽象的な言葉だ。それが何を意味しているのか、聞いただけでは分からない。だがそんなことより、気になることがある。
「彼は……ここで何を? 貴方たちは彼の何をご存じなのです?」
知らず声色に棘が出てしまった気がする。対するイゴールさんは、含むところのありそうな笑みを浮かべてきた。ただし何を含んでいるのかは分からない。そしてエリザベスさんの表情には何の変化もない。
「ふむ……貴女はどうも、とても大きな心残りをお持ちのようだ。貴女自身、気付いておられないほどに深く。貴女の存在意義に関わるところで悔いを抱いておられる。既に歪んでいるものを、更に大きく歪めてしまうほどに……」
「……」
はぐらかされた気がする。どうやらイゴールさんは答えるつもりがないらしい。
「何、お気になされますな。悔いることも、また一つの行動。お客人が何を選び取ろうとも、私はそれに従って参りますからな。ただ、貴女様には相応の責任を負っていただくことにはなりますが」
その時、青い部屋に一瞬別の光が差した。正面の透かし扉から見える、黒い壁の向こう側から稲光が届けられたように。一面の黄色の光の中で、イゴールさんとエリザベスさんの姿が影に隠れて、そしてまた元通りになった。
「おっと……少々長くお引止め過ぎたようですな。試練の始まりが貴女を待っているようだ。これをお持ちなさい」
イゴールさんが指を鳴らすと、何もない中空から光が零れ、私の手元に落ちてきた。手に取ってみると、部屋の装いと同じ青いものだった。
「鍵……?」
「では、ごきげんよう……」
(え……?)
イゴールさんの別れの挨拶と共に、意識が遠のいていった。これは久しぶりに訪れた感覚だ。彼が生きていた頃、夜ごと眠っていたその感覚とよく似ている。
眠り――
私は再び眠ることができるようになったのだろうか。それもワイルドの力によるものなのだろうか。生き物とそうでないものを分かつ境界の一つが眠りのはずだ。そしてまた、死もその一つ。だとすると、これは私が『死』を得たということなのだろうか。
(そんなこと……どうだって……)
死ぬこと。それを怖いと思う気持ちはないし、ないことを不思議に思う気持ちもない。彼がいない今、死ぬことなど別に構わない。
それよりも気になるのは、彼のこと。私は彼のことなら何でも知っているつもりだった。だがあの部屋の二人は、私の知らない彼を知っている。私は彼について、まだ知らないことがいくつもあるのだろうか。そして私も、彼に伝えていないことがいくつもあったのではないだろうか。だとしたら、それはとても悔やまれる――
「あっ……」
久しぶりに経験した眠りから覚める感覚と共に、私の目が開いた。視覚機能が捕える映像には色があり、聴覚機能には警告信号が届けられてこない。それに代わって、左側から知っている声が聞こえてきた。そちらに視線を送ると、ゆかりさんがいた。
「アイギス!」
「ワンッ! ワンッ!」
ここは寮のラウンジだ。私はそこのソファーに座っていて、今の今まで眠っていたようだ。改めて見回してみると、ラウンジにはゆかりさんの他、風花さん、美鶴さん、順平さんもいた。そしてコロマルさんも私の足元に駆けつけてきた。皆さんの全員が無事な様子でいる。
「皆さん……」
安堵する気持ちが湧くと共に立ち上がると、自分の体に違和感を覚えた。見てみると、弾倉付きのジャケットを着ており、頭にはバイザーが装着されている。いずれも私の部屋に置いてあるものではなく、初めて見る装備だった。こんな物を、どこから持ってきたのだろうか。
「これは?」
「体の修復を兼ねた追加装備だ」
美鶴さんによると、突然開いた寮の床下から様々な資料や物品が出てきたとのことで、これらはその一つらしい。待っているだけで私が目を覚ます確証がなかったので、手を尽くしたらしい。そしてそれは、その床下から現れた『彼女』の勧めであると。
「……」
床下に繋がるのであろう階段を挟んだ向かい側に、彼女はいた。椅子に座りながら鎖で両腕を拘束されていて、その両側に真田さんと天田さんが見張るように立っていた。彼女はバイザーを下ろしており、僅かに俯いた体勢で身じろぎもしない。一見すると、大人しくしているように見える。
だが皆さんと一緒に彼女の傍まで近づいてみると、そうではないことに気が付いた。機械の体から発する駆動音は、通常モードの時よりもずっと小さい。これは――
「眠っているようですね」
「はあ!?」
皆さんは一様に驚いた顔をした。中でも順平さんは転びそうになっている。
「ん……何?」
皆さんのざわつきに気付いたのか、彼女は顔を上げた。それと同時にバイザーが開けられ、顔が露わになった。戦った時も一瞬見たはずの、若い女性の顔がそこにあった。
「貴女は……誰?」
改めて尋ねてみると、彼女は私を真っ直ぐ見上げてきた。その髪は黒く、瞳の色は赤い。赤目と言うとコロマルさんがそうだが、人間としては不自然だ。この点からも、彼女が人間でないことは明らかだ。
「私は……メティス。見ての通り、貴女の姉妹にあたる存在です。たった一人の姉である貴女を助ける為に、ここに来ました」
不可解なことを、と思った。私は桐条グループが製造した対シャドウ兵器のラストナンバーだ。私以降に姉妹機が製造された事実はない。よって私に『妹』はいない。姉ならばいたらしいが、彼女たちはいずれも実用化されなかった。そしてまた、何から私を助けると言うのだろうか。
だがそうした不可解さは、別に私が口にするまでもない。彼女を見つめる皆さんの視線の訝しさが、それを物語っている。私から見ると、そうした彼女の言葉よりも気になる点があった。彼女は先程まで、眠っていた。機械でありながら眠ることができる。
眠る機械。それは本来あり得ない組み合わせだ。生きる機械や死ぬ機械と同様に、矛盾を孕んだ撞着語法だ。
矛盾を埋めることが可能なのは、あるとすれば、それは人間性だ。私は彼を始めとする様々な人と出会い、繋がることによってそれを身に付けた。そうして得たものを、彼女も既に得ている。そのことの方が、余程気になった。