「ようこそ、ベルベットルームへ」
最後となる七つ目の扉を開く前に、私は寮の裏口を通ってベルベットルームを訪れた。メティスと戦って気を失った際に招かれて以降で、ここを訪れるのは初めてではない。何度も繰り返し来ていた。私自身の戦力の強化の為に。複数のペルソナを掛け合わせて新たなペルソナを生み出すと聞いた時、最初は驚いた。ペルソナは心の形を反映するものだ。つまりここで行われることは、己の心をイゴールさんとエリザベスさんの前にさらけ出して、新たな形を作り出すことだ。
それをすること自体は、別に構わない。時の狭間に跋扈するシャドウと戦う為には必要なことだし、心をさらけ出して恥ずかしいと思う気持ちもない。だが彼もここで同じことをやっていたのかと思うと――
「貴女は……今でも探していらっしゃるのですか? あの人を……」
「……」
毎回ではないが、ここを訪れた私にエリザベスさんは時々話しかけてくる。だが彼女はいつも表情をほとんど動かさない。そして私もあまり口数多く応じはしない。彼女の話は抽象的であったり、そもそも意味が不明瞭であったりすることが多く、答えようにも答えにくいから。中にはそうでない話題もあるのだが、それはなおさら答えにくい。例えば今聞かれたことのように。
「徐々にお見えになってきましたか? 旅の終わりが。貴女に覚醒したワイルドの力。そしてその先にある、命のこたえ……」
「……」
私は答えなかった。そしてエリザベスさんも重ねては聞いて来なかった。ここに来た目的であるペルソナの作成をイゴールさんに頼んで、用件が済んだらすぐに部屋を出た。
砂漠に置かれた最後の扉の攻略を、私たちは開始した。そしてやはりと言うか、向かう先に黒い人影が見えた。私は皆さんの先頭に立って追いかけるのだが、角を一つ曲がったり階段を下りたりする度に見失ってしまう。
(また……)
ポロニアンモールに繋がっていた最初の扉の時からずっとそうだったが、いつもこうなってしまう。砂漠の蜃気楼のように、どれだけ追いかけても捕まえられない。本当に、あの影は一体何者だろうか。
いや、誰なのかは影の形からして一目瞭然だ。問題なのは、影そのものが何なのかということ。ここを徘徊するシャドウがあの形を取っているだけなのか、どこからか迷い込んだ人間なのか、恋しい余りの幻覚なのか。はたまた、本物なのか――
エリザベスさんには言わなかったが、私は確かに彼を探している。あの影を捕まえた時が、私の旅の終わりなのだろうか。『旅の終わり』とは、そして『命のこたえ』とは、死ぬことであるのかもしれない。だがそれを辛いとか怖いとか思う気持ちは、依然として私の心に湧いて来ない。イゴールさんに初めて聞いた時からずっと変わらず、どうでもいいと思っている。
(そう言えば、ストレガのタカヤが……)
1月31日、戦いに敗れたタカヤに私は聞いてみた。怖いかと。対するタカヤはこう答えた。『貴女は死を知らぬ者。ならば死を怖いものと思っているだろう』と。知らないから恐れるのだと。その意味を私は理解できなかった。だがタカヤはそれ以上説明することなく、もう十分生きたとだけ言い残して沈黙した。
人は死を恐れる。それを知識として私は知っている。だが死を得たらしい私は、死を怖いと思わない。これはどういうことなのだろう。あの男の言うように、既に十分生きたということだろうか。それとも――
時の狭間の探索を開始して以来、シャドウはそれほど大きな脅威にはならなかった。皆さんは元から実戦経験が豊富にあるし、私も彼の代理を務めることにすぐに慣れたから。だから最後の扉を越えた先の空間も無事に通り抜けることができて、私たちは時の狭間の一番奥まで辿り着いた。
「ここに時の狭間の発生源、空回りの原因があるということだが……」
やや訝しみながら、美鶴さんが確認するようにこの場所の意味を口にした。扉の間にあった七つの扉は、もう既に全て開き終えた。構造から考えて、ここが最後に違いない。だが場所の見た目は今までと特に変わりない。そして他にも腑に落ちないところはある。例えばあの影だ。口には出さない皆さんも、きっと同じ思いを抱いているのだろうと思った。
「……そうだ! みんなに伝えることがあるんでした」
そんな中、はたと思い出したように風花さんが声を上げた。
話によると、私の追加装備の他に寮の地下から見つかった物の中に、時の狭間に関する手記があったとのことだ。それによると、元々時の狭間はごく小さな空間であり、タルタロスの発生と同時に『反作用』として生まれた場所であるとのことだ。つまり巨大な塔ができたことの反動で空いた穴だ。ただしタルタロスが消えれば一緒に消えるはずで、そもそも時の狭間は単なる『地形』でシャドウもいない為、触れなければ無害と判断されたとのことだった。
「待てよ、超いるじゃんか、シャドウ! それにタルタロスを消せば消えるって、そんならとっくにないはずだろ? それ、どっか間違ってんじゃねえの?」
順平さんの反論に風花さんは俯いた。これは確かに順平さんの言う通りだ。タルタロスは二ヶ月も前に既に消えている。だが私たちの中で唯一他と異なる認識を持つ人、言い方を変えれば私たちの中で真実に最も近いところにいる人が重ねて反論した。
「いいえ、筋は通ってますよ」
メティスだ。何かの力のせいで消えるはずのものが消えてない。ただそれだけのことだと。そう言いながらメティスは前方を目で示し、私も釣られてそちらを見る。今までに開いた六つの扉と同じ、吸い込まれるような気配を放つ扉がある。
これがここにある意味は何か。ここが時の狭間の最奥であることは、恐らく間違いない。だが手記とメティスを信じるならば、ここにあるものは実は発生源ではなくて、消させないものであるのかもしれない。過去への扉がここにあるとは、私たちの過去に全ての原因があるということなのだろうか。
(一体……誰の過去?)
私は引き寄せられるように、扉へ向かって歩いた。
アイギスは闇の中にいた――
機械の駆動音が風の唸り声のように吹きすさぶ暗黒の中で、あらゆる光が飲み込まれていた。音は鳴っているのに、次から次へと向こう側へ流れていくだけで、闇の中には何も残らない。水面の泡沫が浮かんでは消えるように、留まることなくあらゆる事象が消えていく。機械のような永続性を持たない、一時だけの存在がことごとく消え果てた、虚無の只中でアイギスは膝を抱えていた。
「私……私は……」
最後に残ったものは、小さな自意識。心を通わせる相手のいない孤独そのものの意識だけが、虚しい鮮やかさをもって闇の中に浮かんでいた。
「……!」
不意に背後に何かが現れた。僅かな光に包まれ、背を向けた人影。光が当たっていながら影を落とさない人。
「貴方は!?」
人影は少しだけ振り向いたが、顔は見せていない。仮面を付けているわけでもないのに、誰にも見えない位置にある。そして顔を隠したまま、足音を立てて歩き出した。
「待って……!」
アイギスは急いで立ち上がり、影を追いかけた。だが追いつけない。どんなに急いで走っても、砂漠の蜃気楼のように捕まえられない。
「待って、お願い!」
声をかけても人影は振り返らない。黒い後姿は見る間に小さくなり、遠く離れて行く。ただ人影が虚無の大地を踏んで発する足音だけが、自意識以上の鮮烈さをもって響いてくる。ただ未練を強調する為だけに響かせるように、姿が遠くなっても足音だけが遠くならない。
「あっ……!」
アイギスは転んでしまった。だがそれでも人影は振り返らない。変わらない足音に反して、姿は小さくなっていく。
「行かないで!」
やがて人影は消えた。姿が視界から完全に消えると共に、足音も闇に溶けるように掻き消えた。アイギスは膝を起こして立ち上がるが、もう遅い。
「貴方を守るって約束して……それを自分の生きる証にするって決めて……。でももう、叶わないんですね」
生きる証は既に失ってしまった。失ったものを追いかけても、追いつけない。死のない機械は、死者の後を追うことはできない。
「私にできることは、もうない……。それでも私、『生きて』いけるの?」
支えを失ったように、アイギスは虚無の上に腰を落として俯いた。機械らしく、金属が触れ合う硬い音が虚しく響く。
「こんなことなら、ただの機械に……戻ってしまえたらいいのに……」
その時、人影が消えた先の虚無の淵から光が差した。夜が明けて朝日が地平から昇るように、暗闇に慣れた目には眩しい光が立ち上がった。しかしアイギスは顔を上げない。どんな出来事もどんな言葉もアイギスの心に留まらずに、抵抗なく通り抜けるようになった。数字のゼロのように、心の質量をなくした。何によっても動かない、変化しない虚無そのものと化した。そんな機械の体を光は通り抜け、影は分離した。
私は黒い虚無から狭間に戻ってきた。それと共に過去へと繋がる扉は消え、その代わりに何もない真っ白な虚無が残っていた。
「……」
この感慨は何と言ったらよいのだろう。自分自身のことであるのに、妙な具合で外から眺めているような感じだった。まるで遠い以前に自分の知らないところで撮影された、自分のビデオ映像を見せられた気分だ。遠すぎてそれが自分のことだとは、即座に納得はできない。
「アイギス、何なのこれ。いつの出来事?」
苛立った気配のある声で、ゆかりさんが尋ねてきた。私は少し躊躇いながら、今見た夢をずっと見続けていたことを説明した。彼が亡くなってから、私はずっと夢に出てくる彼を追い続けて、追いつけなかったのだと。
「姉さん……」
「でも……しばらく経って私、急に夢を見なくなったんです」
正確にいつからそうなったのかは分からない。だが夢を見なくなって以来、苦しさが抜け落ちるみたいに軽くなった。ただその代わり、眠ることまでもできなくなってしまったのだが。
「姉さんは……今でも苦しいの? 今見た中に出てきた相手の人、あの人でしょ。同じ力を持ってたっていう……」
「……」
メティスが近づいて心配そうに聞いてきたが、私は答えなかった。今でも苦しいものはある。だが夢を見ていた頃ほど苦しくはない。閉じ込められている今でさえ、どこか投げ遣りな思いが胸の内にあって、袋から水が漏れるように苦しみが抜け出てしまっている。妹がしてくれているように、人を心配することもない。
「はあ……今のが全ての原因? 訳分かんない、何よそれ……」
ゆかりさんは先ほどより更に苛立ちが募っているようだ。それに向けて、メティスは振り返った。横目に見ると、妹はかなり強い、睨みつけるような視線をゆかりさんに浴びせている。
「分からないですか? 今のは姉さん一人の記憶だったけど、彼に会いたいのは全員そうなんでしょ? なら、見当つくじゃないですか」
「……どういう意味?」
「一番早い解決法は、貴女たちを消すことだって。そういうことです」
「!」
過程を飛ばして結論だけ冷たく突き付けてくるメティスの言い様に、ゆかりさんは目を剥いた。だが妹が言いたいことは、私には分かる。彼に会いたいという気持ち。皆さん全員の抱いていた未練が、全ての原因だということだ。だがしかし、まだ疑問は残る。私自身はどうなのか、ということだ。皆さんが消えれば時の狭間も消えると言うなら、私は原因ではないのだろうか。夢を見なくなったことで、未練も一緒に消え去ってしまったのだろうか。それとも消えたわけではなく――
「待て、何か様子が変だ!」
近頃頻繁に湧き上がる疑問に対する考え事は、切迫した美鶴さんの警告で中断された。振り返れば、過去の扉があった場所に黒い煙が突然現れた。砂漠で人を飲み込む流砂のように渦を巻き、その中心で凝縮していく。シャドウは滅びる時には煙となって消滅する。だがそれとは反対に、煙の中から『それ』は現れた。
「来ますよ。貴女たちの未練そのものの姿をした、怪物が」
煙の中に例の人影が立っていた。ただしこれまでに見てきた後姿ではなく、正面を向いている。黒の結晶のように黒い姿の為、その顔ははっきりとは見えない。しかし全体の形は分かる。学校の制服を着ており、腰に巻いたホルスターに拳銃を差し、長く伸ばした前髪が右目を隠している、若い男性の姿だった。
「あれは……」
思った通りだった。あの影は、私が愛した人。だが本物ではない。
「この敵は、貴女たちから生まれ出た存在です」
影は銃を抜いた。だが銃口をこちらに向けはせず、自分のこめかみに当てた。傍で数えきれないほど見てきたのと寸分違わない、完全にコピーした動作でもって自分の頭を撃ち抜いた。
――
ガラスが割れるのに似た音と共に、影の頭上に見慣れた、だが正面から見るのは初めてのビジョンが顕現した。槍と盾を構え、白い鎧に覆われた、ギリシャ神話の女神の姿だ。
呼び出されたペルソナは槍を天にかざすと、何もない中空から私に向けて不可視の衝撃波が落下してきた。広範囲に放てば大地を薙ぎ払える大波を一点に収束させた、天から放たれる鉄槌の打撃だ。
「あっ……!」
私は打撃をまともに受けてしまった。だが受けながらも、奇妙なまでに回転を続ける頭は一つの確信を導き出した。影が召喚したのはアテナだ。彼の力を受け継いでから使えなくなってしまったあのペルソナを使えるとは、やはりこの影は私自身から生まれ出た存在だ。全てはメティスの言った通り――
「姉さん! 戦いますよ!」
未だ戸惑いの残る皆さんを置いて、メティスが真っ先に戦闘態勢を取った。赤いバイザーを下ろして顔を隠し、長柄の鈍器を両手に構えた。
「!……」
これがただのシャドウとの戦闘ならば、私は妹に指示を出すところだ。しかし私は何も命令できなかった。この影は彼ではない。彼ではないのだが、銃を向けるのはやはり躊躇われた。それはきっと、他の皆さんも同じなのだろう。妹を除く全員が、揃って金縛りになっている。
「姉さん……! 仕方ありません。自己判断でやらせてもらいます」
メティスは片手を顔の前にかざし、それと同時にバイザーから白い光の破片が無数に生まれ出た。破片はいずれも二つ一組で重なり、蝶のように仮面の上を舞い踊る。それに留まらず、妹の黒い装甲の肩から背中から溢れ出てきた。
「さあ、踊りましょう!」
オルギアモードを発動させた。この状態になった妹は、もう私の命令さえも受け付けない。私自身も経験があるからよく分かる。始まったら最後、敵として認識した者全てを殺し尽くすか、己が壊れるまで止まらない。
妹は床を蹴り、影へ向けて鈍器を真っ直ぐ振り下ろした。影は剣を上段に構えて防御の体勢を取るが、妹の打撃は剣ごと叩き割らんばかりの勢いだ。そこに躊躇や容赦は一切ない。兵器は人間と違って、敵の姿形に惑わされはしない。
――
だが影も黙ってはいない。再び銃を抜いてこめかみを撃ち抜き、ペルソナを召喚した。だが今度は私が失ったアテナではなかった。片手に剣を持ち、もう片方の手に球体を持った古代の軍人のような姿のペルソナ。真田さんのカエサルだ。
「プシュケイ!」
対する妹はやはり容赦がない。魂を意味する言葉を名前に持つペルソナを召喚し、カエサルに叩きつける。ペルソナ同士がぶつかり合って、互いに削り合う。いや、妹の方がやや有利か。
――
影は押されながらも、まだ動く。三度銃を抜いてペルソナを召喚した。現れたのは両腕から翼を生やし、鳥の嘴のような口に小さな球体を咥えた、赤いペルソナ。順平さんのトリスメギストスだ。
「ここからが本番なんだから!」
妹も再びプシュケイを召喚した。ただし今度は打撃ではなく、魔法で呼び起こした突風を叩きつけた。圧縮された空気の弾丸は先手を取って、身を屈めて空中を飛翔しようとしたトリスメギストスの体を包み込み、押し潰すように霧散させた。
「はあっ!」
黒い装甲から白い光を放ちながら、妹は床を踏み抜かんばかりに力強く足を進めた。影との間合いを一足飛びに詰め、体ごと回転しながら十字型の鈍器を横薙ぎに振り回した。オルギアモードの渾身の一閃は、影の剣を小枝のように弾き飛ばして側頭部を豪快に捉えた。
「汚い手で姉さんに触るな!」
勝負あった。妹一人の手によって、影は容易く制圧された。ずっと追いかけ続けた影はとても儚く、脆かった。世界を一人で飲み込んだ本物の彼と違って。影は倒れこそしなかったが、膝を屈めて両腕をだらりと下げた。抵抗する力を失ったことは明らかだ。
「……」
その時、どこからか光が差してきて、影の顔が照らされた。右目を覆う前髪から何かが剥がれ、それと共に一瞬以下の刹那だけ顔の全体が露わになった。誰からも頼られ、愛された人の顔。影は体を起こし、私たちの絆の要であった人の顔が現れた。彼を想うことで、機械の私は『心』を覚えたのだ――
(ああ……)
だが彼の姿をした幻には、何も言うことはできなかった。前髪から始まった剥離は、瞬きする間に顔全体、そして全身へと広がって行った。文字のような、生物の遺伝情報を表す単位配列のような、或いは単に『情報』としか形容できない何かが、次から次へと彼の体から流れ出た。それと共に彼の姿は崩れて行った。
若い男性の顔は急激に老化していき、肉は消え、骨までが露わになった。死を暗喩する骸骨の姿へと、機械の永久性の対極に位置する一瞬の間に変容してしまった。それでいながら床に崩れ落ちず、立ったまま両手を広げている。
そして心臓のあった辺りから、青い光が発せられた。光の破片はいずれも二つ一組で重なり、蝶のように舞い踊って時の狭間の空間を満たす。
蝶――
それを見て、改めて確信した。影はやはり、私の夢だったのだと。
「今のが……私たちから生まれた怪物? でもあれって……」
「ああ……姿も力も酷く特別だったが、シャドウであるように見えた」
影の姿が完全に消えた後で、ゆかりさんと美鶴さんは影の正体に訝しんだ。確かにあれはシャドウだった。私には分かる。
「そうですよ」
オルギアモードから復帰したメティスが、私に代わって皆さんに説明した。シャドウとペルソナは元々同じものであると。自分の暗部を見つめる力を失って、外へ抜け出たものがシャドウ。意識的に制御したものがペルソナ。妹の話を要約すると、大体このようなところだった。
「要はペルソナもシャドウも、単に呼び方の問題ってことかよ……」
「シャドウの力は時間や空間にさえ影響する……。貴女たち自身の無意識の思いが、ペルソナを通じて実現されてしまったんです」
シャドウの正体も今の事態の原因も、きっと皆さんは以前から感じていたものがあったのだろう。メティスの説明を聞いて、不承不承ながらも認めたようだ。彼を失って、このまま時が過ぎることを誰もが納得できなかった。その想いが現実となった。要するに、自分の撒いた種だということだ。時の狭間を呼び寄せたのは、紛れもない私たち自身だったのだと。
「ははっ……自分で自分を閉じ込めてたってわけですか。笑っちゃうな」
天田さんは俯きながら、苦笑いを浮かべた。他の皆さんも似たような気持ちでいるようで、何ともばつの悪そうな表情でいる。だが私にはまだ疑問が残った。
(未練が時の狭間を呼び寄せた……。しかし……)
私たち全員の未練が時の狭間を呼び寄せた。そして空回りの原因は私を除く皆さんにある。今の私が原因に含まれていないのは、私の未練、即ち心は夢と共に私の外に出て行ってしまい、あの影となったから。全てメティスの言った通りだ。
だがまだ疑問は残っている。幾月の手記によれば、時の狭間はタルタロスと共に消えるはずなのに、なぜ消えなかったのだろうか。私たちが未練を抱いたのは3月5日、彼が亡くなった日からだ。そしてタルタロスが消えたのは1月31日。この一ヶ月以上もの間、どうして時の狭間は残っていたのだろう。呼び寄せたのは私たちだとしても、1月に消させなかったのは私たちではないはずだ。
(一体、なぜ……)
そこで私の思考は中断された。金色の光を放つ物体が、突然手の中に現れたのだ。
「これは……鍵?」
金色の鍵だった。イゴールさんから貰った鍵と色は違うが、形は似ている。
「きっと、その鍵で外に出られます。そして貴女たちが外へ出れば、時の狭間も自然と消えるでしょう」
「ええと……八つもありますよ?」
天田さんが最初に気が付いた。メティスを除く皆さん全員の手の中に、同じような金色の光がある。
「それは元々原因が貴方たち全員だからです。八つ全てを合わせないと、多分扉は開きません」
八つ全てが必要となる。それを聞いて、思い出されることがあった。『心の力が一つに集う時、いかなる扉も開かれる』と。ベルベットルームを初めて訪れた際にイゴールさんが言っていたのは、これのことなのだろう。メティスもそうだが、あの老人も居ながらにして全ての真実を見抜いているようだ。しかし――
「メティス、待って。これで開くのは……寮の玄関だけなの?」
寮の外に出るなら、玄関を開けるべきだ。しかしイゴールさんは『いかなる扉も』と言っていた。つまりこの鍵で開けられる扉は、他にもあるということではないのか。
「それか、またはもう一つ……。閉ざされている扉の中で、たった一つ外へ通じていない扉。玄関か、あの扉か、どちらかです」
妹の説明を聞いて、私の思考は凍りついた。人間の心が影となって出て行ってしまった私には、論理で考えることしかできないのに。その思考まで停止してしまった。もしかすると、開けられる扉の数など聞かない方が良かったのかもしれない。彼の力を受け継いで以来、絶えることのなく私に襲いかかり続けてきた様々な疑問の中で、最大の難題を突き付けられた。それまでの些細な悩みや考え事など、影も残さず記憶の淵まで追いやられてしまうほどに。
寮のラウンジに戻ると、危険な兆候が現れていた。地割れのような光の断層が、床や壁の至る所に走っていた。メティスによると、あの影を倒したことによって時の狭間の不安定化が始まっているのだと言う。断層が扉に及べば鍵があっても出られなくなる可能性がある為、悠長にしていることはできない。
つまり持ち上がった問題に対して、私たちは即決を求められている。だがもしかすると、時間をかけて話し合ったところで意味のない問題であるから、即時の決断を求められているのかもしれない。
決断とは、論理ではなく力。そんな気がしてならなかった。そして意味がないかもしれない話し合いが始まった。
「で、えと……どうする? みんな? てか、過去に戻るなんて、本気で考えてちゃったりする?」
幸いにも地割れが未だ及んでいない、ソファーの並べられた一画に私たちは集まった。私とメティス、そして風花さんは立ち、他の皆さんはソファーに座っている。コロマルさんはいつもの通り、床に座っている。
順平さんが言う通り、私たちには二つの選択肢が用意されている。玄関から外に出るか、いつの間にか閉ざされていた彼の部屋に入るか。玄関から出れば現在に、彼の部屋に入れば過去に、私たちは行ける。過去への扉なら今まで七つも開いてきたが、彼の部屋の場合は違う。出ると同時に時の狭間も消えるはずだから、正真正銘の過去へ戻れる。
今を認めるか、それとも本当に捨てるか。私たちは決断を求められている。
「あの……僕、思ったんですけど。先輩たちは、あの人が死んだ原因って、何だったって思ってます? 病院で調べても、原因は不明だったんでしょ?」
最初に意見を述べたのは天田さんだった。
「僕……やっぱりあの人は、奇跡を起こしたことで力を使い果たしたんだと思います。つまり僕たちは、命と引き換えに救われたんですよ。なのに……そうまでしてもらったことを、勝手に帳消しにするのって、いいのかな……」
「俺も天田と同意見だ」
今度は真田さんだ。
「死を覚悟するってのがどれだけのことか、俺たちは嫌ってほど味わったはずだ。その決意と残されたもの……。それを一時の気持ちでなかったことにしていいはずがない。納得できなくても、腹を括って今を受け入れるべきだ」
つまりこの二人は、玄関から現在へ出るべきだと主張している。しかしどこか無理をしているように聞こえる。天田さんは躊躇いがちに言葉を選んで話しているし、真田さんは自分に言い聞かせるように強い口調を作っている。それは過去の情景を見た時のゆかりさんを連想させた。
「ゆかり……君はどうだ」
「ゆかりッチも今派だよな。昔のこと話してもしょうがないって、何度も言ってたしな」
「私は……」
美鶴さんと順平さんから話を向けられたゆかりさんは、一度言葉を飲み込んだ。
「私……過去に戻りたい。最後の決戦の前に戻れたらって……思う」
長い間を置いてようやく言われた言葉に、皆さんの多くが目を見開いた。そうした反応をしないのは、私の他にはメティスだけだった。
「守ってくれた彼の為を思ったら、私、絶対前だけ見てなきゃって……。だから急に予備校行ったり、友達と無駄な時間過ごすの減らしたりしてたの。でも私……自分にやっぱり嘘吐けない。彼がいなくならない選択肢があるなら……避けて通れない」
「それはつまり……自分には受け止める力がないと認めるってことか。あれだけの一年間を過ごして、お前は自分との勝負に負けて終わりか」
ゆかりさんは話し始めた時は、ゆっくりと言葉を選んでいた。しかし真田さんから指摘されると、急に口調が早くなった。
「そっちこそ、綺麗事なんじゃないですか? 心から大事なら、純粋に救おうって思うのが本当でしょ」
話し合いが始まる前に思ったことは、正しいのだと証明されそうな成り行きだ。現在か、過去か。この問題は話し合うことに意味はない。もし全員の意見が初めから一致しているなら話し合う必要はないし、一致していないならより意味はない。
「過去をやり直せるんですよ! こんなチャンス手放すなんて、先輩こそ本気なの!?」
「じゃあ聞くが、お前はもし俺がお前の父親の死を帳消しにしたいと言ったら、同意するのか。シンジや美紀の死が帳消しになるとしたって、俺は断固拒否する。無駄な過去なんてない……それ以外は全て言い訳だ!」
真田さんは力強く宣言した。だが本当にそうなのかと、私は疑問に思った。真田さんも天田さんも扉を開いて過去の情景を見た。そのこと自体が何かを証明していないだろうかと。思えば真田さんとゆかりさんは、最初からこの事態に酷く苛立っていた。実はこの二人は同じ気持ちを抱いていて、行動の違いは単に同じものの表と裏に過ぎないのではないかと。
そしてまた、別の疑問もある。美紀さんとは誰なのだろう。
「ちょっと……さっきから死がどうのって……」
メティスが口を挟んできた。話の流れから、奇跡を起こした彼はいなくなったのではなく、死んだのだと初めて気付いたようだ。
「それより……みんなの意見はどうなの?」
ゆかりさんが再び口を開き、メティスの話は遮られた。そしてゆかりさんから視線を向けられた、順平さんが語り出した。
「俺もあいつが死ぬ前に行けたらって思うと、気持ち揺れるけど……。でも真田先輩の言ってることもすげー分かる……。ただ俺は……あの決戦の前に戻るなんて、何つーか、単純に怖くてできねえ……」
順平さんのこの言葉は、本音だと判断できた。順平さんは勇敢な人だが、勇気とは恐怖を感じないことではないから。怖いと認めることと、そこから逃げ出すことが別なだけで。順平さんは恐怖に再び立ち向かう為の動機が、今一つ欠けている。それだけのことだ。
「何よそれ! 自分が死ぬのは嫌だけど、彼が死ぬのはアリって、そういうこと?」
「そうは言ってねえよ! つか、ゆかりッチこそ分かってんのかよ! 決戦の前に戻るってことは、あのニュクスともういっぺん戦うってことなんだぜ!? もし勝てなかったらとか考えないのかよ!」
順平さんは立ち上がって反論するが、ゆかりさんも立ち上がる。そして更に言い返す。
「一緒じゃないの! 結局は怖いって話でしょ!? ……て言うか、真田先輩たちも、結局は順平と同じじゃないんですか? 正論っぽいこと並べて、要は自分がカワイイってだけなんじゃないの?」
「何!?」
「言いがかりです、そんなの!」
真田さんと天田さんは目を剥いて立ち上がるが、果たして本当に言いがかりだろうか。私は疑問に思った。自分が可愛い『だけ』かどうかはともかく、ニュクスが怖いのは誰しも同じだろう。順平さんだけでなく、真田さんも天田さんも怖いはずだし、ゆかりさんも怖いはずだ。恐怖を知らないのは心を持たない機械か、もしくは愚かな人だ。皆さんはそのどちらでもない。
「はあ……こんな話続けてても、全員が納得するなんてあり得ないですよね。お互いに譲れないなら、もう別の方法しかないんじゃない?」
ゆかりさんは脇を向いて、怖い声で言う。ニュクスに感じている恐怖を外に吐き出して、それがそのまま声色に表れたように。ただし言っていること自体は正しい。正しいと思えてしまう。やはりこの話し合いには、意味がなかったのだと。
「別の方法って……ゆかりちゃん、まさか!?」
「奪い取って八つ集める……そういうことでもいいんでしょ?」
「確かに、八つを合わせれば『真の鍵』になるというだけ……持ち主の合意とは無関係です」
ゆかりさんは風花さんには答えず、相変わらず怖い声をメティスに向ける。対する妹は視線を僅かにも逸らさず、ゆかりさんに向けてより怖い声で答える。ニュクスを知らない妹に恐怖はないはずだ。ではこの怖さは、何に由来するのか。私には分からなかった。
「でももし本当に戦うなら、私は姉さんを全力で守りますよ。鍵はそれぞれの『心の力』……。今の姉さんがそれを奪われたら、命を落とすかもしれないから」
心の力――
これはイゴールさんが言っていた言葉だ。この言葉をなぜ、メティスが知っているのか。偶然だろうか。それとも妹はあの老人と同じく、やはり真実を掴んでいるからなのか。だが妹の言葉の他の点では疑問に思えた。
「それはどういうことだ?」
「みんな、自分がどうしたいかばっかり! 前に姉さんと同じ力を持ってた人は、原因不明で死んだんでしょ!? 姉さんだってそうなるかもって……何で誰もそう思わないんですか!?」
話が微妙にずれているように感じた。この鍵は私の命だとでも言うのだろうか。だが私にはそうは思えなかった。心なら私は既に失っている。鍵が心の力であるのなら、失ったところで今さらの話だ。
「私……姉さんを守りたくて来たのに、自分で……。今度こそ、絶対に守ってみせるから!」
「メティス……」
自分で、何だろう。鍵の使い道を皆さんに教えてしまったことを悔やんでいるのだろうか。だが使い道を聞いたのは私だ。ならばこの話し合いの責任は私にある。妹ではない。
そんなことを思っていると、天田さんが私に向き直ってきた。
「アイギスさん自身は、鍵……どう使えばいいって思ってるの?」
「私は……」
過去と現在のどちらが貴重か、それは分からない。と言うより、答えるのは不可能だ。私の心は影となって出ていって、しかも影は妹が倒してしまった。心を失った私に決断する力はない。この局面においては、私の思考は役立たずだ。ただ沈黙するしかない。
「また逃げるんだ……そうやって」
黙っている間に、ゆかりさんに咎められた。
「あの日……彼のお別れに一人だけ来なかったみたいに。あんたは、生きてる彼の最後の言葉を聞けて、その時に約束までして……なのに逃げてる。そのあんたに、どうして同じ力を引き継ぐ資格があるの?」
約束――
意味が分からなかった。私は彼と約束などしていない。彼が亡くなったあの日、私はただ彼に一方的に話しかけただけで、返事は何ももらえていない。受け取れたのはただ一言、『泣くな』という言葉だけだ。そしてその通りになったと言うか、私は心と共に涙も失った。それを約束とでも言うのだろうか。
「私……悪いけど今のアイギスにだけは負けられない!」
「ゆかりちゃん……本当に戦うの?」
風花さんが声をかけるが、ゆかりさんはそちらを振り返らない。ただ私からも目を逸らして俯いた。風花さんに答えることで、急な決意を鈍らせまいとしているのか。それとも顔も見たくないほど、私が憎いのだろうか。私には分からなかった。
そんな中、唯一ソファーに座ったままの美鶴さんが口を開いた。
「大切な人の命を巡る問題だ……。明彦とゆかりの隔たりは、妥協で埋まったりしない。なら、アイギスの意見がどうだろうと……もう戦うしかないだろう」
美鶴さんは静かに言う。あらゆる感情を排除して、ただ事実だけを述べるように淡々と。感情を吐き出し続ける他の皆さんとは対照的なその姿が、かえって奇妙な不自然さを感じさせた。
「私は私なりに想うことがある。それに順じて、私はゆかりの味方をさせてもらう」
言いながら、美鶴さんも立ち上がった。
「先輩……」
「岳羽の味方って……お前、本気なのか?」
真田さんは信じられないかのように言うが、美鶴さんは黙って頷いた。相変わらず感情を見せないままで、不自然に落ち着いて頷いた。
「ふん……すっかり覚悟は決まってるって顔だな。いいだろう」
覚悟が決まっている、と言うのは間違いではないだろう。だがそれは一体、何の覚悟なのだろう。単にゆかりさんの味方をしたいだけなのか。それはニュクスに再び立ち向かう恐怖をも飲み込むほどの、強い決意なのだろうか。それとも美鶴さんなりに、過去に戻りたいと思っているのだろうか。
「皆さん……」
「決まりですね。なら……貴女たちを、この戦いに相応しい場所へ案内します。あそこなら、決着から逃げられない……」
メティスは踵を返した。妹もまた完全に迷いのない、覚悟の決まった足取りでラウンジから出て行った。ただし何の覚悟であるのかは、足音は語っていない。
仲間たちとの、突然の決裂。いや、表面化していなかっただけで、潜在的には私たちはずっと火種を抱えていたのかもしれない。要がいなくなるだけで容易く崩れてしまうほどに、私たちの絆は脆かった。メティスが一人で打ちのめした、あの影のように脆い。
私たちは何をどう決断すべきか。決断と言えば、12月31日にも綾時さんから求められていた。私は綾時さんに半壊させられて修理中だった為、12月中に皆さんの間にどのようなことがあったのか、詳しいことは聞いていない。皆さんはあの時、どれだけ悩んだのだろうか。そして最終的に綾時さんを殺さないことを決めた彼は、何を思っていたのか。メティスの後に従いながら私は思った。
こんな時にこんなことを思うのは、現実を認めたくない逃避なのか。それとも絆は元々壊れていたことを分かっていたからか。だがいずれにしても、私はこの事態をどこか深刻に受け止めていなかった。
どうでもいい――
そんな考えが、私の精神の中にいた。それは唯一の希望であった、あの影を倒してしまったからかもしれない。