皆さんと別れてメティスに連れて来られた場所は、一言で言うと闘技場のような建物だった。内部は半径が三十メートルはある広い円形の空間で、床には時計の文字盤のような装飾が施されていた。そして文字盤の周囲には、高さが十メートル以上ある六本の柱が立てられている。天井はなく、空が剥き出しの状態で頭上に置かれている。だが空の色は扉の間にあったような虚無を表す白ではなく、黒い雲が激しく揺らめいている赤色だった。現世の夕焼けのような美しい赤ではなく、シャドウが消え入る煙を連想させる不吉な赤だ。
そして振り返ってみれば、通って来た扉は消えている。決着が付くまでは、誰一人逃がさない。この場所自体がそう言っているかのように、私たちは閉じ込められた。
「実はここ……私が目覚めた場所なんです」
「ここで?」
「何でこんな場所なのかなって、不思議に思ってました。でも今は、これが私のやるべきことだったのかなって。そんな気もしてます」
戦う為に生まれた、という意味だろうか。私たちの存在意義を兵器としてのみ考えるならば、それはその通りだ。しかし私よりずっと豊かな心を持っているメティスがそう言うのは、極めて不自然なことに思えた。
やがて向かいの扉が開かれ、外から白い光が入り込んできた。その中から二人の人影が現れた。真田さんと天田さんだった。二人とも場所の装いに驚いたようで、歩きながら周囲にゆっくりと視線を送っている。
「なるほどな。確かに、こういうことの決着には相応しそうな場所だ」
言いながら、真田さんと天田さんは視線を周囲から私たちに固定してきた。決闘のように対峙しながら、二人の表情は平静だった。激昂した先ほどの話し合いの時より、ずっと落ち着いていた。そして不思議なことを言ってきた。
「気分的には美鶴の組と最初にやりたかったが……仕方がない」
どうしてそう思うのだろうか。確かに真田さんは美鶴さんと主張は食い違っているが、皆さんの中で最も付き合いの長い美鶴さんとどうして戦いたがるのか。むしろ避けたいと思うのが自然ではないのか。近頃頻繁に湧き上がる疑問は、こんな時でも休むことを知らなかった。私の思考は解を探して動き始めたが、すぐに中断された。
「アイギス! 真田先輩!」
横合いから風花さんが走ってやって来た。連れの人はおらず、一人だけだ。そう言えば風花さんはどうしたいのか、ラウンジでは何も主張していなかった。その点では私と同じだが――
「彼女は中立に両方をバックアップすることで構いませんか?」
「そんな……!」
メティスの提案に、風花さんは困ったようだ。それではまるで両方を煽るかのようだから。しかしそんな風花さんの困惑を、真田さんは遮った。相も変わらず平静な口調で。
「山岸はアイギスの側に付け。そっちは命が掛かってるかもしれないんだろう。バックアップぐらいは、ちょうどのハンデだ」
かもしれない。ハンデ――
真田さんの言い方から、私は理解した。真田さんと天田さんが平静を保っているのは、私たちが争っているのは飽くまで鍵で、命まで奪う必要はないと分かっているからだ。もっとも私だけは命が掛かっているとメティスは言っているが、二人はそれを信じていない。私のことしか考えない妹のことだから、本気で戦わせない為の方便だとでも思っているのだろう。
つまりこの二人は、私たちと本気で殺し合うつもりはない。そしてその点から考えると、現在を受け入れることは二人の本当の本心であるのか、疑問に思えてくる。ラウンジでの二人の言動を思い返すと、なおさらそう思う。
「アイギスさんは、鍵を手に入れたらどうするか決めたの?」
やはり平静な天田さんが聞いて来るが、私は決めていない。と言うより、決めることはできない。それよりも確認しておきたいことがあった。
「真田さん」
「何だ」
「美紀さんとは、どなたですか」
「……」
ラウンジで真田さんはこの名前を口にしていた。話の脈絡から考えると大切な人のようだが、私はこれまで聞いたことがなかった。
「俺の妹だ。十年前に死んだ」
「真田先輩……」
天田さんは驚いたように真田さんを見上げた。この二人は荒垣さんの死後から仲が近くなっていたが、天田さんにとっても初めて聞く話のようだった。ならば他の人たちもきっと知らないのだろう。
「死んだ人間は戻らないんだ。有里だけじゃない。惜しいとは思うが……仕方のないことなんだ。どんなに悔しくても、飲み込んで前に進むしかない」
(なるほど……)
真田さんは十年間、妹さんの死を見つめ続けていた。しかし未だ飲み込めていない。できているなら、皆さんの誰も知らない妹さんの名前を出す必要などないから。そして天田さんにも同じことが言える。二年前に事故に遭った、お母さんの死を飲み込めていない。そして二人はそれを自覚していない。妹さんやお母さん、そしてまた荒垣さんと同様に彼の死も飲み込もうとしている。だがそうしようとしているだけで、実際にはできていない。それは分かった。だが――
「あいつの身にもなってみろ。命と引き換えにやったことを、もう一度やれなんて言えるか?」
(!……)
「そろそろ始めましょう。あまり時間はないんですよ」
また疑問が浮かんできたが、これ以上二人から何か聞くことはできなさそうだ。メティスの宣告を合図として、二人はそれぞれ武器を構えた。
「どちらの意地が勝るか、勝負だ!」
「迷ってたら、大怪我しますよ」
二人は手切れのつもりで言っている。だがその中身には、本心がさりげなく紛れ込んでいる。意地。怪我。やはりこの二人は本気ではない。
だが真田さんの言葉の中には、それとは別に引っ掛かるところがあった。彼の身になったとしたら、どうなのだろう。私たちが過去に戻ることを、彼は望むだろうか。いや、それ以前に彼はどんな思いでニュクスに立ち向かったのだろうか。生き延びるつもりがあったのか、それとも――
戦いを始めながらも、私の疑問は尽きなかった。しかし怪我はしなかった。
意外と言うか当然と言うか、戦いはかなり一方的なものに終わった。真田さんと天田さんの耐性や得意な戦法はとうに分かっている。だが私はペルソナを付け替えることで、それらを自由に変化させられる。そしてメティスは元来から耐性に弱点を抱えていないし、逆に真田さんの弱点を突ける。風花さんが向こうに付けばまだしも、そうでない以上は私たちが負ける要素はない。
「ぐあっ……!」
時計の文字盤のような闘技場の床に、二人は揃って倒れた。心ごと折られたように、倒れて動かなくなった。そして間を置かずに、二人の体を赤黒い煙が包んだ。まるで滅んだシャドウが時の狭間の虚無に消え入るように、その姿は目に見えなくなった。
「真田先輩! 天田君!」
風花さんは驚いて目を見開くが、直後に闘技場を囲う柱のうち二本に炎が灯った。二人の体を包んだシャドウの煙と同じ、赤黒い炎だ。激しく燃え盛って揺らめいている。
「二人は死んだわけじゃないです。でも真の鍵が生まれるまで、元には戻りません。これでもう、姉さんは戦うことを避けられない」
驚く風花さんとは対照的に、メティスは極めて平静な口調で説明した。これはつまり、勝負に負けた代償と言ったところだ。しかし死んだわけではなく、元にも戻れるならそれほど大きな問題はない。ないと思えてしまう。それより気になるのは、私たちをここへ連れてきたメティスの意図だ。
「貴女は……私に戦わせたいの?」
こうなる結果を、メティスは明らかに知っていた。知った上で私たちを連れてきた。私は本来、戦う為に生まれた兵器だ。その本分に帰れ、とでも言いたいのだろうか。だとしたら、それは妹らしくない。
「私は姉さんに生きていてほしいだけです。こうしなければ、姉さんは鍵を黙って渡しかねない……そう思ったからです」
メティスの意図はまだ分からない。だがそれを追及する間は与えられなかった。向かいの扉が再び開き、光の中から次の相手が現れた。やはりここは、休んだり考えたりする時間を与えてはくれない。何事にも即決が求められている。
「よう」
「クゥーン……」
順平さんとコロマルさんだった。二人とも疲れた表情でいる。私はコロマルさんの意思を読み取れなくなっているが、感じていることをおおよそ察することはできる。この二人は全く気乗りしていない。
「その……状況は大体知ってる」
言いながら、順平さんは炎が灯った柱を見上げた。どうやら気分は乗らずとも、真田さんと天田さんを助ける為には戦わざるを得ないことは、既に理解しているようだ。やがて帽子のつばに手を当てて、こちらに向き直ってきた。
「アイちゃんさ、何か雰囲気変わったよな。何つーか、湊とちょっと似てきた。すげえ、どうでもよさそう……。ま、こんな馬鹿みてえなことやってんだから、無理ねえけどな。でもよ、そんなんじゃゆかりッチにゃ勝てねえぞ」
彼と似てきた――
思いもしなかったことを言われて、機械の体が少しだけ震えた。だが順平さんの口上は止まらなかった。帽子越しに頭を掻きながら、ますます疲れた表情になった。
「俺だってよ……過去に戻れたら、って気はあるんだ。ニュクスが怖いってのも嘘じゃねえが、それはそれとしてな。チドリのこととかよ……もしあの時に戻れたらって、何度も思った」
チドリさんは11月22日に亡くなり、順平さんは28日に遺品のスケッチブックを見て立ち直っていた。だが立ち直った後でも、心にはずっと後悔が残っていたようだ。立ち直るとは後悔しなくなることではないし、忘れることでもない。
「あいつのことだってそうさ。だからマジにあいつも助かるってんなら、それもアリかなって思うがよ。でもよ、こんなことで割れてる俺らが無理くりあの決戦の前に戻ったってさ……あいつのやった以上の奇跡をぶち上げて、全部丸く収めるなんて……想像できるか?」
「クゥン……」
応じるように発せられたコロマルさんの鳴き声は、私は言葉としては理解できない。だが順平さんに同意しているのは分かった。たとえあの日に戻っても無駄だと順平さんは言っている。つまり過去に未練があることを認めていて、その上で意地ではなく理性でもって現在を受け入れようとしている。それは分かった。しかし順平さんの口上はまだ止まらなかった。
「俺さ……三学期が始まった時、あいつと学校の屋上で話したんだ。戦いが終わった後のこととか……色々な。4月からずっと隣にいたってのに、腹割って話せたのは1月なんだ。遅えよな。もっと早くから分かり合えてりゃあ……って思ったこともある」
「もっと早く……?」
順平さんの言葉の端から一つのことを閃いた。ニュクスともう一度戦うとのことから、過去に戻るとはあの決戦のまさにその時に戻ることだと思っていた。ゆかりさんも、きっとそう思っている。だがそれだけが道ではない。もっと前に戻ることも可能なはずだ。
「ああ。でもよ、んなこと言ってたらキリねえんだ。チドリの為に過去に戻って、あいつにまたニュクスとやり合わせるってのも、駄目だと思うんだ。だから俺は俺なりに、過去へ戻んのは違うと思う……」
「順平君……」
(チドリさんの為……。しかし……)
確かに戻る時期によっては、チドリさんを助けることも可能だ。だが順平さんはそれを良しとしていない。しかし私はまた疑問に思った。目的を複数持つことは、悪いのだろうかと。そもそも皆さんがニュクスに立ち向かったのも、世界の平和以外の別の目的を各々が持っていなかっただろうか。それを彼は責めるだろうか。
「んじゃ……始めようぜ」
順平さんは大剣を構え、コロマルさんも短剣を咥えて姿勢を低くした。湧き上がる疑問を考えるのは、またしても中断された。
「ゆかりッチや真田さんにゃあ、頭冷やせって言うトコだけどよ。アイちゃんは逆だな。ちったあ熱くなれよ。譲れないモンってなあ、話せば分かるってなもんじゃねえんだ。思いっきりぶつけて来な……」
順平さんは無理をした笑顔で言うが、思いきりぶつける必要などない。手加減しているわけではないが、全力を出し切ることもない。そしてその上で、戦いはやはり一方的なものに終わった。
「……」
倒れた二人は最初の二人と同様に、闘技場を囲む柱に灯る炎となった。しかしそれを見ても、私の心には何の感慨も湧かなかった。砂の山を積み上げては壊すようなもので、私たちは何の成果も見込めない無駄な作業をしているだけだ。
「こんなことに、どんな意味があるの……?」
ラウンジでの話し合いに意味はなかった。しかしそうかと言って、戦うことにも意味はない。真田さんも順平さんも本気ではなかったから。私も本気ではないが、私と皆さんでは元々の実力に差がある。そしてメティスは本気なのだから、勝負にはならない。
そしてこのまま私たちが勝っても、決断する力を持たない私は何もしようがない。私に従うだけのメティスは、私以上に何もしようがない。要するに、この戦いはただの徒労でしかない。訓練を目的とした模擬戦よりも得るものがない。
「もう……どうでもいいわ」
もはやそうとしか言えない。ただひたすらに、どうでもいい。生きるのも戦うのも、もうたくさんだ。
「ゆかりさんと美鶴さんに鍵を渡して、それで全部終わりにするわ……」
いや、最初に真田さんに渡せばよかった。過去に戻るか戻らないか、皆さんに模擬戦で決めてもらえばよかったのだ。私はそれに参加する資格がない。だが――
「それは駄目! そんなことしたら姉さんの命が!」
「本当に? それに……」
私は振り返り、メティスを見つめた。嘘だろうと、口では言わなかったが視線にその意図を込めた。鍵を奪われたら私は死ぬと妹は言うが、私はこの鍵からそんな印象は受けない。妹はいつも真実を語るが、これは嘘としか思えない。そしてそう考え始めると、妹に対する疑問が改めて浮かんでくる。
「貴女は……誰なの? 何を隠しているの?」
思えば最初の最初から、メティスの言動には不自然な点がある。そもそも私以降に同系機は作られていないのだから、『妹』であるはずがない。嘘と言うか言葉が少ないと言うか、とにかくメティスは私に隠していることがある。この際だから、そこをはっきりさせておくべきだろう。そう思ったが――
「違うの……! 私……隠してたわけじゃなくて、本当は自分のこと何にも知らないの……。一ヶ月くらい前、私はここで一人きりで目を覚ましたの。思い出は全部真っ白……」
慌てたようなメティスの物言いに、私はやはりと思った。ゆかりさんの過去を見た際に直感した通り、メティスは思い出を持っていない。それでいながら心を持っている。それそのものも一つの矛盾だが、私はそこを追及はしなかった。言葉を重ねない私に対して、メティスは告白を続けた。
メティスによれば、機械にはあり得ない生まれつきの心が語ったのは、たった二つの事柄だと言う。この世にたった一人、自分と分かり合える姉妹がいること。そしてもし何もしなければ、その姉妹がもうすぐ死ぬと言う予感。その予感の意味するところは、時の狭間の存在だと最初は思った。だが――
「姉さんが目覚めた力は、死と引き換えの力……。私、姉さんを守りたくて会いに行ったのに、目覚める引き金を自分で引いちゃった……」
「……」
これは少し違うと思った。ワイルドの力は死と引き換えのもの。それはイゴールさんに言われた時から分かっている。だがこの力は私の中から目覚めたものではなく、彼から受け継いだものだ。たとえメティスが何もしなくても、私は死ぬことになっていただろう。
「だから決めたの。姉さんを守る為なら何でもするって。たとえそれで……姉さんに嫌われても。私には姉さんしかいないもん……」
「私も昔……あの人の為ならって、同じことを思えた時があった。でも……」
もう私は『生きる』ことはできない。この力の先に待っているものが死であるならば、私は死と引き換えに力を得たのではなく、死ぬ為に力を得たのだろう。闇の中を立ち去って行った、彼の後を追う為に。もしかしたら、彼は私を呼ぶ為に力を継がせたのかもしれない。そうであってくれれば、それはむしろ嬉しいこと――
「死んじゃやだ!」
口には出さない私の思考を読み取ったように、メティスは大きな身振りで私を止めようとする。その顔をよく見れば、大きな赤い瞳の中で別の色が光っていた。
「どうしてもって言うなら……姉さんが命を投げ出すことないよ。鍵をなくしても、姉さんには私の命をあげる……」
「そんな、何を言って……」
自分の命を他人に譲渡する。そんなことは不可能だ。そう思ったが――
(いえ……可能かもしれません。あれは11月に……)
過去に起きた似た出来事が、反例として不意に思い浮かんだ。あれは私が『心』を理解し始めたきっかけの一つだった。しかし詳しく考え直す前に、回想はメティスの泣き声によって遮られた。
「お願い、私を置いて行かないで!」
『泣き声』に私は驚いた。メティスは床に膝をつき、肩を震わせながら両手で顔を覆っている。メティスは泣くことができる。涙を持っている。ニュクスの懐から帰還した彼を迎えた時に、そして彼の最期を看取った時に、私も流した涙を持っている。
「メティス……」
崩れ落ちたメティスの元に歩み寄ると、よりはっきりと分かった。メティスは確かに泣いている。時の狭間の探索を開始した時に感じた疑問に対して、思いがけない形で解答を与えられた。問いに対する答えを一つ、私は見出した。それと共に、失ったはずの心に何かが浮かんだ。
私は床に膝をついて、妹の黒い装甲の肩に手を触れた。人を抱くには向いていない金属の体に、妹の体温が伝わってくる。機械が駆動して発する熱の為であるが、人間の体のように温かい。
「分かった……ごめんなさい。どこにも行かないから」
妹の肩に腕を回して抱き締めた。妹は一人で残される痛みを知っている。私も知っていたはずなのに、失ってしまったものを持っている。
「うっ……うう……」
(そう言えば……人に想われたのは、初めてかもしれません)
誰かを想うことで機械は心を得られる。だがそれとは逆に、誰かに想われることでも得られるのかもしれない。夢を見なくなったあの日以来、私の精神には穴が開いた。全ての痛みが抜け落ちて、全てをどうでもよくしてしまうその穴を、妹は塞いでくれる。今になって、それがやっと分かった。ならば――
「覚悟を決めなきゃいけませんね。彼のこと……私だって、いい加減じゃないんですから」
この戦いが彼を巡る争いであるのなら、投げ出してはいけない。だが何をすべきか、何が大切か、まだ決められない。私たちは単に事実を見つめることさえ、まだできていないのだ。肩を震わせている妹から手を離して立ち上がり、風花さんに向き直った。
「風花さん……」
事実――
見つめなければならない事実とは何か。仲間と戦うことではない。時の狭間に閉じ込められたことでもない。彼が亡くなったことでさえない。それよりもっと根源的な事実。それは見つめるか見つめないか以前の問題で、私たちは『事実』をそもそも知ってさえいない。例えばあの時、彼は何をしたのかとか。どうして彼がやらなければならなかったのか。どうして彼だけが死ななければならなかったのか。どうして私たちではできなかったのか。彼にどんな責任があったのか――
私は何も知らない。卒業式のあの日、私の膝の上で息を引き取った彼は何も教えてくれなかった。彼について知っていることは、実は驚くほど少ない。そして私も彼に伝えられたことは、悔しいほど少ない。
(ん……? 事実?)
「何、アイギス……?」
私たちは、まず事実を知るべき――
そう言おうとしたのだが、自分の中でまた疑問が湧いてきて言葉にならなかった。イゴールさんに教えられた、『命のこたえ』という言葉。これに意味があるのなら、命とは問いであるということになる。それがその通りであるかのように、私は彼から受け継いだ力が現れて以来、無数の疑問に囚われてばかりいる。そして今湧いてきた疑問は、事実とは何か、ということ。
事実と願望はどう違うのだろうか。ペルソナを通じて時間や空間さえ捻じ曲げて、想いが現実に変わってしまうこの場所で、果たして両者に何か違いがあるのだろうか?
「いえ……貴女は彼に特別な気持ちはありましたか?」
もしかしたら、事実以上に真実に近いものがここにはあるのかもしれない。そんなことを不意に思い付いたからか、私はこんなことを聞いてしまった。聞くまでもない、或いは聞いてはいけないことかもしれないのに。
「え……」
風花さんは戸惑い、しばらく答えなかった。口を開いたのは、かなりの間を置いてからだった。
「私だって……いい加減じゃないわ。本当は、初めから望みなんてなかったのかもしれないけど……。でも……」
風花さんの回答が終わらないうちに、闘技場の向かいの扉がまた開いた。いつものことと言うか、この場所は考えたり立ち止まったりする為の時間を与えてくれない。そして扉の奥から現れた人も、考える余裕を与えてはくれないようだ。その証拠に、二人はこちらを真っ直ぐ見据えていて、足取りには迷いがない。それに気付いたか、妹は目元を拭って立ち上がった。
最後に残った鍵を争う二人、ゆかりさんと美鶴さんだ。彼女たちもまた、彼への想いはいい加減ではないのだろう。ここで戦う順番はどうやって決められているのか分からないが、きっと意味があることだと思う。彼女たちが最後に来る辺りを考えれば。
想いの強さに優劣があるのかどうか。もしかしたら、この戦いはそれをこそ問われているのだろうか。
「どうだ、目指すものは決まったか? 目的もなく葬ってきた……何てことはないと思いたいがな」
「……」
美鶴さんの問いかけに私は答えなかった。投げ遣りな気持ちは抑え込めた。そしてまた、やらなければならないことはあると思っている。だが言葉にできるほどには、未だまとまっていない。漠然とした気持ちのままだ。風花さんとちゃんと話し合うこともせずに、ここまで来てしまった。
「何かさ……こういうことする羽目になるかもって、実は私、前から予感あったかも」
黙っている間に、ゆかりさんが口を開いた。私を激しく責めていたラウンジの話し合いと異なって、不思議な笑顔でいる。
「ふふ……そうかもな」
「……」
分からないでもない気がする。もし彼が生きていても、いつか私はゆかりさんと決着を付けなければいけなかったかもしれない。そしてそれは美鶴さんや風花さんも同じことだ。そんなことを思っていると、ゆかりさんはシャドウの煙が消えるように顔から笑みを消し、弓を構えた。
「だから……マジでぶっ壊す気で行くよ。絶対負けらんない……機械のあんたに、負けるわけないんだから!」
私は理解した。ゆかりさんは真田さんや順平さんと違って、本気で私を殺すつもりでいる。美鶴さんもそうなのかは、まだ判断がつかない。そしてもう一つ分かった。やはりこの鍵を奪われても、私は死にはしない。しかし妹は嘘を言ったわけではない。思い返してみれば、ラウンジで妹はゆかりさんに向けて、鍵を奪われたら死ぬと言っていた。つまりゆかりさんに負けたら私は殺される。そういうことだ。
「いいえ……私も負けません」
死を恐れる気持ちは依然としてない。だがゆかりさんに負けるわけにはいかない。想いの強さに優劣があるのなら、私は誰にも負けられないから。『生きる』こととは、何かを奪うことでもあるのかもしれないから。残酷なことだけど、それが真理ならば従おう。