死の約束(2009/11/5)
幾月が死んだ翌日、11月5日の朝。荒垣は巌戸台分寮のラウンジのテーブルに、多量の朝食を並べていた。普段は朝の遅い体質だが、今日ばかりは早起きした。昨晩の騒動で皆は色々な意味で疲れただろうから、せめて一日のエネルギー源くらいは用意してやろうという気になったのだ。テーブルの準備が済むと、最後にドッグフードを盛った小皿を床に置いた。
やがて寮生たちがバラバラと上の階からラウンジに下りて集まってきた。そうやって特別課外活動部のメンバーがテーブルに揃い、自分の足元にはコロもやって来た。ただし人数は自分と犬を入れても八人。本来の寮生の数と比べて二人少ない。有里とアイギスがいないからだ。
「食え」
取り敢えず寮にいる面子が揃ったところで、食べるように促した。しかし皆の多くは箸が進んでいない。
「先輩、一体どういうことなんですか?」
「分からない……もう、何が何だか……」
皆の中で最も様子が酷いのは桐条だ。椅子に座ったきりずっと項垂れたままで、紅茶にさえ手を付けない。岳羽に聞かれても顔を上げようともせず、頭を抱えている。こんな弱気な姿を見るのは初めてだが、こいつの本当のところは実はこんなものなのかもしれない。
昨晩は初めて桐条の父親の顔を拝んだが、よく似た親子だと思ったものだ。ちなみに父親は昨晩の影時間が明けるまで娘に付き添っていたが、この寮には来ずに夜のうちに帰った。だからここにはいない。
「取り敢えず学校に行け」
これはアキだ。朝食を軽々と平らげて、場を仕切り始めた。
「こんな時にと思うかもしれないが、どっちにしろ影時間にならなきゃ俺たちは何もできん。昨日の続きは夜からだ」
「そっすね……」
ダルそうな順平が頷いた。それに合わせて皆が席を立ち、各々カバンを抱えて玄関へと向かって行った。律儀と言うか融通がきかないと言うか。確かにアキの言う通り、影時間にならないとタルタロスには行けないのだが。
「ありがとよ、シンジ。うまかった」
去り際にアキが簡単な礼を言ってきた。だが沈みきった空気の中に用意した朝食にしっかり手を付けたのは、アキの他にはコロくらいだった。
(ったく……)
残り物が大量に出たテーブルを見ると、いい気分はしない。だが仕方のないことではある。桐条ならずとも飲み食いする気になどなれないのが普通で、アキとコロは胃袋が頑丈なだけだ。何しろ昨日は訳の分からない事態の連続だったのだから。
影時間とタルタロスが消えなかったことはいい。ある程度予想していた。だがその先はもうメチャクチャだった。幾月がトチ狂い、ストレガに殺され、有里が拉致され、アイギスがそれを追って行った。そして最も訳が分からないのは、タルタロスにいるはずの四人の居場所だ。
タルタロスは見上げると首が痛くなるほど高いし、何階まであるのかも分からない。これまでの最高到達階層は164階で、その上へ続く階段は先月の終わりの時点で塞がれていた。だが山岸によると、消えた四人は200階以上の階層にいるとのことだった。まさかと思いながらもタルタロスを探索し直したが、164階の階段は相変わらず塞がれたままで、そこから先には進めなかった。もちろん抜け道の類もなかった。
せめて有里たちと話ができればよかったのだが、自分たちがこれまで通っていないフロアが間にある為なのか、山岸は二人の居場所を曖昧に感じられるだけで、通話はできなかった。そうこうしているうちに昨日の影時間が終わりそうになったので、二人の捜索は一旦打ち切られた。要するに、この部の現場リーダーとサブリーダーが揃って失踪してしまったわけだ。
キッチンで後片付けをしながら、改めて頭を巡らせてみた。昨晩のあれは一体何であったのだろうかと。順序立てて考えてみた。
(幾月は裏切り者だった。それは間違いない。だが……)
聞いた話では、幾月は8月の初め頃に海外に転任になったらしい。だがよくよく考えてみれば、シャドウの巣窟があるここから別の土地に行かされるなどおかしな話だ。下っ端の研究者ならまだしも、特別課外活動部の元締めも兼ねていた幾月がどうして海外になど飛ばされたのか。何か余程の致命的な大失敗でもやらかしたのだろうか。そしてそれを逆恨みして、あんなことをしたのだろうか。それともずっと前から裏切っていたのか。
だがいずれにせよ、幾月に人事異動を命令できるのは桐条グループの上の方。つまり桐条の父親だ。
(もしかすると……桐条の親父は幾月の裏切りを前から知ってたんじゃないか? だとすると……幾月は飛ばされたんじゃなくて、バックレてた?)
そう考えた方が自然に思える。だが不自然な点はまだある。ストレガだ。あの時の状況から見て、幾月はストレガと手を組んでいたか、金で雇い入れたかしていたのだろう。しかし幾月は土壇場で裏切られた。そう見なすことはできる。だがそうだとすると、ストレガは何の為に幾月を裏切ったのか。
(あの野郎ども……見つけたらタダじゃおかねえ)
先月初めにこの部に復帰して以来、タカヤは自分が倒すと決めていた。だが昨日は不覚にも、ジンにやられてしまった。あの時のことを思い出すと、腹の辺りが煮え繰り返ってくる。ジンにも借りができた以上、ストレガは二人とも自分が倒す。アキではないが、自分はもっと強くならねばならない。悪党とは言え、あの二人は人間だ。殺しの業は自分が背負わねばならない。その為には力が必要だ。自分一人であの二人をまとめて殺せるくらいに――
「クゥン……」
いつの間にか足元にすり寄っていた、コロの鳴き声で我に返った。脱線した思考が外に漏れでもしたか、コロに心配をかけさせてしまったかもしれない。
皿洗いを終えたキッチンからソファーに移動し、更に考えた。こんなふうに頭を悩ませるのは自分の柄ではないが、事態が事態だ。自分の業を思っている場合ではないし、成り行きに任せるわけにもいかない。有里がいない今、誰かがあいつに代わって部を支えなければ。
(ん? 待てよ。有里と言やあ……)
頭に何かが閃いた。近頃はほとんど忘れかけていたが、あれは確か6月に――
タルタロスは影時間の間にしか現れない。よって内部にいる人間にとっては、通常の二十四時間は認識できない。存在しないとさえ言ってもよい。従ってタルタロスに入ったまま影時間が過ぎると、当人は次の影時間まで時間移動してしまう。そうして影時間の中で日付を跨いだその瞬間、アイギスの意識は現在に戻った。一日の間にある隠された時間の更に間にある、無の瞬間から戻ってきた。
「貴方はご自分が滅びを呼んだのだと……そう仰るのですか?」
「……そうだ。責任は僕にある」
3月31日の夢を見る前から始まっていた、二人の議論の成り行きを思い出した。滅びは人類の総意であると主張するタカヤと、己一人の責任だと主張する彼。この二人はどちらも1月31日と同じことを言っている。タカヤは『前回』の記憶を失っているはずだが、その思想は変わっていない。そして記憶を保っている彼も変わっていない。
「違います! 滅びを呼んだのは、貴方ではありません!」
思わず大声を出してしまい、二人の議論に割り込む形になった。この二人のどちらが正しくてどちらが誤っているのか、それは私には分からない。だが彼の主張は認められない。それを認めては、彼は全ての『責任』を一人で背負ってしまう。そんなことを許すくらいなら、タカヤの思想を認める方がまだいい。
「お前はすっこんどれ」
私と同様に二人の議論を見守っていたジンが動いた。ホルスターから素早く召喚器を抜いて、銃口をこめかみに当てた。電撃を放って来るつもりなのだろう。本来は私の弱点だが――
(彼は今ここにいる。でも、私のここには……)
私は時間が戻ってから、できなくなったことがある。いや、できたことさえ忘れていたから、考えたこともなかった。でも今ならできる。あの日、彼から受け継いだ力を今なら使えるはず。赤いリボンが結ばれた首に手を当て、目を閉じた。
それと同時にパピヨンハートから甘いノイズが発せられた。時間を超える存在である黄昏の羽根で作られた、私の精神中枢には彼の魂が焼き付いている。神話の存在にさえ消せないほどに、逆にそれらを掻き消してしまうほどに、深く強く刻まれている。それを既に知っている私は抵抗せず、ノイズの流れに乗った。彼を自室に招いた1月のあの日、手足の動力を切って彼に身を任せた時のように。
(ああっ……!)
精神が光の速さで疾走した。パピヨンハートが唸りを上げ、回路を残さず焼き尽くすほどの膨大なエネルギーが迸る。側頭部のファンは砕けんばかりの猛烈なスピードで回転し、昂ぶる精神を更に煽り立てる。それは巨大な隕石が大地をめくり上げるのに似て、心の形を破壊しながらあらゆる思考を飲み込んでいく。私に元々与えられた形であるパラディオンは、瞬き以下の刹那の一瞬で跡形もなく粉砕された。
その後に残ったものは、純粋な心。数字のゼロのように、何にも属さず何にでも変化する力。言い方を変えれば『無』。無は有限な体を飛び抜けて遥かに遠い宇宙と結びつき、或いはとても近くにいる一人の人と繋がって混ざり合う。それが『愚者』の力――
目を開けた瞬間、ジンの頭上にペルソナが現れていた。独楽を三つ重ねたような幾何学的なフォルムのペルソナ、モロスだ。それが体ごと回転しながら空気を急速に帯電させてゆき、私の頭上に電撃を落としてきた。しかしそれは水の上に油が浮くように私の体の表面を滑り落ち、抵抗なく流れ去った。何事もなかったように、私の体からは煙の一つさえ立ち上がらない。
「あ? 効かへんって……何やお前! さっきとペルソナが違う!?」
予想外の結果にジンは動揺を見せた。実戦で勝敗を決める要素は色々ある。まず実力、次に作戦、更には精神力、そして人数。ペルソナ使いの戦いでは、各々のペルソナに備わった耐性もこれに加わる。実力に大きな差があっても、他の要素で勝れば劣勢を覆せることも時にはある。例えば一瞬の隙が明暗を分けるというようなことだ。
私は間髪入れずに右手の指先をジンに向け、マシンガンを放った。普通の人間であれば原型も留めなくなるほどの、大量の銃弾を瞬きする間に叩き込んだ。
「おわっ!」
動揺の最中に攻撃を受けたジンは転んだ。死んではいない。それどころか大した傷も負っていない。しかし体勢を大きく崩している。
「ジン!」
初撃の応酬の後、タカヤが動いた。驚愕を感じさせる声と共に、頭上にペルソナを顕現させた。そして私は右手の銃口をジンからタカヤに移す。しかし――
「動くな!」
場を一瞬で制圧する鋭い声によって、私の動きは止められた。右手をタカヤに向けたまま停止してしまい、そしてタカヤもヒュプノスを出したまま動かない。瞬き一つで魔法を私に向けて放てる状態でいるが、命令されたかのように動かない。
「やめろ、タカヤ。お前がアイギスを撃てば、僕もジンを撃つ」
いつの間にか、彼は召喚器を自分のこめかみに当てていた。体はジンへと向けながら、横目をタカヤに向けている。
「タカヤ……構わんといてください」
ジンはタルタロスの床に腰を付けたままで、立ち上がってはいない。召喚器を頭に当ててもいない。崩れた体勢のままだ。
「破れかぶれはよせ」
彼は姿勢と視線を動かさないまま、再び口を開いた。するとタカヤはヒュプノスを消し、ふっと微笑んだ。
「有里さん。やはり貴方は面白い方です。私も以前、ジンに申しました。破れかぶれはいけません、とね」
思い出した。この言葉は確か、『前回』にムーンライトブリッジで戦った際にジンがタカヤに言ったものだ。彼はそれを覚えていて、こう言っているのだろうか。
「ただ貴方の場合は、彼女に言って差し上げた方がよいでしょう。先ほどは不覚を取りましたが、彼女の力では私は倒せませんし、貴方もジンを倒すことはできません。小細工で埋められるほど、私たちと貴方がたの力の差は小さくありませんよ」
言いながらタカヤは歩き出した。動くなと言われた瞬間は止まったその足を、無造作に動かしている。その足取りは自信に満ちていて、欠片ほどの危険も感じてはいない。この場を真に制圧しているのは己であると、足に語らせている。
「……」
悔しいことであるが、ここはタカヤが正しい。私は彼と同じ力を取り戻したが、それでもタカヤには敵わない。私と同じ力を持つ彼もジンには敵わない。今この時点では。それが分かっているのであろう彼も、重ねてはタカヤに命令しない。
やがてタカヤはジンのところまで歩いて行った。そして片手を差し伸べて、ジンを立ち上がらせた。それを見て、彼は無言で召喚器を頭から離した。そして私も右手を下ろした。
「私たちはね……元々桐条グループに作られたのです。この滅びの塔を探らせる為、ペルソナ使いを人工的に作ろうという計画がありました」
ジンと並んで立つタカヤは再び話を始めた。一時の交戦は、なかったことにするつもりのようだ。
「幾月もそれに絡んでいたか」
「その通りです。しかし強制的に目覚めさせたペルソナは、概して安定性に欠けます。劇薬の制御剤を用いなければ、最悪自分のペルソナに取り殺されてしまいます。貴方がたもご覧になりましたね?」
「……」
彼は僅かに眉を動かした。タカヤが言っているのは、チドリさんの死のことだ。『今回』は9月に起きたあの出来事は、『前回』以上の深い悲しみと後悔を彼に与えていた。時間を再び戻してしまうのではと、自分自身に対する心配をさせるほどに。もっともそれは杞憂であったのだが。
「故にその計画は半年程度で頓挫し、集められた百人もの孤児で生き残れた者は、僅か数名ほどです。残った者たちも記憶の大半を失い、しかも制御剤の副作用で寿命は数年しか残されませんでした。私たちは気付いた時には未来を奪われ、望まぬ力を負わされていました」
既に知っていたことではあるが、彼らも被害者なのだ。その点においては、私も同情を禁じ得ない。しかしだからと言って、彼らの望みを叶えてやるわけにはいかない。桐条グループに人生を狂わされたのは、彼も同じなのだから。同情されるべき被害者ではなく、責められるべき加害者であるのは、この場では私だけだ。
「ですが……それ故に悟ったのです。過去も未来も、幻想に過ぎません。過去に囚われず、未来を望まず、今この瞬間だけを生きる……。それこそが、人間が真に生きる道であると」
こういう考えは言い方を変えると、今が楽しければいい、となる。そしてそのように考える人は世間にもよくいる。私は『前回』の1月には放課後の時間を彼と過ごす機会が増えたが、その際に人から聞いたことがある。もちろんタカヤの事情はその人より遥かに深刻だが、それでも論理の構造は変わらない。そしてその結論が正しいのか誤っているのか、私には判断が付かない。
(いえ……私はそれではいけません)
滅びは己の責任であるとの彼の主張は認められないが、タカヤの思想もやはり認められない。真っ向から対立する彼らに、私は違う道を示さなければならない。十年前の事故以来の加害者であるだけでなく、今こうして彼を襲っている二度目の苦しみを与えた加害者として。
「今となっては、桐条などどうでもいいのです。私の望みはただ一つ……生を最も輝かせる瞬間を、この目で見ることです」
タカヤはストレガの正体の告白から、かなり一方的に話していた。しかしここで一旦言葉を止め、彼を見る。すると彼はその瞬間に合わせて、視線を鋭くした。
「嘘だな」
「何がですか」
「桐条なんかどうでもいい……違うだろう」
突破口を見つけたように、彼は反撃を始めた。力で敵わないなら、言葉で戦う。武力しかない兵器と違って、彼はそういうこともできる人だった。
「それならなぜ、幾月を殺した? 依頼だからとは言わせないぞ。やる時期は僕が指示を出す。そういう条件だったはずだ」
「アホか。屁理屈もええとこや」
「ジン、お前が一番桐条にこだわってないか? お前は死体に鞭打つくらい、幾月が憎かったんだろう。違うか?」
「何やと……?」
ジンの横槍を彼は逆手に取った。この人は本当に口が巧みだ。だが言われたジンは眼鏡の下の眉間に深い皺を寄せた。図星を指されたのかもしれないが、それがかえって機嫌を損ねたようだ。放置しておくと再び戦いが始まりそうな緊迫感が、冷たいタルタロスに漂ってきた。しかし――
「貴方こそ嘘を吐いていませんか? 滅びの訪れは、貴方の罪であると……本当にそう思っていますか?」
実戦の予感を打ち消すように、タカヤは更に反論を重ねた。ただしその方向性はこれまでの話の流れとは少し異なる。と言うより、話を戻してきた。
「自意識過剰だと笑うか?」
「笑いはしません。しかし無意味です」
ジンとは対照的に、タカヤの表情には変化がない。笑いもしないし、怒りもしない。感情で物事を語る人を理屈で封じ込めるように、いかにも淡々と言葉を繋ぐ。内心がどうであれそれを表には出さないし、緊迫した空気にも気を留めない。
「確かに貴方は滅びの原因の一端は担っています。貴方はご自分の中に死神がいることを……そして十二のシャドウを倒せば、滅びが呼ばれることを知っていたのですから。しかしそれは、飽くまで最後の一押しを貴方が為したに過ぎません。滅びに至る罪は、全ての人間にあるのです」
「……」
彼は沈黙した。確かに彼はファルロスさんの正体と十二のシャドウとの関係を、初めから知っていた。しかしそれは飽くまで『今回』が二度目であるからで、『前回』は知らなかったはずだ。その意味で、少なくとも『前回』の滅びは彼の責任ではない。私にはそう思える。
では『今回』はどうか。タカヤの言う通りであるのか、違うのか。私はまだ判断が付かなかった。この問題を投げ遣りにするつもりはないが、二人の間に割り込めるほどの論理を私はまだ構築できていない。
「この世界の無意味さは、誰か一人の罪に帰することはできません。貴方や私でも全てを背負うことは不可能ですし、背負う必要もありません。罪とはあらゆる人間に等しくあるものです。そしてそれを贖う為には、祝祭以外にないのです」
罪、贖い、祝祭。いずれも抽象的な言葉だ。
「私はその瞬間を、貴方と共に迎えたい」
「……断る」
僅かな間の沈黙の後、彼ははっきり口にした。当初は彼らを仲間に引き入れるつもりであったはずだが、その希望を切り捨てるように断った。或いはそれを超えて、『前回』から彼らに対して抱いていたかもしれない、ある気持ちを切り捨てるように。
「……」
「……」
一言だけの拒絶を最後に、かなり長い沈黙が訪れた。しかし互いに無言を貫く中にあっても、彼とタカヤは視線を交錯させ続けた。睨み合うと言うほどには鋭くない。単に相手を観察し合うと言うほどには無機質ではない。それでいて、甘いものは一切ない。たとえて言うなら、標的に銃を向けながら標的そのものに対しては敵意がないように。余計な思考や感情の入り込む隙のない、純粋な集中力を互いに向けている。
「ふう……」
そんな長時間の視線の応酬の末、先に折れたのはタカヤだった。小さなため息と共に、やはり小さく俯いて彼から目を逸らした。
「残念ですよ、有里さん。貴方とはもっと分かり合えると思ったのですが」
「僕もだよ」
タカヤは視線を上げ、一歩踏み出してきた。それと同時に深呼吸をして、両肩から力を抜いた。傍目には分かりにくいが、これは臨戦態勢に入った動作だ。召喚器を必要としないタカヤならではの。拳銃はジーンズに差したままだが、瞬きを一つするだけでヒュプノスを召喚する準備ができていることは見て取れる。
「待て」
彼は右の掌をタカヤに向けた。利き手を開いて差し出すのは、害意がないことを示すサインの一つだ。しかしこの局面でそれをやるとは――
「命乞いですか?」
「お前は祝祭を見たいんだろう。残念だが、世界を滅ぼしてもそんなものは見れないぞ」
「なぜです?」
「滅びは一瞬のことだ。苦しむ暇もないくらいにな」
「……まるで、見てきたかのように仰いますね」
「……聞いたのさ」
「ほう?」
「死神が僕に教えた」
(ファルロスさん……? いえ、綾時さんでしょうか)
『前回』の12月3日、綾時さんは自身の正体と共に様々な情報を皆さんに開示したと聞いている。その時の話の中に、確かそのような情報があったはずだ。
「死神が教えたことはまだあるぞ。例えば滅びが来るのはいつなのか、とかな。言っておくが、今日や明日のことじゃないぞ。お前たち、いつ来るかも分からない日をずっと待つ気か? お前たちの体はそれまで持つのか?」
「……いつなのです?」
「知りたければ、僕たちを帰せ」
そう来たか。しかし――
「ホンマのアホか、お前は。んなもん幾月が残しとる記録をちょいと調べりゃ、すぐ分かるわ」
再びジンが横槍を入れてきた。しかもこの言い分は正しい。『前回』ニュクスが訪れるまさにその日にタルタロスで待ち構えていた彼らは、滅びがいつ来るのかを自分で調べられる。だが彼は怯まない。
「ジン、タカヤのことを思うんなら、僕たちを生かしておいた方がいいぞ」
「あ? 何のこっちゃ」
「簡単すぎるからさ。何もせず、ただ待っているだけで滅びは来るんだ。誰と戦う必要もない。そんなものに、何の生の輝きがある?」
言いながら、彼は視線をジンからタカヤに戻した。
「お前は僕が殺してやる。その時こそ、お前は生きた実感を得られるさ」
自信に満ちた断言だった。滅びを共に迎えることを断った時とは対照的に、言葉と視線の両方でもってタカヤを鋭く突き刺している。それを見て、私は思い出したことがあった。12月2日にムーンライトブリッジで綾時さんと対峙した時だ。敵わない相手だと分かっていたが、それでもやらなければならないと思って、私は一人で死神に挑んだ。彼我の戦力差で言うならば、当時と今の状況は似ている。だがそれ以上の意味でも、彼からは当時の私と似た印象を受けた。
それは『責任』を取ろうとする、固い決意――
「ダアホ! お前ごときがタカヤに勝てると思っとんのか!」
ジンは目を剥いて怒鳴り、再び召喚器に手をかけた。積もり積もった様々な不満が、いよいよ爆発しそうな雰囲気だ。だがタカヤは片手を上げて、激昂するジンを制した。そして僅かに顎を持ち上げた。
「……いいでしょう。ここで貴方がたを殺すのは容易いですが、それではせっかくの祝祭に水を差します。貴方がたが自らの足でここへ来れるようになるまで、猶予を与えましょう」
鷹揚な言い方だった。滅びを共に迎えることを断られた時とは対照的に、タカヤは上から見下ろすように言ってくる。
「タカヤ! 甘すぎまっせ!」
「ジン、私たちは生き延びることが目的ではないのです」
激するジンをタカヤは静かに宥めた。彼は自分が生き延びることを目的として戦っているが、タカヤは違う。滅びに対する向き合い方が正反対となっているこの二人の違いは、実は全てここに端を発しているのではないか。そう思わせるほどに、二人は互いに迷いがない。
「ただし……期限はありますよ」
「来年の1月31日だ」
「分かりました。その日、私たちはここでお待ちしています。どうぞ、それまで力を磨きなさい」
力ある者がない者に告げるような言葉を黙って受け取り、彼は踵を返した。そして私と目を合わせて、小さく頷いた。ついて来い、という意味だろう。だがそれ以上の様々な気持ちが隠されているように、私には思えた。
彼はどうしてストレガを仲間に引き入れようとしていたのか。タカヤはどうして彼をストレガに引き入れようとしていたのか。二人の間には、どんな絆があるのか。私にはまだ分からない。ただ彼の瞳の中には、単なる敵や味方として立場を超えた万感の想いが込められている。それだけは分かった。
彼は特に急がないゆっくりした足取りで、奥にある脱出ポイントへと向かう。私は彼に従いながら、一度だけ後ろを振り返った。表情のないタカヤと苦虫を噛み潰したジンが見送っていたが、私は何も言わずに前に向き直った。彼は振り返ることもしなかった。
エントランスに戻ると、風花さんたちがそこにいた。どうやら議論している間に4日の影時間が過ぎてしまったようで、今日は5日であるらしい。やがて私たちを探しにタルタロスを登っていた、他の皆さんもエントランスに戻ってきた。一人も欠けることなく、皆さんの全員が無事だった。それを確認すると、時の狭間で闘技場の戦いを終えた後のように、安堵する気持ちが湧いてきた。