「えー、江古田先生は何やら用事があるとかで、今日は私が代わります」
修学旅行を明日に控えたこの日の午前。本来は古文の時間の開始と同時に、江戸川が二年F組の教室にやって来た。
「皆さんは明日から京都に行かれるのでしたね。せっかくですから、今日は京都にまつわる魔術の話をしましょう。青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女……」
京都は江古田の心の故郷であるらしい。教師陣の全般としては修学旅行に海外を推す人が多いようだが、江古田が毎回反対して京都にしているらしい。そんな古文教師であるので、そしてまたF組担任の鳥海はそうした日本の古い美点に頓着しないことと相まって、『前回』のこの時間は日本の素晴らしさを説く授業になっていた。
「京都は平安京と呼ばれていた昔から、長らく日本の魔術の中心地でした。京都はその成り立ちからして、魔術によって築かれた町と言っても過言ではありません」
それが『今回』はこれである。教室を見回してみれば、早速とばかりに机に突っ伏しだした生徒があちこちにいる。この学校の古文の授業は生徒からの評判が芳しくないが、総合学習も評判という点では似たり寄ったりである。だが古文と異なり、総合学習では居眠りをしても嫌味を言われたりしない。徹頭徹尾我が道を行く江戸川らしいことであるが、そんな教師であるから生徒も遠慮しない。
「皆さんは風水と言うものをご存知でしょうか。元々は中国で生まれた都市や建物に関する吉凶を判別する為の、陰陽五行説に基づく思想です。日本には飛鳥時代の頃に伝わり、日本の魔術体系である陰陽道の中で独自の発展を遂げてきました」
「日本や中国だけでなく東アジア全般に共通する思想ですが、天の四方の方角には、それぞれを司る霊的な瑞獣が挙げられています。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武です。簡単に言いますと、ドラゴンと虎と鳥、そして蛇の尾を持つ亀です。この四体を総称して四聖獣……もとい、四神と呼びます。四神が司るのは方位だけでなく、それぞれを象徴する色や季節があります。青龍は緑または青で春、白虎は白で秋、朱雀は赤で夏、玄武は黒で冬です。そして地形においては、各々が山川道澤を司っています」
(そう言えば四神は節制のペルソナにいたな)
江戸川の説明を聞きながら、湊はふとそんなことを思った。そして節制のコミュニティの担い手は『前回』も『今回』もベベで、修学旅行では生徒の誰よりも感動していた。奇妙な縁と言うか、符合を感じないでもない。
「この四神が司る地形と方位の一致を、四神相応と言います。具体的には、東に川、西に大きな道、南に湖、北に山です。そういう地形が町を建設するのに最も適しているとされているのです。京都の場合ですと、青龍が鴨川、白虎が山陰道、朱雀が巨椋池、玄武が船岡山となります。もっとも巨椋池は昭和期の干拓事業で埋め立てられてしまったので、京都の四神相応は崩れてしまいましたが……残念なことですね」
「なお、ついでに言いますと、四神は五行ではそれぞれ木、火、金、水に対応します。そして五行の土は方位では中央を表し、瑞獣では黄龍または麒麟が該当するのですが……まあ、取り敢えずそれは置いておきましょう」
(ん? 黄龍は法王だが……どうして四神と違うんだ? と言うか、そもそもペルソナのアルカナは誰が分類してるんだ? イゴールやエリザベスがやってるのか、それとも別の誰かなのか……いや、どうでもいいか)
思考が脱線してしまった。考えても答えの出ない問題であろうし、そもそも知ったところであまり意味がない。湊は内心の疑問を放擲し、授業に意識を戻した。
「さて、このように京都は風水の観点から見ると、大変よくできた町であると言えます。そんな土地柄なものですから、日本の魔術は平安京で大いに発展してきました。その中心に据えられたのが陰陽寮です。これはれっきとした国家の研究機関であり、魔術師の養成所です。ここで陰陽道を学んだ魔術師を、陰陽師と呼びます。陰陽寮は飛鳥時代に設置されてから明治の初めまで続きましたが、特に平安時代に多数の優れた陰陽師を輩出しました。例えば夢占いで知られる弓削是雄、陰陽道、天文道、暦道の全てを究めた賀茂忠行と保憲親子、その弟子で土御門家の祖である安倍晴明、官人ではありませんが晴明のライバルであった蘆屋道満……などなど、平安京は魔術師の宝庫だったわけです」
「大勢の陰陽師たちの中でも特筆すべきは、やはり安倍晴明でしょうか。近頃は小説や映画などにも登場していますから、皆さんも名前くらいは聞いたことがあるのではありませんか? 事の虚実は別としまして、彼には様々な伝説があります。例えば手を触れずに蛙を殺したり、式神と呼ばれる使い魔を家事に使ったり、他の魔術師と勝負したりとかです。特に有名なのは、母親が狐であるという伝説ですね。この狐の名は葛の葉と言い、後に悪魔召喚師を多数輩出……失礼、浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなっています。要は異種族結婚によって産まれた、常人とは違う異能に富んだ人物であるとされているわけです。まさに日本を代表する魔術師です。ちなみに邸宅のあった一条戻橋の近くには、晴明神社が現在もあります。無病息災のご利益があるそうですから、京都に行くなら参拝してみてはどうでしょうか」
せっかくのお薦めであるが、大半の生徒の耳には入っていない。旅行はどこを回ろうか計画する時が一番楽しいとよく言われるが、江戸川の推薦を計画に組み込む生徒はまずいない。そもそも話を聞いている生徒の数さえ少ない。総合学習の授業ではいつものことだが、教室の大半が眠りの国へと旅立っている。そして大抵の場合、こういうタイミングで質問が飛んでくる。
「……みんな、聞いてますかね? 三途の川を渡っちゃ駄目ですよ、ヒヒヒ。それじゃ、きちんと聞いていたか、少し質問してみますかねえ。間違うと百鬼夜行に出くわしますよ。臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前……」
江戸川は呪文を唱えながら右手の人差し指と中指を揃え、剣で敵を斬るように横に五回、縦に四回、格子状に虚空を切った。この所作にどんな意味があるのか、初めて見る湊には分からない。分からないなりにも教壇に立つ江戸川を見つめた。自分を当てに来るだろうと予測していたから。
「……誰がいいかな。はい、望月。汝に問う。今私が使った術は何ですか」
(あれ、僕じゃないのか。しかも術って……話してないだろ?)
湊は意外に感じた。普段の江戸川は、授業を聞いていない生徒を当てたりしない。まさか間違えた生徒が呪われないようにと配慮しているわけでもなかろうが、とにかく真面目に聞いている生徒を狙って質問してくる。だから湊はよく当てられる。と言うより、他の生徒が当てられるのを見たことはほとんどない。それが今日に限って綾時を当ててきた。しかも授業で未だ触れられておらず、かつ一般常識では絶対に解けない類の質問だ。しかし――
「九字護身法ですね」
綾時は迷いなく答えた。
「はい、正解。悪鬼悪霊は退散しましたー」
教室から感嘆の声が上がった。起きている生徒が少ない為にまばらではあるが、珍しい尊敬の念が綾時に向けられている。
「まだ時間がありますね。では陰陽道について、もう少し詳しく述べましょうか。最初は陰陽思想から入りましょう。まず何より誤解しないでもらいたいのが、陰と陽は事の善悪とは何の関係もないことです。陰陽は自然界における、二極一対の存在の分類なのです。例えば昼と夜、男と女、乾燥と湿気などです。これらは互いに相反しながらも、一方がなければもう一方も存在し得ないのです。従って陰は悪ではありませんし、陽も善ではありません。陰陽の二気は生成と消滅を繰り返しつつ、調和して初めて自然界は成立するのです。これに先ほども少し述べた五行と融合した陰陽五行思想が、陰陽道の根源にあります」
「五行とは木、火、土、金、水の五種類の元素で、万物はこれから成り立っています……と言うと、古代ギリシャに端を発する地水火風の四大元素とよく似ていますが、これには一つ注意が必要です。それは五行は互いに相手を生成し、また打ち消していく性質があることです。この関係を相生、相剋と言います。木は燃えて火を生み、火は灰、即ち土を生み、土は地中から金を生み、金は結露でもって水を生み、水は木を生みます。そして木は根でもって土を剋し、土は堤防となって水を剋し、水は火を剋し、火は溶かして金を剋し、金は斧やノコギリでもって木を剋します。この関係を図で表したものが、五芒星です」
江戸川は教壇上で振り返り、黒板にチョークで大きな円を描いた。そして円周に沿って木、火、土、金、水と書いた。
「この円を右に回るのが相生です。そして相剋を書き込んでいきますと……はい、この通り。星形の出来上がりです。安倍晴明は五芒星を五行の象徴として用いました。故にこれは晴明桔梗紋とも呼ばれます。五芒星は魔除けとして古代から世界各地で用いられてきた普遍的な象徴ですが、一筆書きで書ける点に五行の動感が感じられませんか?」
そう言って江戸川はチョークを置き、黒板から再び教室に向き直った。
「要するに、五行は元素であると同時に互いを創造し、また破壊する性質があるのです。そして相生と相剋はやはり善と悪ではありません。いずれも世界にとって欠かせない理法であり、この動き自体が自然なのです。つまり五行の『行』とは、文字通り流れ行くことなのです。これは時間そのものでもあるのです」
「例を挙げますと、季節がそうです。先ほどの四神相応の話でも触れましたが、木、火、金、水は各々春夏秋冬に対応します。土は四季のそれぞれの終わりに置かれ、季節を変化させる動力の役割を担っています。これを土用と言います。そしてまた、身近なところでは曜日もそうですね。五行はそれぞれ惑星と結び付けられますが、これに太陽と月、まさに陰陽を足して七曜となります。各々の星が日ごとの守護星となり、曜日となったわけです。もっとも……曜日は元々古代エジプトやメソポタミアの占星術で生まれたもので、それが唐代に中国に伝わった際、惑星との関連付けにおいて五行の名前を転用しただけである……という説もありますが」
「結論を言いますと、陰陽も五行も互いに関連し合って生成消滅する存在であるわけです。即ち『循環』です。この循環の概念こそが、陰陽道に留まらない東洋思想全般、更には世界の魔術そのものを理解する為の大きな鍵なのです。なのですが……残念ながら現代人には馴染みが薄い考え方ですね。と言いますのも、世界には時間概念に関して、大きく分けて二通りの思想があります。一つは今まで説明してきた循環的時間です。そしてもう一つが直線的時間です」
結論を述べた途端、脱線が始まった。
「現代の多くの人々は、時間とは過去から未来へと直線的かつ不可逆的に進むものだと考えています。この考え方は西洋、特にキリスト教と深い関係があります。つまり神による世界の創造が始まりであり、未来の果てに訪れる世界の救済が終わりとして置かれているわけです。この目的論的歴史観はキリスト教の教父時代、特にアウグスティヌスによって始められた考え方です。これは更に後の時代になると、救済などの終着点を想定せずに文明や社会体制の発展のみを見つめた進歩史観へと変質していくのですが……おっと、ここまで行くと魔術と関係がなくなって来ますね。話を戻しましょう」
「魔術の時間概念においては、循環が主流です。西洋でもキリスト教以前の古代宗教では、循環的時間概念が数多く見られます。そこで特徴的なのが、循環的時間の中にある神聖時間と通俗時間の分類です。神聖時間とは神や精霊など聖なる存在が現世に顕現する時間のことであり、通俗時間の間に存在します。聖なる存在の顕現のことをヒエロファニーと呼ぶのですが、これを社会的に表現したものが『祝祭』です。簡単に言えば、どこの社会でも年中行事として行われるお祭りのことなのですが、これは本来……」
この授業は元々京都にまつわる話だったはずだが、既にその面影はなくなっている。しかし江戸川は構わず更なる脱線を始めようとしたが、ちょうどその時に終了のチャイムが鳴った。
「ああ……惜しいですねえ。いよいよ核心に触れようというところだったのに。何だかこの授業は、こんなのが多い気がします」
残念そうな江戸川を余所に、教室はやっと終わったかと疲れた空気が蔓延した。眠りの国から帰って来た大勢の生徒たちの欠伸によって、教室の酸素が足りなくなる。そんな酸欠した雰囲気の中で、綾時が話しかけてきた。
「なかなか面白かったね」
「そうか?」
「うん」
湊は普段から総合学習の授業は真面目に聞いている。ペルソナ使いとして有用なことが学べるかもしれないと思っているし、純粋な興味もなくはない。だが今日の授業では、そうした印象はあまり受けなかった。
「しかしお前、先生の質問によく答えられたな」
「ん? 九字護身法のこと? あんなの常識じゃん」
「……そうなのか」
こうして接していると忘れそうになるが、綾時はシャドウだ。綾時自身が霊的な存在であると言っても間違いではないし、シャドウや影時間についても人間の誰より詳しい。だから魔術的なことにも詳しくても、特別な違和感はない。ないのだが、知識としてはいつ学んだのであろうか。謎である。