修学旅行から帰ってきて二日目の、日曜日の朝、湊は自室から出て二階の休憩スペースに向かった。するとそこに順平がいた。
「おはようっす」
「おはよう……」
普段通りな順平とは対照的に、湊は物凄く間延びした挨拶を返しながら、腰が抜けたような勢いでソファーに座り込んだ。ボスっと気合の入っていない音が立つ。
「何かお前、ずっと元気ねえな」
「当たり前だろう……」
順平が言う通り、湊は修学旅行から帰って以来ずっとこの調子である。三日前の出来事が頭から離れないのだ。後悔が沈殿した心は寝付きが非常に悪く、時間をかけてようやく潜り込んだ浅い眠りは、悪夢が満載されていた。
「お前の神経が羨ましいよ。僕は悪い夢で一杯だ」
「いや……悪い夢なら、俺だって……」
順平は心外そうな顔をした。だがその歯切れは妙に悪く、まごついた口から明確な言葉は出てこなかった。為に湊はすぐに順平から視線を逸らし、己の膝に沈み込むように項垂れた。
(何であんなことをしたんだろう……)
三日前の夜、『前回』を通じて初めて処刑をその身で受けた。それ自体はもちろん痛かったし苦しくもあったが、その恐怖を引きずっているのではない。『愚者』は死を恐れない。美鶴だけでなく、アイギスも一緒になって氷結の魔法を本気でぶつけてきたことを引きずっているのでもない。多分。
遅い時間に温泉に入ればどうなるかは、『前回』の経緯から分かっていた。それなのにあんな馬鹿なことをした、己の愚かしさが悔やまれてならないのだ。三日前の自分に蹴りの一つも入れたくなってくる。
(と言うか……嘘に決まってるよな)
今月の4日から9日までの間に、アイギスの体に変容が起きた。綾時はそう言っていたが、そんなはずがない。その間にあったことと言えば突然のワイルド覚醒だが、ワイルドは飽くまで精神的な能力だ。だからそれが原因で、機械の体が人間のそれに変わるなんてことがあるはずがない。万が一本当に変容していたとしても、それならこの二週間の間に彼女自身が気付くはずだ。そして気付いたら、彼女は必ず自分にそれを言ってくる。もしくは『今回』の7月23日のように夜這いに来ていただろう。その点だけでも、綾時が嘘を吐いていたことくらい分かりそうなものだ。
ちなみに一昨日は寮に戻ると、荒垣と天田が出迎えてくれた。温泉の出来事は処刑された側は無論のこと、した側も何も言わなかった。しかし女性陣は馬鹿どもを徹底的に無視し、馬鹿どもは視線を泳がせ続けるなど、何かあったことが皆の態度にはありありと表れていた。だから荒垣と天田は言われなくても事情を察したらしく、揃って呆れていた。なお、真田は泣きそうな顔をしながら『どうして一緒に来てくれなかったんだ』とか何とか、荒垣に向けて呟いていた。
(今日は部屋に籠るかな……)
視線を階段へと向けてみた。この場所から一階のラウンジの様子は見えないし、余程の大声でも立てない限り階下の物音などは聞こえない。だが休日のこの時間帯は、寮生の皆は多くがラウンジにいるのが常だ。今から出かけようと思ったら、そこにいるであろう女性陣と顔を合わせてしまう。それはとてつもなく嫌なことのように感じられた。
そんな情けない限りのことを考えていると、視線の先の階段から寮生が一人やって来た。ただし意識を向けていた一階からではなく、上の階から。
「ここにいたか。ちょっと来てくれないか。その……話があってな」
来たのは美鶴だった。湊はその姿を見た途端、処刑の第二弾が来るのかと一瞬心配してしまった。しかしよくよく観察してみると、様子がどこかおかしい。何かを内心に抱え込んでいる時に特有の、後ろめたさを感じさせる暗い表情を向けてくる。普段とは違う妙な歯切れの悪さも、それを証明している。
「お……俺もっすか?」
順平の声は少しばかり震えていた。三日前の切り替えはできていても、恐怖の女帝の姿を見てはさすがに思い出すものがあるのかもしれない。
「いや、取り敢えず彼だけでいい」
「そ、そっすか。じゃあ俺はちょっと、出かけますんで……」
そう言って順平はソファーから立ち上がり、階段をそそくさと下りて行った。美鶴はそれを無言で、だが時間をかけて見送った。
湊は四階の作戦室に連れて来られた。他に人はおらず、二人だけだ。廊下に通じる大きな扉が閉められるや、美鶴はソファーに座りもしないまま、いきなり話し始めた。
「先に事実から伝えておこう。ストレガの一人だった、チドリという子を覚えているだろう」
意外な、だが辛い名前を聞いて、湊は眉を僅かに動かした。忘れるはずがない。『今回』のチドリは9月10日にペルソナを暴走させて死んだのだ。しかもその時は、制御剤をタカヤから貰って持っていた。チドリを助けることはできたはずなのに、死なせてしまった。
あれは『前回』以上の後悔となった『今回』最大の失敗だ。あの一件だけの為に、時間を再び戻してしまうのではとの不安さえある。それが恐ろしくて近頃は意図的に考えることを避けていたが、それでも忘れることはできない。
「落ち着いて聞いてほしいんだが……彼女が今日にも目を覚ますかもしれない」
「は……?」
人から言われるまでもなく、『愚者』は常に落ち着いている。いや、常にとは言い切れないが、大抵の場合は冷静さを保てる。少なくとも外向きには。だが今の美鶴の言葉は、大抵の範囲には全く収まっていない。半開きになった口からは調子の外れた声が漏れ、目を見開いて一瞬自失してしまった。
意味が分からなかった。死人が目を覚ますとは、一体どういうことか。ペルソナではない本物の救世主が現れて、チドリの墓前で『起きよ』とでも命令してくれたのだろうか。それとも――
「まさか……初めから死んでなかったんですか?」
『前回』のチドリはタルタロスのエントランス前で、特別課外活動部の全員の目の前で死んだ。だが『今回』は病院で死んだと聞いているだけで、湊は遺体を見ていない。実は死んだのではなく、植物状態になっていただけだったとか。
「いや、そうではない。彼女は確かに9月に命を落とした。だが、実はな……」
話によれば、死後数日を経てよりチドリの遺体に象徴化が起きていたらしい。象徴化は生きた人間や動物にしか起こらない現象の為、死体がそうなるなど本来はあり得ない。そうして生死のいずれとも判別のつかない状態が、何十日も続いていたらしい。
「なぜそんなことに……」
「分からない。彼女のかつてのペルソナ能力と関係があるかもしれないが、推測の域を出ない。君を呼んだのは、伊織にどう伝えるべきか、意見を聞きたくてな。と言うのも、彼女は恐らく……」
言いかけた途中で、小さな電子音が鳴った。美鶴は服のポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てた。そして何事か聞き、それに返事をした。それに要した時間はごく短く、一分とかけずに美鶴は通話を切った。
「たった今、目を覚ましたそうだ。信じ難いが、これであのチドリという少女は一度死亡を鑑定された状態から蘇ったことに……」
その時、予告なく作戦室の扉が開いた。扉板が壁に叩きつけられたかと思うほどの、物凄い勢いで開けられた。弾かれたように振り返ると、そこにいたのは――
「蘇った……?」
綾時だった。いつもの軽薄な笑顔はそこになく、驚愕に顔を強張らせている。だが一瞬の後、踵を返した。
「順平君を探してくるよ」
「あ、望月! おい……!」
美鶴は引き留めようとしたが、綾時は構わず駆け出した。ペルソナだけでなく、実は身体能力も並外れている綾時は足も速い。湊と美鶴が作戦室を出た時には、もうその姿は見えなくなっていた。
「行ってしまったな……」
「僕たちも行きましょう。辰巳記念病院ですか?」
「ああ」
取り敢えず病院へ向かうことにした。一階のラウンジまで下りると、ゆかりと風花、そしてアイギスがいた。彼女たちも拾って、五人で一緒に病院へ向かった。
程なくして、湊たちは辰巳記念病院までやって来た。そして受付で聞いたある病室へと向かった。入ってみると、順平と綾時は既にそこにいた。
「やあ」
綾時は湊たちの訪れを認めるや、振り返ってきた。やはりいつもの軽薄な笑顔ではなく、珍しい真剣な表情でいた。綾時は感覚器官も人間の領域のものではない為、作戦室での湊と美鶴の会話も、外から聞こえていたのだろう。そして逃げるように外出したはずの順平を、驚異の視覚や聴覚を使用して即座に探し出して、ここまで連れて来ていた。
ちなみに『今回』のストレガについて、綾時は11月3日以前は湊の目を通じて見ており、4日と5日の出来事は湊から詳細を聞いているので既に十分理解している。そして特別課外活動部に加入後は、皆から影時間やタルタロスについての話と併せて本来は必要のない説明を受けている。だから綾時が順平とチドリの関係を知っていることは、皆の間でも違和感なく受け止められている。
「ああ……」
湊は綾時には一言だけ返し、病室に置かれたベッドを改めて見た。そこには入院服を着た一人の少女が座っている。以前と比べて少し痩せたように見えるが、顔色はよい。そんな少女を順平はただじっと見つめていて、新たな訪問者たちを振り返りはしない。
ここにいるのは、確かにチドリだ。生きて動いている。
「お待ちしておりました」
病室にいた医師が美鶴に挨拶をした上で、説明を始めた。カルテと思しき書類を片手に語られた話によれば、以前は乱れてきっていた内分泌や臓器の状態も、すっかり改善されているとのことだ。体力こそ弱っているものの、余命が残り二年程度ということもない。
「そうらしいよ。ただね……チドリちゃんは記憶を失ってる」
医師の説明を綾時が引き取った。どうやら湊たちが来る前から、順平と共に説明を受けていたようだ。
「記憶を?」
「うん。順平君のことも彼女は覚えてない。ペルソナと一緒に失くしちゃったみたいだ。その代わり、覚醒する前の記憶は取り戻している。本名は吉野千鳥って言うらしいよ」
「なるほど……そうか。象徴化したってのは、そういうことか」
影時間に象徴化するのは、適性を持たない人間だ。チドリは死によって適性を失い、記憶までも失った。自身の存在が全てのペルソナ使いの記憶の急所となっている綾時の口から言われると、確かな実感を伴って聞こえてくる。
「しかし……どうして?」
なぜ蘇ったのか。死人が生き返った、その原因は何であるのか。医師に聞くべきところかもしれないが、湊は敢えて綾時に尋ねた。
「花、だってさ」
話によると、順平は9月7日から10日までの間、毎日花を持って行ってはチドリに手渡し、チドリはそれを手ずから花瓶に挿していたらしい。その花々は不思議といつまでも枯れずにいた為、医師が遺体の胸元に手向けたらしい。そして遺体の象徴化は、その晩から始まったのだと。
「ああ、校庭で摘んだ花とかを持っていってたって……」
『今回』の9月16日、チドリのスケッチブックを確認した際、順平はそんなことを言っていた。だがそれがなぜ、蘇生の原因になるのか。
「どうもね……チドリちゃんは自傷癖があったらしいんだけど、不思議とすぐ治っちゃってたらしいんだ。順平君が持ってきた花に、その力が宿ったんだろうね。今はその力も失くしちゃったみたいだから、何に由来する力なのかはもう分からないけど」
「つまり……花に移った命が戻ってきた?」
思い返してみれば、チドリは『前回』も似たようなことをしていた。タカヤに撃たれて致命傷を負った順平を、チドリは己の命を与えて助けた。二人のペルソナまでもが融合してトリスメギストスの覚醒に至ったわけだから、まさに『与えた』わけだ。その点から考えても、チドリにそうした特殊能力があったことは間違いないのだろう。そして『今回』は、それがチドリ自身に働いたわけだ。
「うん……先生もそう言ってるね。原理から言うと、悪魔のアルカナのペルソナとかが得意な、吸血系の術の逆流だね。でもだからって、完全死の状態から二ヶ月も経って蘇生するなんて聞いたこともない。だけど……彼女の命は本物だ。僕の目から見ても、間違いなく彼女は生きている」
綾時は眉間に皺を寄せた、難しそうな顔をしている。こんな表情を見るのは『前回』を通じても初めてだ。この事態を嬉しく思っていないわけではなかろうが、ただ無邪気に喜ぶだけではいられないようだ。
「長いトンネルの出口で……優しくて暖かい、あの人に出会う夢……。はっきり思い出せないけど、あの人に喜んでほしくて、私……」
遠くへと囁きかけるような言葉が不意に耳に届き、湊と綾時は互いから視線を外してベッドの側を見た。『愚者』と死神が各々の視点で話している間、この病室の本来の主役の二人の話は少々進んでいた模様である。脇役の二人の視線の先では、チドリは満面の笑顔で宙に向けて言葉を放っており、順平は口を半開きにしながらそれを聞いていた。
(中学生のようにも見えるな)
チドリの実年齢は分からない。だが今の表情は顔立ちそのものよりも、幼い印象を与えてくる。覚醒後の記憶を失ったことで、精神的にも数年分の退行を起こしたのかもしれない。
「私はいつか絶対、あの人を探し出すの。こんな所で、寝込んでる場合じゃないの」
その結果がこれだ。ストレガの中でも最も破滅的な気配を纏っていた以前とは、全く異なっている。眠りと死から覚めた本当のチドリは、目を開けても夢を見ている少女だった。ただ『あの人』が誰であるのか、それはチドリを除くこの場の全員が一聴して分かった。
「チドリ……うう……」
順平は目を潤ませた。複雑そうな綾時とは対照的に、この事態がただ嬉しいのみの順平は、涙腺に限界が来たようである。
「ちょっ……どうして貴方が泣いてるのよ!?」
「しょうがねえだろ……俺、俺、今……! 人生で一番嬉しんだからさあ……!」
順平は涙腺だけでなく、既に全身で限界が来ている。床に膝をついて、ベッドに取りすがって大泣きした。チドリは突然の大騒ぎに困惑し、どうしたらよいのかと医師に目で訴える。しかし医師はただ頷くだけだ。
「互いの想いが結んだ奇跡……いや、勝利だな」
「そうですね」
美鶴は満足そうな微笑みで二人を見つめている。当初不安視していたことは杞憂だったと理解できたようだ。たとえ記憶がなくても、この二人は絆を育んで行ける。その点は湊も同感だった。しかし――
(今回の二人は出会ってから別れるまで、一ヶ月もなかったはずだ。それでチドリがあんなことを言うのは……)
湊は若干の不自然さを感じた。もっともこの種のことは長さの問題ではない、と言ってしまえばそれまでだ。だがそれ以上に、『前回』の出来事がチドリの無意識に作用しているのではないか。湊にはそう思えた。魔術師のコミュニティが極まった時にも思ったことだが、皆は『前回』の記憶を失っているが、実は心の深層には何かが残っているのではないかと。そう疑えた。だが疑念を検討する作業は、綾時の呟きによって中断された。
「信じられないね……まさかこんなことが起きるなんて」
「お前にとってもか?」
「僕だから、なおさら信じられないよ。だって死人が生き返ったんだよ? どこの救世主の仕業だよってところだよ……」
どうやら作戦室で美鶴から話を聞いた時と同じ連想を、綾時もしていたようだ。さすがに自分自身と不可分の存在だ。そして世界に死を宣告する者として、死者の蘇生がどれだけあり得ないことであるのか、人間の誰よりも実感しているようだ。
「確かに。でもまあ、良かった……」
綾時の感慨はともかくとして、この結果は本当に良かったと思う。本人と順平の為にはもちろんだが、自分自身の為にも良かった。チドリの死は、『三回目』を発生させる原因になってしまうかもしれないとまで思っていたのだから。
(しかし……)
大きな後悔が払拭されたことは良かった。だが湊の思考は、単に安堵するだけには留まらなかった。どうすれば卒業式の日を越えて生き続けられるか。未だ解答の見つかっていない『今回』最大の難問に対して、何かのヒントが隠されてはいないかと。もちろん今のチドリは能力を失ってしまっている為、チドリに生き返らせてもらうことはできない。だが死人が蘇ったこの事実は、何かを暗示してはいないだろうかと。
病室の中では順平が大泣きし、外の廊下ではゆかりと風花がすすり泣いている。三つの泣き声を聞きながら、湊は意識して冷静さを保ちながら考えた。
泣き声は三つである。この場にいる中で、泣いてもおかしくなさそうな人物はもう一人いるのだが、泣いていない。アイギスだ。彼女は病室に来てからずっと一言も喋らず、ただ呆然としていた。その内心に何が渦巻いているのか、自分一人で思考を続ける湊は気付かなかった。
午後になって皆が寮に戻ると、病院に来なかった寮生たちに今日の出来事が周知された。突如として持ち上がった奇跡に皆は一様に驚き、そして順平を祝福した。そうした俄かなお祝いムードに寮が包まれ、この日はタルタロスにも行くことなく、ただ皆で喜び合った。なおチドリの身柄については、桐条グループが責任を持って保護することを美鶴は約束した。
そうして平和裏のうちに場が解散となり、影時間が訪れるまで残り数分程度の深夜。既に床に就いていた湊の携帯電話が鳴った。番号は非通知だ。
(こんな時間に誰だ……エリザベスか?)
或いは桐条武治か。いずれにせよ、この時間に電話をしてくるとは普通ではない。眠気をこらえて応対すると、聞き覚えのある、だが意外すぎる相手からだった。
『タカヤです』
(!?)
『夜分に済みません。ですが、どうしてもお話したいことがあったので』
相変わらずの慇懃無礼な喋り方だ。電話口でもこうなのだから、もはや筋金入りだ。
「何の用だ」
『今日、チドリが蘇ったそうですね?』
「……よく知ってるな」
『今の世の中、知りたいと思って調べられないことなどないのですよ』
辰巳記念病院のコンピューターをハッキングでもしたか。確かにそっち方面に強いジンがいれば調べもつくだろうが、情報の入手が早すぎる。そうすると――
(こいつら、遺体が象徴化したことは前から知ってたな?)
だがいずれにせよ、ストレガにとっても今日の出来事は興味深いものではあろう。『前回』は昨日タカヤとジンは病院を襲撃してチドリを連れ出していた。そしてその翌日、つまり今日にタルタロスのエントランス前でチドリは死んだのだ。『前回』のチドリはそうして死んだままだったが、『今回』は生き返ってしまった。しかも今日この日に。この符合は偶然か必然か、それとも運命の皮肉であるのか。
「念の為に言っておくが、あいつはもうペルソナ使いじゃない。お前たちのことは覚えてもいないぞ」
『そのようですね。ですから私はもうチドリに……いえ、吉野さんに興味はありません。ですが、どうしてそんなことになったのか……医師の見立ては存じていますがね。是非貴方のご意見をお聞きしたくて、電話した次第です』
チドリが生き返った原因については、専門家でない湊には医師と綾時が言っていた以上のことは分からない。だがタカヤが聞きたいのは、生物学の見地からの考察などではないだろうし、そもそも生き返った原因でもなかろう。極端に観念的なタカヤのことだから、死人が生き返ることそのものにどんな意味があるのか。それを聞いているのだろう。
「意味のあることだと思っている」
『どんな意味があるのでしょうね。どうせ滅びが来れば、彼女は再び死ぬ他にないと言うのに』
チドリの復活には、どんな意味があるのか――
昼間から考えてはいたが、結論は出ていない。無意味であるとは思っていないが、人に説明できるほどには考えがまとまっていない。ひょっとすると、いくら考えても分からないものかもしれない。だから敢えて話を逸らすことにした。
「滅びは本当に来るか?」
『それを一番ご存知なのは、貴方のはずです』
その通りである。滅びを呼んだのは自分だ。
『終末の日まで、もう二ヶ月と少ししかありません。力を失った状態でそれだけの時間を無為に過ごすことに、何の意味があるのでしょう。ああ、それともまさか……伊織さんの為なのですかねえ? 既に底が見えている、一人の無力な男性の為に吉野さんは生き返ったのですか? そうだとしたら、いささか理不尽が過ぎませんかね。一体彼女は、何の為に生き返ったのでしょうね?』
順平の底が見えているのは事実である。生来のペルソナであるヘルメスは、既に成長限界まで達している。そして『今回』の順平はチドリの死に際してトリスメギストスに目覚めることができなかったが、蘇生に際しても目覚めていない。
「意味がなければ、生き返ることが悪いのか?」
『悪い……と私は考えます。死は一度迎えれば十分ではありませんか。二度も死ぬ宿命を与えられるなど、これ以上の理不尽がありますか?』
これは厳しい指摘だ。既に一度死を経験した身からすれば、強烈な実感を伴って響いてくる。そして既に一度死んでいるのは、実はタカヤも同じだ。最初の死の記憶はもちろんないはずだが、次の死はタカヤにとって二度目となる。そしてチドリにとっては三度目だ。だがそれをここで話すことはできない。そこでもう一度話を逸らすことにした。
「タカヤ、お前は本気か?」
『はい?』
「この世が終わればいい……本気でそう思っているか? 何をしてでも祝祭を見たいと思っているのか? 終わろうと終わるまいと、どうでもいい……本当はそう思っているんじゃないのか?」
『……』
「お前に必要なのは……」
『有里さん』
核心に触れようとしたが、遮られてしまった。電話での議論は顔が見えない分、遮ったり逸らしたりするのが容易である。
『人は死ぬものです。永遠の存在などあり得ません。ですから私は、自分の命の長さを問題にはしません。ただ終わりを迎える時には、その形にこだわりたいのです』
人は死ぬもの。それは真理だ。今日の出来事はそれに一石を投じるものかもしれないが、それに対する考えがまとまっていない以上、ここで言っても話がこじれるだけだ。だからこの点は敢えて流した。
「そのこだわりの為に、全世界を巻き添えにする気か?」
『世界の命の長さも、私は問題にしません。個人の命に終わりがあるのと同様に、人類全体もいつかは終わりが来て然るべきではありませんか?』
「……」
『それに私が世界を巻き添えにするわけではありません。むしろ世界の方こそが、終わりを望んでいるのです。私も貴方も、その流れに乗ったに過ぎませんよ。滅びは人類の総意……運命なのですから』
「違う」
『……』
「……」
滅びは人類の総意か、誰か一人が呼んだのか。『前回』と『今回』のタルタロスで話した時もそうだったが、この点においてタカヤと自分は完全に平行線だと湊は改めて感じた。だがこれは自分から折れることはできない。滅びの責任が己にあるとは、一つの信念だ。神話の双子が何と言おうと、これは譲れない。
『まあ……貴方がそう思いたいのであれば、止めはしません。約束さえ果たして頂ければ』
そこで通話は切れた。無機質な電子音を発し始めた携帯電話を耳から外し、湊は項垂れた。
(全く……ロマンティストめ)
生まれついての悪人などというものは、めったにいるものではない。だからタカヤも違う。タカヤの悪は、一種のロマンティシズムに過ぎないものだ。偽善を憎むことは純粋性への愛の裏返しであり、死を肯定するのは生の賛美の裏返しだ。これらはいずれもロマンティシズムの典型であり、世間的にも歴史的にもそれほど珍しくない。
(あいつに必要なのは、同じレベルで物事を考えられる、対等な議論の相手だけなんだろうがな……)
タカヤが求めているものは、簡単に言えば充実感だ。そしてそれは、命を懸けた実戦のみでしか得られない類のものではない。趣味や仕事に打ち込むことでも得られるし、一人で思索に耽っても、人と議論を戦わせても得られるものだ。たとえどうしても力で戦いたいのだとしても、滅びなど必要ない。人間がいる限りシャドウが絶滅することはあり得ないのだから、ニュクスの問題を解決した後でも戦うことはできる。災いなど常にあるものだ。タカヤはそれを知っている。
シャドウはある真理を体現する存在であると、タカヤは8月に言っていた。真理と向き合うことそのものが、タカヤにとって最も重要なのだ。つまりタカヤは学者のロマンティストであり、言うなればファウストのような男なのだ。
その意味で、世界の滅亡などタカヤにとって本当はどうでもいいことのはずなのだ。ただタカヤは事実として余命が少ないことと、事実として滅びが間もなく訪れることを知っている為に、ただのロマンティストより強固な信念になっている。だが事実によって裏付けられているということは、純粋な思索のみで築き上げた理論ではないことを意味している。それは即ち、タカヤの思想は不純なものであるということだ。もしも事実がなければ、例えば湊がニュクスの来訪を未然に阻止する道を選べば、それで構わないと必ず考えたはずである。つまりタカヤは自身の思想を、実は信じていない――
湊はそう思っている。本物のカリスマや天才は、本物の悪人と同様にめったにいない。その点において、タカヤは自分自身に対する嘘吐きだ。そして世間に対しては、より徹底した大嘘吐きだ。例えば『前回』の1月にカルトを立ち上げて世間を煽ったことなど、まるで嘘で塗り固めたコミュニティのようではないか。
(あいつの本性は悪人どころか、実はかなりのお人好しのはずだ……)
『今回』の今月4日と5日のタカヤの言動を思い返せば、それがよく分かる。綾時がいなかったあの時は、ストレガと特別課外活動部は圧倒的な戦力差があったのだから、やろうと思えば容易くこちらを皆殺しにできたはずである。それなのに、そうしなかった。それは要するに、タカヤなりに自分を気遣っていたから――
「ふう……」
家具をほとんど置いていない殺風景な部屋の片隅を、携帯電話の画面の小さな光だけが人工的な鮮やかさで照らしている。その中で、タカヤはため息を一つ吐き出した。部屋の反対側の隅では、ジンがそれを見守っている。
(何なのでしょうね、これは)
チドリの遺体が象徴化したとの情報は、9月の下旬ごろから入手していた。だからチドリに関して何かが起きる可能性は一応考えていたが、まさか蘇生するとは思わなかった。自分たちはこの世の誰よりも死の身近にあった。だからチドリが死に抱かれた時も、来るべきものが来ただけだと思っていた。それなのにこんなことになるとは。今日の昼間にジンから話を聞いた時は、何の冗談かと声に出して笑ってしまったくらいだ。
しかし蘇ったのは事実だ。そして蘇った原因は、治癒に関するチドリの能力だ。だが事の原因などはどうでもいい。問題なのは、誰もが避けられない絶対の宿命である死が歪められた、その意味だ。死神が出現して滅びはもはや確定となった以上、蘇ったところで仮初にしかならないのに。しかもペルソナを失った吉野千鳥は、ただの無力な人間に過ぎない。たった一人の弱者の救済などの為に運命が動いて、この結果が生まれたとはどうしても思えない。今日の出来事は何かを暗示しているような気がしてならない。
(祝祭の前の、ほんの些細な気紛れだと言ってしまえば、それまでですが……)
人は死ぬものだ。それは真理だ。いや、真理以前の自明の理だ。その絶対性が揺らぐとは、一体どういうことなのか。この事実は、世界と滅びの関係をも転倒させてしまうのではないか。あり得ないと思いつつも、疑問を払拭することはできなかった。運命はどこへ向かっているのか、今になって悩み始めてしまった。
悩む余りに彼の意見を聞いてみたくなり、電話をかけた。だが話はかなり早い段階で脇道に逸らされた。してみると、どうやら彼もこの出来事の意味を理解できていないのだろう。しかし全く無意味であるとは考えていないことは分かった。
(滅びの後に、彼や私も蘇ってしまうのでしょうか? いえ、そんなはずは……)
彼は滅びの罪は己にあると考えている。それは死神を復活させたという意味においては正しい。そしてその上で滅びに抗おうとしている。言うなれば、彼の戦いは一種の自作自演の芝居に過ぎない。だが芝居であること自体は一向に構わない。全世界を巻き込んだ芝居とは、何とも面白いものだから。もし彼が己を善と僭称するなら許し難いが、彼はそんなことを欠片も思ってはいない。彼は彼の駒たちと違って偽善者ではない。なぜなら彼は死を恐れていないのだから。
もっとも当初は滅びの祝祭を共に迎えたいと思っていたが、それは断られた。だがそれも構わない。芝居の最後の一幕で彼と自分の戦いが演じられるなら、それもまた面白いから。しかしチドリの蘇生は、それに一石を投じるものであるのかもしれない。命を懸けるからこそ面白いのに、復活が許されているなら意味がなくなってしまう。
光の消えた携帯電話の画面を見つめて思う。ある程度の時間を置いてから、改めて彼に連絡してみるべきか。そう思ったが――
「もう、ええやないですか」
巡り続ける思考を遮る声があった。振り返ってみれば、ジンは部屋の壁に背を預けて立っている。6月に彼と初めて会って以来ずっとそうだったが、ジンは彼を快く思っていない。
「あいつは1月にやり合う予定の、ただの敵。そんで十分やないすか」
「……」
ジンが自分に異見するのは珍しい。例えば滅びについて、命について。自分はその類の話をジンとしたことは少ない。それはジンの頭脳は実際的な方面に向いているということもあるが、それ以上にジンは自分に従うことに己の意味を見出しているからだ。だからジンは自分には決して逆らわない。
「あんたには、わしがとことん付き合いまっせ」
逆らうことがあるとすれば、彼に関してだけだ。
「貴方には苦労のかけ通しですね……」
ジンにしてみれば、彼は自分たちの絆に割り込んでくる異分子なのだろう。自分から見ればそんなことはないが、敢えて反論はせずにおいた。ジンの言う通り、いずれ彼と戦うことは決まっている。たとえ運命がどう転ぼうと、そこだけは自分も動かすつもりはない。そしてまた、ジンと彼を秤にかけるつもりもない。そう思って、携帯電話の電源を切った。