今日は4月29日、昭和の日である。学校は休みの為、この日の湊は朝から自室のノートパソコンに向かった。昨晩に順平から貰ったネットゲームをやる為である。正確には、隠者のコミュニティの担い手であるY子と会う為である。
(しかしN島とY子って、考えてみれば微妙なネタだよな)
『前回』のかなり後になってから知ったことだが、この名前には由来があるようなのだ。日本を創世した原初の神の二柱である。日本の国土のみならず、天地の間にある万物をも生み出した、偉大な神の夫婦のことだ。ちなみに夫の方は、亡くした妻を求めて黄泉の国まで下って行ったが果たせなかったという、オルフェウスと似た神話の主人公でもある。
日本とギリシャ。地理的にかけ離れていながら物語として似ている為、比較神話学の対象としてよく引き合いに出されている。まさに人間の無意識の普遍性を暗示しており、非常に興味深い。ではなくて――
(昔のゲームの主人公とヒロインか)
輪廻転生をテーマにしたとある小説が原作の、2コンにマイクがついていた時代のものである。ゲームからキャラクターの名前を拝借するのは、よくあることだ。しかし初対面の相手に名付けるのに、N島とY子は相応しいものなのかと湊は疑問に思う。神の夫婦とその生まれ変わりとは。『前回』の異性とのコミュニティの結果を思うと、不穏な気配がしないでもない。何しろN島はY子に求婚したこともあるのだし。もちろん冗談だが。
(でもまあ、大丈夫だろう)
Y子とは現実の世界での付き合いはない。いや、正しくは現実でも顔は合わせているのだが、隠者のコミュニティが実生活に与える影響は非常に少ない。『前回』も大きな問題はなかったし、『今回』も大丈夫だろう。そう思って、ゲームにアクセスした。
だがアクセスした途端、パソコンの動きが妙なことになった。立ち上がった画面は真っ黒で、小さな白い文字の羅列がいくつも書き出され始めた。しかも画面は猛烈な勢いでスクロールし、次々と文字が流れては消えていった。目を凝らせば、『すぐにけせ』と書かれているように見えた。
『デビルバスターズ・オンラインはサービスを終了いたしました』
人に読ませまいとするかのような素早い文字が全て流れ去った後で、こんなメッセージが立ち上がった。無機質に、一方的に通告された。
「へ……?」
この事態は全く予想し得ないことではなかったはずである。以前からこのゲームは人気がなく、『前回』プレイした際にもY子以外のプレイヤーは誰も見かけなかったほどだ。だからいつサービスが停止されても、特別不思議はない。ないのだが――
(どうしろって言うんだ!)
声にこそ出さなかったが、思わずキーボードを掌で叩いてしまった。近頃、こんなのばかりである。この一年間で各種のコミュニティをどう進めて行くか、湊は『今回』が始まって以来かなり細かくスケジュールを立てていたのである。それなのに事態の主導権をまるで握れず、計画を狂わせる出来事が何度も起きている。自分を嘲笑うかのように。こんなことが続くと、時には苛立ちを抑えきれなくなることもある。
(現実のY子とコミュを築けって言うのか? しかし……)
それは非常に難しいだろう。Y子は現実の存在ではなく、心理学的な意味におけるペルソナそのものだ。だから現実でN島のように振る舞っても、絶対に相手にされない。こうなると、隠者のコミュニティの行方はどうなるのかさっぱり分からない。担い手が誰になるのかも含めて。
(隠者……隠者か。誰かそれっぽい人はいなかったか……?)
湊はノートパソコンを閉じて考え出した。隠者のペルソナの特性とか、『前回』の総合学習の授業で聞いたタロットカードの解釈などと照らし合わせながら。
「委員会?」
5月8日の昼休みの時間、担任のY子、もとい鳥海いさ子が教室に予告なく現れた。そして湊の席のところまでやって来て、意外なことを言い出した。校内にいくつかある委員会に入れとのことだった。
「そ、義務だから」
最初は欠員が出たとか何とか言っていたが、話の途中で義務にすり替わった。もちろんそんな義務があったとは、『前回』は聞いたこともない。
「もう生徒会に入ってるんですけど」
生徒会には先月の27日、『前回』と同様に美鶴に頼まれて加入した。ちなみに生徒会の面々は『前回』と同じで、会長の美鶴の下で小田桐が風紀委員を、千尋が会計をしていた。そして小田桐との間に、皇帝のコミュニティを無事築くことができた。魔術師や戦車のように訳の分からない状況にはならず、ちょっと安心したものだった。
そんな湊の反論に対して、鳥海は眉を顰めた。
「いいのそれは。っていうか貴方、生徒会に全然出てないって聞いてるわよ?」
「……」
不覚にも一瞬言葉に詰まった。何事につけ面倒くさがりで、投げ遣りな鳥海にしてはよく調べている。その通りなのである。
湊は皇帝のコミュニティを築いた初日以降は、生徒会に一度も出ていない。理由は剣道部の活動日が『前回』と違って、生徒会と完全にかぶってしまったことだ。明王杯に出場して早瀬と会う為に、他の部員を鍛えようとこれまでずっと部活を優先してきた。本格的に生徒会に参加するのは、二学期以降にするつもりだったのだ。
ちなみに一学期はほとんど参加できないことは、美鶴の許可を得ている。そもそも事情に通じた人間を生徒会に欲しくて湊を推薦した美鶴は、不本意そうな顔をしていたが。生徒会は湊を常時拘束するものではなく、都合がつく時だけで構わないとの美鶴本人の発言を盾にすることで承知させた。
思考が脱線した。それはそれとして、生徒会も委員会の一種のようなものだから、湊は既に義務とやらを果たしているはずである。第一、そうした類の活動を全くしていない生徒も大勢いるのだから、彼らに振れば良い話であろう。例えば順平とか。そう言って断ろうとしたが――
「はい、じゃあ入ってね。今なら選ばせてあげる。保健委員と図書委員、どっちがいい?」
選択肢を聞いて、頭が急激に回転し始めた。数秒間考えた上で――
「保健委員で」
男が保健委員というのも何か間違っている気がするが、保健室の主をもっと間違っている人物が務めているのだから、気にするところではなかろう。そもそも選ばせているのは鳥海だ。湊はそう自分自身に言い訳をして、若干の不自然さを無視した。
「よろしい。それじゃあ今日から早速だから。放課後、保健室に行ってちょうだい」
そう言って、鳥海は満足そうな笑顔になった。一仕事終えたという感じである。そして目に見えて軽やかな足取りでもって、教室から去って行った。
「適当だよな、あの先生」
「ご愁傷様……」
そんな声と共に、教室にいた一部の生徒から同情の視線を送られてきた。仕事を押し付けられたわけだから生徒の反応は当然だが、湊はむしろ幸運に感じていた。ここ数日悩まされていた、問題の解答を与えられた気がしたのだ。
湊が保健委員を選んだ理由は三つある。友近に言わせるとサボり撲滅作戦の江戸川が主である為、保健室を訪れる生徒は限りなく少ない。サボり目的の健康体は皆無。本当に怪我や病気であっても、勇気が試される怪しげな薬を出される為に敬遠する者が大半。よって保健委員は暇だろうと推測されたのが、最初の理由である。
二つ目の理由は、最初と矛盾するようだが江戸川と話す機会を増やしたかったからだ。駄目教師ばかりのこの学校の中にあって、ある意味最も駄目な教師だが、別のある意味では最も優秀な教師だ。江戸川の魔術に関する知識は、並大抵のものではない。そしてペルソナ使いの戦いとは、まさに魔術師の戦いだ。
だから『前回』は総合学習の授業を真面目に聞いていたし、夏休みの補習でもそれを選択して、突っ込みどころがあると褒められた(?)ものだ。タロット占いでも魔術の歴史でもいいが、とにかくその手の知識は深めておいて損はないと思っていた。
そして三つ目の最大の理由は――
(隠者のコミュを江戸川と築けるかもしれないしな……)
ネットゲームをやりそびれてから、『今回』の隠者に当てはまる人物が誰かいないか考えていた。思いつく中で有力な候補が、江戸川だったのだ。何しろ考えようによっては、Y子よりずっと隠者のイメージに近い。実は影時間やシャドウのことも知っているとか、昔は桐条の研究者だったとか言われても驚かないだろう。
放課後になると、湊は早速保健室へと向かった。
向かった先の装いは『前回』の記憶の通りだった。消毒液(と信じたい)の臭いが満ちた部屋に、問診用の机や硬そうなベッドが置かれている。そして部屋の隅には、人体の骨格模型が置かれている。夜になるとこの骨は動き出す、とかの怪談めいた話はどこの学校にもあるが、この保健室のそれは本当に動いても不思議はないかもしれない。そんな微妙な怪しさが漂っていた。
怪しさを生み出している元凶は言うまでもない。江戸川だ。何かの印を組んだ手のデザインがされた黄色いシャツの上に、よれた白衣を羽織っている。保健室そのものと主の出で立ちまでは、完璧なまでに『前回』と同じだった。
「今日から保健室のお仲間ですよ。二年F組の有里君」
ただ『前回』はほとんど見る機会のなかったものが、今日の保健室にはいた。保健委員の生徒たちである。江戸川に紹介された湊を、皆が注目している。その視線に含まれている色は、主に好奇心。或いは若干の訝しさだった。
(男は僕だけか)
半ば予想していたが、保健委員は女子生徒ばかりだった。そして見知った顔はいなかった。これでは不審がられるのも無理はなかろう。
「今日の当番さんは誰ですかね?」
「あ、はい。私です」
言われて一人の女子生徒が進み出てきた。湊はやはり知らないその顔には、穏やかな微笑みが浮かべられていた。他の委員とは少々毛色の違う、大人びた雰囲気と物静かな印象を与えてくる生徒だった。三年生であろうか。
江戸川は湊に委員の仕事を教えるようその生徒に頼むと、奥の部屋に去っていった。
そして湊は長谷川沙織と名乗った上級生と思しき生徒に、保健委員の仕事を説明された。とは言え、放課後に保健室の番をするくらいで、特にこれと言うほどの仕事はないようだ。昼休みに推測した通り、やはり保健委員は暇なようである。
また、怪我や病気の生徒が来ても委員が診察することはできないから、することと言えば江戸川を呼びに行くだけである。その江戸川は普段は裏の小部屋にいるらしいが、入室は禁じられている、とのことだった。
「入った生徒は二度と帰ってこない……何て噂があるくらいだから」
長谷川は冗談のように言うが、あり得そうな噂である。あの江戸川が籠るくらいだから、果たして何をしているのやら。部屋の中では、常人では想像も及ばない異界の領域が広がっているかもしれない。だが――
(コミュを築くなら、入るしかないな)
江戸川が入って行った、裏の小部屋に繋がる扉を見て思う。『前回』怪しげな薬を散々飲まされた経験から、湊は少々のことで怯んだりしない。床に魔法陣が描かれていようが、見たこともない動物がホルマリン漬けにされて棚に並んでいようが、驚かない自信がある。今日にでも早速突撃してみようか。いや、念の為に召喚器は用意しておくか――
などと湊が不穏なことを考えている間に、他の委員がおずおずと長谷川に話しかけてきた。
「あの、長谷川さん……」
「あ、済みません……気付きませんで。今日はどうぞ帰ってください。後は私がやっておきますので」
言われるまま、他の委員たちは帰って行った。誰一人、振り返りもしない。湊には挨拶もろくにしなかった。
(白けたのか?)
湊は彼女らを見送りながら、女ばかりの委員会に男が紛れ込んで来て白けたのであろうか、などと考えた。例えばゆかりと風花が二人で話しているところに順平が割り込んで煙たがられる様子などは、『前回』に見ている。女同士の仲と言うものにあまり詳しくないが、それと似たようなものなのかもしれない。だが湊の標的は江戸川の為、他の委員には歓迎されなくとも一向に構わない。
「あ、別に皆さん、歓迎してないとかじゃないのよ?」
(?……)
図星を突かれたような気がして、一瞬面食らった。振り返れば、長谷川は穏やかに微笑んでいる。初めて言葉を交わした時から、ずっと変わらず。
「別に。気にしてませんよ」
実際、湊は気にしていない。コミュニティの担い手との関係には気を遣うが、そうでない相手はどうでもいいから。だが長谷川は急に話の方向性を変えてきた。
「あ……言ってなかったわね。私、貴方と同じ二年生だから。敬語は使わなくていいわ」
「?……なら、さっきの人たちは?」
確かに長谷川は三年生かと最初は思った。だが帰って行った他の委員は、長谷川と互いに敬語で話していた。ならばこの委員会は年次に関係なく、誰とでも敬語で話す慣習なのかと思ったのだが。
「……気が付いた?」
湊の指摘に対して、長谷川はばつが悪そうな顔をした。何でも長谷川は以前に留学、もしくは休学していて、年齢は湊より二歳上らしい。つまり学校の生徒の中では最年長になってしまっている為、同級生ばかりか上級生にまで敬語で話されているそうである。
「やめてほしいんだけど……もう諦めたわ。でも、できれば普通に話してほしいな……」
「構わないぞ」
何気なく、ごく自然に湊は答えた。相手に合わせて口調を変えるのは得意だが、内心では誰でも呼び捨てである。寮の上級生や学校の教師に対してもそうだ。口を滑らせたことは『前回』を含めて一度もないが、それでも心と言葉が一致しているに越したことはない。
「そう? ありがとう……」
長谷川は再び微笑んだ。先ほどまでより、少々身近に感じる。ただの礼儀としてのそれから、本心から嬉しく思う表情へと変化したからかもしれない。そんな長谷川を、湊はそれまでより少し詳しく観察してみた。
髪は肩までの長さでウェーブしており、それが縁どっている顔は、種類を僅かに変えながらもずっと微笑みを続けている。顔そのものは、綺麗と言って差し支えない。ただどこか影がある。
(ん?)
観察を続けるうちに、長谷川の左目の下、涙の通り道にほくろがあるのに気付いた。どこかの誰かを連想させる位置だ、などと思っていると――
『我は汝、汝は我……』
唐突に時間が停止した。いつもの通り、事が起きてからそれと気付いた。
(え?)
絆を教える『我』により、新たなコミュニティが発生したことを告げられた。アルカナは隠者。担い手はもちろん目の前にいる人物、長谷川だ。未だ部屋に籠ったままの江戸川ではない。
(うわあ……誤算だ。ってか、何回目の誤算だよ、これ……)
相手が予想とは異なったが、取り敢えず築けた。築けたことそれ自体は良い。良いのだが、長谷川はほとんど未知の人物だ。コミュニティで今後何が起こるかは分からないし、性格もまだ把握していない。江戸川の方が性格や趣味を多少なりとも把握できている分、まだ良かった。そして江戸川と比べて、明らかに良くない点がある。それは――
(岩崎に続いて、また女子か……)
余計な厄介事を抱え込んでしまいそうな予感に襲われた。女と言えば『前回』の隠者の担い手だったY子もそうだが、あれは特に問題なかった。
卒業式の前日、ふとしたことから湊は正体を明かしたが、教師の立場がある為に鳥海はそれなりに自制できていたから。たとえ『前回』あのまま生き延びても、鳥海と特別な関係になることはなかっただろう。Y子と鳥海は同一人物だが、湊から見れば実は別人と言っても過言でないのだ。
だから4月に女子のコミュニティの進め方を検討した時も、Y子は数に入れなかった。だが長谷川にはそうした立場的な防壁がない。特別な関係にならずにコミュニティを進めるには、どうすればいいのか。考えても解答はすぐには見つからない。難題が増えてしまった。