ベルベットルームのエレベーターガールは、おおよそ月に一度の頻度で何らかの依頼を出してくる。依頼の内容は何かの品物を持って来いとか、タルタロスの特定のシャドウを倒して、その証明となる体の一部を持って来いとかだ。それらに何の意味があるのかは、湊は理解していない。外の世界に対する彼女なりの興味はあるだろうが、それだけではないと薄々感じている。しかし彼女の真意は未だ分からない。もちろん本人に聞いても、答えは返ってこない。
だが意味が理解できなくとも、湊は『前回』から大抵の依頼はこなしてきたし、『今回』はこれまで全て達成してきている。他では手に入らない報酬の品々は、過酷な一年間を生き抜く為に欠かせないものがあるからだ。
ただし『前回』達成した依頼については、『今回』は内容が変わっているものもある。例えば特定の品物を持って来いとの依頼に関しては、シャガールのコーヒー豆とか、はがくれのカップ麺とか、『前回』はなかったものに変わっている。そして仲間たちからものを貰って来いとの依頼は、シャドウを倒す依頼に変わっている。シャドウが強い『今回』は、かなり難度の高い依頼となっているのだが。
そして外に出かける依頼に関しても、中身が少々変わっている。5月のポロニアンモールへの案内では夜にクラブに連れて行き、8月の神社への案内では夏祭りに連れて行くことになった。そして今月の依頼である学校への案内にも、若干の違いがあった。
「閉まっておりますね」
月光館学園の校門前で、ペルソナ全書を小脇に抱えたエリザベスは立ち尽くしていた。彼女の眼前では、頑丈そうな鉄の門扉が行く手を阻んでいる。
「日曜だからな」
『前回』は平日の放課後にと頼まれていた学校案内は、『今回』はなぜか休日にと変わっていたのである。だが休日の校門は閉められている。部活をしに来る生徒もいるが、そういう場合は通用口から入るのが普通である。だからそちらへ回ろうと、湊は言おうとした。しかし――
「たー!」
言うのが一瞬遅かった。気合の全く入っていない棒読みの掛け声と共に、助走もつけない垂直跳びでもって、彼女は校門を飛び越えた。そして音もなく敷地内に着地した。まるで体に重さがないかのように。
「……」
もちろんそんなはずはない。彼女の体には重さも体温もあることを、湊は『前回』の経験から知っている。だがとにかく、彼女は細い体格には不似合いなまでの身体能力でもって、軽々と跳躍して見せた。
「どうぞ」
牢獄の鉄格子を連想させなくもない、校門の門扉の向こうから彼女は促してきた。しかしどうぞと言われても、同じことはできない。門の高さはそれなりにあり、走り高跳びの選手でも飛び越えるのは至難だ。とは言え、依頼に応じた以上は行かないわけにはいかない。
「よっ……」
湊は普通にジャンプして、校門の上のへりに手をかけた。そして懸垂の要領で体を持ち上げ、更に足をかけた。そんなごく普通のやり方で、日曜の校門を乗り越えた。
「見つかったら怒られるかな」
人のいない校舎の階段を上りながら、湊は独り言のように呟いた。見つかったところで、エリザベスの存在は普通の人間には記憶できない。だが湊のことは当然誰でも記憶できるので、見つかれば少々問題になる。たちの悪い教師に遭遇したら、反省文の一枚くらい書かされるかもしれない。
「見つからなければ大丈夫でございましょう」
『前回』案内した際には目立たないように、とか言いながら湊の背中に体をぴったり寄せて歩いていたが、校舎に人気のない『今回』はそんなことはしていない。普通に横に並んでいるエリザベスは、言いながらも足を止めなかった。ただ階段を上りながら、顔をこちらに向けてきた。
「今日は夏の祝祭とは異なります。言っておられないのであれば、あの方が今日ここに来られることはない……そうでございましょう?」
エリザベスの表情は普段通りだ。悪戯を企んでいる顔ではないし、悪意のある顔でもない。いつも通りの無機質感のある、だが男なら誰でも魅了されずにはいられない異様なまでの美貌でもって、際どいセリフを口にした。
(確かに言っていないが……)
今日は寮を出る際、どこへ行くとは誰にも言っていない。もし言っていたら、修羅場を通り越した決闘騒ぎで日曜の校舎に血の雨が降りかねない。それが分かっていたから、誰にも言わなかった。報酬の為には仕方がないと思っているが、それにしても極めて不誠実である。
『前回』の案内では、エリザベスは購買で給食を要求したり、教壇に立って問題を出したり、音楽室のピアノで謎の曲を弾いたりと、色々と忙しく見て回っていた。しかし今日は校内を巡り歩いたりせず、ひたすら階段を上り続けた。そうして二人揃って屋上に辿り着いた。
「ここが、屋上……。ここを訪れた方々は、互いに身を寄せ合うのが決まり事であると伺っておりますが……。なるほど、風が通り抜けるこの場所は、いささか気温が低く感じられるようですね」
遮るもののない屋上では、他の場所より風を感じやすい。これからの季節は特にそうだ。明日は11月の最後の日で、もう間もなく冬を迎える。空の青色はやがて硬く冴えわたり、吹く風は切れ味を増していく。季節と共に、終末は既に近い。
「ここは貴方にとって、思い出のある場所なのですよね」
思い出は確かにある。『前回』は何人もの人と、ここでいくらかの時間を過ごした。最初に来たのは、風花に手作りの混沌弁当を食べさせられた時だった。それから一学期の終わりにゆかり。二学期以降は千尋や美鶴と来たこともあるし、一度は順平と来たこともある。そして――
「海が光っております……。美しい景色でございます。貴方が最期の場所としてお選びになったのも、よく分かります……」
「……」
遠くの景色を見つめるエリザベスの隣で、湊は敢えて何も見まいと目を閉じた。ここは『前回』アイギスに自分の最期を看取ってもらった場所だ。麗らかな春の日差しを硬い膝の上で浴びながら、あらゆる感覚が体から失われていった。そして最後には心臓も停止した。その時のことは、今でもはっきりと覚えている。やるべきことはやった。自ら選んだこの結末に、悔いを抱いてはなるまいと考えていた。それなのに、どういう不条理の為せる業かこの有様だ。
「湊様、おかけになってください」
目を開けると、エリザベスは屋上のベンチに腰掛けていた。百科事典のような厚さのある本は、左の脇に置いてある。湊は促されるままに、彼女の右隣に座った。
「こちらへ」
「おい……」
エリザベスは湊の肩に手を置いて、体を引っ張ってきた。どうやら倒そうとしているようだ。手に込められた力は特に強くないので、抵抗することはできる。抵抗すべきか応じるべきか、湊は一瞬だけ迷った。
「ご心配なく。他人はどなたも参りませんよ」
エリザベスの声は普段通りだ。世間の普通のエレベーターガールが仕事中に口にするような、美しくはあるが感情のない、無機質な声色だ。しかし言葉の内容は、声色だけで隠せるほど危険の少ないものではない。
(許せ……今日だけだ)
心の中で誰かに言い訳をしながら、湊は倒されるに任せた。ベンチに仰向けに寝転がり、エリザベスの膝に頭を乗せた。そこは柔らかかった。
「……」
伸ばされた前髪の隙間から、太陽の光が差し込んできた。3月5日に死んだその日、最期の時間は午前中だった。昇りきらない早春の日差しは、ただ心地よいだけだった。しかし今は昼間だ。晩秋の太陽は強くはないが、顔の正面から浴びせられる光は量が多い。目を開けているのが辛い。
「眩しいですか?」
エリザベスはこちらの顔を覗き込んできた。彼女の顔が日を遮り、眩しさが急に無くなる。しかし逆光の為に、彼女の顔は見えなくなってしまった。人間では誰も比肩する者のない、美のイデアは影に隠れてしまった。それが不意に残念に思えた。
死の直前のあの瞬間、役目を終えようとした目はもうアイギスの顔を映せなくなってしまっていた。その時のような残念さが襲ってきた。不誠実極まりない状況にありながら、それを忘れてしまう。人間は誰も抗えない、誘惑の影が差す。
「……」
沙織と別れて以来、もう嘘は吐かないと決めていた。だからもし今後にゆかりや風花や美鶴から求められたら、はっきり断るつもりでいた。だがもし今エリザベスに求められたら、断れない――
「遥かな遠い時代……太陽は時間そのものでございました」
だが幸か不幸か、エリザベスは顔を上げた。青い闇の中に生きる謎の女性を覆った影は、昼の光の中に消えた。それは残念か、残念でないか――
(……やめよう)
湊は考えることを拒否した。考えれば、きっと酷い結論を導いてしまう。
「時、とは何なのでございましょうね。線のように、過去から未来へ流れるもの。逆はない……のが普通ですが、貴方にとっては逆が一度ございましたね」
未来から過去へ。忌まわしい出来事を至極あっさりした物言いで思い起こさせられて、湊は心の中で眉を顰めた。だがそれより心の表面に近い部分で、誘惑が遠ざけられたことに奇妙な安堵感を覚えていたので、気にすることはやめた。エリザベスの相手をするのは色々な意味で疲れる。少しは思考を停止させておかないと、身も頭も持たない。
「そしてまた、円のように巡るもの」
(そう言えば、江戸川がそんな話をしてたな)
心のごく上澄みの部分で、最近の総合学習の授業で聞いたことを思い出した。それによれば、世界には時間に関して大きく分けて二通りの思想があるとのことだった。直線的時間と循環的時間だ。
「果たしてどちらが正しいのでしょうか。貴方はどうお考えになりますか?」
「さあ……分からないな」
時間とは何か。これは哲学上の重大なテーマの一つだ。授業で少々かじった程度の知識では、聞かれてもそう容易く答えられるものではない。
「ええ。ある神の使徒が、このような言葉を残しております。誰も尋ねて来なければ知っている、でも尋ねられたら知らない……。人間にとって、時間とはそのようなものでございましょう」
エリザベスはため息を吐いた。物思いに耽る、或いは恋に患う普通の人間の女がするような、酷く長い息を吐き出した。ただ息と共に吐き出される言葉は、恋する乙女とは明らかに異なるものだが。
「線と円……これはどちらも正しいのです。それ故に、時間に干渉することは可能なのです。もちろん容易なことではございませんが」
「君、やっぱり……」
エリザベスの言葉から、湊は一つの急な確信を得た。『今回』が始まった時、病院で目覚めた直後にベルベットルームに向かい、時間が戻った原因をイゴールに問い質した。あの鼻の長い怪人は結局何も答えてくれなかったが、事の真相を知っている。そしてエリザベスも知っている。だがそれを改めて問う間は与えられなかった。
「以前、仰っておられましたね。ペルソナとは演劇の道具……」
夏祭りに案内した時に言ったことだ。自分たちの能力はなぜ『仮面』と呼ばれるのか。エリザベスはそう聞いてきた。ペルソナは神話の存在そのものではなく、それを演じる為の仮面であるから。湊はそう答えた。
「古来より人は祭儀において、神々を演じて参りました。歌や芝居でもって、天上の故事を地上に再現してきたのです。即ち日常の狭間にある神聖時間は、幾度も反復されるもの……。タルタロスは足を踏み入れる度に形が変わりますが、実は有限の種類の型の繰り返しであることも、それを証明しておりますね」
神聖時間。この言葉も授業で聞いた覚えがある。それは通俗とは異なる時間であり、神や精霊が立ち現われる時間のことだ。現実に即して言うならば――
「神聖……なのか?」
「はい。貴方がたの目には邪悪と映るでしょうが、あれはやはり聖なるものです。人為的に生み出されたものではありますが、太古の日々より積み重ねられた祝祭といえども、人間が執り行うもの。従って自然の産物でないことは問題になりません。あの影の時間は……神々に捧げられた、繰り返される永劫の時なのです」
繰り返される時間。それは即ち――
「僕の戦いはまた繰り返される……君はそう言いたいのか?」
タルタロスの麓から頂上まで岩を運び上げ、辿り着いた途端に転げ落ちる。そしてまた運び上げる苦役を永遠に繰り返す。ギリシャ神話で語られる、徒労の代名詞となること。ありふれた自然現象に過ぎない死を遥かに超える、およそ考えられる限りの究極の不条理だ。湊はそれを己の口に出して言った。
「いいえ……」
彼女はこちらの胸にそっと手を置いてきた。青い手袋と自分の服越しに、彼女の体温が伝わってくる。かつてこの場所で停止した心臓が、僅かにその動きを速くした。
「貴方は今、生きておられます。しかしいつかは終わりが訪れる……。それは生ある者の宿命です。ですが、それは悪いことではありません。終わりがある……終わりを見つめることができる者は、己が本当に望むものが何か、それを知ることができますから」
「……」
「しかし終わりのない存在であっても、見つけられる……いえ、終わりがないからこそ、見つかるものもあるはずなのです」
エリザベスの言葉は分かりにくい。これまで外を案内した時のような、常識からかけ離れた物言いではない。しかし今までの的外れ過ぎた解釈とは違う意味で、彼女が言おうとしていることは理解しがたい。だが重要なことであるのかもしれない。この二度目の一年間がどのような結末を迎えるのか、そして結末の後に何が待っているのか。彼女はそれを語っているのではないか。そんな気がした。
ここは考えなければならない。胸に置かれた温かい手に誘惑されている場合ではない。湊は半停止状態だった頭を急いで起動させ、思考を巡らせ始めた。終わりが来る人間、終わりのない存在、永遠の苦役、そして神聖時間。それらの意味するところは何か――
(あ……)
しかし思考は急に中断された。よく知る人物が一人、ここに近づいてきているのを感じたのだ。湊は目で見なくても他人の接近を肌で感じるような能力はないし、離れた距離にいる人の気配を察することができるほどの達人でもない。だがこれは分かる。湊はエリザベスの膝から体を起こし、校舎内に続く階段の側を振り返った。ちょうどその時、屋上に一人の少年が現れた。
「あれ、邪魔しちゃった?」
綾時だった。今月は事あるごとに現れるが、どうやら今日も例外ではないらしい。他人は誰も来ないと、膝枕をする前にエリザベスは言っていた。しかし綾時は他人ではない。いささか大仰なため息を、彼女はゆっくりと吐き出した。
「ふう……来られるであろうとは、思っておりましたが……」
湊はベンチから立ち上がり、真っ直ぐ近づいてくる綾時を迎えた。そして脇に置いた本を手に取りながら、エリザベスも立ち上がった。晩秋の空の下で『愚者』と死神、そしてどんな言葉で表現すればよいのか分からない、神秘に満ちた女性が揃った。
「やあ。初めまして、かな?」
この時、三人の間を震えた風が通り抜けた。心を持たない自然現象までもが怯えるような不自然な揺らぎが、潮の香りの混じった風の中に感じられた。
「どうとでも」
綾時はエリザベスを知っている。湊はこれまで彼女について綾時と話したことはないが、ファルロスとして体内にいた時から見てはいたのだろう。そして『契約』しない限り、人間は誰も彼女の存在を記憶できないが、綾時が記憶できるのは何の違和感もない。
「何の御用でいらしたのです?」
「うーん……何かね、来ないといけないような気がしたんだ」
エリザベスの声色には棘がある。綾時の返答にはそれを気にしている様子はないが、軽薄な死神を見つめる彼女の視線は鋭いものだった。彼女が人にこういう態度を取るのは、『前回』を通じても初めてのことだ。
「どうしてなのでしょうね……。貴方の存在は滅びの確約。それでいながら、貴方は彼の心のとても深くに居場所をお持ちであられる。このような理不尽があってよいのでしょうか?」
綾時がエリザベスを知っているように、エリザベスも綾時を知っている。ただ彼女は普段他人に対するものとは、明らかに異なる態度を見せている。『貴方は駄目です』とは言わないが、それ以上に強い言葉を叩きつけてやりそうな雰囲気だ。
「ねえエリザベスさん。その本、どうして持って来てるの? これまで出かける時は持って来てなかったよね?」
対する綾時は、一見するとこの場に何の関係もなさそうなことを口にした。だが指摘そのものは正しい。彼女は『前回』を通じて、外出時はいつも手ぶらだった。
「ここには湊様のペルソナが全て収められてございます」
「そっか。じゃあそれを使えば、貴女も僕を殺せるわけだ」
「おい……」
湊は不安を感じた。エリザベスはどこまで本気なのか、表情のない顔からは分かりにくい。だが本当に綾時と戦われては堪らない。そもそも彼女に戦う力があるのかどうか、湊は知らない。だがもしあるならば、それは最強の死神にさえ対抗しうるものかもしれない。彼女の正体を覆う謎のベールのその濃さが、隠された力の程度をも物語っている。そんな気がしてきた。
「申し訳ございません」
エリザベスは軽く頭を下げた。湊に向けて、である。頭の位置を戻すと、再び鋭い視線を綾時に注ぐ。死神はそれを軽やかに受け止める。
「貴女は一体何者なんだろうね。僕より謎が多いよね」
「私は力を管理する者です」
「管理って、その本のことだよね。どうして本なんだろうね。ペルソナは無数にあるんだから、本に全部書くことはできないよね? 例えば日本の太陽神とか火の神とか、それには載ってないよね?」
「……」
エリザベスは沈黙したが、湊も驚いた。言われてみれば鋭い指摘だ。ペルソナは神話の英雄や、伝説上の神や悪魔の名を持つものが多い。しかしそうした神的、魔的な名はそれこそ無数に存在する。対して湊とアイギスが操り、エリザベスが管理する力の種類の総数は170程度。ほとんどのペルソナ使いは一つ、進化後を含めても二つしか使えない為、これまでは『多数』としか認識してこなかった。
だがそれでも無数と呼ぶには遠い。飽くまで有限だ。ワイルドであっても、存在し得る全てのペルソナを使えるわけではない。例えば日本神話の神々は、エリザベスのペルソナ全書の中にありはするが数は少ない。ここは日本であるにも関わらず。
しばらくの沈黙の後、エリザベスは左手に抱えたペルソナ全書に右手を添えた。高級感のある全書の黒い革張りの上に、絹かそれに類するものでできた青い手袋が乗せられた。
「ワイルドを持つ者でも、力には限りがございます。この本の枠を超えるには、命のこたえが必要となりましょう」
「命の……こたえ?」
聞いた途端、何かが心に引っ掛かった。言葉の意味は分からないが、何かとても大切なもののような、或いはとても忌まわしいもののような気がした。以前、どこかで誰かから聞いたような覚えが――
「今日はこれにて戻りましょう」
言うが早いか、エリザベスは二人の男を置いて歩き出した。自身が発した言葉そのものを置き去りにするかのように、足早に屋上から立ち去った。
日曜の学校を出てポロニアンモールまで向かい、そしていつもの裏路地までエリザベスを送った。綾時もついて来た。だが綾時は青い扉の前で立ち止まり、中にまではついて来なかった。
「ご案内、ありがとうございました」
「ああ」
いつものように青い闇に包まれた部屋の中で、青い彼女から報酬の赤いマフラーを受け取った。今日の目当てのものであるのだが、受け取っても嬉しいと思う気持ちはなぜか湧いて来なかった。何か実体感のある重たいものが、飲み下せずに胸につかえているような、奇妙な感覚が残っている。
「湊様……今日の私はいささか言葉が過ぎました。お忘れになってくださいませ」
「……そうか」
忘れろと言われても、『愚者』の記憶力は何も忘れられないくらいに優れている。エリザベスとの思い出は『前回』を通じて全て記憶しているし、今日の出来事はとりわけ忘れられそうにない。意味は分からないが。
「ですが……私はいつも貴方を見ております。そのことは、どうかお忘れにならないでください」
「……分かった」
彼女の言動の意味を深く追及する事なく、湊は踵を返した。生み出すペルソナの種類に迷った際など、この部屋は長居することもあるが、今日は早い内に出ることにした。いつまでも彼女と顔を合わせていては、良からぬことを考えてしまいそうだったから。そう思っていたら――
「お待ちください」
思いがけず、引き留められた。彼女が後ろ髪を引いて来るのは、『前回』は一度もなかったはずである。しかし『今回』は今月10日に続いて二度目である。
「何だ?」
「依頼を……追加いたします。貴方の部屋に……行かせてくださいませ」
彼女の表情に変化はない。だが言葉は妙に歯切れが悪い。だがそんな彼女の口調とは別のことに、湊は疑問を覚えた。
(なぜ、今……?)
この依頼は『前回』もあったが、追加されたのは次の満月を過ぎた12月4日だった。それがなぜか早まっている。そんな一見すると些細な違いが、不思議と気になった。だが気にはなりつつも、それを問いはしなかった。そして受けるとも断るとも言わずに、黙って外に出た。
「お疲れ様」
現実の裏路地に戻ると、綾時はまだそこに残っていた。町の喧騒が遠くに聞こえる薄暗い細道に佇む少年の姿には、どこか非現実的な侘しさが漂っている。
「ねえ湊君、エリザベスさんに頼んでみたら?」
そして藪から棒に、こんなことを言ってきた。だが意味が分からなかった。今日は意味の分からない出来事ばかり起こったが、最後までそれが続くようだ。自分は彼女に頼まれる側であって、彼女に何かを頼むことはない。もちろんペルソナ全書を使う時は彼女に頼むが、それだけだ。
「彼女にお願いすれば、生き延びられるかもよ」
「何……?」
「絶対にとは言えないけどね。可能性はあると思う」
「……考えておこう」
唐突に与えられた生き延びる可能性について、湊は曖昧にしか答えず、綾時の脇をすり抜けて裏路地から出た。綾時も重ねては言わず、ただ黙ってついてきた。
(どうするべきか……)
湊は綾時を後ろに従えて町を歩きながら、内心で思考を様々な方面に巡らせた。部屋に入れてくれとの依頼についてである。『前回』はこれを受けて、色々と手引きをした。だが『今回』は受けるべきか否か。簡単に決めることはできなかった。
悩まされる要因はいくつかある。例えばもしアイギスに見つかったら、どうなるか分からないという不安がある。仮に見つからずに済んでも、いくらなんでも不誠実が過ぎる。そしてそれ以上に、綾時に言われたことが引っ掛かっていた。
もしエリザベスの協力を得ることで、ニュクス戦を乗り越えることができるのなら。そして3月を越えて生き延びることができるのなら――
綾時が言うのだから、その可能性はあるのだろう。だがそれは本意ではない。ニュクスに立ち向かうのは、己一人で為さなければならない。それは契約者としての決まり事であるから。ニュクスに至るまでの経過はともかく、最後の局面においては他人の力を借りてはならない。湊はそう考えていた。
だが可能性があるのに、それを手放すのも愚かしいと思うのだ。しかしその一方で、そもそも部屋にあげる依頼が、彼女の協力を得ることに繋がるのか。それもまた疑問だった。なぜなら『前回』は依頼を受けたが、彼女は自分を助ける為に何かの行動を起こしたわけでもなかったのだから。彼女と親密になることが、生き延びることに繋がるのか否か。その段階から判断がつかなかった。