11月の最後の日、湊は寮への帰り道でたまたま綾時と一緒になり、そのまま帰って来た。そして二人揃ってラウンジを通り抜けて階段を上ると、二階の休憩スペースに人がいた。
「どうしたんだ?」
休憩スペースはテーブルが一つと、それを取り囲む形でソファーが四つ置かれている。テーブルの傍の床にコロマルが座り込んでおり、アイギスがその目の前に立っていた。アイギスはともかく、コロマルが一階のラウンジ以外の場所にいるのは珍しいことだ。
「あ、お帰りなさい。ちょっとコロマルさんと相談を……」
普通は人が犬に相談したところで、返事は何も返ってこない。しかしアイギスは『人』ではない。
「意思を読み取れるようになったのか?」
『前回』はコロマルの意思を読み取れていたアイギスは、『今回』はなぜかそれができなくなっている。7月29日に初めて会った時から、ずっとそのままである。しかし元々実戦の現場では、コロマルへの指示の通訳を彼女に頼んでいるわけではない。だから彼女の機能不全に実害はなかった。だが読み取れるようになったのなら、それに越したことはない。そう思ったのだが、彼女は首を横に振った。
「いえ……できません」
「そうか。座ったら?」
彼女の態度に少々引っ掛かるものを感じた湊は、自室に戻らずソファーに腰を下ろした。そしてアイギスを促して、右隣に座らせた。綾時には特に言わなかったが、何気なく左隣に座ってきた。そしてコロマルは足元に寄ってきた。
「何か悩みでも?」
「いえ……来月からのことなどを、できれば話し合いたいと思いまして……」
(そう言えば……)
アイギスの歯切れは悪い。口で言う以上の、何か深刻な悩みを抱えているように見える。そして彼女のこうした様子は、『前回』も見た覚えがある。この頃、彼女は今のようにコロマルに相談を持ちかけていた。綾時は危険で駄目だから、何か対処をしなければならないのだと。そこでコロマルの動物的勘に頼ってみたりしていたのだった。もちろん何のアイディアも出て来なかったことであろうが。
今にして思うと、『前回』の明後日に彼女が一人で綾時に挑んだのは、この頃にその決断をしたのだろう。ちょうどこの日も、『前回』は寮生でなかった綾時の訪問を受けて、彼女は思うところがあったような節があった。自分に死がないことを改めて口にして、そして兵器に替えのきかない命があったら使いづらいから、それで構わないなどとも言っていた。
だがアイギスと綾時が二人とも『前回』の記憶を保持している『今回』は、もちろん二人が戦うことはあり得ない。あの出来事は、彼女がパラディオンからアテナに目覚める契機の一つとなっていた。しかしそれより便利で強力なワイルドに既に目覚めている以上、アテナは必要ない。すると彼女は何に悩んでいるのか――
「そうだね。湊君、もちろん分かってると思うけど……明後日に僕はみんなに話そうと思う」
綾時が口を挟んできて、思考は中断された。だがこれも重要な問題なので、湊は意識と視線の向ける先をアイギスから綾時に移した。この一年間全体の中でも最大の転機が、もう間もなく訪れるのだ。
「ああ」
次の満月は12月2日。つまり明後日だ。皆の認識では、その日に最後の大型シャドウである十三体目が出現することになっている。それは全くの間違いではないのだが、シャドウと戦うことはない。戦う代わりに、綾時の口から真実を説明させる。ただし全てではなく、一部に留めるつもりだが。そしてその日に綾時とは一度別れることになる。綾時は大晦日までは現世に存在できるのだが、12月中は身近にいない方がよいと判断している。理由は皆のモチベーションの管理だ。
来年1月には、特別課外活動部は綾時抜きでタルタロスの第六層を攻略せねばならないのだ。皆に真実をどう説明しようとも、そこは絶対だ。だが最強のペルソナ使いがあまり長く部に留まっていては、1月に向けて問題が出る。だから『前回』同様、この時期に別れておくのだ。ちなみに『前回』は12月後半までかかった第五層の攻略は、既に終えている。だから来月は純粋に鍛練のみを目的として、タルタロスに出向く。
そして1月31日には、綾時自身と戦わねばならないのだ。その相手が目に見える場所に長いこといては、皆の決意を鈍らせる結果にならないとも限らない。
「コロマル、来月から大変になると思うけど頑張ってね。君ならきっとできるよ」
綾時は座ったまま手を伸ばして、コロマルの頭を撫でた。今の話は他の寮生にはあまり聞かれたくない、かなり際どい話だ。だがコロマルなら聞かれても特に問題はない。何しろ犬だから、話の内容が人間に伝わる恐れがない。そして何より――
「ワン!」
「任せておけ、だってさ」
コロマルは元々極めて強靭な精神力の持ち主だ。たとえこの一年間が二度目であることを知っても、別にどうということもないのだろう。だからこんな返答もする。するのだが――
「お前、コロマルが何を言ってるか分かるのか?」
「ん? まあね」
湊は驚いて目を丸くしたが、綾時はさも当たり前のことであるかのように言う。
「何でもありだな、お前は……」
思わず項垂れてしまう。考えてみれば、綾時のいるところでコロマルと触れ合ったのは今日が初めてだった。これまで剛毅のコミュニティは言葉のない中で、何とか自力で進めてきた。しかし実は通訳がこんな所にいた。すると今までの苦労は何であったのかと思えてくる。
「動物と話すのは、そんなに特別なことじゃないよ。ソロモン王の指輪って例もあるんだし、君だってそのうちできるようになるさ」
「そんなものか」
顔を上げた湊は、何と言ったらよいのか分からない笑いを見せた。伝説上の人物を引き合いに出されて、それで特別でないと言われても困る。今に始まったことではない綾時の非常識はそのくらいにして、改めてコロマルと向き合った。体を覆う真っ白な毛並みは艶があり、精気に満ちている。
「しかし……お前は強いよな。何でだろうな?」
「ワン!」
コロマルは特別課外活動部の主力の一人だ。何しろ生来のペルソナであるケルベロスは、他の仲間たちの進化後のそれと同等の潜在能力を持っている。それでいながら、コロマルは初めからケルベロスを完全に制御している。『前回』を通じて、暴走の兆候さえ一度も見せていない。ストレガや荒垣のように薬を使っているわけでもないのに、強大なペルソナを当然のように支配下に置いている。それはなぜか――
「シャドウに対するそもそもの向き合い方が、関係しているのかもね」
再び綾時が口を挟んできた。
「ん?」
「ほら、コロマルの飼い主さんはシャドウにやられちゃったけど、7月に君たちと一緒にやっつけたシャドウがそれってわけじゃないよね」
「そう言えば……そうだな」
コロマルの元の飼い主である長鳴神社の神主は、今年の初め頃にシャドウによって命を落とした。そして7月29日に、コロマルは神社の鳥居に出現したイレギュラーのシャドウを倒した。しかしそのシャドウが飼い主の仇であった個体とは限らない。と言うか、そもそも大型でない普通のシャドウに、個としての同一性があるのかどうかも不明確だ。従ってコロマルは未だ仇を取れていないと言える。そしてその意味では、今後も取れるわけではない。
「と言うことは……お前は元々飼い主の仇討ちのつもりで戦ってるわけじゃないのか?」
「……」
コロマルは何も答えない。言葉はおろか、鳴き声でも返事をしない。ただ赤い瞳を真っ直ぐ向けてくる。
「人間と動物じゃ、死の受け止め方が違うんじゃないかな」
「そうか……なるほどな」
何となく分かったような気がした。『前回』の皆は親しい人との別離を契機として何らかの決意を得て、それによって新たなペルソナに目覚めていた。だがコロマルは特別課外活動部に加入する前から、既にそうした経験を得ている。と言うより、決意などと大仰に構える必要すらなく、自然に強いのかもしれない。言葉を持たない動物は、死について観念的になることがない。
もちろんコロマルは飼い主の死を悲しんだであろうし、自身に死が降りかかれば恐れもするだろう。だがそれだけだ。死から目を背けたり、死を認めたくない余りに死者の復活などを考えたりすることはないだろう。人間と違って。
ごく自然に死を受け入れ、かつ運命に立ち向かう。それは人間には難しいことだが、動物にとっては当たり前のことなのかもしれない。つまりコロマルは今までずっと、後ろを向いていない。飼い主の死もとうに受け入れている。悲しみがあってもそれに潰されず、前を向いていられる。
「ケルベロスは冥界の番犬だしね……死がとても身近な存在だよ。ああ、そう言えばオルフェウスと縁があったね」
「確か……竪琴で魅了したんだったか?」
ギリシャ神話に登場する吟遊詩人のオルフェウスは、亡くした妻のエウリュディケを求めて、生きたまま冥界に下って行った。その行く手には冥界の番犬であるケルベロスが立ちはだかったのだが、得意の竪琴を聞かせると大人しくなった。神話ではそう伝えられている。
「魅了って言うか、音楽を聞くと眠っちゃう性質があったらしいよ」
「子守唄かよ」
思わず笑いそうになってしまった。だが案外、その説が正しいのかもしれない。人間ならば美しい旋律で魅了されることもあるだろうが、ケルベロスは動物、と言うか怪物だ。眠らせる方が簡単だろうし、よりあり得そうだ。ギリシャ神話は全般的にリアリティに富んでいる。
「しかしまあ、ちゃんと番犬の仕事をした方が良かったのにな」
「ワン……」
オルフェウスはケルベロスを乗り越えた後、冥界の王の元まで赴いた。そして竪琴で魅了したかそれとも哀切に訴えたか、とにかく妻を返してもらえることになった。ただし冥界を抜け出すまで、決して振り返ってはならないとの条件付きで。そうして地上に戻ろうとしたのだが、寸前のところで不安に駆られて振り返ってしまい、条件を違えた報いで妻は冥界に連れ戻されてしまった。
つまり結局のところ、オルフェウスは妻を取り戻せなかったのだ。そしてその後のオルフェウスは女を断ち、ギリシャ各地を旅したり密儀宗教を起こしたりしたらしい。その旅路の果てに、トラキアでオルギアと呼ばれる乱痴気騒ぎに巻き込まれ、狂乱した女たちによって八つ裂きにされて死んでしまう。
この神話は一見すると悲劇だが、よくよく考えると少々おかしい。オルフェウスは死後に本人も冥界の住人となったのだから、そこで妻と再会できたはずだ。ならば初めから生きたまま冥界に下る必要もなかったはずである。自然死を待てなかったのであれば、ケルベロスに引き裂かれて死んでも結果は同じだったはずだ。むしろ無駄な回り道をしないで済んだ分、その方が良かったのではとさえ思えてくる。
「そうだねえ……」
「死人をいちいち生き返らせてたら、切りがないよな。辛くても受け入れなきゃいけないこともあるよな」
死は誰もが逃れられない宿命だ。泣いても叫んでも魔獣を誑かしても、どうしようもないことだ。オルフェウスの神話は、それをこそ語っているのかもしれない。ちなみに日本神話では、創造神の夫婦に似た話がある。細かい点ではもちろん違いがあるが、意味は同じなのではなかろうか。日本とギリシャのように地理的にかけ離れていながら、似た神話が生まれたのは、それが示しているものは地域や時代を超えた普遍的な真理であるからかもしれない。
つまり、死人は生き返らない――
妻に先立たれた男などオルフェウスだけではない。神話の時代から現代に至るまで、この世にいくらでもいる。それがことごとく生き返りでもしたら、この世は人間で溢れかえって大変なことになる。
「うん……でもまあ、例外もあるみたいだけど。チドリちゃんとかさ。と言うか、君だってそうか」
「ああ……そうだな。何の因果なんだろうな……」
時間が戻ったことによって、自分は冥界から帰って来た。言うなれば『生き返った』わけだ。だがそうなった原因は相変わらず不明なままである。イゴールとエリザベスは知っている節もあるが、あの二人が教えてくれることはあり得ない。
(本当に……どうして僕は生き返った?)
どうして時間が戻ってしまったのだろうか。改めて考えてみると謎である。あり得る原因はユニバースだが、だとすると自分はなぜ時間を戻したのだろうか。荒垣や桐条武治、そしてストレガの三人の死に後悔を感じていたことは確かだ。しかしだからと言って、それは時間を戻してしまうほどのことなのだろうか。冥界の番犬をも乗り越えんとするほどの、強い決意が果たして自分にあったのだろうか。
オルフェウスのように最愛の人を亡くしたのなら、或いはそう思うかもしれない。だが『前回』死んだ人々に対して、自分はそこまでの思い入れがあったのだろうか。もちろん彼らの生存は『今回』の大きな目標にしていたが、ある程度は達成できた今となっては、逆に疑問に思えてくる。
そうすると残る原因として考えられるのは、自分自身の生への未練だ。だが卒業式の日のことを思い返すと、それにも疑問が残る。あの時、生きたいと特に意識した覚えはない。それとも意識の及ばない、言葉にならない心の深層部分で、生きたいと思っていたのだろうか。
(どうなんだろう……。だが、そうだとすると……)
冥界から帰還したオルフェウスが起こした密儀宗教によれば、人間の魂は輪廻転生を繰り返すと言う。輪廻自体は世界的にはよくある思想だが、ギリシャにおいては珍しい。それが意味するものは――
更なる思考の袋小路に陥りそうな時、突然手に硬いものが触れた。アイギスが手を掴んできたのだ。見てみれば、彼女の青い瞳は泣いているかのように揺れている。
「あ、あの……」
「どうした?」
「……」
彼女の言葉は続かなかった。ただ体を倒し、こちらの胸に顔を埋めてきた。その為、彼女の瞳は見えなくなってしまった。泣いているのかどうか、もう分からない。装甲で覆われた彼女は見た目よりずっと重い為、このように取り縋られると体ごと沈み込んでしまう。
彼女を受け止めるには、心と体に芯の通った力が必要になる。考えても答えの出ない事柄に囚われている場合ではない。
「……済まない」
一言だけでもって、巡り続ける内心の思考を切り捨てた。そして彼女の頭に左手を回した。指に絡まる金髪は、人工のものであるとは知っていても信じられないほどに柔らかかった。
「あ、謝らないでください……」
「……」
顔を隠したままの彼女の姿からは、泣いているのかどうかは分からない。だがその声は、泣いているかのように震えている。湊は続ける言葉を失い、ただアイギスを抱き締めた。
どれだけの時間をそうしていたのか分からなくなった頃、湊は思い出したように周囲に視線を巡らせた。だが視界の範囲内に、人は誰もいなかった。隣にいたはずの綾時は、いつの間にか姿を消していた。邪魔をしては悪いとでも思ったのだろうか。7月23日には何の悪気もなく現れたし、昨日もエリザベスとの間に遠慮もなく割り込んできた。だが今日ばかりは遠慮したのだろうか。柄にもなく。
(あいつ……ん?)
小さな足音が耳に入った。コロマルも綾時に倣うつもりか、階段へ向かっているところだった。
「お前まで行くことないだろう」
声をかけると、コロマルは振り返ってきた。こちらは意思が読み取れないが、向こうはこちらの言葉を理解できる。
「ワン!」
一声鳴いて、コロマルは歩み寄ってきた。湊はアイギスから手を離し、コロマルの白い頭を撫でた。アイギスの髪とは手触りが違うが、こちらもやはり柔らかかった。
「頼りにしてるぞ」
恐ろしげなペルソナの姿と違って、コロマル本人は愛らしい。冥界はおろか寮の番犬にさえ相応しくないくらいだ。余程の犬嫌いでもない限り、誰も怖がりはしまい。だがそうした見た目に反してコロマルは強い。部の他の皆にも見習ってほしいくらいに強い。
「ワフッ……」
剛毅のコミュニティは言葉がない為に、難しいところはある。だが実は他の誰のものより、面倒が少ないのかもしれない。言葉のない犬には嘘を吐けない。と言うより、嘘がそもそも必要ない。ごく自然に真実のみで向き合うことができるから。
「あ……」
そうやって裏表の最も少ない絆を確かめていると、アイギスが急に声を漏らした。思いがけない閃きでも得たかのように、目を丸くしている。
「どうした?」
「い、いえ……何でもありません。失礼します」
アイギスは勢いよく首を左右に振って、急いで立ち上がった。そして早足で階段へと向かって行った。コロマルの時と違って、引き止める間も与えられなかった。物凄く不自然な振る舞いである。もちろん彼女は機械なのだから自然なわけがない、と言ってしまえばそれまでだ。しかし彼女は人間以上に人間らしい存在だ。
「本当に……どうしたんだ。お前はどう思う?」
部で最も自然な生き物であるコロマルに尋ねてみた。だがコロマルは首を縮め、顎を胸の毛に埋めるようにした。困惑を表しているつもりなのかもしれない。
「クゥン……」
何か返事はされたようだ。しかし意味は分からなかった。通訳がいない今、言葉ではコロマルと会話はできない。コミュニティはそれでも何とかなるが、相談はできない。