ペルソナ3 滅びの意志   作:三尺

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無気力症(2009/12/10)

 寮の一階のラウンジに全員が集まっている。綾時の提案にどう応じるべきか、即ちどんな死に方を選ぶべきか。皆は話し合うが、結論は一向に出ない。いや、これは話し合いとすら呼べない。そもそも意見を言うこと自体、皆が躊躇っている。

 

 「お前のせいみたいなもんじゃねえか!」

 

 そんな中、順平が胸倉を掴んできた。湊は抵抗せず、されるがままだ。

 

 「何とかしろよ! お前、特別なんだろ!?」

 

 「済まない……」

 

 声を絞り出したところで、目が覚めた。

 

 

 カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて、湊はラウンジではなく寮の自室にいる自分を発見した。ベッドから身を起こすと、服が体に貼り付いているのに気付いた。季節は冬であるにも関わらず、酷い寝汗をかいていた。

 

 「夢か……」

 

 『前回』の出来事を夢で見るのは初めてかもしれない。なぜあんな夢を見たのか、自分の心の動きの原因に一瞬だけ悩んだ。だがベッドから床に下りて、その上の壁にかけられたカレンダーが目に入ると、夢の理由に得心が行った。今日は12月10日。『前回』はこの日、綾時の告白後で初めて仲間内で会合を持ったのだった。実のある話ではなかったが。

 

 (今日辺り……話し合うことになるだろうな)

 

 人という生き物は、七日を過ぎるとどんな環境にも適応を見せるらしい。そしてそれを差し引いても、『今回』は運命的な強制力か何かによって、『前回』と同じ出来事が同じ日にしばしば発生している。その点から、今夜に会合が持たれることは半ば以上確信できた。ただし皆で集まること自体は同じでも、話の内容は『前回』とは異なるものになるだろう。だがそれでも、きっと自分はやり玉に挙げられる。

 

 (僕のせい……か)

 

 夢の内容と『前回』の出来事を改めて思い返した。またしても順平に責められるのかと思うと、少々憂鬱になる。この一年の中で、今日は最も心苦しい一日になる予感がする。と言っても、理不尽なことを言われるから憂鬱なのではない。なぜなら順平のあの言葉は、理不尽ではないから。『前回』順平は言った後ですぐ謝ってきたが、そんな必要はなかったのだ。

 

 お前のせいみたいなもの――

 

 その通りだから、心苦しいのだ。ニュクスの来訪は、自分に責任がある。滅びの罪は、己にあるのだ。

 

 論理の飛躍があることは自覚している。と言うより、理屈としては間違っている。正確に言えば、滅びが訪れるのはデスが存在するせいだ。もっと正確に言うならば、桐条鴻悦を初めとする過去の人間たちがデスを創造したせいだ。だがこれは理屈の問題ではなく、一種の信念だ。デスは、即ち綾時とファルロスは自分自身に等しい存在なのだから。そして自分は十二のシャドウを倒すことで、ニュクスを呼んだのだから。

 

 もちろん『前回』は意図してニュクスを呼んだわけではない。だが事の責任とは、動機にのみ問われるものではない。結果を問えば、責任があるのは紛れもなく自分だ。そして生まれた結果が重すぎる分、それに対する責任を問われないはずがない。そして何より、自分は責任を取ることが可能な、この世でただ一人の人間なのだ。

 

 更に言えば、ニュクスの来訪を阻止することは『前回』でも不可能ではなかった。もっと早くファルロスの正体に気付いていれば、或いは十年前の出来事を思い出していれば、世界の終わりは未然に防げた。十二のシャドウを倒す前にファルロスを殺す、即ち自殺することで。そしてそれを知っていた『今回』は、意図してニュクスを呼んだに等しい。

 

 (今にして思うと、4月にでも自殺するのが一番簡単だったな。何でそうしなかったんだっけ……?)

 

 初めから真相を理解している『今回』自殺しなかったのはなぜか。それでニュクスの来訪を阻止できても、シャドウは絶滅するわけではないから? しかしシャドウは人に災いをもたらすからと言って、それが何であろう。災いなど常にあるものだ。そもそも人間がいる限り、シャドウが絶滅することはあり得ない。

 

 仲間たちの気持ちを考えれば、死ぬより生きた方が良いから? しかし『前回』の記憶を失っている皆にとっては、4月に自分が死んでも特に悲しむことなどなかっただろう。アイギスは悲しむだろうが、彼女が記憶を保持していることを自分は予期していなかったはずだ。

 

 ファルロスを殺したくなかったから? これはありそうだ。しかしファルロス及び綾時と、いつまでも共存することはできない。どのような経過を辿ろうと、時が来れば綾時はニュクスに取り込まれてしまう。それは持って生まれた宿命であって、どうしようもない。それくらいは『今回』の初めから分かっていたはずだ。

 

 では単に死にたくなかったから? それは違うと思う。『愚者』は死を恐れない。恐れているなら、そもそも特別課外活動部のリーダーなどできない。どうでもいいくらいに思わなければ、やっていられない。

 

 (何だ……本当にどうして僕は自殺しなかった?)

 

 改めて考えてみると不思議だ。仮面が理性的な判断を凌駕して、訳も分からないうちに勝手に行動してしまったのだろうか。ではそれは何の仮面だったのか。

 

 (契約者として……か?)

 

 それはあり得る。『今回』が始まる前から、『契約』は既に済ませていた。つまり戦うことを最初から強制されていた。即ち使命があったから、逃げられなかった。どんな理不尽な強制でも甘受するとは、流されるばかりの自分には異様なまでにあり得そうなことではないか。

 

 (いや、待て。だったら3月に死ぬのでもいいじゃないか。何で僕は生き延びようとした……? ああ、そうだ)

 

 思わず両手をポンと打ち合わせてしまった。

 

 自分の死など、どうでもいい。そう思っていながら、3月以降も生き延びようと考えていた。それは『前回』と同じ結果に終わっては、また時間が戻ってしまうのではと危惧していたからだ。シーシュポスよろしく、タルタロスで永遠に岩を運び続けることだけは避けたかった。振り返ってみると自分の行動は不可解だらけだが、これだけは確かだ。

 

 (でも……時間を戻したのは僕じゃなかったんだよな。気楽に考えよう)

 

 時間を戻したのは自分ではない――

 

 自分の行動に責任を取ることが、自分が交わした『契約』だ。しかしこの責任だけは取らなくてもよい。シーシュポスになる不安は、実は杞憂だった。そう思うと、本当に気分が楽になってきた。心の形が袋であるとするならば、その底に穴が開いたように軽くなった。あらゆる痛みがそこから抜け落ちるような、そんな感覚があった。寝汗が乾いて服から消えるように、憂鬱は音もなく蒸発していった。

 

 

 「どうだ、皆……そろそろ冷静に話してみないか」

 

 夜になると、やはりと言うかラウンジに皆が集まった。話し合おうと事前に言われていたわけではなく、何となく全員が集まったのだ。今月2日に真実が明かされて以降、寮内の雰囲気は良くないものになっている。誰もタルタロスへ行こうとしないし、顔を合わせても互いの間に会話は少ない。皆がよそよそしくなっている。ただしそれは『前回』のこの頃と同じである。そして美鶴の呼びかけによって、話し合いが始まるのも同じだった。

 

 「湊……チドリのことは、いい。何だかんだ言っても、今あいつは生きてっからな。記憶はなくしちまってるけど、それだって構わねえ。代わりに体が調子良くなったってんだから、むしろ歓迎だ」

 

 だが話し合いの中身は、冒頭から『前回』とは違うものになった。そもそも話すべき事柄が変わっている。大晦日に綾時を殺すか殺さないかではなく、自分とアイギスの告白の検証が今日のテーマだ。いや、これは検証ではなく糾弾であるのかもしれない。その証拠に、順平が向けてくる視線はかなり強い。『前回』の7月に嫉妬心から突っかかって来た頃と比べても、より強いくらいだ。

 

 「けどよ……何でこんなことになったんだ!? お前、知ってたんだろ! 満月のシャドウだってお前、ガンガン倒しちまってたじゃねえか! あいつらを倒したらヤバいって、知ってたんだろ!」

 

 いきなり核心を突いてきた。順平は単純だが、その分だけごまかしが効かないこともある。

 

 「ああ」

 

 「だったら何で! 倒す以外に方法なかったのかよ!」

 

 「あったさ。僕が自殺すればよかったんだ」

 

 そう、方法はあった。今にして思うと、どうしてそれを選ばなかったのか不思議なくらい、容易で確実な方法があったのだ。

 

 「へ……?」

 

 順平の顔から急に険が取れた。予想もしない切り返しに虚を突かれたか、目を丸くしている。

 

 「今となっては、もう駄目だけどな。心配するな。ニュクスは僕が何とかする。最悪でも刺し違えてやるさ」

 

 契約者として自殺しなかったのならば、やはり契約者として自分の行動に責任を取らねばならない。そして『今回』の自分は事の真相を初めから理解していた分、『前回』より責任が重い。そんな過大な責任を引き受けては、生き延びることは絶対にできないだろう。つまり最悪でも刺し違えるつもりでいるが、実は最高でも刺し違えるしかないのだ。

 

 「駄目です。それではやり直した意味がありません」

 

 『前回』はこの場にいなかったアイギスが口を挟んできた。人が経験し得るあらゆる悲しみを既に知り、そして果てなき深淵を実際に見つめ続けた彼女は、人間以上の人間らしさでもって懊悩している。そんな彼女を見て、少し考えた。

 

 「……」

 

 時間を戻したのは自分ではない。彼女だ。それに対して、自分はどう思っているのだろうか。今をやり直したことを、辛いと思っていない。一週間前、自分はそう言って彼女を慰めた。あの言葉は、本当に本心からのものだっただろうか――

 

 (どうかな……)

 

 敢えて深く考えることはやめた。考えると嫌な結論を導いてしまいそうだ。自分は人を恨むことに慣れていない。ましてアイギスを恨みたくない。

 

 「有里、俺はお前たちの話を信じたわけじゃない。だが仮にそうだとして……具体的にはどうする気なんだ。何とかすると簡単に言うが、ニュクスを倒す明確なプランがあるのか?」

 

 今度は真田が聞いてきた。向けてくる視線は順平に負けず劣らず鋭い。だがその鋭さに、まともに付き合う気にはなれない。順平の問いと違って、答えを返せないから。

 

 「さあ、分かりません。前はどうやったのか、覚えてませんから。でも大丈夫です。その時が来れば思い出しますよ」

 

 「随分と都合のいい記憶だな」

 

 「そうですね。僕もそう思いますよ」

 

 本当に、どうして忘れているのだろうか。その他の些末なことは何でも覚えているのに、どうして肝心なことだけ覚えていないのか。ユニバースの覚醒に伴う記憶障害であるのかもしれないと4月から思っているが、それも特に根拠はない。改めて考えてみると謎である。時間が戻った原因が明らかになった今、これは『今回』に残された最大の謎と言ってよいだろう。どうでもいいことではあるが。

 

 「有里君……貴方、本当に分かってるの? 刺し違えるって、自分も死ぬってことよ。その意味、ちゃんと考えてるの?」

 

 次はゆかりだ。その視線は特に鋭いものではないし、口調も荒くはない。しかし相手の言動を理解できないような、脈絡のない極めて分かりにくい話を聞かされているような、眼前の相手に対する不審が表情に強く表れていた。それを見て、思い出したことがあった。

 

 (ああ……立場が入れ替わってるな)

 

 『前回』のこの日の集まりでは、ゆかりはかなり軽い感じで話をして、神経を逆なでされた順平に怒鳴られていた。あれは恐怖に立ち向かおうとする為の、ゆかりなりの方便であったのだろう。だが『今回』のゆかりはそこまでの恐怖を抱いていない。そしてそれは、ゆかりに限らない。

 

 ニュクスの来訪に対して大きな恐怖を抱いていないのは、アイギスを除く皆がそうだ。『前回』と違って、ニュクスに勝てないことを綾時は強調しなかったからだろう。そして『今回』は、自分が『前回』のゆかりに近い感じで話をしてしまった。素の状態のゆかりからすれば、気に障ることもあろう。

 

 だが事実は事実だ。話の雰囲気が軽かろうが重かろうが、現実の事態は何も変わらない。

 

 「もちろん分かってるさ」

 

 相変わらずの軽い口調で答えてやると、ゆかりの視線に含まれる不審の色が更に強くなった。それを受けて、また少し別のことを考えた。

 

 (僕が死んだら、ゆかりはどうするかな……)

 

 時間を戻したのは自分ではない。だが戻す方法が存在するというのは重要な問題だ。アイギスの話によれば、3月31日に皆は『鍵』なるものの使い道を巡って仲間割れしたとのことだ。最終的にアイギスの決断によって過去に戻って来たようだが、その際に誰が何を主張したのかは聞いていない。

 

 だが察するところ、ゆかりは戻ることを主張したのだろう。父親の件で世間から辛く当たられた為であろうが、ゆかりは他人との間に壁を築きやすい。しかし本来の性格は情が濃い。特に『前回』は自分と特別な関係になったから、なおさら未練があったことだろう。

 

 そして都合の悪いことに、ゆかり以外にもそういう人はいる。風花と美鶴も同様に情が濃いし、自分との関係も深かった。『今回』は彼女らとそうした関係を結ぶつもりはないし、あっても時期的に遅いから難しいが、何かの気の迷いを起こされたら困る。ここは一つ、皆が抱いている不審に乗じて釘を刺しておくべきだろう――

 

 「お前……分かってねえよ」

 

 釘を刺す前に、順平がソファーから立ち上がった。そしてこちらを指差しながら身を乗り出してきた。口調は最初より更に激しい。

 

 「あのな、何でこんなことになったって、ニュクスってのが来るって話じゃねえんだぞ! お前が死んじまうってことなんだぞ! んな大事なこと、ずっと黙ってやがって! 怖えとか助けてくれとか、そんくらい言えねえのか!?」

 

 (ああ、なるほど)

 

 『今回』の順平は、世界の終わりに大した実感を持っていない。つまり順平自身も含めた世界全体の死ではなく、一人の人間の死と向き合わされて、それに苛立っているわけだ。そして『前回』と違って、『今回』は魔術師のコミュニティの為か自分との仲は一貫して良好だった。そうすると釘を刺すべきなのは、ゆかりよりも順平であろう。

 

 「じゃあ一つだけ頼む」

 

 言った途端、順平だけでなく皆の視線が集まった。ニュクスの来訪ではなく、自分の死に対して何かできることがあるのか。そんな急な期待が見受けられる。だが残念ながら、そんなものはない。あるのはその後に関してだけだ。

 

 「僕が死んでも、未練を残すなよ。やり直すのは一回だけでいい」

 

 百歩譲って、今を一回やり直すのは許そう。だがそれ以上は勘弁してもらいたい。どんなに楽しい日々であっても、無限に繰り返すのはやっていられない。そしてそもそもこの一年間は、楽しいものではない。

 

 「お、お前なあ……!」

 

 順平は大股で近づいてきて、座ったままの自分の胸倉を右手で掴んできた。状況は『前回』と全く違うが、やはり掴まれた。これも運命的な強制力の賜物か。自分は必ず死なねばならないことは、こんな形でも表されているのかもしれない。

 

 「お前がそんなに薄情だったたあ、知らなかったぞ! 俺らを何だと思ってやがんだ!」

 

 時間を戻してくれた迷惑な連中、とは思いたくない。では自分は彼らをどう思っているのだろうか。駒か、友人か。

 

 (違うな……)

 

 駒と言うには使い勝手が悪すぎる。順平を始め、新たなペルソナに目覚められなかった者たちは、もはや役に立たない。そうでない者たちも、ワイルドに比べればやはり見劣りするしストレガにも及ばない。友人と言うには打算的すぎる。個人としてのコミュニティが女性陣としかなかった『前回』はともかく、『今回』は全員とそれを築いてきた。だから互いに分かり合うことはできたとも言えるが、より打算が多くなったとも言える。『我』が教える絆は、友情と呼ぶには不純すぎる代物だ。では何か?

 

 (どうでもいい……って奴か)

 

 アイギスを恨みたくなくて停止させた思考は、順平によって再起動させられた。そして恨むより酷い結論を導いてしまった。しかしそんな自分に対して、意外にも嫌悪を感じなかった。むしろ自分らしいと思えてくる。内向的で人と話すのが嫌いで、万事が投げ遣りな、言葉通りの意味での無気力症。全ての仮面を剥ぎ取った、本当の自分はそういう類の人間だ。

 

 (あ、もしかしたら……僕の性格がまともだったら、結果は違ったか?)

 

 もしデスを宿したのがもっと前向きな人間であれば、11月4日のあの日、タルタロスの鐘は鳴らなかったのではないか。何とはなしに、そんな気がしてきた。

 

 宣告者の存在は関係ない。シャドウが月に吠えることも関係ない。世界の本質的な無意味性だとか、終末思想の流行などは言うまでもない。あらゆる外的な出来事は一切関係なく、ただ単に自分が駄目な人間だから世界は滅ぶ。例えばもし、デスの器が素直で快活で魅力的で、『愚者』の演技など必要としない本当の人気者だったら。あらゆる意味において自分と正反対の人間だったら。いっそのこと、女だったら。そうであったらニュクスは訪れなかったのではないか――

 

 (そんなはずはないが……)

 

 もちろんそんな都合のいいことはあり得ない。だがこのとてつもなく馬鹿馬鹿しい仮定に、奇妙な面白味を感じてしまった。もし自分が女だったら、この部はどんな有様になっていただろうか。真田や荒垣や天田とはやはりコミュニティを築いて、彼ら全員と特別な関係になったのだろうか。順平にはチドリがいるが、それさえ略奪していただろうか。コロマルはさすがに無理だろうが、女性陣はどうだろうか。彼女らにそっちの趣味があるとは思えないが、案外新しい扉を開けてしまうかもしれない。少なくともアイギスは開けそうだ。綾時とはどうなっていただろうか。ファルロスの頃から、そんな関係になっていただろうか。

 

 (何だ、楽しそうな部じゃないか)

 

 色々想像してみた別世界の特別課外活動部は、何だかとてもおかしかった。男の自分が送っている殺伐とした物語とは全く違って、平和なコメディーだ。きっとニュクスも馬鹿馬鹿しくなって、世界の終わりなど向こうから避けて通ってくれたことだろう。

 

 「僕が女だったら良かった。そう思ってるよ」

 

 「お前……ふざけてんのか!?」

 

 胸倉を掴む手に込められた力が強くなり、野球帽のつばが自分の額に当たりそうな位置にまで引き寄せられた。至近距離に置かれた順平の顔は、チドリの抽象画に描かれた生き物のように赤く染まっている。普段の順平が着用している、深刻さを嫌う軽い仮面はどこかへ放り投げられて、本来の性格である熱血漢が表れている。

 

 「お前の命だろうが! 冗談言ってる場合かよ!」

 

 そして遂に拳を振り上げてきた。『前回』の順平は冗談めかしていたゆかりに対して、ただ怒鳴るだけだった。自分がもし女だったら、『前回』ゆかりに対するのと似た反応を返してきただろう。だが男ではそうは済まないようだ。

 

 「順平さん!」

 

 ここでアイギスが立ち上がり、振り上げられた順平の左腕を抑えた。

 

 「くっ……離せ!」

 

 順平は顔を更に赤くして振り解こうとするが、鉄の腕で抑えつけられては微動もできない。単純な膂力で比べるなら、アイギスには誰も敵わない。

 

 「伊織、よせ!」

 

 美鶴が立ち上がり、鋭く制止した。順平はそちらを振り返り、数秒に渡って視線を交わす。歯を食いしばった顎が僅かに揺れている。だがやがて胸倉から右手を離し、左の拳も解いた。それを受けて、アイギスも順平から手を離した。

 

 「有里……それにアイギス。私も君たちの話を信じたわけじゃない。だが嘘や誤解と決めつけることもできない」

 

 そう言って、美鶴はため息を吐いた。額に手を当てて考え込み、やがて頭を振った。様々な思考や感情がもつれて絡まり合ったものに対して、何とか折り合いをつけようとしている。

 

 「今後はこうした半端な集まりはしない。望月が来る大晦日まで、まだ時間はある。それまでに各自考えをまとめておけ」

 

 『前回』もそうだったが、美鶴はこの場で迷いを断ち切ることはできないようだ。それを一旦遠くへ追いやる形で、場を締めに入った。

 

 「ああ……クソッタレ!」

 

 「……」

 

 順平は顔を真っ赤にしたまま吐き捨て、床を蹴りつけるような足取りで階段へ向かって行った。それに続いて、真田も足早に階段へ向かった。今日特に発言のなかった天田と荒垣は席を立たず、黙って自分を見つめてくる。口に出しては何も言って来ないが、視線の中には相当量の訝しさが見受けられた。それを見て思う。

 

 (コミュが壊滅したかな……)

 

 愚者を始めとする仲間関係のコミュニティが、ことごとく壊れたかもしれない。魔術師と星は既に極まっているが、それさえ駄目になったかもしれない。今のところ、絆を教える『我』は何の声も届けてこない。だから実は無事なのかもしれないが、そうではなくて宣告するまでもないのではなかろうか。『我』も呆れて、ものも言えなくなっているのかもしれない。

 

 理由は分からないが、『今回』は仲間に関わるコミュニティがやたらと多い。綾時の死神を含めて十一、未発生の審判も入れれば十二だ。タロットの大アルカナのうち、実に半数を超える。死神とアイギスの永劫だけは無事だろうが、残りの全てが壊れたらどうなるか。ユニバースを得るにはコミュニティが不可欠だが、アルカナの数だけ全て揃える必要があるのかは分からない。だが一部だけでよいのだとしても、これだけ壊れたらさすがに駄目ではなかろうか。そうだとすると、この世は終わるしかない。

 

 (いや……どうでもいいさ)

 

 嘘は吐くまいと最近は心掛けてきた。今日はそれを徹底しただけだ。つまり自分の地である無気力症が出た。そもそも『前回』特別課外活動部に参加したのも、どうでもよかったからではないか。

 

 危険など気にしない。怪物など恐れない。自分の死など、どうでもいい。そう思っていたのではないか。ならばニュクスと刺し違えて死のうと構わないはずだ。そして負けて死ぬのでも、世界が一緒に滅ぶのも別に構わない。

 

 初心に返った。それだけのことだ。

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