「湊さん、お願いがあるのですが」
月光館学園の高等部は、二学期の期末試験を来週に控えている。『前回』の私はこの時期まだ修理中で、試験は受けていなかった。しかし『今回』は当然受けなければならない。
今月2日の私たちの告白以来、特別課外活動部の状況は良くないものになっている。しかし皆さんは学校には真面目に通っているし、私も通っている。だから試験を受けないわけにはいかない。そこで今日は彼に勉強を教えてくれるよう、頼んでみた。ただ近頃の彼は以前と比べて態度が変わっていて、引き受けてもらえるか不安だったのだが――
「ああ、いいよ」
意外にも、快く引き受けてくれた。そうして私は彼と共に教室を出て、図書室にやって来た。見回してみれば、利用している人はかなり多い。普通の学生ならば、試験が近づけば勉強に励むものであるからだろう。そんな普通の人間がする普通の生活が、何だかとても眩しく思えた。
「問題、教えてやろうか?」
運よく空いていた図書室の隅の方の席に座りながら、彼は事も無げに言ってきた。彼の成績は元々非常に優秀だが、驚くべきことに彼は『前回』受けた試験の問題を、全て記憶しているらしい。私も多少は覚えているが、全問を暗唱したりするのはさすがに無理だ。私の記憶力は戦闘に関すること以外では、普通の人間と比べて大きな差はない。だから10月に受けた中間試験の結果は、『前回』と比べてそれほど良かったわけではなかった。まして受けていない期末試験では、良い点数を取るのは難しいだろうと思っている。
「いいえ、不正はしません。正々堂々、玉砕します」
兵は詭道という言葉がある。その意味は、戦争とは騙すこと。つまりずるいことをするのが、戦争の道具である兵器の本分だ。しかし試験は戦争ではない。よって策は用いない。正面突破あるのみで、場合により玉砕も是とする。
「難しいです……」
「問題はやっぱり文系か」
私の学力の傾向では、文系科目は全般的に成績が良くない。特に現国は本当に苦手だ。単に暗記すれば解けるような問題ではなく、しかも論理的にだけ考えればよいものでもない。文章の作者や物語の登場人物の気持ちを察することなどは、非常に難しい。
難しいと言えば、最も近くにいる彼の気持ちを理解することも難しい。それは私のこうした思考回路の構造に由来しているのかもしれない。そう思うと、とても悔しい。
「息抜きに理科をしようか?」
「あ、はい……」
悔しいことではあるが、このままでは勉強は一向に進まない。彼の提案に従い、少しは得意な理系科目をやってみることにした。
「豆腐の凝固過程……大豆のタンパク質分子のマイナスイオンが、塩化マグネシウムのプラスイオンと結合することで強固なゲルを形成します。更に大豆中のフィチン酸が金属イオンの仲介をします……」
「そこまで細かく覚えなくてもいいと思うが」
「フレミングの左手の法則……中指が電流、人差し指が磁界、親指が導体にかかる力の方角になります。三つを合わせて電磁力。親指が力なのは、人間の指の中では一般に親指の筋力が最も強いから……」
「何か違うような気がするが」
「46億年前に原始地球が生成、それから間もなく小惑星テイア、またの名をオルフェウスが衝突……宇宙空間に放出された地球のマントル物質が集まり、月が生成されました。当時は月と地球の距離は数万キロメートルしかなく、巨大な潮汐力によって原始の海は一種のフラスコ状態になって化学変化を促進……。なお、その影響で地球の自転速度は遅くなり、現在もそれは継続中……」
「僕ら、地学は履修してたっけ?」
いつの間にか勉強に夢中になってしまった。関係のない教科にまで手が及んでいたことに、言われて初めて気付いた。
「文系に戻ろう。日本史でもやるか」
そうして私たちの本来の履修科目に戻った。彼によると、日本史は恒例の戦国時代の他にも平安末期が範囲になるらしい。出題される問題そのものは聞かないようにしているが、時代の区分を教えてもらうくらいは構わないだろう。
「保元の乱……西暦1156年7月11日未明、平清盛、源義朝らを中心とした後白河天皇方が、白河北殿を占拠した崇徳上皇方を夜襲。上皇方は源為朝の奮戦により、天皇方を一時撃退。その後、天皇方は義朝の献策により火攻めを行う。その結果、上皇方は総崩れに陥る……」
「凄いな。そこまで詳しくは僕も知らないな」
「戦史は得意です」
苦手な文系科目であっても、日本史は現国に比べれば得意な方だ。特に戦史の枠組みに限定すれば、一般の高校生にはまず負けない自信がある。もっともこの学校で教えられる日本戦史は非常に詳細かつ局地的な為、兵器としての私の知識が及ばないこともあるが。
しかしそれは逆に言うと、私さえ知らないほど数多くの戦争が、過去にはあったことになる。それに気付くと共に、思い出したことがあった。
「どうして……人間は戦争をするんでしょう」
「ん?」
「少しご覧になっていただきたいものがあるのですが」
私はカバンから一枚の紙を取り出し、彼に見せた。彼は黙って受け取り、先頭から順に目を巡らせた。文末まで視線が至ってから、彼は少し黄ばんだ紙から目を離して私に向けてきた。
「随分古い紙だが、どこでこんなものを?」
「8月の満月の時、あの場所で見つけたのです」
「なるほど」
これはあの戦車を作ったと思われる、陸軍技師の手記だ。文面はこうだ。
『残されし僅かなる者の手にて、我等が宿願、遂に完成を見たり。後の同朋の手に渡ることを切に願い、内側より鍵を施すものとする。共に今日を迎へられず逝った同志は何処からか、勇姿を見て居られようか。御母上よ、妹よ、そして我が子供らよ。先立つは貴方がたの未来の為なれば、我が力の及ばぬを、どうか許されたし』
私は戦闘に関すること以外では人並み程度の記憶力しか持たないが、このくらいの短い文章は何度も読めばさすがに覚える。この手記は普段から持ち歩くようにしていて、事あるごとに繰り返し読んだ。戦争の時代の人は、どのように生きていたのかと興味を覚えたから。私自身が戦争の道具であるということもある。そしてまた、『先立つは貴方がたの未来の為』。これはまるで、彼の言葉のように思えたから。
「でも同朋の手には渡らなかった……か」
彼の言う通り、あの戦車は実戦に投入されることはなかった。地下の武器庫に忘れ去られたまま、最後はシャドウに利用された挙句に、私たちに破壊されたのだ。
「これを書いた方は……どう思っていたのでしょうか?」
「さあな」
「残されたご家族はどう思われたのでしょう?」
「本人にしか分からないことだ」
彼の答えを聞いて、私はまた思い出したことがあった。これと似た話を、私たちは『前回』にもしている。町で知り合ったあるお婆さんの飼い猫が姿を消してしまい、私たちが探したのだ。飼い猫のミイちゃんさんはやがて見つかったが、程なくして再び姿を消したらしい。ミイちゃんさんは幸せだったのか、何の為に生まれて来たのか、私は彼に尋ねた。その時の彼は、ただ分からないと答えていた。
「人はなぜ、戦争をするのでしょうか?」
誰かと繋がっていることが、『生きる』ことである。私は『前回』にそう思ったし、今でもそう思う。ではなぜ人は戦争をするのか。あらゆる繋がりを断ち切り、大量の死を振りまく地上で最大の不幸を、人はなぜするのか。それも一度や二度ではなく、数えきれないほど何度も行うのか。
「人類の歴史は戦争の歴史さ」
「やはり……そうなのですか」
この問いにだけは、彼は分からないとは言わなかった。そしてその答えに、私は納得した。納得できてしまった。
第二次世界大戦の終結から既に六十年以上が経過しており、それ以来私たちがいるこの国は、現在に至るまで一度も戦争をしていない。間接的に関わることはあったかもしれないが、少なくとも実戦は行っていない。だから私たちの周囲の人々は、過去の戦争に実感を持っていない。8月の満月でも、ゆかりさんと風花さんはそういう反応を示していた。
だがそれは現代日本が例外なのだ。平和の合間に戦争があるのではなく、絶えない戦争の間の僅かな休息が平和。歴史に関する私の知識からは、そういう結論が導ける。
「では……人類はその歴史に絶望しないのでしょうか?」
「することもあるさ。例えば……末法思想ってのが中世の日本では流行したらしい」
彼は語った。終末思想は決して現代に特有のものではないのだと。古代から語られ続けてきた、歴史的に普遍性のある思想であると。例えばキリスト教における最後の審判と救世主の再臨などは、まさにその典型となる。他にも仏教における弥勒信仰、ヒンズー教におけるシヴァ神による世界の破壊、或いはヴィシュヌ神の化身カルキによるカリ・ユガの破壊。世界の大宗教から新興のカルトに至るまで、数え上げれば切りがない。ただしそれらの終末を文字通り人類の滅亡と解釈するのは、正統的とは言えないとのことだった。
「まあ、この辺は江戸川先生の受け売りだがね」
「そう……なんですか」
私は戦史から離れた思想や宗教の歴史には詳しくないし、思想そのものはもっと詳しくない。総合学習の授業も聞いてはいるが、正直なところあまり理解はできていない。しかし彼はそんな私より、そちらの方面にずっと詳しい。
「では……どうしてこの時代なのでしょうか?」
どうして21世紀のこの時代に、ニュクスが訪れることになったのか。現代よりも過酷な時代は、歴史上に何度もあったはずであるのに。
「それは……」
彼が答える前に、突然の電子音が彼の胸元から響いた。彼は制服の胸ポケットの辺りを押さえて立ち上がり、図書室の出口へと向かって行った。私はそれを止める事なく、黙って見送った。あれは携帯電話の音だ。図書室では電話の使用は禁止されている。
「……」
待っている間、私は机に置かれた教科書やノートを改めて見つめ、そして図書室を見渡してみた。来た時と同じく、多くの生徒が一心不乱に勉強している。
試験が近いのだから、普通の生徒は勉強をする。しかし私たちは普通ではない。もう間もなく訪れる世界の終わりの為に、しなければならないことがあるはずだ。もちろん影時間にならないとタルタロスには行けないが、普通の二十四時間の間にもできることがあるのではないだろうか。
(こんなことをしていてよいのでしょうか……?)
部の他の皆さんはまだしも、彼と私だけは何かしなければならないのではないか。私たちは未来を知っており、特に私は時間を戻した責任があるから。それでいながら、勉強などをしている。実は私は今、現実から目を逸らした姑息な行為をしているのではないか。『前回』の11月、先の展望が何もないまま修学旅行に出かけた頃のように――
そんなことを思っているうちに、彼が戻ってきた。
「済まない。勉強はここまでだ」
「どうされたのです?」
「呼び出しだ」
私たちは学校を出て、ポートアイランドのとある高級ホテルにやって来た。そしてロビーで黒服の男性に迎えられ、最上階のスイートルームに案内された。とても広いその部屋で待っていたのは、7月に同じこの場所で会った人物だった。
「わざわざ済まないな」
スーツを着た五十歳くらいの男性で、右目に眼帯を巻いている人物。桐条グループ総帥の桐条武治さんだ。
「いえ……」
彼はソファーに腰を下ろし、武治さんと正対した。しかし私は座らず、以前ここに来た時と同様に、彼の後ろに立ったまま武治さんの動きを見張ることにした。
今日呼び出されたのは彼だけだったのだが、私もついて来ることにした。何の用件で呼び出されたのかは、彼も私も察しがついていた。ならば彼と同様に事の当事者である、私が行かないわけにはいかない。そしてまた、彼に危険が及ぶ可能性もゼロではないと判断できた為、彼を一人で行かせる選択肢は初めから私にはなかった。彼も私の同行を断らなかったので、この通りここまで来た。
そんな私に対して、武治さんは特に見咎めはしなかった。挨拶もそこそこに、話はすぐに始まった。
「昨日美鶴から報告があった。君たちは未来を知っていると?」
(昨日でしたか)
私たちが皆さんに告白したのは、今月2日だった。それから一週間以上も経って武治さんに報告されていたとは、事の重大さから考えれば遅すぎる。ということは、美鶴さんもかなり悩んでいたのだろう。話の真偽や、私たちの真意について。
「ええ」
「ではなぜ、今まで黙っていたのかね?」
「話せば信じてくださいましたか?」
「俄かに信じることはできんが……頭から否定するつもりもない。父が研究させていたことを考えれば、可能性はないとは言えん」
「ああ、そんな話もありましたね」
(そう言えば……)
武治さんの父親、桐条鴻悦さんが岳羽詠一朗さんを始めとする大勢の研究者を集めて行わせていた研究とは、デスの創造と世界の破滅だ。しかし当初は『時を操る神器』を作り出すことが目的だったと聞いている。ただしそれがどう捻じ曲がって現在の事態を生み出すに至ったのか、その辺りの経緯の詳細までは私たちは知らない。
ただいずれにしても、武治さんは私たちの話を絵空事とは受け取っていないようだ。そうすると、今まで話さずにいたことが問題になる。呼び出しを受けた当初から心配していたことが、どうやら現実となりそうな気配だ。
「……」
「……」
彼と武治さんは言葉を重ねないまま、しばらく視線を交錯させ続けた。こうした無言の対峙では、互いの意志の強さが結果を左右する。彼の精神力は尋常でなく強靭だが、近頃の彼はそうとばかりは言えないところがある。そんな彼は、先に折れた。
「貴方に話さなかったのは、僕はニュクスの来訪を未然に防ぐことができたからです。デスが僕の中にいるうちに自殺すれば、それで世界の終わりは防げたんです。しかしそれを知られたら、貴方は僕を殺すかもしれない……そう思ったからです」
折れた彼は極めて正直に、事実をありのままに話した。それを受けた武治さんは彼から視線を外し、額に手を当てて考え込んだ。
「君は……」
「桐条さん。貴方が今生きていらっしゃるのは、彼のおかげなんです」
武治さんが何か言う前に、私は先手を打った。それと共に、武治さんは私に視線を移す。しかしソファーに座った彼は振り返らず、何も言って来ない。そうして私は誰にも邪魔される事なく、一つの真相を話した。『前回』の11月4日、武治さんはタルタロスの天文台で幾月と相撃ちになって亡くなっていたことを。そしてそれを防ぐ為に、彼は幾月に裏があることを教えたのだと。
「ではそれを証明することはできるかね?」
「できません。ですが……」
ここで彼は手を挙げて、言葉を更に繋げようとする私を遮ってきた。ただしやはり振り返りはしない。手の動き一つだけで、私を制止してきた。
「桐条さん、嘘を吐いていたことは謝ります。謝るだけで済まないなら、どうとでも為さってください。僕は自分のしたことから、逃げるつもりはありません」
彼はソファーに座ったままで、その後ろに立っている私に背を向けている。私を見ないまま、こんなことを言う。それは許さない。
「彼はこう言いますが、私の考えは違います。もし貴方が彼に危害を加えるつもりなら、私は絶対に許しません」
言い終えると共に私は左右の手を一度握り、そしてまた開いた。その動きで腕に仕込まれた機構がごきり、と鈍い音を立てた。彼の最期を看取るのはもうたくさんだし、私のいないところで彼が死ぬのはもっとたくさんだ。たとえ彼に非があろうと、相手が仲間の父親であろうと、彼に仇なす者に容赦はしない。事と次第によっては、今この場で銃を撃つことにも躊躇いはしない。一瞬の間に、私はそこまで気持ちを進めた。しかし――
「君たちは真っ直ぐすぎるな。そんなことでは、世を渡って行けんぞ」
臨戦態勢に入った私と座ったまま身動ぎもしない彼を交互に見つめて、武治さんはため息を吐いた。それは酷く長いもので、数秒も続いた。
「君たちを咎めるつもりなどない。私は自分を善人などとは思っていないし、無条件の信頼に値するとも思っていない。この十年、それだけのことをしてきたのだ。今日呼んだのは、確認したいことがあるからだ」
そう言って武治さんは姿勢を正した。一つだけの目を彼へと真っ直ぐ向け、ゆっくりと口を開いた。
「桐条の罪は……償えるのかね?」
「はい」
武治さんの確認に対して、彼は一言だけで答えた。短すぎるその言葉は、一体何を含んでいるのか。恐怖や不安の有無は判断できない。彼は私に顔を見せていないので、言葉以外のものから判断することもできない。
「それは君の命と引き換えにせねばならないのかね?」
「いいえ、私が守ります」
彼が答える前に、私は再び先手を打った。そうしなければ、彼は何を言い出すか分からない。彼は7月にここで話をした時には、武治さんを自在に操るほどの口の巧みさを見せていた。しかし近頃の彼は、そうしたところがない。一昨日に皆さんで集まった時にも、ただ話の流れに身を任せてしまっていた。
それはつまり、彼はやはり私が守らなければならないということだ。彼を責める人や彼を苦しめる運命から彼を庇って、彼の盾にならなければならない。そして最後は、彼の身代わりになる――
「元より君たちを頼る他にない戦いだ。成功を祈るとも失敗は許さぬとも、私は言うことはできない。ただな……これだけは覚えておいてくれ」
言いながら武治さんは私を見つめ、そして再び彼に戻した。その視線はとても優しいものに見えた。
「これは君が負うべき罪ではないのだ。全ては我々大人の……鴻悦と私の罪だ。滅びを呼んだのは、君ではない。君が負わねばならない責任など、毫もない」
「……」
滅びを呼んだのは彼ではない――
『今回』の11月5日、私はタカヤと対峙する彼にそう言った。それと同じことを、武治さんも言っている。立場も知識も全く異なる私と武治さんの意見が、期せずして一致している。それは私たちの方が正しいからではないのか。そんな閃きが、本来は論理でしか考えられない私の頭に生まれた。
「君がいかなる善意や勇気によって、滅びに立ち向かうのか……それは何であっても構わない。だが責任を感じる必要はないのだ」
「……」
武治さんの優しさに対して、彼は何も答えなかった。ただソファーから立ち上がり、深く頭を下げた。
「……失礼します」
下げたまま、彼は一言だけを返した。それを受け取った武治さんは隻眼を閉じて、深く頷いた。そして彼は踵を返した。話はこれで終わりになるようだ。ここへ来る前に心配していたことは、実は杞憂だった。しかし私はこれで別れるのは惜しいような気がした。
「一つお伺いしてもよろしいですか」
彼は既に私とすれ違い、部屋のドアへと向かって歩き出している。しかし私は彼の後に続く前に、武治さんに尋ねてみた。責任に関する意見が一致した、この人の考えを聞きたくなった事柄があったのだ。
「何かね」
「鴻悦さんは、なぜ世界の破滅を望まれたのでしょうか?」
人は太古の昔から、数えきれないほどの戦争を繰り返してきた。人類の歴史は戦争の歴史であると言えるほどに。それによって無数の絆を断ち切ってきた。なぜそんなことをするのか、今日の図書室で私は疑問に思った。
鴻悦さんが端緒となったこの事態は戦争ではないが、人の繋がりを断ち切る点においては同じことだ。しかもそれがもたらす被害の大きさは、過去のいかなる戦争よりも大きい。なぜそんなことをしたのか、私は聞きたかった。
「ふむ……晩年の父は、何かとても深い虚無感を胸の奥に持っていたようだ」
武治さんは語り出した。生前は理解できなかったが、今にして思うとそれを打ち破る為に鴻悦さんの乱心は始まったのかもしれない、とのことだった。
「では、その虚無感はどこから生まれたのでしょうか?」
世界が破滅する時には、当然鴻悦さん自身も死ななければならなかったはずだ。死は誰も避けられない自然現象だが、人は死を恐れる。自分の死はもちろんのこと、愛する人の死も恐れるはずだ。それでいながら、目に映る者だけではない、地球上の全ての死を鴻悦さんは望んだ。それがもたらす途方もない悲しみを凌駕する虚無とは、一体何であるのか。それはどこから生まれたのか。いかなる思想に依拠しているのか。
鴻悦さんが何を思っていたのか。それは想像することさえ難しい。いかなる試験よりも、ずっと難しい問題だ。滅びを己の罪と定めている彼の心や、世界に死を宣告する綾時さんの心と同様に、近づくのは困難を極める。でも私はそれを知りたいと思った。思ったのだが――
「今となっては死人に口なし、真実は闇の中だ。だが……特別な理由があってのことではないと、私は考えている」
「は……?」
武治さんの答えに、私は拍子抜けしてしまった。意味が分からなかった。世界の破滅を望むのが特別ではない?
「人は絶望しやすいものだ。金や物に恵まれていてもいなくても、絶望する時はする。ただ鴻悦は人より多くの手段を持っていた。それだけのことかもしれん」
「……」
「言いたいことは分かる。事態の大きさに比して、愚かしすぎる話だ。だがな……人という生き物は、そんな程度なのだよ。この私とて、戦いなどやめてどこか遠くへ逃げようと、娘に何度言おうとしてはその度に飲み込んできたか……。娘一人の命と世界を天秤にかければ、どちらに傾くか……考えると己が恐ろしくなる」
一人の命と世界――
そうだ。私はかつて今と彼を天秤にかけて、彼を選んだ。それが人の愚かしさであるならば、私は立派な愚か者だ。鴻悦さんを責める筋合いはない。
「アイギス、行こう」
自分の責任の重さを改めて思い知ったちょうどその時、彼が声をかけてきた。私はそれに引き寄せられるように、武治さんに一つお辞儀をしてから彼のもとへと向かった。そんな私を迎えると、彼は手をドアノブにかけた。しかしその手は急に止まった。
「あ……済みません。一つお話しできることがありました」
何かを思い出したように、彼はその場で振り返った。私もそれに合わせて部屋を顧みると、武治さんはまだソファーに座っていた。
「何かね」
「お嬢さんには婚約者がいらっしゃいませんか? 二回りも年の離れた、企業経営者の」
「それがどうかしたかね」
「お嬢さんはあまり乗り気でないようです」
「それは……未来の知識かね?」
「ええ。グループの将来など色々あるのでしょうが、無理強いはしないであげてくれませんか」
「……考えておこう」
それで今度こそ話は終わりになった。
なお、この日以降に私は思想や宗教についての勉強を始めることにした。期末試験の出題範囲からは完全に外れているが、それで構わなかった。翌週からの試験期間中までそれを続けた為、成績は非常に芳しくないものになってしまった。部の皆さんの中で、最も悪かった。
本作の構想段階では、桐条武治とは太陽辺りでコミュを築くことも考えていました。その場合、岳羽詠一朗の本物のビデオを見た7月25日にコミュ発生、この話でMAXとする予定でした。しかしオリコミュとなるとタカヤの運命コミュと同じになりますが、本作の武治はタカヤほど重要人物ではないので同等の扱いはできないと思った為、却下したという裏事情があります。
ついでに言うと、コミュを通じて親しくなると『美鶴と結婚してグループを継いでくれ』とか、武治は言い出しかねないという危惧もあったりなかったり……。