高校生にとって二学期の期末試験は重要なものである。大学受験を控えた三年生にとっては本番前の学力の最終確認となるし、推薦枠を狙う生徒にとっては最後の関門となる。そして二年生と一年生にとっても、小手調べや応用編の初級と言った趣が強いそれまでの試験と異なって、難度が格段に上がる傾向がある。だから12月の初めから中旬にかけては、勉強をする生徒が多い。
そして巌戸台分寮でも、試験勉強に精を出す寮生が多かった。ただし学生の本分であるから、などと思って真っ当に勉強に集中していた者はいない。そんな不純な期末試験を終えた、翌日の日曜日の昼間のこと――
「どうしたんですか? 突然」
ゆかりは寮の自室に、珍しい来客を迎えていた。ここの寮生たちは個室に他人を招くことはめったにない。何か話をする際は、ラウンジか作戦室に集まるのが常である。まして眼前の人物が来るのは、本当に珍しいと言ってよい。
「うむ……」
来たのは美鶴だった。ゆかりは取り敢えず椅子を勧め、自分はベッドに腰掛けた。そして美鶴は椅子に座りはしたものの、腕組みをして考え込むばかりで、なかなか始めようとしない。
「もしかして先輩、寂しい……とか」
煮え切らない来客に少し焦れたゆかりは、わざと軽い調子を作った。だが相手の反応は意外なものだった。
「寂しい……ふむ、そうかもしれないな」
「え?」
ゆかりとしては、冗談のつもりで言ったものだ。美鶴と言えば、成績は学年トップで生徒会長で特別課外活動部の部長で、人の上に立つ人物の典型、と言うのが周囲の主な評価だ。もっともそうとは限らない一面も、ゆかりは何度も見ている。しかしここまであからさまに弱気を見せることは、そう頻繁にはなかった。
だからゆかりは驚いた。しかし美鶴も取り敢えず一声発したことで踏ん切りがついたのか、視線を真っ直ぐ合わせながら語り出した。
「例の件について、君の意見を聞きたくてな」
ここで言われている例の件とは、大晦日に綾時をどうするかではない。今月2日と10日に語られた、湊とアイギスの話だ。即ちこの日々が二度目であるという事実。そしてそれに付随する、様々な事実について――
いや、事実と言うには少し違う。ゆかりと美鶴を含め、特別課外活動部の多くは例の話を事実としては未だ受け止めていない。しかし彼らの話を、事実以外の何かであると決めつけるのも微妙なところである。今日はそれを相談したくて、美鶴は後輩の部屋を訪問したのである。
何かの区切りをつけなければ、自分たちは前には進めない。たとえ明確なものでなくても。美鶴はそう考えていた。だが一人では区切りをつけられなかったので、誰かと話をしたかったのだ。では話し相手として、誰が最善か。
特別課外活動部のメンバーの中では、困った時に最も頼りになるのは現場リーダーの湊だ。だが問題となっている当の人物に相談はできない。次点では同学年で付き合いも長い真田か荒垣だが、単純と無骨な彼らでは実のある話はできないかもしれない。そう思った為、最初にゆかりを訪ねたのだ。
「うーん……何て言いますか、時間が戻ったなんて、正直信じらんないです。常識からかけ離れすぎてますから。でもペルソナやシャドウだって常識じゃあり得ないですし、ひょっとしたら本当なのかもって、ちょっと思います。先輩はどうですか?」
当たり障りのない回答を一つ返してから、ゆかりは逆に問いかけた。すると美鶴はゆかりから少しだけ視線を外し、思考の経緯から話し始めた。
「最初の何日かは、有里とアイギスは嘘を吐いているのではと思って、その理由を考えてみた。だが無駄だった。彼らがあんな嘘を吐く理由は、一つも見つからなかった」
人が嘘を吐くのは、大抵は何か目的や理由があってそうするものだ。人を欺くことであったり、自己防衛の為であったり。しかしあの二人があんな嘘を吐いたところで、何かのメリットがあるとは到底思えなかった。
「そうですか……この話、お父さんには?」
「話したさ。さすがの父も理解に苦しんでいたが……。実は屋久島に行った際に、幾月は裏切者だと父は有里から聞いていたらしい」
「え!?」
最後のシャドウである十三体目が出現する12月2日を最後に、影時間とタルタロスは消えるはずだった。だから3日の午前に美鶴は父親から電話で連絡を受け、首尾の報告を求められていたのである。しかし当時の美鶴は2日に聞いた話を整理しきれていなかったので、追って説明するとしていた。
そして皆がラウンジで集まった翌日の11日になって、美鶴は湊とアイギスの話を初めて父親に報告したのである。ただし直接会いに行ったのではなく、電話で話した。顔を見ずに話すような事柄ではないのだが、11月の初め以来、美鶴は父親と会っていない。しかし顔を見なくても情報の交換はできる。そうして11日に父親から聞いた情報の中に、屋久島での件があったのだった。
不意打ちのような形で重大情報を聞かされたゆかりは、目を大きく見開いた。屋久島での件は、ゆかりにとっても非常に大きな意味を持つ出来事だったのだから。しかし美鶴はその驚きに敢えて構わず、話を続けた。
「今にして思うと、有里がそれを見抜いたのは見抜いたのではなく、知っていたから……。そう考えることはできると、父は言っていた。それに屋久島での父の話にあったが、祖父鴻悦がシャドウを研究させた目的は、時間を操ることだったろう。だが祖父はいつしか滅びの思想に取りつかれ、時間を操る研究は途中で放棄された……はずなんだ。だが時間を戻したり進めたりすることは、理論的には可能らしい。実践する方法は、今となっては誰にも分からないが……。とにかく時間を操作することは、決して不可能ではないらしいのだ」
「じゃあ……本当に私たちは未来から戻って来たんでしょうか?」
「それはまだ分からない。だが可能性は否定できん」
ゆかりの問いかけに対して、美鶴は断定しなかった。時間の操作が理論的に不可能ではないと言っても、それが現実に起きたと明確に証明されたわけではないのだ。だから飽くまで可能性である。
「仮に彼らの話が本当だとして、どうすべきか。今度はそれを考えてみたが……どうにもいい案が浮かばん」
言いながら、美鶴は額に手を当てた。
アイギスによれば、湊はニュクスと戦って力を使い果たしたか何かして、卒業式の日に死んでしまったとのことだ。ではどうすればそれを回避できるのか。飽くまで仮定の上で、美鶴はそれを考えてみた。しかし何も思い付かなかった。何から手を付ければよいのかさえ分からない。何しろ肝心の湊自身が、ニュクスをどうやって倒したのか覚えていないと言うのだから、具体的な対策は立てようがない。
そしてより悪いことに、近頃の湊はやる気をなくしている。4月以来常に皆を引っ張ってきたリーダーらしくもなく、酷く投げ遣りな様子でいる。10日の集まりの際は、自分の命などどうでもいいと言わんばかりだった。あの時の美鶴は激昂した順平を制止したが、道理は順平にあったと感じている。そんな状態だったものだから、あの日以降は再度の集まりを持とうとはしなかった。
ちょうど試験が近いことを言い訳にしていた向きもある。試験などより遥かに重要な問題を突き付けられていると言うのに、それから目を逸らしてしまっていた。だが試験が終わった今、目を逸らす先もなくなった。
「私は……逃げたくないです」
そうやって悩んでいた美鶴に対して、ゆかりは語り出した。最初の軽い調子はとうに消え去っており、真摯な視線でもって互いに複雑な思いを抱える先輩を見つめる。
「ここに来て、色んなことを知れましたから。綾時君を殺して記憶を手放すなんて、初めから選択肢にも入れてません」
ゆかりは11月6日に父親の本当の気持ちを知り、この十年間諦めなくて良かったと心底思えたのだ。もし綾時を殺せば、父の真実さえ忘れてしまうかもしれない。だからニュクスから目を逸らして逃げる道など、一考の価値もなかった。
「でもそれで彼が亡くなるって言うのも、やっぱり嫌です。だから戦って、勝って……みんなで生き残りたいです」
10日の湊の態度には、ゆかりも怒りを感じた一人だ。しかしだからと言って、死んでしまえばいいなどとは思わない。ゆかりにとって、湊は4月以来背中を預け合ってきた仲間だ。
他人との間に壁を築きやすいことを、ゆかりは自覚している。しかし湊はゆかりにとって、生死に関心を抱けない赤の他人ではない。そして仲間の死を避けたいと願うのは、人付き合いに積極的でない人間であっても当然の、ごく自然な感情の動きだった。
それに加えて、事のもう一人の当事者であるアイギスに対しては、ゆかりは友情を感じている。8月の満月以来、特別課外活動部で自分と最も距離が近いのは彼女かもしれない。自分らしくないことかもしれないが、アイギスは友達だと誰に対してもはっきり言えるのだ。彼女の気持ちを考えれば、湊の死は受け入れられない――
ゆかりはそう思って、一つの結論を導いていた。
「みんなで、か」
「はい。4月から凄いキツイことばかりでしたけど……何とかやってこれたんですから。ここまで来たら、全員で助かりたいです」
「勝ち負けはおろか、勝ち方にまでこだわらなければならないわけだな」
誰に言われるまでもなく結論に達した後輩の姿に、強い少女だと美鶴は思った。修学旅行で話した時も思ったが、改めて思う。美鶴はゆかりと初めて会った頃は、彼女に対する気持ちは真っ直ぐなものではなかった。一人の人間としてではなく、目的を達する為の駒としてしか見ていなかった。当時は岳羽詠一朗の事情を知らなかったが、それを差し引いても自分はやはり卑怯であったと、今になって思うのだった。
その上で、現在のゆかりは特別課外活動部に絆を感じている。その絆の中には湊とアイギスも含まれているし、美鶴自身も含まれている。そう思うと、胸の奥で感じるものが確かにある。
「先輩はどうですか? 大晦日には綾時君がまた来るそうですけど、取り敢えずそっちはどうします?」
「私だって、望月を殺すことなど考えてもいない。もちろん有里にも死んでほしくない。私たちはこの世で最大の辛苦を共にして来たんだ。絆は真実のものだと信じている。彼を犠牲にしなければならない勝利など、望みはしない」
騙したり隠したりと、仲間に対して良くないことを何度もしてきた美鶴であるが、この言葉は本当のものだ。まず綾時を殺すことに関しては、美鶴にとっても一考の価値もないことだった。十年前から続く一連の事態の記憶を、無抵抗で手放すなど論外だ。
そして4月以来の戦いを通じて、美鶴にとって既に特別課外活動部は駒の範疇を超えている。数えきれないほどの死線を共に潜り抜けてきた仲間に対して、何の情も湧かないような人間がいたら、それは非情や薄情を通り越して異常だ。美鶴の他人への接し方は普通とは言い難いが、決して異常ではない。普段着用している非情な仮面は、さほど強固に板に付いているわけではないのだ。
「それに父は彼を高く買っているようだしな」
これも本当だ。武治は屋久島旅行以来、湊を気にかけていた。幾月の裏切りを聞いていたことが、その最たる理由であろうが。しかし――
「あ、ひょっとして……お婿さんに取ろうとか?」
ゆかりは突然悪戯な笑顔になり、妙な方向でもって話を混ぜっ返しに入った。からかわれることに慣れていない美鶴は、急に顔を赤くした。
「そ、そんなわけがあるか! 大体、私には婚約者が……」
「え、そんな人がいたんですか?」
ゆかりが本気で驚くと、美鶴の表情から赤みが抜けた。化粧を洗って落としたように、綺麗さっぱりなくなった。
「あ、いや……いない。と言うか、いなくなった」
美鶴は数年前から、親同士の取り決めによってとある企業グループの御曹司と婚約をしていたのである。しかし実際に結婚するのは美鶴が大学を卒業し、更にグループ内での地歩を固めた後にする予定であった為、今までは誰も実感を持っていなかった。何かグループの土台を揺るがす大事件でも起きればともかく、そうでなければ当事者さえ忘れていたような婚約だったのだ。
美鶴自身、婚約者とはこれまで数えるほどしか会ったことがなく、しかもペルソナに目覚めて以来、父親とグループの将来、そしてシャドウの問題で頭が一杯な状況にあった。だから結婚など考えたこともない、というのが正直なところであった。元よりそんな類の婚約であったのだが、最近になって突然はっきりと解消されたのである。いかに口約束に近いものとはいえ、一方的な解消では相手に決して良い印象は持たれない。しかも武治は美鶴の意見を事前に聞くことさえなく、完全な独断でそれを行ったのである。果たして武治は何を思っているのやら――
それは誰にも知り得ないことである。武治本人さえ、人に聞かれたらはっきり答えられたかどうか。
「ま、まあ婚約者云々は置いておいてだな……私にそんな気はないし、父もないはずだ。彼だって迷惑だろうし、私がアイギスに殺されかねん」
「はは……マジで危ないですね。あの子、思い詰めたら見境なくなりそうだし」
普段は誰よりも白い顔を怒りで真っ赤にして、『彼は渡さないであります!』とか語尾のおかしい叫びと共にマシンガンを乱射し、巌戸台分寮に血の雨が降る。7月以来、アイギスと身近に接し続けてきた二人にとって、それは極めて容易にできる想像だった。
「うむ。仮に……飽くまで仮にあの話が本当であるならば、彼女は相当に思い詰めていたのだろうな」
未来から戻ってきた話が本当であるのかどうか、ゆかりと美鶴は結論を出していない。ただ本当だと仮定するならば、あの時のアイギスの心情は察するに余りある。最も大切な人の死を既に経験していて、そして今また再現されようとしているとあっては、平常心ではいられなかったことだろう。
「そうですね。でもだったら、もっと早く言えって感じですけど」
「ふふ……全くだ。彼らもだが、父もそうだ」
セリフの後半から、美鶴は眉間に皺を寄せた。隠し事をされるのは、気分の良いものではない。この戦いがそもそも桐条グループの後始末であることを、美鶴は7月にゆかりから追及されていたが、今にして思うとあの時のゆかりの気持ちがよく分かるのだった。似たような出来事に対しても、立場が変われば感じ方も変わる。
「思い出しても腹が立つ! 誰に聞いたにせよ、幾月の裏切りに気付いたのなら私にそう言えばいいんだ! それを転任などと偽って! 下手をすれば、11月のあの日に父は……あ……」
憤懣を吐き散らしながら、突然閃いたことがあった。美鶴は先月から、同じ夢を何度も見るようになっていたのである。そのこと自体は修学旅行でゆかりに話したりもしたが、これまでその意味を深く考えることはなかった。単に疲れているから、悪い夢を見ることもある。そんなふうに思っていた。しかし――
「まさか……あの夢は……」
「……」
美鶴は口元に手を当てて、俯きながら深く考え込んだ。それに対して、今度はゆかりも急かさなかった。昼間の明るい寮の自室の中に、二人の生み出す沈黙が重くのしかかった。重さが数分間もの長さに及んでから、美鶴はようやく口元から手を離した。
「もしかすると……私は本当に寂しかったのかもな」
「先輩……」
「む……?」
この時、美鶴の心の中で一つの形が生まれた。無意識の底から意識の表面まで、熱を持った何かが急激に立ち上がってきた。本人にとってさえ脈絡がまるで見えない、極端な唐突さの中で心の形が変容した。そしてその形は、それ自体の名前を持っていた。ギリシャ神話で語られる、ハリカルナッソスの女王の名だった。
唐突すぎる事態に驚くと共に、美鶴は自分の両手に目を落とした。そして湧き上がる内なる力を確かめるように、ゆっくりと両手を握り、また開く。二度三度とそれを繰り返した後、美鶴は顔を上げた。それと共に、複雑に絡まり合う気持ちの束を吹っ切った。長い間悩んでいたにしては、呆気ないほど簡単に吹っ切った。
「私も戦おう。世界と彼と……父も。誰もが助かることを目標にしよう」
これは一見すると当たり前のことかもしれない。綾時を殺さないことと同様の、至極当たり前の結論であるのかもしれなかった。
「そうですね。先輩のお父さんも助けてあげないと」
しかしそんな結論に応じて出てきた言葉は、当たり前ではなかった。少なくとも美鶴にとって、ゆかりの口から出るセリフとしては当然ではなかった。
「岳羽、君は……私の父を許してくれるのか?」
思わぬ言葉を耳にした怪訝さを顔に表しながら、美鶴は尋ねる。しかしゆかりは笑顔を保っている。
「許すとか許さないとか、そんな話じゃないですよ。先輩のお父さんだって、ずっと辛い思いしてきたんでしょ?」
岳羽詠一朗は死んでいるが、桐条武治は生きている。この事実が心に落とす影はないのか。もし単純な二択で答えろと問われたら、『ある』とゆかりは答えるだろう。だが影はありつつも、それだけではない。これが屋久島旅行の頃であればまた別であっただろうが、ゆかりは既に詠一朗の真実を知っている。今のゆかりは、仲間の父親を恨んだりするほど余裕がないわけではないのだ。
「全部終わってからでもいいと思いますけど、お父さんとちゃんと話し合った方がいいですよ」
「ああ……なら、その席に君も一緒に来てくれないか?」
「え?」
ゆかりは一瞬驚いた顔を見せた。しかしすぐに笑顔に戻る。この日、何度も見せてきた影の少ない笑顔になる。
「ふふ、いいですよ。その気持ち、ちょっと分かりますから。私、そのうちお母さんとちゃんと話さなきゃって思ってるんです」
多少なりとも余裕があるから、こんなことも言える。
「君のお母上?」
「私のお母さんって、お父さんが亡くなってから色々とね……駄目になっちゃったんです。だからずっと距離が開いちゃってるんですけど、どこかでちゃんとしないと。でも一人で会うのも何か不安で……一緒に来てくれますか? 美鶴……先輩」
「そうか、もちろんだ。喜んで同席させてもらうよ……ゆかり」
この日、二人は初めて下の名前で互いを呼び合った。