多くの人間、特に若者にとっては、今日は一年間全体の中でも特別な意味を持つ日だ。だからこの日の学校の雰囲気は、普段と比べて大分違っていた。妙に落ち着かずにそわそわしたり、浮足立って舞い上がったり、逆に悲嘆に暮れていたりと、生徒たちの様子がいつもより忙しい。要するにちょっとした祝祭気分が密かに、だが公然と漂っていた。
「あ……湊さん」
そんな全校的に冷静さを欠いた日の昼休みの時間。廊下を歩いていた湊はアイギスと出くわした。教室では隣の席にいるのだが、こうして廊下で会うと互いの気分にも異なるものが生まれる。少なくともアイギスは普段と違った。顔の人工皮膚には、僅かながらに朱が差していた。
「あの……よければ今日の……放課後。ご一緒して……くださいませんか……?」
彼女の口調は普段からゆっくりしたものだ。だが今日は取り分け緩やかに、言葉ごとに短くない間が置かれていた。対する湊は、普段通りの速度の口調でもって答えた。
「分かった。ポロニアンモールで待ち合わせしよう」
「待ち合わせ……ですか?」
「少し遅れる」
今日が何の日であるのかは、大多数の生徒と同様に湊も分かっている。しかし一緒に学校を出るより待ち合わせた方が、雰囲気が出て良いなどという考えは湊にはない。遅れるのは、単に事前の準備をしていなかったからだ。
冬は夜の長い季節である。授業を終えてしばらくすれば日は落ちて、世界を夕闇が包む。しかしポロニアンモールの界隈は、闇を小さく照らす電気の光が普段よりずっと多く灯されている。どこの店先も色取り取りの電飾がかけられ、噴水にも光が届けられて飛沫に反射している。それは冷たい冬の水に仄かな暖かさと共に、見る者を舞い上がらせる高揚感をも与えている。
「待たせたな」
「いえ……急なお願いでしたのに、ありがとうございます」
無数の小さな光に彩られた水のアートの傍らで、湊とアイギスは近い距離感の中に立った。今日はクリスマスイヴだ。
「綺麗ですね……町がこんなふうに彩られているのを見るのは、初めてです」
ポロニアンモールのイルミネーションは、有名なデザイナーの演出によるものらしく、かなり手が込んでいる。例えば噴水の奥には、本物の木こそ置かれていないが、電飾のみで形作られたクリスマスツリーが飾られている。『前回』この時期はまだ修理中だったアイギスは、この光景を見ていない。生まれて初めて目にする冬の祭典に、彼女は微笑みを絶やさない。と思いきや――
「今日は救世主と呼ばれる方が、誕生した日なのですよね」
突然こんなことを言い出した。だが正確には、降誕祭は今日ではなく明日である。より厳密には、そもそも史的な意味でのイエス・キリストの誕生日は不明確だ。12月25日が降誕の記念日になったのは――
「しかし実は、古代ローマ時代の冬至の祝祭と結びついたもの……という説もあるのですよね」
「よく知ってるな」
「最近、少し勉強しているんです」
冬至は一年の間で、最も昼が短く夜が長い日である。つまり太陽の力が最も弱まる日だ。それが無事に過ぎ去って、太陽が再び力を取り戻すことを祝う習慣は世界の各地にある。古代以来のそうした風習がキリスト教と結びついて、クリスマスとなったらしい。そのように周囲の雰囲気からは大分ずれたセリフから、二人の聖なる夜は始まった。
モールを見回せば、若い男女のカップルが多い。もちろん家族連れや老夫婦などもいるが、湊と同年代か少々年上な程度の二人組が最も多い。その誰もが腕を組んだり、指を絡めて手を繋いだりしている。
古代の起源を別にすれば、本来のクリスマスは教会で祈りを捧げる日である。しかしクリスチャンが多いとは言えない日本でそれをやる人は、やはり少数派だ。クリスマス及びイヴの夜は、町中がイルミネーションで飾られる、キリスト教とは無関係な普通の年中行事である。ただし未婚の男女は恋人と過ごす日、と認識されている。
「前のこの日は、どうしていらっしゃいましたか?」
「……」
それであるから、突然湧いて出たこの質問はなかなか難しかった。前のイヴをどう過ごしたか、などとは相手に直接聞くべき事柄ではない。だがアイギスは別に、あてつけのつもりで言っているのではなかろう。クリスマスの起源を知っていても、日本での慣習まではまだ知らないのだと湊は推測した。と言うか、そうであってほしいと思った。
(一人でいた、と言うのは簡単だが……)
そう言っては嘘になる。事実として、『前回』のこの日は複数人から携帯メールで誘われ、そしてその内の一人の誘いを受けたのだ。しかし今のこの状況で他の女の名前を口にしては、何か取り返しのつかない事態を呼び起こしそうな気がした。
「君がいたら、君を誘っていただろうな」
数秒間の思考の末、湊が取った手段は話を逸らすことだった。そして逸らした先の言葉は、嘘ではない。基本的にその手のことに淡泊な湊は、夜の時間を異性と過ごすとなったら面倒の少ない相手を選びたい。そしてアイギスはその点で理想的だ。何かしようと思っても、何もしようがないのだから。
「……ありがとうございます」
逸らされた話を元に戻そうとはせず、アイギスはただ微笑んだ。彼女の青い瞳は、普段は澄んだ蒼穹を思わせる透明感がある。だが今夜ばかりは町で瞬きする小さな光を映しながらも、覗き見る者を飲み込んでしまう、深海を思わせる底の知れなさを湛えていた。
果たしてアイギスは眼前の男の思考の経路に、気付いているのかいないのか。それは『愚者』の透徹した観察力をもってしても見通せない。機械でありながら、自然の生命以上の神秘が彼女の瞳の中にはあった。
今日のポロニアンモールは普段よりずっと混雑している。どこの店も人の入りが多く、噴水を囲む形で置かれたベンチは満席状態だ。しかしイルミネーションを一通り見て回ったところで、ちょうどベンチの一つが空いたので、二人はそこに座った。モールを巡る冬の風が少しだけ強く吹いて、湊だけが肌寒さを感じた時、アイギスはカバンから紙包みを一つ取り出した。
「これを……差し上げます」
彼女は小さな袋を両手で持って、遠慮がちに差し出してきた。プレゼントのようである。それを黙って受け取って開けてみると、冷たい風がバナナの香りを鼻孔に運んできた。中に入っていたのは、小さなカップケーキだった。
「料理の本の通りに作ったのですが、お口に合うかどうか……」
アイギスは不安げだ。彼女はものを食べることは一応可能なのだが、本来は必要ない。だから成分の分析ではない、食べ物の味の良し悪しを理解できるのかは疑わしい。そもそも味覚があるのかどうかさえ怪しい。そして本人もそれを分かっているから、出来栄えには自信が持てないようだ。
「ありがとう」
そんな相手の心情を察しつつ、湊は微笑みながらカップケーキを手に取った。そしてマフィンカップをその場でめくり、口に運んでみた。たとえ辛かろうが苦かろうが、絶対に顔には出すまいと決意しながら。しかし――
(あ……)
「ど、どうでしょうか……?」
「うまいよ」
二ヶ月ほど前から始めた、嘘は吐くまいとの心掛けはずっと続けている。だからもし奇怪な味がしたら、次は頑張れと励ます方向で感想を言うつもりでいた。しかしそんな必要はなかった。しっとりした食感が最初にあって、続いて甘いバナナの風味が口の中に広がった。十分にうまいものだ。
「良かったです……」
アイギスは胸に手を当てて、安堵しながら微笑んでいる。だが心配しなくても、本当にうまいものだった。彼女は実は料理のセンスがあるのかもしれない。食にはそれなりにこだわりのある身としては、将来が楽しみだと思えた。思ったところで――
(まあ、僕に将来なんかないんだろうけどな……)
自嘲に似た気持ちに襲われてしまった。自分に将来はない。『前回』と同じように、卒業式の日までしか自分は生きられない。今月上旬に抱いていたような、投げ遣りな気持ちは既に抑え込めている。だが意地や思い込みでは使命も宿命も変えられない。現実とは常に非情なものだ。だからあの日を越えて生きて、彼女の作った料理を毎日食べる、そんな将来の姿など思い描くことはできない。
だがそれをここで言う必要はない。真実を何もかも口にする必要はない。言うまでもない、或いは言ってはいけない真実もこの世にはあるのだ。嘘は吐くまいと心掛けているが、言葉が足りないのは嘘とは違う。それよりも――
「これをやるよ」
不意な自嘲を切り捨てて、湊もカバンから紙包みを取り出してアイギスに手渡した。彼女は少し驚いた顔を見せたが、プレゼントとは交換するのが本来のあり方だと言うと、また笑顔に戻って受け取った。そして早速包みを開けて中身を取り出すと、感嘆の表情が現れた。
「綺麗です……」
サテン布で作ったリボンだ。色は深い青である。これは今日の放課後の時間、大急ぎで家庭科室で作った物だ。来るのが遅れたのは、それが原因である。
「ありがとうございます」
アイギスの物に対する趣味や嗜好は、実は湊にはよく分からない。『前回』はプレゼントの類を彼女にしたことは一度もなかったし、寮の彼女の部屋にも趣味を伺わせる品物は何もなかったから。リボンにしたのは、彼女が武装と制服のいずれにも身に付けるものなので、実用性があるかと思っただけである。もっとも実用性と言うなら武器が最も良いかもしれないが、クリスマスプレゼントをそれにするほど湊は愚かではなかった。
「付けてもいいですか?」
「ああ」
彼女は普段付けている赤いリボンを、手袋をした手で器用に外した。そして受け取ったばかりの青いリボンをブラウスの襟に通し、蝶の形に結んだ。制服の黒と武装の白のいずれにも、普段の赤いリボンはよく似合う。だが青色も悪くない。喜んでもらえたことを嬉しく思いつつ、湊は若干の不安を覚えた。
(どうしたものかな……)
わざわざプレゼントを用意している辺りを考えれば、日本では今日がどういう日とされているのか、彼女はしっかり理解しているのかもしれない。そうすると、この後が心配にならないでもない。
「もう少し……一緒にいてもいいですか?」
町の飾りを見て回り、混みあった喫茶店の立ち席で肩を寄せ合ってコーヒーを飲み、二人で取り留めのない話をしているうちに、時刻は夜へと変わっていた。寮に帰るなら頃合いである。だからポートアイランド駅へ向かおうとした湊を、アイギスは引き留めてきた。
「こんなことをしている場合じゃないって、分かっています。ですが……今日だけは」
綾時が再び来る日まで、あと一週間。終末の日まで、あと五週間。そしてかつて永遠の別れが告げられたその日まで、十週間。自分たちに残された時間は、もう数えられるほどにまで少なくなった。
「じゃあ……歩くか」
モノレールに乗っては、寮まですぐに辿り着いてしまう。人影が少なくなったモールを出て、二人は並んで歩いた。手を繋いで。
ポートアイランドを出て巌戸台まで、かなりの時間をかけて二人は歩いた。どの道を歩こうとは、二人は何も話していない。ただ遠回りすることを暗黙の内に同意しながら、かなり遅い足取りで歩いた。しかしある通りに面した交差点に達した時、湊は道の話をした。それまでしていた取り留めのない話を、わざわざ打ち切ってまで。
「道を変えよう」
この先は白河通りだ。そこの施設群は、今日は年間を通じても最大の書き入れ時であろう。予約がなければどこにも入れないくらいであろうし、道路も混雑していることが予想された。仮に混んでいなくても、好んで行きたい場所ではない。
呪わしいほどに優れている『愚者』の記憶力は、一つの例外を除いて『前回』と『今回』の出来事を全て覚えている。その記憶の中では、白河通りは良い思い出のある場所ではない。だから湊は踵を返した。
「湊さん」
しかし引き留められた。アイギスはその場から動かずに、繋いだままの手に込める力を強くしてきた。立ち去ろうとする男を小さな力で引き留める、か弱い女のように。
「私は自分が何者なのか、自分で分かっています。でも……」
実際のアイギスの力は決して弱くなどない。それどころか、生身の人間では誰も敵わないほどに強い。それでいながら弱いと感じさせる奇妙な力でもって、彼女は手を握ってくる。引きずることも振りほどくことも、男にはできない類の力だった。
「……分かった」
湊は再び踵を返し、白河通りを歩いた。どうせどこも満室だろうから、一つか二つ回って諦めてもらえばよい。そんなふうに考えていた。いささか楽観的に。
この二度目の一年間にあって、湊は4月以来様々な陰謀を巡らせてきた。だがその大半は失敗に終わった。あたかも『愚者』が企むことは、常に失敗が宿命付けられているかのように。そうした傾向から考えれば、楽観的な推測は禁物との結論はすぐに導けるはずである。それにも関わらず、既に12月にもなったこの時期にあって、楽観を重ねてしまった。それは単に湊が愚かであるからか。或いは本人さえ気付いていないある願望が、言葉や意識の及ばないどこかにあったからなのか――
「ここでいいですか?」
何という因果か、アイギスはフランス語で花畑を意味する名前の、アミューズメントホテルを目で示した。『前回』も『今回』も彼女は7月の満月はまだ屋久島にいたので、ここで何があったかは知らないはずである。それなのに、ここに辿り着いている。
「あ、ああ……」
湊は内心で猛烈な動揺に襲われていた。だが日付が日付であるだけに、きっと満室であろう。そう思って動揺を何とか抑えた。そうして手を繋いだまま、建物の入り口の敷居を跨いだ。
(なぜだ、なぜこんな日なのに空き部屋があるんだ……)
湊は困惑していた。小さな部屋の中央に置かれた円形のベッドの前で、こちらに背を向けたアイギスが首元に手を当てている。部屋の明かりは点けているが、光の量はごく控え目なものだ。
(いや……あり得るか)
7月の満月の戦いは、かなり激しいものだった。そしてシャドウの本体と戦う前に、部屋に備え付けられた鏡を何枚か割ったのだった。要するにこのホテルは部屋がいくつか荒らされたわけで、影時間が明けた後で混乱も起きたことだろう。それそのものは影時間の記憶補正によって、何らかの事故として一般人には認識されたはずだ。だから真相が世間に知られることはないのだが、それでもホテルとしては不祥事には違いない。それで評判を落としたか何かして、今日という日であっても空き部屋があるのかもしれない。
と、湊は今になって事情を察することができた。事前の推測は常に外れ、真相は後になってから分かる。まさにこの二度目の日々を象徴するような事態だった。
「あの……お願いがあるのですが」
アイギスは振り返ってきた。プレゼントした青いリボンは外されており、ブラウスの第一ボタンが開けられて、白い首が露わになっている。場所が場所で、僅かながらも露出を多くして、そして『お願い』などと言う。普通の人間同士であれば、この先に何があるかは誰でも容易に察することができるし、湊にも当然分かる。似たようなシチュエーションを、『前回』は複数の人と経験したことがあるから。
だがアイギスとは無理だ。残念ながら。
(ん? 残念……なのか?)
残念――
自分自身の思考に対して、急な引っ掛かりを覚えた。自分はアイギスの性的無能力を、残念に思っているのだろうか。だとしたら、それは自分らしくない。
(僕は女癖が悪いわけじゃない……綾時とは違うんだ)
綾時は存在の根源は別として、性格は自分と正反対だ。社交的で軽薄で無神経。簡単に言うと軽いのだ。心理学用語で言うところの、まさに自分のシャドウだ。そして自分の本来の性格は綾時とは逆に、内向的で人付き合いに積極的でない。表向きの交友関係は広いが、それはコミュニティの力でペルソナを強化する為であって、要するに打算的なものだ。一部の例外を除いて、コミュニティの人々に対して真実の気持ちを抱いていない。
その証拠に、『前回』特別な関係を築いた五人に対してもそうだった。別に彼女たちが嫌いなわけではないが、彼女たちを自分のものにしたいとの感情は持たない。つまり情欲を感じてはいない。それではやはり、彼女たちを好きとも愛しているとも言うことはできない。だから『前回』の今日、自分からは誰も誘わなかった。それでいながら、誘われたら受けるのだから最低と言う他にないが。
だが誘われたら受ける。現に今、誘われてそれを受けている。これは単に周囲に流されやすいから、というだけのことだろうか。実は自分は自分で思っているほど淡泊ではない、ということはないのだろうか。例えば『今回』の七夕の夜、自分はここである幻を見せられた。あの時、ファルロスはそれを――
「私のここに……触れてくださいませんか?」
そもそもの話、真実の気持ちとは何だろうか。『愚者』は真実を持たないが、では普通の人間は真実を持っているのだろうか。
更に言えば、自分たちは特別な間柄なのだろうか。自分と彼女は世界で一組だけの、極めて稀な境遇にある二人なのだろうか。人間と機械という意味ではもちろんそうだが、プラトニックな関係なら人間同士でも不可能ではない。信条として関係を持たずにいる人もいるだろうし、怪我や病気でそれができなくなった人もいるだろう。そして自分にはそんな信条はないし、怪我や病気もない。
「ここには既に、貴方の魂が宿っています。でも……もう一度してほしいんです」
もしかしたら、自分はごく普通の、並の人間に過ぎないのではないだろうか。天才でも超人でも最低でもなくて。何一つ特別なところのない、普通に女を愛する平凡な男なのでは――
「遺伝情報を焼き付けることは、一度だけじゃなくて何度もしますよね。普通の人は……」
その時、不意に視線の向かう先が内心から外界へと移った。すると彼女が眼前にいることに気が付いた。彼女の方から忍び寄って来たのか、自分の方から近づいていったのか、分からなかった。ただ彼女の首の機構は既に開かれていて、その奥にある青い秘密が露わになっていた。今日プレゼントしたリボンと同じ色で同じ形をした、夢を暗示する蝶がそこにいた。
(僕は……)
もう訳が分からない。自分の思考と行動のいずれにも、合理性はおろか整合性さえ見出せない。自分が何をしていて、何をしたいのかも分からない。
「あっ……」
右手の人差し指に、僅かながらに痺れが走った。それと共に彼女の口から細い声が漏れた。力と違って、酷くか弱い声だった。そして彼女は体を預けてきた。
「……」
二人揃ってベッドに倒れ込んだ。激しい葛藤に打ちひしがれた男の体では、彼女の重さを立ったまま受け止めることはできなかった。
「何か……私にできることはありますか?」
「……」
胸の中で呟く彼女を、無言のまま抱き締めた。とても長い時間、それは続いた。
(マジで桐条グループに頼んでみるか……?)
『今回』の7月23日の夜、湊はある不埒なことを思い付いた。そして翌日の朝にはアイギスが口に出して要望していた。あれはあの場では却下されていたが、交渉してみる余地はあるのではないかと。そう思えてきた。
(いや、待て。表面的な改造をしたところでな……)
彼女の改造を桐条グループに承知させることは不可能ではないだろう。しかしそれは本質的な解決にはなっていない。怪我や病気でその機能を失ってしまった人なら、病院で治療を受けるのも良いことだ。しかし人間と機械の間にある問題は、そういうことではない。二人を別つ壁は、人間の力で乗り越えられるものではない。その壁とは彼女は年を取らず、死もなく、子供も産めないことだ。
硬い体を柔らかく改造するくらいなら可能だろう。しかし子供を産むことは無理だろうし、死は彼女から非常に遠い位置にある。もちろん精神の中枢まで破損すれば死と同等の事態になるが、人間よりは遠い。そして老いは死以上に遠い。彼女は永劫の時を許された存在だ。人間の力でできる範囲の改造を施したところで、大した意味はない。
これは初めから分かっていたことである。それでいながら、今になって残念に思えた。残念だと思っていることを、湊は『前回』を通じて初めて自分自身に認めた。
(僕はどうすればいいんだ……?)
だが認めたところで、どうすればよいのかは分からなかった。何かを望むことと、それを叶えられるかどうかは全く別の話だ。人間と機械の間にある壁を乗り越えることが可能なのは、人間の範疇から外れた力しかあり得ない。それは即ち――
(いや、どっちにしても……僕は3月に死ぬんだ)
解答はないようで、あるようで、しかしやはりないようで。湊の悩みは留まるところを知らず、どこまでも巡り続けた。だがその一方で、一つのことを決められた。ある些細な、或いは重要な問題に答えを出した。
(エリザベスの依頼は……受けないでおこう)
先月29日に追加された依頼である。受けるべきか断るべきか、その日からずっと悩んでいた。だが今日になって、ようやく決断できた。