この日の午前中、現国の授業で鳥海は田山花袋を間違って引用し、教室で笑われていた。対する鳥海は教師をイジメて楽しいのかと、逆に怒っていた。そんな特に珍しくもない、普段通りの授業風景のままに二学期は終わった。一年の中で最も長い二学期が終わり、大半の生徒にとっては取り分け嬉しい冬休みが明日から始まる。だが巌戸台分寮には、それを喜ぶ雰囲気はあまりない。ただし五日後に迫った大晦日をどう迎えるかで、喜べないでいるわけではない。
色々なことがあった二学期だった。湊にとっては二度目であるにも関わらず、終わってから振り返ると最初とは異なった感慨がある。荒垣と桐条武治は生き残り、チドリは一度死んで生き返った。アイギスがワイルドに覚醒し、タカヤとジンとは決裂し、綾時の特別課外活動部への参加もあった。他にも文化祭が開催されたり、修学旅行で処刑されたりもした。そして時間が戻った原因が明らかになり、自分は無気力症に陥った。
並べてみた出来事の群れの中で、最後のものの余波は未だ特別課外活動部に残っている。それが冬休みを歓迎できない主な原因だ。そんな微妙な雰囲気が払拭され切っていない寮を、湊は夜の時間に抜け出した。ただし一人ではなく、コロマルを連れて。寮を出て長鳴神社に向かう、いつもの通りの散歩コースを一人と一匹で歩いた。
「寒いな」
日没の早い季節である。昼間の弱い太陽が放った熱は、既に大地から残滓さえ抜け落ちており、大気に満ちる冬は容赦がない。リードを握って外気に晒された手から、体温は見る間に奪われていく。少し歩けばリードを左右で持ち替えて、かじかんだ手をポケットに入れて温めてやらねばならない。
冬至は既に過ぎており、これから夜は少しずつ後退して昼にその領域を譲る。しかし一日の中から闇は減っても、寒さはむしろこれから厳しくなっていく。鳥海ならずとも、コタツやフトンが恋しい季節である。
「ワン!」
だがコロマルは冬をものともしない。雨の異常に少ない今年は雪も降らないが、たとえ降ってもコロマルは気にせず、かえって喜ぶくらいだろう。雪より白い毛皮は、寒さをいとも容易く跳ね除けている。12月の風が吹く度に人間は身を縮ませるが、犬は毛を膨らませて大きくなる。
一般人が生活する普通の町の道路の先に、周囲から浮き上がる神聖さを醸し出す鳥居が見えてきた。その小脇には特に何も置かれていない。ここで神社の神主が亡くなって、既に一年ほどが過ぎている。そして『事故』の風化を妨げていた忠犬も、この場を離れて既に五ヶ月が経っている。交通事故として認識された事件は、とうに世間の話題から遠ざけられている。近所の人々の記憶からさえ消えかかっていることを、花束もない鳥居が示している。
事故の痕跡を何も残していない鳥居を、コロマルと湊は並んでくぐった。冷めた空気の中では、石の硬さもまた冴える。子供でも持ち上げられるくらいに体重の軽い犬の足音さえ、神社に続く石段は丁寧に拾っていた。
長鳴神社は境内に遊び場が併設されている。神主の生前は毎日遊んでいたであろう場所を、今夜もコロマルは走り回る。砂場を駆け抜け、ジャングルジムに侵入し、腹這いになって滑り台を下りる。寮内に未だ残る重い雰囲気など、冬の寒さと同様にどこ吹く風だ。まして本来の神社は神の御座する聖なる空間であることなど、犬には何の意味もない。
元気一杯なコロマルの姿から湊は一旦目を離して、頭上を見上げた。0時になる前の普通の夜の天空は、白や青の星々がギリシャ神話の形でもって、深い紫色の空を鮮やかに彩っている。空気の冴える冬の夜空は、一年を通じて最も美しい。
(オリオン座、双子座……大犬座もあるな。あれはケルベロスだっけ?)
大犬座が何の犬であるのかは諸説ある。優れた猟師であるオリオンまたはアクタイオンの猟犬であるという説が有力だが、一方でケルベロスであるという説もある。夜空を見上げながら、湊は三番目の説を採用したくなった。全天で最も明るい星であるシリウスを持つ星座は、コロマルにこそ相応しいだろう。ついでに言うと、ポリデュークスとカストールも冬の空のすぐ傍にあるし、季節は違うがオルフェウスも琴座として天に上げられている。ならば大犬座はケルベロス。湊はそう考えることにした。
更に言うと、ケルベロスは冥界の番犬だ。神を祭る神社は、死の国への入り口であるのかもしれない。ならばコロマルはここを守る者として相応しい。それにアイギスの話にあった、時の狭間と呼ばれる寮の地下にある空間も冥界のようなものとするならば、寮の番犬めいた立場にあるコロマルはそれをも暗示している。ペルソナは神話の存在そのものではないが、使用者の現実は意外と神話と相性がいい。
そんなことを思いながら見上げた空の脇には、黄金色の自然の月が鎮座している。その形は半月よりも、やや膨らんでいた。月齢は既に上弦を過ぎている。そのことが目の端に留めただけでも分かった。
「……」
湊は思考の向ける先を神話から現実に移した。次の満月まで、猶予はいよいよ少なくなった。クリスマスも既に終えて、2009年に楽しいイベントはもうない。綾時が戻って来る日まで、残っている日を数えるのには片手で足りる。
綾時はもちろん殺さない。だがどうすれば卒業式の日を越えて生き続けられるか。時間を戻す以外のいかなる方法でもって、死の国から帰還するか。冥界の番犬の顎を乗り越えるか。この問題の解答は未だ見つかっていない。いや、既に解答を探すことさえしていない。オルフェウスの神話を教訓として死を受け入れる以外の道を、将来に見出すことはできない。もちろん積極的に死にたいわけではないが、どうしようもないのだ。どんなに辛くても、受け入れなければならないことはある。
そうして夜空を見つめる湊の足元に、一通り遊んだコロマルが戻ってきた。
「わう」
コロマルは一声吠えて、じっと見上げてくる。尻尾を何度も振り、舌を出して息を荒くしている。愛嬌のあるその仕種を見下ろしながら、湊は視線の中心をコロマルの赤い瞳に合わせた。
湊は『前回』もこの夜に、コロマルを連れて散歩に出てきた。そしてその時も、ちょうど今そうしているように、赤い瞳を真っ直ぐ見つめたのだった。五日後に向けてのコロマルなりの決意を、その時は感じたものだった。だが『今回』の状況では、別の印象もある。
「お前って奴は、ぶれないな……」
湊は膝をつき、黒いペルソナとは対照的に白いコロマルの頭を撫でた。
「ワン!」
コロマルは人間の言葉を理解できる。だから『前回』の綾時の話も理解していたはずである。その上で、ニュクスに堂々と立ち向かった。他の皆と違って、迷ったり悩んだりする素振りさえ見せていなかった。そうすると実は『前回』この日に感じたのは、決意などと大仰なものではなかったのかもしれない。普通に冬休みを迎える普通の高校生のような自然さで、大晦日を迎えたのではないか。
腹が空いたら餌を食べ、夜になったら散歩に出かけ、知らない人間が来たら吠える。そんな日常の延長に過ぎない当然の行為として、ニュクスに立ち向かったのではないか。コミュニティを通じて触れ合っていると、そう思えてくる。
強固な意志、不屈の精神を象徴する剛毅のアルカナは、まさにコロマルに相応しい。だが不屈とは意識してそうするものではなく、自然――
そう思えた。約束された死に悩む、湊を含む人間たちとは違う。
「なあコロマル……こないだ皆で集まった時にさ、僕は愛想を尽かされたかなって思ったよ。やる気なくしちゃったからさ」
今月10日の集まりの時のことだ。時間が戻った原因を知り、戦うモチベーションが大きく下がってしまった。おかげで随分とやさぐれてしまった。だがそれにしたところで、あの時の自分は色々とまずかったと思う。冷静になって振り返ると、以前の自分に対して頭の一つくらいはたいてやりたい。
「下手すると、アイギスしかついて来てくれなくなるんじゃないかってな……」
そうは言うものの、今となってはそこまで極端な心配はしていない。特別課外活動部は今月上旬から中旬にかけては、『前回』のその時期以下の最悪の状態にあった。しかし現時点では、もう底からは脱している。湊は10日の自分の態度を悔やみつつも、皆に対して特に弁解はしていないし、時間が戻ったことを証明する努力もしていない。しかし皆の何人かは既に立ち直っていることが見て取れた。彼らの心境の変化の理由も聞いていないが、未来の話に関して各々話し合ったりして、ある程度の気持ちの区切りを付けたのかもしれない。
だがコロマルは誰とも話し合わない。喋れない動物は人間と会話することはできないが、それは話し合う必要が初めからないとも言える。
「ワン!」
「お前もついて来てくれるんだな」
言葉ではない鳴き声の返事の意味を、湊はそう受け取った。都合のいい解釈に過ぎないかもしれないが、自然とそう思えた。それ以外の意味は想像することさえできない。
「主人に挨拶していくか」
湊は立ち上がり、リードを引いて賽銭箱の前まで歩いて行った。『事故』があって以来、守る人間のいなくなった境内は荒れ始めている。だが敢えてそれには構わなかった。吊り下げられた鈴を鳴らし、箱に百円玉を投げ入れた。そして柏手を二回打ち、両手を合わせて目を閉じた。閉じながらも、足元には犬の気配を感じて。
(コロマルを預かっています)
こうして神主に語りかけるのは、これが二度目だ。『今回』の秋分の日も、こうしてコロマルを連れて散歩に来て、賽銭箱の前で手を合わせたのだった。ただあの時は、危ないことをさせて申し訳ないと、心の中で神主に謝った。
(こいつには凄く助けられています)
だが今日は、詫び言は思わないことにした。コロマルは詫びなど受け取らない。神主とは会ったことがないから、どんな人柄だったのかは分からない。しかし飼い犬の戦いを恨みに思うことはきっとない。己の仇討ちをしてくれるからではない。『事故』の原因となった小粒のシャドウには、個体としての同一性などあってないようなものだし、そもそも人間がいる限りシャドウが絶滅することはあり得ない。神主の仇討ちは、事実上不可能だ。
ただコロマルは誰に強制されたわけでもなく、本人が望んで戦っている。そのたった一つの理由だけで、神主はきっと許してくれる。何の根拠もないことだが、湊はそう感じていた。だから神主に詫びることはしない。その代わりコロマルが特別課外活動部にどれだけ欠かせない戦力であるか、群がるシャドウを短剣で切り裂き、炎で焼き払う活躍振りだけを報告した。すると――
そんなに買いかぶるなって――
目を閉じた暗闇の中で、子供には発し得ない重厚感のある、大人の男のような声が聞こえた。いや、『聞こえた』と言っては正しくない。これは空気を揺らす音声として、耳に飛び込んできたのではない。絆を教える『我』がするように、感覚を介さず意識に直接届けられた言葉だ。
目を開いて足元に視線を落とせば、コロマルが赤い瞳で見上げていた。言葉よりも多くを語るもの同士が出会ったその瞬間、時間が停止した。冬の気配も感覚から遠ざけられた。
『我は汝、汝は我……』
やはり大人のような厳粛な声が、二人の生き物に届けられた。剛毅のコミュニティが、真実のものとして認められた瞬間である。『我』の声は種の壁を乗り越えて、人と犬の間にある絆を保証した。そして再び時が動き出し、肌も寒さを改めて感じだした。
湊は再び地面に膝をつき、コロマルの頭を撫でた。かじかんだ手に、柔らかい白い毛は少しだけくすぐったく感じた。そして毛の下に満ちている犬の体温は、人よりも高い。
「お前さ、もしかして前のことを覚えてるんじゃないのか?」
見た目からは分かりにくいが、コロマルは犬としてはかなり年を取っている。それはつまり、実はコロマルは特別課外活動部で最年長であると言える。子供の皆は忘れているが、実は大人のコロマルならば、或いは。ふとした思いつきだが、案外本当に覚えているかもしれない。そう思ったが――
「ワフッ……」
『いいや』
「そうか。覚えてはいないが、信じてはくれるんだな?」
「ワン!」
返事を受け取った湊は笑顔を見せ、改めてコロマルを撫でた。育まれた絆は灯火のように暖かく、冬の冷たい風に晒された体を温めてくれる。この世の終わりに立ち向かう人間を、犬は励ましてくれる。慰めてもくれるし、助けてもくれる。タロットカードに描かれた、愚者が連れた犬のように。
以上、剛毅コミュでした。
コロマルは部の中で、最も葛藤の少ないキャラだと思います。新たなペルソナに目覚めるイベントもありませんし、大晦日に向けての決意も原作では非常にあっさりしたものです。ただ、そうしたあっさり感を逆に活用できないか……と考えて剛毅コミュは書いていました。