一年の終わりが近い日の昼間、風花はポートアイランドの駅前を歩いていた。小柄な体を冬の装いに包み、手には買い物用の手提げ袋を持っている。学校は冬休みに入り、大晦日はもう間近だ。年の瀬を迎える世間の人々の忙しなさを慈しみながら、風花は町を歩いていた。そして花屋の近くを通りかかった時、見知った人物を見つけた。その人は何をするでもなく、駅前のベンチに一人で座っていた。
「あれ……順平君?」
花屋に向けられていた、ベンチの人の視線が風花の側を振り返った。順平である。いつもの野球帽を頭に乗せ、分厚いダウンジャケットを着ていた。持ち物の類は何もなく、手ぶらだった。
「あ、風花じゃん」
「何してるの? こんなところで」
「いや……別に。風花は?」
二人がいるこの場所は、特に何かがあるわけではない。誰かと待ち合わせしているのでもなければ、ベンチで黙然と座り込むには不自然だ。しかし順平は風花の質問には答えず、逆に問い返した。
「家に帰ってたの。最近、ちょくちょく通ってるんだ」
風花は寮住まいだが、実家は元々学校から遠い場所にはない。日帰りでも余裕を持って往復できる程度の距離しかない。だから家に帰るのに苦労はしない。本人にその気持ちさえあれば。
「そっか」
風花はこれまで、自分の家庭事情を寮生の仲間に話したことは少ない。だが風花と似たような事情があって寮に住んでいる順平は、それなりに察するものがあったようだ。空気を読んだり相手の意図を察したりすることに関しては、この二人はどちらも得意な方だ。ただ読んだ上で取る行動には間違いも多い。その意味において、二人は似た者同士である。
風花もベンチに腰掛け、二人並んで駅前の景色を眺めた。珍しいものもない、どこにでもある普通の街並みを何とはなしに眺めた。太陽が照らす昼とはいえ、季節は一年の中で最も寒い頃合いである。しかし師走に特有の、道行く人のどこか上ずった気配が、町から寒さを遠ざけている。そんな中で、順平はおもむろに話し始めた。
「こないださ、チドリに会って来たんだ」
チドリは現在も入院中である。だが弱っていた体力は大分回復してきたので、年が明けてしばらくしたら退院させる方針でいる。ちなみに退院後には月光館学園に通わせるようにしようと、美鶴辺りは考えている。ただしいつから登校を始めるかは未定である。そもそも何学年に編入させるべきか、その段階から決まっていないから。
「元気にしてた?」
「おお、元気すぎてスケッチブック投げつけられたぜ! 順平ウザい! ってな!」
「何したのよ……」
風花の顔に呆れた影が差した。順平の言う『こないだ』が具体的にいつなのかは分からない。しかし今日は12月27日。恋仲の男女にとっては重要な日が、つい三日前にあったばかりである。もっとも順平とチドリは未だ恋人ではないので、かの日には果たして何があったのやら。当日はゆかりと女同士で過ごしていた風花には、なかなか想像が難しい。
「あれだ。今流行りのツンデレって奴だ。ゲームやマンガじゃよくあるキャラだけど、まさかリアルでターゲットとはな。攻略難度特Aだな」
順平は目を閉じた難しい顔をして、しみじみと実感を込めて言う。ペルソナ使いであった頃のチドリの性格には、病的なところがあった。それは過酷な体験や余命が少ないことがもちろん影響していたはずだが、それだけではなかったのかもしれない。悪夢から目覚めると共に戻った本来の性格も、なかなかに難物だった。ゲームであれば、二周目以降で初めて攻略可能になる隠しキャラのようなもので。
先月以来、順平はチドリの見舞いに頻繁に通っている。その度に花や果物を差し入れたり、退屈な入院暮らしを慰める為に話し相手を務めたりしている。だが涙ぐましいまでのその努力は、今のところあまり成果を挙げていない。互いを下の名前で呼び合うくらいにはなっているが、その道のりはまだまだ遠い。
「チドリはさ……探さなきゃいけない人がいるんだって。優しくて暖かい人……風花も聞いたっけ?」
いかにも現代的な悩みを告白した後で、順平は急に真面目な顔になった。風花には話したことがないが、実はこの駅前のベンチは順平にとって思い出のある場所なのである。その記憶の流れに身を任せて、順平は普段の軽い仮面をさりげなく外した。
「言ってたわね。でもあれって、絶対順平君のことよね?」
探さなければならない人がいるから、こんな所で寝ている場合じゃない。11月22日に死から蘇ったチドリは、直前まで見ていた夢の続きを語るように、遠くを見ながら話していた。ただしその人が誰なのかは、本人は分かっていなかった。正確には、本人だけが分かっていなかった。
「だよな! いやあ、照れちゃうなあ!」
順平は歯を見せた。珍しい真面目な顔が、瞬時にして軽い仮面に取って代わる。空気を読めるとは、仮面を使い分けるのが上手いという意味でもある。だから帽子越しに頭を一つ掻いたら、すぐに歯と共に軽さを引っ込めた。
「忘れちまったはずなのに、実は覚えてる……そういうことってあんのかな? あ、もちろん忘れた振りじゃなくてな」
「あると思うわ。だって夏紀ちゃんは影時間の記憶を失ったはずなのに、私を友達だって言ってくれたし……」
表情を忙しく変える順平に、風花はしっかりついて来る。そしてその受け答えは、極めて真摯なものだった。
「あ、そっか。風花にもいるんだよな。忘れたはずだけど、覚えてる人」
風花が元クラスメイトの森山にイジメられていたことは、順平も知っている。しかし6月の満月を契機として、二人は親友の間柄になった。なぜそうなったのかは、本当に本当のところは誰にも分からないことかもしれない。だがタルタロスに迷い込んだ森山を風花が探したことが、それと無関係であるとは誰にも思えなかった。その意味から言えば、順平と風花はよく似た境遇にある人を身近に持っていることになる。
「忘れるってことが、意識の表面に出てこないだけのことなら……心の底では、ずっと覚えているはず」
「じゃあ俺らも、前のことを覚えてるはずだよな……」
12月の初め以来、特別課外活動部のほぼ全員を悩ませていた問題に二人は行き当たった。人間の心というものは、非常に広くて深い。自意識の光が及ぶ範囲は心のごく一部に過ぎない。それは何も影時間やペルソナを持ち出すまでもなく、通常の心理学の観点から言っても正しい見解である。しかし無意識の暗闇に隠された存在を、明確に認識できるかどうかは別の話だ。
特別課外活動部で最も鋭敏な認識能力を持つ風花といえども、己の心の底の底まで見通すのは至難の業だ。総合学習の授業は風花も受けているが、そこで言われていたように自意識を保ったまま無意識の領域を探求したところで、迷うのが当然である。
「アイギスと有里君の話を聞いてから、ずっと考えてたの。何か覚えてないかって。何も思い出せなかったけど」
そう言う通り、未来から戻ってきたことを暗示する記憶は、風花の意識の表面には何も現れて来なかった。夢で見ることさえなかった。そしてアイギスと湊が語った話は、元より客観的な証拠がない。それで信じろと言われても無理な話である。だが――
「ただね……一つだけ心当たりがあるんだ。5月に私が体育館に閉じ込められたの、覚えてる?」
「ん、ああ……」
風花は5月29日、森山たちによって体育館に閉じ込められた。このこと自体は6月の満月の日の昼間に、職員室で皆に告白している。ただしその時は、鍵がかかってなかった為か出れたのだと話していた。
「あれね、実は有里君に出してもらったんだ。もしあのまま影時間まで体育館にいたら私……タルタロスに迷い込んでたと思う」
あの一件は風花にとって一つの謎だった。あの時、湊はどうして体育館に現れたのか。鍵は本当にかけられていなかったのか。そしてその翌日に美鶴がクラスにやって来て、特別課外活動部への加入を求められ、巌戸台分寮に行ってみたら湊もそこにいた。初対面の男にいきなり助けられて、そして急激に運命が変転した。これは偶然であるのか、違うのか。
「つまり……あいつはそれを知ってて、風花を助けたってことか?」
「そうかもしれないわ。でもね、どっちでもいいんだ」
順平の問いかけに対して、風花は曖昧にしか答えなかった。謎ではあるものの、正直なところ解明する必要を感じていないのだ。なぜなら――
「私はただ……みんなを助けたいの。みんなが仲良くしてるだけで、私、凄く嬉しいから。誰かが死んじゃうなんて嫌。みんなの為に、私はできる限りのことをしたいの」
『繋がる力』を用いて、皆の為にできる限りのことをする。10月20日にユノに目覚めて以来、それが風花の行動原理だった。複雑な思考の過程などのないごく単純なことだが、それだけに強固な信念と化していた。
「だから、それだけでいいの。二人の話が本当でも、本当じゃなくても」
たとえアイギスと湊の話を信じられなくても、何も証明されなくても、二人を助けたい。その一点のみでもって、風花は結論を出していた。そんな同輩を見て、順平は再び笑顔になる。
「そっか。やっぱ優しいな、風花は」
順平の裏表のない笑顔に対して、風花はただ柔らかく微笑んだ。
なお、5月の一件や9月に料理部に入ってもらったことなどから、風花は湊に恩義を感じている。だから風花にすれば、湊を助けることはその恩返しの意味もある。ただし飽くまで恩義であり、それ以上の気持ちはない。もしアイギスがいなければ、或いはもっと機械らしく人間性が希薄であれば、別の感情を抱いたかもしれない。しかしそんな仮定に意味はない。
「順平君は? 何か思い出した?」
「ああ……実はよ、最近ちょっと夢見るんだわ」
言いながら、順平は表情から笑みを消した。普段の軽薄さからはなかなか結びつかない、至って真面目な顔になった。
「どんな夢?」
「……忘れた!」
しかし順平の真面目さは数秒しか続かず、またしても笑顔を表に出した。ただしチドリの話をしていた時のような幸せなだけの笑顔ではないし、風花の優しさに微笑むものでもない。意図的に胡散臭さを醸し出している、シャレのきいた笑い方である。
「いやあ、夢ってなあ起きたら忘れちまうもんでしょ?」
忘れていないことは一目瞭然だ。だが風花は空気を読んで、夢の話は敢えて追求しなかった。その代わり、別の方面から核心に触れてみることにした。
「でも順平君、二人の話を信じてるんだね」
思い起こせば、12月2日の最初の告白の際に順平は湊に掴みかかっていた。つまり順平は、事のほとんど初めから二人の話を信じていたのではないのか。風花にはそう見えたのだ。
「ん? ああ、信じてるっつーかな……ごちゃごちゃ言うことはあるけど、湊はダチだからな」
順平は人付き合いに積極的だ。それが行き過ぎて、馴れ馴れしいと鬱陶しがられることもしばしばだ。しかし本音で分かり合える友人ともなると、実は少ない。今のクラスにも去年以前のクラスにも友人は大勢いるのだが、表面的な付き合いしかしていないのが大半だ。親友と呼べるほどの相手は一人しかいなかった。
「それに二学期の始め頃だったかな。俺、アイちゃんとの仲を応援するって、あいつと約束したからさ。その二人が同じこと言ってんだからよ……。そりゃあもう、信じねえわけにゃいかねえだろ」
自分たちは未来から戻ってきた。それをアイギスからのみ聞いたのなら、順平はきっと信じなかった。だが湊も同じことを言っているのなら、それを受け止めよう。4月以来最も近くにいた親友として、順平は一つの結論を導いていた。
「そっか……」
「ああ。そんじゃ、行くか」
「うん」
二人はベンチから立ち上がり、寮へ帰るべく駅へと向かった。その足取りは軽い。
「すげえ……嫌な夢なんだわ。見だしたのは、修学旅行のちょっと前くらいからかな……」
ポートアイランドから巌戸台までモノレールで戻り、寮へ向かう道を順平と風花は並んで歩いた。そうして周囲から人がいなくなった頃、突然順平は話し始めた。風花は一瞬きょとんとしたが、すぐに先の話の続きだと察した。だから問い返しはせず、黙って耳を傾けた。
「チドリがさ……死んじまうんだ。最初は病室で、色々喋ってよ……。そしたら急にタルタロスの前に移って……」
「……」
「めっちゃリアルなんだ。倒れたあいつを俺が抱えてんだけど、腕に重さまで感じられてよ……あいつが段々冷たくなってくことまで分かんだよ。俺が大声で叫んで、それで目が覚めんの。起きたらもう、寝汗で体中べっとりよ」
順平は9月10日に、チドリの死を現実に見ている。メーディアが暴走してチドリの首を絞め、ペルソナと使用者がもろともに死の淵へ飛び込んだ様を目の当たりにしている。その現実は数日間に渡って、順平を昼も夜もなく苦しめ続けた。泣き疲れて倒れ込んだ浅い眠りでは、何度もうなされた。しかし順平は9月16日にチドリの絵を見て立ち直った。本当の本心はともかく、少なくとも表面的には立ち直れて、悪夢を見ることもなくなった。だがそれから二ヶ月近くも過ぎてから、人生最悪の日と似た光景を夢で見るようになったのである。脈絡なく、唐突に。
順平は夢そのものを意図的に忘れるようにしていた。だから9月の現実と夢は似てはいるものの、細部は異なっていることを疑問に思いはしなかった。湊とアイギスの告白を聞くまでは。
「もし……もしもだぜ? あの夢が本当にあったことなら、俺は……」
前のチドリは11月に死に、蘇ることもなかったのだと綾時は言っていた。もちろんそれは湊とアイギスの話と同様に、何の証拠もない。だが親友の話の一環として、それをも事実として受け止めるならばどうか。愛する人の死。親友の死。それらを取り返せるならば、時間を戻すことに同意するか。
これは簡単に是と答えることのできない問いだ。過去を振り返る気持ちならば、順平にもある。常に前だけを向いていられるほど立派な人間ではないと、順平は自分自身を見なしている。だが4月以来何度も死にかけているように、タルタロスの戦いは非常に過酷だ。親しい二人の人間の為に二度目の地獄に挑むことを、果たして己に課すか――
大きな葛藤に対して、順平は答えを出そうとした。だがそれを口にする前に、腹の辺りが急に疼いた。
「うっ……!?」
最初は痛みだった。だが痛みは僅かな間に、暖かいものに取って代わる。長いトンネルの出口で待ってくれていた人のように、光に満ちた暖かさが広がった。そして更に一瞬の後、光は燃え盛る炎へと変わった。体の中に置かれた燭台に火が灯され、その熱気は血の流れに乗って全身を駆け巡った。
「順平君? あ……!?」
鋭敏な風花は、異変に襲われた当人より先に気付いた。順平の体内で生まれた熱は翼を広げ、恐怖と葛藤を焼き尽くして心の形まで変容させた。力も自信もない駄目な少年が、一人の女の情熱にほだされて大人になるように。
「こ、これ……チドリ?」
順平は愛する人の名を口にした。それと共に、もう一つの名が無意識の深淵から意識の表面まで一挙に飛翔してきた。それはギリシャ神話の伝令の神と、エジプト神話の知恵の神、そして伝説上の錬金術師を同一視した、一人で三倍も偉大な存在の名だった。