「突然済みません。今って電話しても大丈夫ですか?」
冬休みも残り二日となった水曜日の朝、自室にいた湊の携帯電話が鳴った。出てみると、天田の声で礼儀的な確認が届けられてきた。年に不相応にも、いかにも言い慣れているという感じで。構わないと答えると、電話の向こうの声はますます畏まった感じになった。
「ご一緒してほしい場所があるんですけど」
「分かった」
休日に友人から誘われることは『前回』も『今回』も何度かあったが、天田からは初めてだった。だが特に予定のなかった湊は二つ返事で応じ、早速外出の準備を始めた。準備と言っても、冬の休日はいつも着ている、色の濃いジャケットを羽織るだけなのだが。
一階のラウンジに下りると、既に天田は玄関前で待っていた。季節に合わせて、ボリューム感のある襟付きのセーターを着ている。持ち物は何もなく、手ぶらだった。
「行こうか」
他の寮生は一緒にならず、犬も連れず、二人だけで冬の寒空の下に出た。湊は行き先を事前に尋ねることはせず、天田も口にしなかった。
背の低い天田は歩幅も小さい。先を行く小学生の後に続いて、民家の並ぶ巌戸台の住宅街を湊はゆっくり歩いた。堅気の人が普通に生活する、普通の街並みを急がずに歩いた。ただこの街並みには、普通さから唯一外れた異質な場所として神社がある。だが二人はそれも脇目に通り過ぎた。以前は願掛けの為に頻繁に通っていたらしい場所を越えて、天田は高校生を後に従えてひたすら前へと歩いた。
足元の道路や脇目に見るブロック塀には、意味不明な落書きやポスターが貼られているところもあった。しかしその数は決して多くはなかった。そして『前回』は取り分け多く見かけた、三文字のアルファベットを組み合わせた意匠は一つもなかった。その為か町の荒れ方には統一性がなく、程度も酷くは感じられなかった。そんなふうに、例年とさほどの変わりがない冬休みの昼間を、二人は歩き通した。
傍から見れば兄弟のような小学生と高校生の二人連れは、やがてムーンライトブリッジに辿り着いた。
巌戸台方面からポートアイランドへ向けて、橋の歩道を二人で並んで歩いた。隣の車道では、乗用車やトラックが間断なく走っている。学生は未だ冬休みだが、正月の三が日が終わった世間は既に動き始めている。だから交通量は少なくない。海から吹く冷たい潮風に車の排気ガスが混じり、空気はいささか息苦しい。
長い橋の中央辺りにまで来ると、天田はようやく足を止めた。そして白い欄干に両手を乗せて海を眺めた。湊も並んで海を見る。太陽は頭上のやや背後にかかっており、眩しさのない視界は巌戸台のほぼ全景を収めている。自分たちを含めた月光館学園の生徒が通学に使う、モノレールの橋梁も見える。
「……」
橋から見える景色は、世界の終わりが間近に迫っていることなど何も示していない。背後を通り抜ける車たちは、昨年と比べてただ日付が変わったことしか認識していない。そして眼前の自然の風景は、そもそも何も変わっていない。一週間程度の日付の違いなど、山や海には何の意味もない。
ただ屋久島のような自然美の溢れる海と違って、開発の進んだ巌戸台とポートアイランドに挟まれた海は人工的な趣が強い。今年と昨年では違いはないが、十年単位の昔と比べればやはり違うのだろう。だがこの場の二人は、そんなに昔の風景は知らない。正確に言うと、一人は本当に知らず、もう一人は覚えていない。
「ご両親が亡くなってるんですよね? 十年前……ここで」
言いながら、天田は振り返ってきた。湊も相手に合わせて、海から天田へと視線を向けた。話題とは裏腹に、天田の表情は酷く落ち着いたものだった。普段から着用している大人びた仮面は、今日もしっかりと貼り付けられている。
「ああ」
「事故……だったんですか?」
「ああ、事故だ」
今から十年前、不完全な状態で誕生したデスとアイギスがここで戦った。デスを倒せなかったアイギスは、その場に居合わせた湊の中にデスを封じた。ここまでは12月2日の綾時の告白の中にあった。だがその場になぜ湊がいたのか。綾時はそこまでは話していない。湊はあの時、家族でムーンライトブリッジにいたのである。表向きには交通事故として処理されたが、真相は違う。死神と対シャドウ兵器の戦いに巻き込まれて、両親は死んだのだ。
十年前に両親が死んでいることを、『今回』の湊は11月に天田に話している。死因は単に『事故』であるとだけしか伝えていなかったが、綾時の告白から天田は察したのであろう。天田は若いながらに頭はよいし、勘もなかなか鋭い。
「済みません。嫌なことを思い出させてしまって……」
「構わないさ」
天田は謝ってくるが、湊は表情を動かさない。天田を気遣ってそうしているのではなく、本当に全く構わない。思い出すも何も、当時のことを覚えていないのだから。あの事故の模様は、映像の一片すら記憶に残っていない。ただし覚えていないことまでは、湊は天田に伝えていない。
「いくら事故だって言っても……実際にご両親が亡くなったんです。その、有里さんは……」
家庭に問題を抱えている人が多い特別課外活動部にあって、湊と天田は家族に関して、他の面々より取り分け似た点がある。それは家族の死の原因が、身近な人であるという事実だ。だが湊にとってはあまり意味がない。意味があるのは天田にとってのみだ。
「僕は誰も恨んでいない」
エリザベスに聞かれたこともあるが、綾時とアイギスを恨むことはない。あの二人は事故を申し訳なく思っているが、湊は何も気にしていない。
「恨むことは……悪いことだからですか?」
聞きながら天田は俯いた。大人びた仮面は、その位置を僅かにずらされている。しかし少年はその下にある本当の顔を、俯くことで隠している。
「そんなことはない」
『事故』の後で人から聞いた話によると、湊の家族はあの日、開通から間もないムーンライトブリッジを自家用車で走っていたらしい。父が運転していて、母は助手席に座っていた。そして小学生だった当時の湊は、後部座席で横になっていたとのことだ。姿勢を低くしていた為、車が大破するほどの事故に遭っても大した怪我もなく済んだのだと、当時の警察や両親の知人から聞いている。
もちろんその話は真相とは違うはずだが、湊は真相を覚えていない。あの日の記憶は『前回』を通じてずっと消えたままだ。意識の手をいくら伸ばしても届かないほど、遥か彼方に追いやられてしまっている。両親の顔や人柄と一緒に。
そんな調子だから、事故の被害者としての実感はない。自分ではない別の人間の身に起きた出来事か、映画や小説で語られる事件のようなものだと感じている。事故に対しては、その程度の気持ちしかない。だから綾時やアイギスに当時の詳細などを聞いたことはない。辛い話を聞きたくなくて聞いていないのではなく、彼らに話をさせたくなくて聞いていないのでもない。そもそも興味がないのだ。
つまり恨むよりも酷いことを、自分はしている。綾時とアイギスにではなく、両親に対して――
湊にその自覚はある。だがどうしようもないことである。表情や言動と違って、心を自由に操ることはできない。悲しみたいと思って悲しめるものではないのだ。他人を恨むことがないから、他人の怨恨にも感情移入することなく、ただ客観的に見つめることができる。だがそれは『愚者』の神経がおかしいだけだ。普通の人間がその真似をしてはいけない。ストレガのように、他人の復讐の代行を仕事とするのでもない限り。
湊はこの辺りで自分に関する話を打ち切る為、話題を天田のそれへと移した。
「天田、お前は僕とは違う。恨んでも仕方がない……と言うか、恨むのが普通だ。恨みを感じるのは、恥ずかしいことじゃないんだ」
殺さないことと恨まないことは全く別だ。もしまた天田が荒垣を殺そうとしたら、荒垣を除く皆が止めるだろう。だが恨むことは、荒垣を含めて誰も止めてくれない。事実として、天田の母は死んでいる。それに怒りや無念を抱くのは当然のことであると、誰もが思う。
「荒垣さんのこと、許したわけじゃないんです」
だから天田がこう言うのも当然だ。だがそれだけでは、事態は収まらない。
「でも……以前ほど恨みを感じなくなっているんです。でもそれも嫌って言うか……」
天田は地面を見つめたままで、まだ顔を上げない。天田の生来のペルソナであるネメシスは、ギリシャ神話ではニュクスの娘であり、タナトスやヒュプノスの兄弟だ。しかし兄弟は互いに似ることはあっても、同じ人間ではない。天田はタカヤと違って死に酔うロマンティストではないし、綾時やファルロスと違って死の宿命そのものでもない。つまり天田は良識もあれば情もある、普通の人間なのだ。そして普通であることは、責められるべきことでは決してない。
「恨みを忘れるのも恥ずかしいことじゃないぞ」
荒垣は悪ぶっているが、実は好人物だ。何ヶ月も身近に接していれば、誰でも自ずと理解できる。もしも荒垣が本当に悪人だったら、また話は別だった。或いは復讐の槍に恐れをなして、命乞いでもして見苦しく逃げるような小悪党であれば、事は簡単だった。天田はただ荒垣を軽蔑すればよく、何の葛藤も必要なかっただろう。
だが母の死が事実であるのと同様に、荒垣の人柄も一つの事実だ。その事実を知ってしまった以上、元のままではいられない。憎悪が薄れてしまうのも一つの道理である。しかし事実や道理だけでは人は生きていけない。
「僕はどうしたらいいんですか?」
天田は普通の人間である。だから葛藤はなくならない。新たなペルソナに覚醒しようがしまいが、悩みは天田について回る。
「自分で決めることだ」
荒垣とどう向き合うか。これは天田の問題なのだから、天田が自分で決めるべきだ。それは正論である。どんな反論も許さないほど、全面的に正しい。だが――
「命令してくれませんか。タルタロスでいつもしているみたいに……」
俯いたままの天田の声色に、暗いものが混じった。まるで湊を恨んでいるかのような口調だった。
二人の隣では、相も変わらず車が何台も続けて通り過ぎている。直進道路が長く続くムーンライトブリッジを走る車は、概してスピードが速い。人間社会の流れは、時の流れよりもなお速い。悩んで立ち止まる人間を、世間は誰も待ってはくれない。
自分の行動を自分で決める。それは口で言うほど容易いことではない。まして天田に突き付けられているのは、学生の進路などより遥かに重大な人生の岐路だ。自分一人で決められないこともある。子供に全てを任せて突き放してばかりいるのなら、年長者はいる意味がない。
「じゃあ一つだけ……」
湊は一歩近づき、地面に片膝をついた。すると天田は視線を真っ直ぐ出会わせてきた。少年の茶色い瞳に涙の跡はない。二年以上に渡って、涙はずっと隠され続けてきた。
少年の小さな肩に両手を置いた。僅か十一歳の体は、触れてみるとその小ささがよく分かる。重たい槍を自在に振り回すほどの力が、この軽そうな体に秘められているとは、知ってはいても信じられなくなってくる。
「恨みを忘れてもいいし、忘れなくてもいい。でもな……お母さんのことは忘れるな」
天田の瞳が揺れた。瞳の表面ではなく、その奥に隠されたものが揺れて、表にまで零れ落ちようとしている。
「お前が忘れてしまったら、お母さんは本当に死んでしまうんだ」
人は二度死ぬ、という言葉がある。それが正しいのなら、自分の両親は完全に死んでいることになる。だが天田の母にはそうなってほしくない。天田の為に。
「分かったか?」
「……」
天田は再び俯いて揺れる瞳を隠し、何も答えなかった。だが湊は敢えて返事を待たず、膝を起こして立ち上がった。
「帰ろうか」
来た道を引き返す為に、湊は足を進めた。橋から見える海の景色にも、通り過ぎる車の群れにも気を留めない。かつて両親が死んだアスファルトの上で、何も思うことなく足を動かす。だが――
「あの……有里さん!」
背中に軽いものがぶつかった。それと共に、小さな手が腰に回された。
「死なないでください……お願いですから!」
背後にいる少年の顔は見えない。だがきっと、ジャケットの背中は濡れているのだろう。大人びた仮面の下にあった天田の本当の顔は、年に不相応なくらいの泣き虫だった。顔を見なくても、大きく震えた声がそれを教えている。教えられたその瞬間、時間が停止した。
『我は汝、汝は我……』
あらゆる物質と精神の動きを止めて、絆を教える『我』の宣告が下された。正義のコミュニティが真実のものとして認められた。身近な人を身近な人によって失っている二人の人間が、置かれた境遇以上の領域において同化した。それと共に湊は二つのことを悟った。
(そうか……なるほどな)
制御剤に蝕まれた荒垣の今後の容体について、11月に湊は天田と話している。その際、天田は治ってほしいと思っていた。どうしてそう思うのか、その時は深く考えなかったが今になって分かった。泣き虫の少年は、自分が何もできないところで勝手に人が死ぬことに耐えられないのだ。全ての生き物に死を宿命付ける自然の法則や、全ての事件を忘れ去る世間の流れなどは関係ない。天田はただ泣いて叫んで、時が過ぎるのを止めようとする子供だった。黄道、即ち季節の移ろいを神格化したペルソナとは反対に。
そしてもう一点。アイギスによれば、時の狭間で『鍵』の使い道を巡って皆は仲間割れしたらしい。しかしその時に誰が何を主張したのかを、湊は聞いていない。だが天田はきっと戻ることを主張したのだろう。主に荒垣の為に。もしかしたら、自分の為にも――
「ああ……死なないさ」
もう嘘は吐かないと決めていたから、天田にはいつも真実ばかりを伝えていた。ならばこの言葉も嘘にしてはならない。何の成算もない戦いに挑むことは、大晦日に既に決意している。だがその決意に、もう一つの絆を重ねよう。アイギスと綾時の為に生き延びるつもりでいるが、天田の為にも生き延びよう。
以上、正義コミュでした。
主人公の両親に関しては原作ではゆかりの領分ですが、死の原因が身近な人であるという点ではむしろ天田と共通点があるかなと思って、正義コミュでは家族と怨恨をテーマにしてきました。
ゆかりとのフラグがないに等しい本作では、ゆかりとはあまり突っ込んだ話ができないという事情もなきにしも非ず……。