「じゃ、始めましょうか。進路相談って言っても、長話する気はないの。結局は貴方自身が決めることだしね」
終末の日まで残すところ一週間を切った、負ければ最後となる月曜日。授業を終えた放課後の時間、湊は職員室に呼び出された。と言っても、何か問題を起こしたわけではない。今日はクラスの全員が順番に呼び出されている。今後の進路について、担任の鳥海と面談だ。
「進学と就職……貴方、どちらにするつもり?」
この型通りの質問は『前回』もされた。そしてその時は、決めていないと答えたのだった。『今回』より町の荒れ方が酷かった『前回』は、同じように答えた生徒が多かったことだろう。だからであろうか、鳥海は特に叱ってきたりはしなかった。もっとも単なる怠惰や先送りでそう答えたのではない。
ニュクスに勝っても勝てなくても、自分は生きて帰れない――
そんなふうに漠然と感じていたから、ニュクスを倒した後の将来のことなど、ろくに考えていなかった。そして『今回』も生き延びる為の具体的な成算などはない。だが卒業後の進路は考えている。成算はなくとも、意志はあるから。そして夢もある。
「就職です」
答えた途端、鳥海は驚いた顔を見せてきた。転入以来、四期連続で学年トップを取っている優等生であるから、当然難関の大学を受験するのだと思っていたことだろう。クラスの進学率は担任の評価にも影響してくるから、鳥海にすれば金の卵を逃したことになるだろう。
「そう……ちゃんと考えて決めたんなら、先生はもう口出ししないわ」
だが鳥海はすぐに気を取り直した。あまり板に付いているとは言えない教育者の仮面で、驚きを抑えた。
「大事なのは、自分の頭で考えて決めたかってこと。自分の責任で決めなかったことは、いつか誰かのせいにしたくなる……。その時一番辛いのは、自分自身だからね」
「……」
胸の奥で何かが疼く感覚があった。自分の責任で決めたことには、決めなかったこととは異なる辛さがある。契約者はそれを誰よりも知っている。だがそれをこの場で言っても意味はないので、辛さは飲み込むしかない。ペルソナ使いの戦いは世間に知られることがないが、心理学的な意味でのペルソナも人に知られないものもある。そこから生まれる辛さは、誰とも共有できない。
「でも実を言うと私、貴方のことはあんまり心配してないの。貴方、転入してきた頃と比べて随分変わったわよ。自分で気付いている?」
「そうですか?」
胸の疼きから、驚きと共に急に現実に引き戻された。この一年で顔つきや言動が見違えるほどしっかりしてきた、とは『前回』にも言われた。だが『今回』も4月と比べて変わったとは、自分では意識していない。
「貴方って元から凄くしっかりしてたけど、どこか生き急いでるって言うか……全部一人で何とかしようって、そんな感じだったから。責任感が強すぎたのね。きっと」
Y子のくせに、型通りでない本当に教師らしいことを言ってきた。的を射ているかどうかは別にして。
「今は違いますか」
「全然違うわよ。貴方を一番変えたものって、何だったのかしら?」
何であろうか。無気力症の自分が『前回』しっかりしたのは、単にそういう仮面を身に付けたからに過ぎない。身に付けたことそれ自体も、コミュニティを進める為にはそうする必要があったからだ。では『今回』の自分は何が原因で、生き急ぐことをやめたのだろうか。単に鳥海が誤解しているだけかもしれないが、もし当を得ているのだとしたら――
(何だ……?)
努力だろうか。『今回』は戦いにおいては『前回』よりも遥かに努力した。それとも出会いだろうか。岩崎を始め、『前回』にはなかったコミュニティをいくつか行ってきた。或いは別れだろうか。荒垣や桐条武治とは別れずに済んだが、沙織とは別れた。
「……分かりません」
どれでもあるような気もするし、どれでもないような気もする。『愚者』は優れた観察力を要求されるが、その視力は自分自身には働かないのかもしれない。『今回』の4月と比べて変わったのかどうか、それ自体もよく分からない。
「そう。まあともあれ、貴方なら先生が色々言わなくても大丈夫そうね。よろしい、話はそれだけよ。三年に上がっても、頑張りなさいね。じゃあ、ええと次の人は……」
鳥海はリズムよく仕事をこなす。自分の為に費やされた時間はごく短い。ほんの数分の会話だけで、進路相談は終わりになった。教師は大きな疑問を生徒に与え、解答を与えることなく世間に放り出した。
「ああ、アイギスさんね。悪いけど声かけて来てちょうだい」
たとえ納得できなくても、教師が終わりと言ったら終わりである。湊は職員室を出て、F組の教室に向かった。頭は疑問に囚われたままであるが、道を間違えることはない。頭よりも正確に校舎の構造を覚えている足は、意識しなくても勝手に動く。
そうやって辿り着いた教室に、アイギスの姿はなかった。その代わりに、残っている生徒たちの会話が耳に入ってきた。話題は主に進路相談で何を聞かれ、何を答えればよいのか、と言ったことだ。既に済ませた生徒に、これから行う生徒が尋ねている。主な選択肢は進学か就職かだ。普通の高校生ならば誰もが行き当たる話題に、普通に花が咲いている。ある生徒は真面目に、ある生徒は不安げに、またある生徒は気楽に話している。目前に迫った世界の終わりなど、ほとんど感じることなく。たとえ感じたとしても、進路の方により強い実感を持って――
(ん? そう言えば、こいつらはどうなんだ?)
ふと思い付いたことがあった。このクラスの生徒たちは、『今回』の4月と比べて変わったのか。そして『前回』の今日と比べて同じなのか、それとも違うのか。
(ストレガはカルトを立ち上げてない。だったら……)
ゆかりや順平は、特別課外活動部の状況や自分との関係の変化による影響を確実に受けているし、友近や宮本もそうだろう。ならば他の生徒はどうか。アイギスが行った時間の逆行は、『前回』の記憶を持たない者や持つ者と関わりのない者にとっては、同じ出来事の繰り返ししか生み出さないはずだ。だが同じ時間で同じ状況を過ごすことは、本当に同じ結果や同じ未来しか呼べないものなのだろうか。タルタロスは同じ日の同じ階層であっても、その構造は『前回』と『今回』で違う。それと同じで、円のように巡る時の中にあってさえ、人の行動はその都度変わり得るのではないか――
そんなことを思ったら、『前回』のこの日の出来事を連想的に思い出した。それと同時に、なぜもっと早く思い出さなかったのかと、自分自身に疑問を感じた。
(ああ、そう言えば屋上にいたんだったか)
階段を上り、屋上へと向かった。1月下旬の冷たい風は、普段からめったに水をかけられない枯れかけた花壇に、最後のとどめを刺している。終幕が近いことを告げる空気の中に、やはりアイギスはいた。手摺に掴まって、遠い海を眺めている。他の生徒の姿はそこにはなかった。『前回』と同じ状況である。
「アイギス」
「湊さん……」
あの時の彼女は、ここで思い詰めた様子を見せていた。12月2日に綾時と戦った時、恐怖や無力感を感じたのだと告白していた。機械には本来縁のない感情に、そして感情を持ったこと自体に彼女は戸惑っていた。
「もうすぐですね、1月31日」
だが振り返った『今回』の彼女は、柔らかく微笑んでいた。この変化は、何に由来するものであるのか。例えばそれは『今回』の自分を変えたものと同じなのか、違うのか。
「前の貴方が死を約束された日です。でも、今度は絶対にそうさせません」
生きるとは変わること――
『前回』の12月30日、修理から戻ってきた彼女はそう言われていた。だが言ったのは、自分ではなく美鶴だ。綾時を殺して全てを忘れるようにと懇願した彼女を説得したのは順平であり、風花であり、ゆかりや真田や天田だった。滅びを受け入れた彼女を変えたのは、自分以外の人々だった。『前回』も彼女の一番近くにいたのは自分で、彼女自身が一番近くにいることを望んでいたのも自分だったのに。
私の一番の大切は、貴方の傍にいること――
屋久島で会って以来、何度も言っていたこの言葉の本当の意味は、デスを封じた人間から目を離さない為だった。しかしデスがいなくなっても、貴方の傍にいたい。生きるとは何か、貴方と一緒なら見つかるかもしれない。だから一緒に――
「ただ、一つだけ不安があります」
『前回』はそう頼まれ、そして自分はむしろ来てほしいと答えたのだった。自分はあの時、どういうつもりで答えたのだろうか? 彼女に一緒に来てもらって、自分は何を求めていたのだろうか?
「貴方を失って、私は自分の心も失ってしまいました。でも貴方にはそうなってほしくないんです」
「卒業したら……君はどうするんだ」
『前回』のこの日、彼女は同じことを聞かれたはずだ。だが聞いたのは自分ではない。だから彼女が何と答えたのかは知らない。自分は彼女について、呆れるほどに何も知らない。趣味や嗜好さえ知らない。知っているのはただ一つ。彼女は自分をどう思っているか。『前回』この場所で告白された、たったそれだけのことしか知らないのだ。なぜなら自分は何も聞かなかったから。
「だからお願いします。たとえ私が死んでも……後悔しないでください」
彼女は何を言っているのだろう。何も分からない。彼女の口から出てくる音は遠い異国の言葉のようで、心はまるで通じない。
「進学するのか? それとも就職か……?」
「私は時間を戻してしまいました。その責任を取らないといけないんです」
彼女の言葉を自分は理解できないように、彼女もこちらの言葉を理解できていないのかもしれない。だから会話は噛み合わない。しかし今の彼女の言葉は理解できた。
責任――
それは自分の務めだ。全ての責任は自分のものだ。滅びの罪は、自分一人のものだ。時間を戻したのは自分ではないが、それも一緒に背負ってもいい。いや、自分こそが背負うべきものだ。ファルロスと綾時のしたことは自分のしたことであるように、アイギスのしたことも自分のしたことではないのか。
「安心してください。私が必ず、貴方を守りますから……」
永劫のアルカナの最奥に位置するペルソナが、それを暗示している。ユダヤ教の最高位の天使で、名前の由来はギリシャ語で『玉座に侍る者』。侍る者でありながら、玉座に座る主、即ち神と同一に近い存在だ。そしてまた、天使であるのだがペルソナとして顕現する時は、機械のような姿を取っている。そして機械のようなペルソナと言えば、もう一体いる。オルフェウスだ。
ギリシャ神話の吟遊詩人、幽玄の奏者。生きたまま冥界に下った者にして、密儀宗教の創始者。死神を宿した人間のペルソナとしては、相応しくないこともないだろう。だがペルソナとして現れたオルフェウスは、人間の頭に機械、と言うよりからくり仕掛けのような体でいる。楽器を演奏するには不便であろうに、なぜあんな姿をしているのだろうか。
人間の体でないのは、八つ裂きにされて死んだとの神話に準じているのかもしれない。だがそれなら首だけの姿でもよいはずだ。それなのに器物の体を持っている。しかも天使と違って精巧な機械ではなく、子供が組み立てた玩具の人形のような体だ。その意味するところは――
「僕が……君を守るよ」
彼女は驚いた顔を見せた。思いがけない方角から不意打ちを受けて、青い瞳を大きく見開いている。手は自然体に下げられた位置から、何かを庇うように首元まで持ち上げられた。戦いの構えではないが、何かをその手で守ろうとしている。クリスマスにプレゼントした青いリボンが、その手に触れている。
彼女の顔は見慣れているけれど、全く同じ顔をする日はない。同じ人間はこの世にいない。綾時さえ自分と同一人物ではない。季節が巡っても同じ日はなく、時間が戻っても同じ日は来ない。その真実の重さが頭の上にのしかかり、湊は視線を少し下げた。
「守るのは私です。私が貴方を……」
「いいや……」
驚かせはしたものの、言葉はようやく通じた。だが通じた途端、どうでもよくなってしまった。『前回』を通じて、自分が彼女に与えた言葉は少なかった。それは言葉を持たないからではなく、それ以上のものを求めていたからではなかっただろうか。俯いたまま彼女のもとへと一歩近づき、その手を取った。
硬かった。人を危険から守ってくれる、硬い手だ。その手を自分の両手で捧げ持った。
「……」
彼女はこの世の誰よりも強い。どんな男も容易く退けられる、誰も寄せ付けない鋼鉄の処女だ。だが彼女は抵抗しない。ただ黙って、されるがままになっている。自身の手を男の口元まで寄せられても、振りほどかないし何も言わない。ギリシャ神話で語られる戦争の女神は、配偶者を持たない処女神だ。だがそのペルソナは既に彼女から失われている。
「生きることは、繋がることなんだろう」
冬の晴れの日は、夏より光が眩しく感じる。太陽が低い為に、見上げなくても目に入って来るからだ。彼女の手だけを見つめて顔を見ていないのは、その為だ――