タルタロスと呼ばれる謎の神――
ギリシャ神話においては最初に生まれた神はカオス、即ち混沌である。それに次いで生まれたのがガイア、エロス、そしてタルタロスとされている。愛が同時に存在する為であるのか、タルタロスはガイアと交わってテュポーンとエキドナを生んだ。言うなれば、奈落と大地は原初の夫婦神ということになる。そして両者の子供もまた夫婦神で、ケルベロスやオルトロスなど数多の怪物を生んだのである。ちなみに原初の夫婦神としては、カオスから生まれたニュクスとエレボス、即ち夜と幽冥もそうである。
そして神話の時代の後半になると、タルタロスはやがて牢獄としての役割を与えられることになる。ティターンやヘカトンケイルなどの巨人族が幽閉され、シーシュポスなどの罪人が刑罰を受ける場所としても使われた。タルタロスは神であるのだが、同時に地名としての意味もある。
ただいずれにしても、神話の伝えるところによればタルタロスは穴である。それにも関わらず、現実には塔として聳え立っている。それは単に神話と現実は別であるからか、それとも地上が奈落の底であるからか。塔のタルタロスの頂上一歩手前で対峙する二人の男は、どちらもこの問題を考えたことがある。しかし二人がそれを議論することはもはやない。時間は無限ではないからである。
同じこの場所で『初めて』対峙した時と比べれば、この二人はずっと多くの事柄を話し合ってきた。しかし話すべきことや話したいことを全て話すには、やはり時間が足りなかった。人間が互いを完全に理解し合うのは、親兄弟や夫婦であっても難しいことである。
だから二人のうち一人は剣を構え、もう一人は銃を構えている。残された僅かな時間は、もはや言葉の議論には使われない。
「行きます」
――
彼の心臓を狙って、愛用の拳銃から初弾を放った。この銃は市場に出回っているものとしては、世界最強と謳われる破壊力を誇っている。随分昔にジンが闇ルートで入手してくれたものだが、それ以来自分は常に持ち歩いている。使い始めた当初は発射時の反動で手の感覚がなくなるほどだったが、慣れた今は片手撃ちでもどうということはない。撃った直後に肘を折り曲げて銃を振り上げ、反動を少々逃がしてやれば、手に痺れはほとんど残らない。
開幕を告げる銃弾を、彼は斜めに傾けた剣の腹で弾いた。過去に同じことをした経験があるかのような慣れた仕種でもって、事も無げに銃弾を細身の剣で弾いて見せた。もしかすると自分との戦いに備えて、同じ類の攻撃を多用するシャドウを相手に練習していたのかもしれない。例えば刈り取る者だ。もちろんいくら練習しようと、現実では銃弾を剣で防ぐなどまず不可能だ。しかしシャドウやペルソナ使い同士の戦いならば可能である。
いずれにせよ、距離を置いて互いに静止した状態で銃を撃っても、彼には当たりそうにない。この銃は五連発式と装弾数が少ない為、あまり無駄弾を撃つわけにはいかない。予備の弾丸は持っているが、再装填をする余裕はないだろう。かつてここに案内した時と違って、彼は非常に強大な相手となっている。下手に隙を見せれば、その瞬間に命ごと持っていかれる。
「行くぞ」
剣を手に彼は駆け出した。武器もそうだが、自分のペルソナは遠距離からの攻撃を得意としている。もっとも11月には銃のグリップの打撃で彼を気絶させるなどしたように、自分も接近戦ができないわけではない。しかし当時と今では彼の実力が違う。何よりあの時は、7月に彼が夢に見ていた『女』を打ちのめしたので、彼は冷静さを欠いていた。だが今は一対一の為、彼は『女』や駒たちに振り回されはしない。従って接近戦は彼が有利だ。そして彼もそれを分かっているから、距離を詰めてきた。
「ヒュプノス」
一声呼んでペルソナを召喚した。もちろん銃を己の頭に向けることはない。もっとも召喚器なしでのペルソナ召喚を覚えた当初は、行う度にかなり激しい頭痛に襲われていた。為にその頃は両手で頭を抱えて、床に膝をついたりしたものだった。だがいつの間にか頭痛はなくなり、息をするのと同じくらいの当然さで召喚できるようになった。射撃の反動に手が慣れるのと同様に、ペルソナの刺激も繰り返せば体が慣れてしまう。そのせいなのか、近頃は制御剤さえ必要なくなった。
慣れ親しんだギリシャ神話の眠りの神が頭上に顕現するのとほぼ同時に、彼の頭からガラスが割れる音が響いた。彼は右手に剣を持ち、左手で召喚器を持ってこめかみに当てている。なかなか器用なことをするものだ。
彼の頭上に顕現したビジョンは、翼を持った白い男だった。初めて見るものだったが、何であるのかは一見して分かった。あれはキリスト教の救世主を表すものだ。自分はチドリやジンと違って解析の能力を持たないが、ペルソナやシャドウの力量ならば見れば大体のところは分かる。そして自分と縁のある存在ならば、名前やその他の情報も見ただけで分かる。例えば8月には、天田少年のペルソナの名はネメシスであると一見して分かったように。
頭上のヒュプノスに手を合わさせ、紫色の光の球を中空に出現させた。その直後、彼の白いペルソナも同じ光を放ってきた。あらゆる存在を等しく薙ぎ払う万能の光を生み出し、互いにぶつけ合う形になった。限界まで鍛え抜いたペルソナ使い同士の本気の魔法は、威力も効果の及ぶ範囲も甚大だ。フロアの一角が紫色に染まるほどだ。
(む……!)
視界が光に覆われた為、彼の姿は見えなくなった。だが視覚以外の感覚に何かが届けられてきた。彼は何かを仕掛けてくる。ただし再度の召喚ではない。これは彼の特殊能力である、ペルソナの変更――
(死神ですね)
彼が最初に用いたペルソナも自分とそれなりに縁があるが、変わった先のペルソナはより深い縁がある。だからであろうか、彼の動きと狙いが読めた。ペルソナは召喚しなくても、使用者の膂力や魔力に影響する。距離が詰まると同時に、魔法が得意な救世主から物理攻撃が得意な死神へとペルソナを変更したのだろう。
体を右へ半歩ずらし、再び銃を構えた。それとほぼ同時に、光の中から刃が突き出されてきた。そこへ二発目の銃弾を放った。
――
「く……」
光が消えると共に、彼の姿が露わになった。剣を持った右手の甲で、左肩を押さえている。視界を塞がれ、かつ至近距離からの銃撃はさすがに防げなかったようだ。このまま接近戦に持ち込むのはかえって不利と判断したか、彼はこちらを向いたまま数歩下がった。その間に自分も己の体を確認してみた。するとタトゥーを施した左の肩に、刀傷ができているのに気付いた。ちょうど蛇の目の辺りが斬られている。だが流れている血の量は少ない。傷はごく浅い。
彼に視線を戻せば、左手に持った召喚器を再びこめかみに当てているところだった。軽傷の自分と違って、穴の開いた左肩には相当な痛みがあるはずだが、反動のない召喚器を撃てないほどではないようだ。もっとも大型のマグナム弾を普通に肩に受ければ、腕や胸ごと粉砕されてもおかしくない。だが対シャドウ戦とペルソナ使い同士の戦いにおいては、物理法則を無視した形で結果が現れる。だから自分の銃は、彼の剣と威力においては大差がない。頭や心臓のような急所に当たらない限り、一発でやられることは互いにないのだ。
彼は死神から救世主へと再びペルソナを変更して、頭上に呼び出した。白いペルソナは右腕を掲げ、やはり白い光を彼の足元から立ち上げた。それにより肩に負った傷は瞬時に癒やされた。
そうして再び距離を置いた状態で、彼は口を開いた。
「どうして万能魔法を使った?」
自分と縁の深いペルソナならば、様々なことを一見して理解できる。名前の他にも使える技や魔法、更には耐性も分かることもある。そして今の攻防で分かったのは、彼の救世主と死神のペルソナは各々光と闇が無効で、その反対に弱いということだ。ならば自分としては、初手から光か闇の魔法を使うのが最も有効な戦術のはずである。しかしそうしなかった。それはなぜかと彼は聞いている。
「……」
彼の質問に対して、言葉では答えなかった。ただ薄く微笑んで見せた。なぜならこんなことを聞いてくるということは、彼は己の弱点を見抜かれていることを理解しているということだから。そこまで分かるのなら、自分の行動の理由も言わなくても分かるだろうから。
少々の視線の交換の後、彼は唇の端を持ち上げて微笑んだ。傍から見れば皮肉なものだが、本人としては親近感を表しているつもりのようだ。そんな親しげな笑顔で、不思議なことを言ってきた。
「お前は優しいんだな」
聞いた途端、思わず笑みが深まってしまった。自分は優しい――
無茶な言い様だが、彼の言いたいことは分かる。10月4日と11月4日、これまで二度に渡って自分は彼の一党と交戦した。その時、自分は誰も殺さなかった。なぜならあの時の自分は本気でなかったから。その気になりさえすれば、その場の全員を皆殺しにするのは容易かった。それでも殺さなかったのは、彼をストレガに引き入れるつもりだったからだ。だから彼の駒や彼が執心する『女』を殺すのは控えたのだ。
それを彼は理解している。彼の他にはジンも理解しているだろうし、もしかすると天田少年も理解しているかもしれない。だが何にせよ、自分は自分なりに彼を気遣ってきたつもりである。それを彼は『優しい』と言っているのだ。そして即座に弱点を突いて一瞬で終わらせようとしなかったことも、優しさだと彼は言っているわけだ。
彼の言葉は決して正しいとは言えないが、なかなか面白い表現ではある。だから敢えて否定はしなかった。
「まだ始まったばかりです。ゆっくり楽しみましょう」
再びヒュプノスを召喚し、万能魔法を放った。対する彼も同じ魔法を放ってくる。これには弱い者も強い者も存在しない。だがそれだけに、同じものをぶつけ合うと相殺される。そうして同じ光の応酬がしばらく続いた。いささか単調に。
彼と自分の戦力を総合的に比較すれば、概ね同等と言える。細かく言えば膂力と敏捷性は彼がやや上。そして魔力は自分がやや上。だから遠距離からの魔法の撃ち合いでは、自分が有利になる。そして自分たちの戦いにおいては、勝敗を左右し得る重要な要素がもう一つある。召喚器を頭に当てる動作が必要な彼は、必要としない自分に比べてどうしても発動が一瞬遅れてしまうことだ。
「く……」
彼は僅かに呻き、その場から一歩下がった。自分の光の何割かは彼に届いている。しかし彼の光は自分には届かない。時間が過ぎるに連れて、彼の不利は段々と大きくなっていく。やはり接近戦に持ち込まない限り、彼に勝ち目は乏しい。しかしほとんど休まず万能魔法を撃ち続けることのできる自分に対して、距離を詰める機会はなかなか見出せまい。無理に駆け寄ったところで、肩に銃弾を受けた先ほどの二の舞になるだけだ。従ってこのまま撃ち合いが続けば、いずれは押し切れる。しかし――
(それでは興が覚めますね……)
そんなことを思ったちょうどその時、光と音の饗宴の合間のごく僅かな瞬間に、彼の姿が目に留まった。何度目かの召喚の儀式を行おうとしており、表情には若干の焦りが伺えた。それを見た途端、思い付いたことがあった。思い付いた直後には、もう自分は行動に移していた。
――
三発目の銃弾を放った。その直後、金属が衝突する甲高い音が爆発の残響を切り裂いた。そしてそれから若干の間を置いて、金属の塊が氷河の床に落ちる音がかなり遠くから届けられてきた。元々射撃には自信があるが、思い付きで放っても的を外すことはなかった。狙い通りに彼の召喚器を弾いた。
「……」
彼は視線を自分と真っ直ぐ合わせながら、空になった左手をぶらつかせている。後ろへ飛んでいった召喚器は見もしない。背を見せれば、その瞬間に心臓を撃ち抜かれるだけである。そもそも銃弾をまともに受けた召喚器は壊れた可能性が高い。それを分かっているのであろう彼は、自分から目を逸らさない。そうした沈黙の交錯が呼吸を一度するくらい続いた後、自分の口から不意に言葉が出てきた。
「どうしました? あんな玩具に頼らなければ、貴方は何もできないのですか?」
言ってしまってから、顔に再び笑みが浮かんでしまった。自分の言動におかしくなったのだ。自分たちがしているのは本物の殺し合いであって、町の掃き溜めで群れをなすネズミどもの諍いではない。その只中に敵に塩を送るとは何としたことか。これでは彼が言った通りではないか。
自分は優しい。否、それを通り越したお人好しだ――
「ふん……お前にできて、僕にできないはずがない」
彼も再び笑った。先ほどと違って、今度は本当に皮肉な笑みだった。唇の両端を持ち上げて目尻を下げた、いかにも楽しそうな顔だった。彼は駒に過ぎない偽善者たちとは元より一線を画しているが、こういう表情も持っていたのかと意外に感じるほどだ。その顔を、彼は両腕を交差させて隠した。
拳銃の形をした召喚器で頭を撃つ。その意味は、死を覚悟すること。だが言い方を変えれば、覚悟さえすれば召喚器など必要ない。自分はそれができる。そしてそれは決して自分だけに可能な特殊技能ではない。ペルソナ使いならば、本来は誰にでもできることだ。真の意味で命を懸けることができるなら、あんなつまらない玩具は必要ない。
「僕に……怖いものはない!」
彼は天を仰ぎながら、顔を覆った両腕を広げた。しかし腕は広げられても喉を垂直に立てた格好でいる為、彼は己の顔を自分に見せていない。ただ口が大きく開かれていることが分かっただけだ。
「タナトス!」
名前が呼ばれると共に、黒い存在が顕現した。奈落の底から呼ばれたそれは彼の背骨を一息に駆け抜け、月へと吠える彼の口から飛び出してきた。最初の攻防でも彼は用いていたはずのそれは、余人には見えない彼の内部から飛び出して、その存在を高らかに主張した。その姿は死に怯える人間ではなく、逆に死を支配する神のそれだった。場所を思えば、これ以上相応しい存在は他にいないだろう。
ギリシャ神話の死の神だ。首から下げた八つの棺桶の蓋を広げ、死を運ぶ風に乗って飛翔してきた。
「ぬう……!」
死神は腰に差した長剣を、目にも止まらぬ速度で抜き打ちにしてきた。対する自分はヒュプノスを召喚したが、それだけだった。魔法で迎撃するつもりだったが間に合わず、血管が透けて見えるペルソナの腕で、剣の一撃を防御するのが精一杯だった。
「タカヤ!」
そして彼自身も再び駆けて来た。死神の翼が足に乗り移ったように、風の速さで氷河を走る。先ほどまでの撃ち合いで稼いだ距離を瞬きする間に乗り越え、一挙に間合いに入ってきた。そして剣を自分の喉へ向けて突き出してきた。躊躇も逡巡も一切ない、完全に殺すつもりの技だ。思わず背中を何かが走る感覚に襲われた。
「ぐ……!」
必殺の突きを拳銃の銃身でかろうじて防いだ。背中の怖気が走り抜けると同時に、射撃の反動などとは比較にならない大きな痺れが手に残った。速さも力も想定とは段違いの一撃だった。彼は先程までとは明らかに違っている。死の彼岸へ自ら飛び込んだ彼は、まさに水を得た魚の如しだ。抑えきれない昂ぶりが手から肩から漏れ出ていて、氷河の空気を揺らしている。そして自分を見据える瞳には純粋な殺意が溢れている。気の弱い人間ならば、視線だけで心臓が凍るだろう。だが自分はそれとは逆に、凍っていた心に火が灯るようだ。
「くくく……そうです。そうでなければいけません!」
彼は世界を救うなどとは欠片も考えていない。そんな彼には、やはり救世主は似合わない。死神こそが彼には相応しい。それも誇り高き英霊を天の殿堂へ案内する、優しき魂の導き手などでは断じてない。罪ある者、即ちこの世の全ての人間をまとめて奈落へ叩き落とす、冷酷非情な悪神こそが彼の本性だ。
そして自分たちの頭上では、神話の双子が骨肉相食んでいた。並のペルソナは一つ動くとすぐに消えるが、死の彼岸に広がる大いなる海に浸る自分たちのそれは消えない。人間の肉体がぶつかるのとは違う、ペルソナ同士が衝突する独特の音楽が繰り返し奏でられている。
黒い兄は剣を上段から振り下ろし、下段から振り上げる。更に袈裟懸け、逆袈裟と立て続けに斬る。武器を持たない白い弟は見る間に傷が増えていくが、黙って斬られてはいない。紫色の光を連続して放ち、兄の胸元で圧縮させては炸裂させる。兄は剣で旋律を奏で、弟は爆発で拍子を刻む。互いに遠慮は一切ない。痛みを知らない神の兄弟は、同じ血を持つ相手であろうと構いはしない。否、同じ血だからこそ容赦がない。どちらが勝とうと血は残るから。それは即ち、この戦いはそもそも勝敗を争ってなどいないということだ。奈落に捧げられる、流れる血そのものにこそ意味がある。
もちろん戦うのは空中に浮かぶ神話の存在だけではない。氷河に足をつけた人間も戦う。
「ふっ!」
彼の突きは一度だけでは終わらなかった。初撃の喉に続いて心臓、鳩尾、更には肩や脇腹も狙ってくる。急所もそれ以外も関係なく、とにかく連続して突いてくる。自分はそれを下がってかわし、或いは拳銃の銃身で防ぐ。それを何度か続けて、自分の踵が頂上へと続く階段に当たった時、彼は大きく踏み込んできた。切先は真っ直ぐ自分の喉を狙っている。対する自分は上体を左に傾けてかわし、首のすぐ隣を真剣が通り抜けた。これまでの流れでは、彼は剣を引いて再び突いてくるところだが――
「はっ!」
この時の彼は止まらなかった。踏み込んだ足を軸に、伸びきった右腕をそのまま横に振り回してきた。当たれば確実に首が飛ぶ――
(甘い!)
彼の狙いは悪くないが、動作が大きい。突きをかわして左下に傾いていた体を、膝を折ることで更に沈み込ませた。それで彼の剣は自分の頭上の空を斬った。こうなれば後は彼の崩れた体勢が残るだけだ。右手の銃を構え、剣に振り回されて無防備に晒された彼の腹へ銃口を向けた。
――
(何!?)
四発目の銃弾を放った直後、思わず体が固まってしまった。銃口を向けたまさにその時には、回転する彼の体が確かに眼前にあったはずだ。だが射撃の反動を逃がす為に振り上げた右腕の横から見える景色には、彼の姿はなかった。驚愕の一瞬の更に一瞬の後、何があったのかを銃が教えてきた。
「ぐっ……!」
最初の突きを受けた時以上の衝撃が、振り上げた銃を持つ右手に襲ってきた。そしてその直後、右の手首に刃物が滑り込む感触があった。不覚にも体がよろめき、後ろ向きに階段を数歩上ってしまった。そして彼は氷河に着地した。
(一本取られましたね)
彼は突きから払いへと繋げて、剣を体ごと回転させた。自分はそれをかわして隙を見出したつもりだったが、実はそうではなかった。彼は回転しながら下半身を屈めていて、剣を振り切ると同時に上へと跳躍したのだ。そして落下の勢いをつけて剣を振り下ろしてきた。自分にすれば、射撃の反動で銃を振り上げていたのが幸いした。もしもそうしていなかったら、全体重を乗せた一撃で頭を叩き割られていただろう。
やはり接近戦では彼が一枚上手だ。そしてその点はタナトスも同じだ。後ろに下がった自分に合わせてヒュプノスも下がったが、その体には既に数多の切り傷がついている。ペルソナが受けた傷は使用者にも影響する為、自分の体は無数の痛みに襲われている。タナトスも傷ついているが、こちらほどではない。自分はもはや勝敗を争っているつもりはないのだが、このまま普通に負けてはやはり面白くない。ここは一度距離を取って、再び魔法の撃ち合いに持ち込むべきか――
(いえ……それでは最初と同じです。何より、私はこれ以上後ろに下がるわけにはいきません)
頭上からの斬撃を受けて、不覚にも階段を少々進んでしまった。これ以上下がれば滅びを迎える祭壇に舞台を移してしまう。そうなれば、きっと宣告者が割り込んで来る。それはいけない。彼とはどうしてもここで決着をつけなければならない。ならば――
「力と速さは貴方、魔力は私です」
自分は頂上へ向かう階段に、彼は氷河の床に立っている。だが互いの立ち位置は、距離にすればごく僅かに過ぎない。自分は彼の剣の間合いに依然として入っている。至近距離で突然届けられた言葉に、彼は怪訝な顔をした。
「では痛みに耐える力は、どちらが上でしょうね?」
言い終えると共に階段を遮るように両手を広げ、ヒュプノスにも同じ動きをさせた。腕を伸ばせば届きそうな距離にいる彼と、そして彼の頭上で佇むタナトス。対峙する人間たちとペルソナたちを隔てているのは、ごく僅かな隙間でしかない。その小さな空間に力を凝集させた。
「くっ……!」
炎を纏った流星が飛来してきた。氷河に突き刺さった炎は柱となって轟音と共に立ち上がり、彼と自分の間を別った。北欧神話で語られる神々の黄昏の名を冠した、火の秘術だ。溢れかえる熱気が二人の人間と神の兄弟を諸共に焦がす。この魔法は万能の光と違って効果が及ぶ範囲が狭く、普通は一体の敵に対するものだ。だがこれだけの至近距離で放てば話は別だ。痛みは一切の差別なく、四者に平等に浴びせられた。そしてタナトスとヒュプノスはいずれも火の耐性を持たない。即ち同量同質の痛みを、互いに分け合うことになる。
「次です」
火柱の上がったまさにその位置に、今度は氷の柱を立ち上げた。それは幾重にも重なって互いに相乗しながら膨れ上がり、自分と彼を巻き込みながら天へと向かって行く。やはり北欧神話で語られる、世界の下層にある霧の国、即ち地獄そのものの名を冠した氷の秘術だ。
「このっ……!」
二つの秘術を受けても彼は一歩も引かない。逆に自分の立つ階段へと一歩踏み込みながら、剣を突き出してきた。彼が引かない以上、もう自分も引くわけにはいかない。太古の日々から無数の人間の間で奏でられていた音楽、即ち刃物と肉体が衝突する音が自分と彼の間で生まれた。
「く、くくく……」
思わず声に出して笑ってしまった。彼の剣は自分の左手を貫いている。だがそれだけで、切先は自分の喉に触れる寸前で止まっている。その直後、頭上のヒュプノスは雷の渦を巻き起こした。主神が自らを縛り首にすることと引き換えに得た真理を表す、雷の秘術だ。自分と彼を繋ぐ金属の絆にそれは落ちた。絆を通じて迸る電撃が、自分と彼を内側から焼く。しかし彼は剣から手を離さない。むしろ束を強く握り直して、自分から離れようとしない。
「素晴らしい……素晴らしいですよ!」
彼は自分と同じ痛みを同じだけ感じながら、体も視線も自分から逸らさない。苦痛の流れは彼の殺意にあてられて、喜悦へと変換される。凍りついた心はとうに溶け果てて、焼け付く感情が沸騰している。思わず銃を持った右手を掲げて、天へと向けて叫んでしまった。
「時よ止まれ! お前は美しい!」
古代の哲学者が語った真理を表す、風の秘術を放った。世界のあらゆる存在は流転する。雨は川となって海へと注ぎ、雲となって再び雨が降るように、自然界は一つの真理の下に生成消滅する。それは時の流れそのものをも生み出している。だが今この瞬間だけは、それを認めたくない。流れ続ける時を止めて、この至高の刹那に身を浸していられればどんなに良いことか。
「ロマンティストめ!」
だが時よりも彼の方が止まらなかった。右手で剣を握ったまま、左の拳を振るってきた。その瞬間、自分は目を閉じて彼の言葉を噛み締めた。彼は正しい。自分は愚かな道化だ。死の淵から吹く甘い風に酔うロマンティストだ。悪魔と取引して生の意味を買おうとした、哀れなファウストだ。道化のまま死んだ幾月を笑うことはできない。ただ幾月と違って、自分は取引する相手を間違えなかった。眼前のメフィストは確かに約束を違えなかったから。自分はもう間もなく死ぬ。生の意味と引き換えに――
やはり時は止められない。そして彼も止まってくれない。ならば自分も彼に応えねばならない。彼の拳に応える為、右手を突き出した。目を閉じたまま。
「うぐっ……」
視界を塞いだ暗黒の中で、彼の呻き声が聞こえてきた。それと同時に、左手に刺さった剣が抜かれた。
目を開けてみれば、彼はこちらを向いたまま階段を下りていた。そして左手で鳩尾を押さえていた。どうやら自分が右手を突き出した際に、拳銃のグリップがそこに当たったようだ。11月にはやはりグリップの打撃で彼を昏倒させたが、その時と同じ攻撃を受けた為か、彼は反射的に身を引いてしまったようだ。対する自分の顔や胸には殴られた痛みはない。
結果だけ見れば、今の攻防は自分に軍配が上がったと言える。だが目を閉じていた自分は狙って行ったわけではない。単に偶然こうなったに過ぎない。明暗を分けたのは、ただの運だ。
(運……)
既に自分たちは膂力と魔力と耐久力でもって互いを比べあった。ならば残る勝負の余地は運にしかない。それに気付くと共に、思い付いたことがあった。ずっと顕現したままのヒュプノスを消し、右手の銃に左手をかけた。剣で貫かれた左手は激しく痛むが、もはやそんなことは気にならない。
「ふふふ……面白いものをお見せしましょう」
リボルバー拳銃の機構を開き、シリンダーを振り出した。普通であれば、これは弾丸を再装填する為に行うことだ。敵を眼前に置いた状態でこんな動きをすれば、大きな隙になるだけである。だから彼は再び踏み出そうとしたが、シリンダーに左手の指をかけて回転させると、彼は歩みを止めた。怪訝な顔をする彼に、金属の筒が回転する小さな音をしばらく聞かせてから、シリンダーを戻した。既に四発撃った弾丸の薬莢は取り出さなかった。
「貴方がたの召喚器は弾が出ません。しかし……もし出るものを使ったら、どうなるのでしょう?」
この銃は五連発式だ。シリンダーには実弾が一発だけ入っている。残りの穴にも薬莢は入っている為、どこに弾が入っているのかは外から見ても分からない。人を殺す為に作られ、実際に殺せる本物の凶器をこめかみに当てた。そして親指で撃鉄を引き、シリンダーを回転させた。その音が重く鋭く耳を叩き、頭の中心に痛いほどの量の血が集まっていく。引き金を何度引けるかは、運次第だ。
普通のペルソナ使いが用いる召喚器は実弾を装填せず、しかも銃口には樹脂が詰められている。つまりどうやっても弾は出ない。頭に向けて何度引き金を引こうと、実際には誰も死にはしない。しかもそれを使用者自身も知っているのだから、ペルソナ召喚の儀式とは、実は茶番に過ぎない。それで死を覚悟するなどとは笑止千万。何の代償も支払わずに結果だけを得ようとする、卑劣な人間のすることだ。臆病で怠惰で愚かしい、その上に滑稽な行為だ。だが自分は違う――
「ご覧なさい。ペルソナとはこうやって召喚するのですよ!」
一度目の引き金を引いた。その直後、頭の中でガラスが割れる音が響いた。あらゆる恐怖が打ち砕かれると共に、慣れ親しんだヒュプノスが再び現れた。だが様子は普段とは違っていた。背中に生えた白い翼は帯電したように、力の破片が漏れ出て氷河の冷たい空気を焦がしている。その力を指先に集中させ、一気に放った。
「ぐあっ……!」
これまでの紫色のそれとは違う、とぐろを巻いた黒い万能の光を浴びた彼はその場から吹き飛んだ。召喚器なしで召喚されて以来ずっと顕現したままだったタナトスは霧散し、彼自身は氷河の床に何度も体を打ちつけながら転がっていった。剣さえその手から離してしまった。
「湊さん!」
その時、彼が執心する『女』の声が届けられてきた。フロアの奥へと目をやれば、『女』以外にも彼の駒たちが近づいてくるのが見えた。それと共に、彼以外のもう一人が床に倒れているのに気が付いた。ジンだった。
「ジン……」
銃をこめかみに当てたまま、再び撃鉄を引いた。これで死は更に一歩近づいてきた。最も長い時間を共に過ごした同志のもとへと、自分は更に一歩近づいた。自分はもうそれを躊躇うことはないし、止める人もいない。いるのは死を覚悟することもできない、臆病者の群れだけだ。
「おい、あいつ……何をしている?」
「くっくっく……」
もしジンが倒れていなければ、必ず自分を止めようとしただろう。破れかぶれはいけないと、かつてジンに言ったことがあるから。だがジンはもう止められない。それは即ち、もう誰も自分を止められないということだ。
「キエエエ!」
二度目の引き金を引くと、頭上のヒュプノスが吠えた。普段から透けて見えている全身の血管はいずれも鮮やかに赤熱し、体の至る所で破裂しては血煙を立ち上らせている。その血の熱さをそのまま力へと変えて、視界の全面へ向けた。
「くくく……はーはっは!」
思わず迸った哄笑に乗って、黄金の光が眼下の氷河を覆い尽くした。猛り狂う万能の力は彼だけでなく、目に映る者全てを等しく薙ぎ払った。
「マジかよ……完全にイカレてやがる!」
臆病者どもは床を転がりながら、血に染まるヒュプノスの姿に慄いている。そして血に染まっているのはヒュプノスだけではない。自分の右手首や左手の刺し傷からも止めどなく血が流れ、滅びを迎える祭壇に至る階段までも赤く染めている。恐怖を超克することのできない凡人は、血へ向かって足を進めることなどできはしない。つまり臆病者は自分の前に立つことすらできないのだ。
もう一度引き金を引けば、自分と彼らはきっと完全に別たれる。自分とヒュプノスは別の存在へと変容し、彼らの目にも見えなくなる。そう思って撃鉄をみたび引くと、倒れていた彼が動いた。両手を床について肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「湊さん!」
「待て!」
吹き飛んだ駒たちを置き去りにして、『女』一人だけが彼の傍に駆け寄った。だが彼は空になった右の掌を向けて『女』を制した。そして彼はその掌を開いたまま、自分に向けてきた。それを目にした途端、眉間に皺が寄ってしまった。利き手を開いて差し出すのは害意がないことを、或いは降参を表す仕種だ。もしや命乞いをするつもりか。彼といえども、他の臆病者と同じなのか――
「そいつを寄越せ!」
同じなはずがなかった。もう誰も自分を止めることはできない。だが更に煽ることならばできる。さすがは死神と同一人物、即ち自分の双子の兄弟である。勝負のやり方をよく分かっている。嬉しくて堪らず、眉間は自然と開いて口の両端は吊り上がってしまった。
「いいでしょう……運命が残るべき者を決めるでしょう!」
銃をこめかみから離し、彼へと向けて放り投げた。銃も己のすべきことを分かっているのか、彼の開いた手に真っ直ぐ収まっていった。引き金は既に二度引かれている。生きるか死ぬか。確率は三分の一だ。
「や、やめてください!」
自分と違って、彼には止めてくれる『人』がいる。だが彼は決して止まらない。自分にできることは彼にもできるはずだから。取り縋る『女』に構うことなく、彼はこめかみに銃口を当てた。弾が出ないと分かっている玩具ではなく、本物の凶器を己の急所に当てて、引き金を引いた。一瞬の迷いもなく、即座に引いて見せた。
フロア中に響き渡る破砕音と共に、彼の頭上に再びタナトスが顕現した。だがその様は最初とは違っていた。ヒュプノスと同じように、首に繋いだ棺桶や獣の頭蓋骨の仮面から力の破片をまき散らしている。その力の流れに乗って、死神は帯電した剣を両手で捧げ持ち、切先を天へと向けた。
「オオオオ!」
雄叫びを上げたのは彼かタナトスか。どちらでもきっと同じだろう。そう思った瞬間、力が疾走した。風よりも音よりも速い、まさに光が一閃した。
――
双子の兄はこちらへは飛んで来ず、その場で剣を振り下ろした。たったそれだけで、恐るべき斬撃の波動が襲ってきた。文字通り死神の為せる業だ。タロットカードに描かれた死神は鎌を振るって穀物を刈り取るように、タナトスは剣閃で人を狩る。
「ぐう……!」
体の奥から逆流してきた血が、呻き声に混ざって口から零れ出てきた。骨が砕けて内臓に刺さりでもしたか。痛みの余りに、逆に痛みを感じなくなるほどだ。いよいよその息吹が届くところまで、死は近づいてきた。無論、自分にとって死は制御剤によって身近にあり続けた。しかし今にして思うと、緩慢に訪れる死など死とは呼べない。彼の殺意とタナトスの剣こそが死そのものだ。それが体の深奥にまで食い込んだ。完全な致命傷だ。僅かでも気を抜けば、今この瞬間にでも事切れるだろう。
「まだですよ……まだ!」
だが自分も、まだ倒れるわけにはいかない。祝祭の最後の一幕を見届けるまでは、死ぬわけにはいかないのだ。あの銃の引き金はまだ引ける。次こそが本当の本当に命を懸けた勝負だ。明暗を分けるのは力ではなく、頭でもなく、心ですらない。純粋な運だ。ただひたすらに、運だけだ。
彼は撃鉄に指をかけた。その瞳には恐怖を焼き尽くす炎が滾り立ち、僅かも逸らさずに真っ直ぐ自分へと向けられている。『女』は彼を後ろから抱き締めて、銃をもぎ取ろうとしている。だが彼の手は微動もしない。『女』は彼の耳元で必死に叫び、言葉でも彼を止めようとしている。だが彼は耳を貸さない。自分がここにいる限り、彼は決して止まらない。
「うわああ!」
彼は引き金を引いた。その瞬間、時が止まった。
(む……?)
これは一体何なのであろうか。影時間はペルソナ使いとシャドウを除いて、世界の一切が動きを止める。だがこれは違う。影そのものが動きを止めている。止まれと願った時が、今になって止まってくれたのだろうか。人生で最も美しい、至高の瞬間を感じよと。
『彼は汝、汝は彼……』
停止した影の中で、不思議な言葉が耳に届いた。否、決して不思議ではない。これはある真理を表した言葉だ。以前に彼はシャドウを『我は彼』と表現していた。言葉は違うが、意味は同じだ。そしていずれも正しい――
一瞬の停止の後に、時は再び動き出した。彼の頭上のタナトスが吠え、再び剣を天へと捧げた。だが様子がおかしい。剣は振り下ろされず、死神の手の中で激しく振動している。八枚の棺桶を首から繋いだ鎖は伸びきり、千切れんばかりに震えている。そして死神自身は喉を垂直に立て、獣の頭蓋骨の仮面の内側から苦悶の呻きを上げている。死を支配する神でありながら、何かを恐れるように震えている。
神が恐れる者。それは――
そう思った瞬間、棺桶を繋いでいた鎖が切れた。死神の首を囲っていた、八つの死の象徴は地に落ちた。天に捧げられていた剣は砕けて赤い光の粒と化し、雪となって氷河と死神の体に舞い落ちる。赤い雪が触れるごとに、死神の苦悶はますます大きくなる。両手で仮面を覆い、体を丸め、仰け反り、そして赤い光の中で収縮した。あらゆる力が内へ内へと向かい、存在の根源まで一挙に落ちていった。やがて黒い体は全く見えなくなり、最後に残ったのは仮面のみとなった。
その仮面の内側から、右腕が現れた。そして間を置かずに左腕も現れた。突如として生まれた新たな存在は両腕を一気に広げ、仮面を砕いて現世に降臨した。
「あれは……」
それは赤い服を身にまとい、大きな竪琴を背負っていた。体は人を模しているが、人のそれではない。機械のような、否、子供が組み立てた人形のような体だった。ただ首から上の顔は人のものだった。肌は自然の雪のように白く美しく、髪は光り輝く黄金だった。
「オルフェウス……」
ギリシャ神話の吟遊詩人、幽玄の奏者。生きたまま冥界へ下り、神の定めた死の宿命に抗った者。そして死の彼岸から帰って来た者。死を知り、真理を知り、運命を知り、その秘密を人々に伝えた者。密儀宗教の創始者、即ち祝祭の支配者。その姿を一目見て、自分は全てを理解した。理解してしまった。冷酷非情な悪神の仮面の下にあった、彼の本当の顔を。
理解した直後、オルフェウスは背負った竪琴を左手で抱え、盾のように構えた。そして右手を大きく振るい、弦を荒々しく奏でた。古代の神々も狂乱した生の音楽が氷河を満たし、烈光と化して炸裂した。
どれだけの時をそうしていたのか。ふと開いた目に映ったのは、緑の闇に浮かぶ黄金の満月だった。塔であるタルタロスの頂上の、更に上に見えるものだ。自分は頂上まで連れて来られたのだろうか。だが体を起こしてみると、そうではないことに気が付いた。眼下の氷河に彼がいた。拳銃を右手に持っており、女が彼の左手側から肩を貸していた。そんな二人の後ろには、大勢の者たちがいた。
何があったかを思い出した。自分はオルフェウスの放った光を浴びて、階段の上の段へ吹き飛ばされたのだ。仰向けに倒れた為に、視線だけがタルタロスの屋上を覗いていたわけだ。それを理解すると共に、階段に手をついて立ち上がった。そして歩いた。痛みを感じない体を引きずって、氷河へと下りた。
「……」
彼と真っ直ぐ視線を合わせながら、黙って氷河を歩いた。彼の目にはもはや殺意はなく、ある悲しみが浮かんでいた。それは死者を悼む者の顔だ。世界に死を告げる者ではない。親しい人間の死を悼む、ただの人間の顔だ。それを自分に見せている。
「……」
彼は言葉では何も言わず、自分も何も言わなかった。他の者たちも一言も発しなかった。影時間の世界の静寂そのものの中で、自分たちは黙ってすれ違った。
生きている者たち全てを置き去りにした先で、氷河に倒れた一人の姿を見つけた。ジンだ。最も長く自分の傍にいた者の、苦労のかけ通しで報いてやれるものは余りに少なかった者の、その傍らで膝を付いた。いつもかけていた眼鏡はなくなっていた。
「……」
ジンの目は開かれたままだった。果たしてジンは十分生きたのだろうか。最後まで戦い、自由のままに生ききったのだろうか。その答えを、本人はきっと得ている。だがそれを問うことはもうできない。何の答えも返してくれない死者の顔に手をかざし、目を閉じさせた。
「……」
そのまま黙って死者を見つめていると、背後からざわめきが聞こえてきた。どうやら先へ進もうとしているようだ。だがもうよいだろう。彼は確かに約束を違えなかったのだから。彼の本当の顔は当初思っていたのとはいささか違ったが、それを恨む気持ちもない。もはや自分と彼は、互いに送る言葉も必要ない。自分は十分生きた。と思いきや――
「見なくてよいのですか。滅びが来るかどうか」
女の声が届けられた。そう言えば彼女は以前も自分と彼の間に割り込んできたが、どうやら最後までそれは続くらしい。小さなため息と共に首を巡らせて振り返ると、彼女はまだ彼に肩を貸していた。駒たちが階段を上る中で、二人だけが残っている。それを見ると、ふと気付いたことがあった。彼の本当の顔を表した存在と、彼女は少し似ていた。
「きっと……来ないでしょう」
滅びは必ず来る。だが彼が止める。もはや言うまでもないことだ。だから最後までは口にしないまま、視線をジンへと戻した。ありふれた自然現象に過ぎない死を共に迎える、そしてこの世で最も凄絶な戦いを共に迎えた同志の姿を、最後に目に焼き付けようと。だが――
(ああ……)
だが駄目だった。既に視界は霞んできている。痛みに続いて、目もその役目を終えようとしている。あらゆる感覚が体から抜け落ちてきている。もう口も動かない。間もなく心臓も止まるだろう。
「生きたくはないのですか!」
終わりを迎える寸前の最後の感覚が捕えたのは、またしても女の声だった。最後に目にしたものが彼女で、口をきいたのも彼女。そして耳にするものまでも彼女であるとは。昨日までは思いもしなかった終わり方だ。今一つ締まらない気もするが――
(まあ……いいでしょう。いい……人生でした)