キヴォトスの生徒と先生がイチャイチャしたり、傷ついたりする話 作:古魚
かつかつとヒールを鳴らし、シャーレの廊下を進む少女。いつも不愛想と言われる顔には、微かに笑みが浮かび、若干ではあるが薄ピンクに唇が染まっている。近づけば、いつもの薬品とは違い、微かにバニラの甘い香りが漂う。
少女は、執務室の前へとたどり着くと、廊下のガラスで髪が崩れていないか、服に皺はないかを改めて確認した後、扉をノックした。
「先生、約束の時間になりましたので、氷室セナ、参りました」
午後1時、シャーレ執務室の扉が開かれ、純白ワンピースの私服に身を包むセナが先生の下を訪れた。
「あ、ああ、もうそんな時間か……」
今日のセナは半休を貰っており、午後は自由な時間となっていた。そこで、先生と出かけたいことを告げると、先生は快く承諾、13時までに仕事を終わらせて、出かけられるようにしておくから、シャーレで会おうと言う約束だった。
「はい、先生がご指定なさった13時ちょうどです」
ちらりとセナは先生の机に視線を送る。
「しかしその様子ですと、お仕事は終わらなかったようですね」
「ご、ごめん。もう少しで終わるから、もうちょっとだけ待っててね」
セナは一つため息。
「その量を、後少し、で終わらせられるとは思えません。手伝いましょう」
「そんな、折角のお休みなのに悪いよ!」
「いえ、先生の側にいるだけで充分な休養になりますので、そこはご心配なく」
さらりとそう告げると、セナは肩から掛けていた鞄を脇にソファーに置き、先生の机から書類の束を当番用の子の机へと移し、作業へと取り掛かった。
結局、作業が終わったのは15時を過ぎ、既に日が傾き始める時間だった。
「誠に申し訳ございません」
作業が終わるなり、先生はセナの足元で土下座を始める。
「折角の休みに手伝わせてしまうばかりか、こんな時間まで……お詫びに、私にできることなら何でもするよ」
セナはきょとんとした表情で答える。
「私は、先生と同じ時間が共有出来てとても心地よい時間だったのですが……」
「だとしても、やっぱり……」
先生の必死さに、セナは「ふふっ」と声を漏らして笑う。
「でしたら、今からで構いませんので、少し出かけませんか? まだ、もう少し、先生と同じ時間を過ごしたいので」
「勿論、セナがそうしたいのなら、どこまでも付いていくよ」
先生の同意を得たセナは、海に行きたいと提案し、近場の砂浜へと二人で向かった。
海へとたどり着いたころには、日が水平線に沈み始めていた。それでも、セナは微笑を浮かべ、先生の手を引いて、海岸を歩き始めた。
「セナと海に来るのは、これで二度目だね」
「そうですね、前回は興味で海を見たいと言いましたが……今回は少し、違います」
春先の夕方の海岸。先生とセナ以外、人は見当たらない。
「前回、先生と海で過ごした時間が忘れられず、またあの時間を味わいたいと思い、海に行きたかったのです」
「そっか、よっぽど海を気に入ってくれたんだね、嬉しいよ」
「はい、先生と二人きりで過ごす海が、とても気に入りました」
二人きりを強調して、セナは告げる。また照れ臭いことをストレートにこの子は……と内心で思いながら、先生はセナの表情を窺う。
いつもの無表情なセナを見て、その照れ臭さを忘れようとしたのだ。しかし、その目論見に反して、セナの頬は僅かに紅潮していた。慌てて夕焼けのせいだと視線をセナの瞳に移した。どこか冷たく、やや鋭い瞳に熱を冷ましてもらおうと考えたのだ。だが、それも失敗に終わる。
セナの瞳は、真っすぐに先生の目を見つめていた。仕事の時に見せる硬い視線ではなくう、やや丸み掛り、穏やかな黄色を灯したその瞳で。
「っ!」
思わず先生は足を止める。
「どうかされましたか?」
セナの言葉も、今は届かない。ただじっと、先生はその瞳を見つめていた。
「あ、あの……さすがに、そこまで見つめられると、私も恥ずかしいのですが……」
セナ自ら視線を切ってくれたおかげで、先生も我に返る。
「あ、ああ……ごめん」
そこで先生は気づく、セナの唇、頬、眉が切れに整っていることを、薬品ではなくバニラの香りがすることを。セナが、自分と出かけるために、おめかししていたことに。そんなセナと今、自分は手を繋いでいたことを。
「……えっと、その。言うのが遅くなっちゃったけど、今日のセナは、いつもに増して、綺麗だよ」
無言に耐えられず、先生はそう口にする。途端に、セナは空いている方の手で口元を隠しながら、消え入りそうな言葉で呟く。
「あ、ありがとう……ございます」
先生の中に、電撃的に何かが迸る。氷室セナが、照れている。その事実が、先生の情緒をおかしくしていく。だが、セナは純粋にこの時間を楽しんでいる。それを邪魔してはいけないと自分に言い聞かせ、鼓動を落ち着かせる。
「あの、先生……前回の私は、いまいち、雰囲気を楽しむと言うことがよく分かっていなかったように感じます。ですので、雰囲気を壊す発言をしてしまったのだと思います」
今度はセナが立ち止まり、やや俯きながら続ける。白い麦わら帽子で遮られ、表情は見えない。
「でも、今なら分かる気がします。今私は、この雰囲気に流されて、普段は感じることのない感情が、胸に溢れています」
相変わらず、セナは顔を伏せているが、先生と繋がっている手が、もぞもぞと動く。
「……先生、今から私のすること言うことは、この雰囲気に流された、いつもの氷室セナではない私がしていることと、理解していただけると幸いです」
数秒躊躇う先生。明らかに、今この空間には、先生と生徒の関係上よくない空気が、それこそ雰囲気が漂っている。流されてはいけないと、理性がどこか警鐘を鳴らしていた。
「……分かった」
だが、先生はその雰囲気の流れに、逆らえなかった。
普段自分で自分のことをどこか分からないようであり、感情の起伏が見えない生徒が、それを発芽させようとしている事に、成長を感じたから。それを止めたくなかった。
そんなことが建前であることは、自分でよく分かっていた。だが、先生はこの雰囲気に完全に飲まれ、この一瞬だけは、氷室セナを、生徒として見るなど不可能になっていた。
同意を得ると、セナは一度先生の手を放し、改めて近づける。それを迎え入れるように、先生は手のひらを向けると、セナの指が絡みつく様にして、再び繋がる。
「私は、先生のことが好きです。不愛想で、空気が読めない私に寄り添って、理解しようとしてくれるところが。こんな私にとことん付き合ってくれる所が、好きです。心から感謝し、尊敬しています」
先生は何も言わず、黙ってセナの言葉の続きを待つ。
「それは、普段の私も同じように思っています。ですが、先生は先生です。いつでも私の側にいれる訳でもなければ、いずれは分かれることになると思います。それはどうしようもない普遍のことだと、普段の私は理解し、納得しています。ですが……今は、今の私は、それを拒んでいます」
手を握るセナの力が、少し強くなる。
「永遠にこの時間が続けば、どれだけ幸せなのだろうかと。貴方が、私だけの貴方になったら、どれほど満たされるのだろうかと……普段の私なら、こんな遠回しな言い方はしないでしょう。普段の私の言葉を借りるなら、そうですね……」
ふわりと優しい風が海岸を吹き抜ける。白い麦わら帽子のつばが揺れ、セナの表情が覗く。
「先生、愛しています。永遠に、貴方の側にいさせてください」
夕日が沈む。海面に乱反射した光が二人を包み、周囲から二人を切り取った。その光の中で起きた一瞬の出来事は、誰にも分からない。
だが、これだけは言える。
光が二人を包むその一瞬。氷室セナは、笑っていた。
《セナEND:二人きり》
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