「ちょっとアンタ!」
美琴の声。
「どこ行く気よ!」
「決まってる!」
上条は走り出した。
「マリアを止める!」
フェンリルが咆哮する。
空気が震える。
次の瞬間。
巨大な牙が迫った。
だが。
「行きなさい!」
超電磁砲。
轟音。
フェンリルの身体が僅かに逸れる。
「ここは私達が引き受けます!」
サーシャが叫ぶ。
術式が展開される。
白銀の光が奔る。
ほんの一瞬。
フェンリルの動きが止まる。
その隙を。
上条は見逃さなかった。
「悪い!」
そのまま走る。
方舟の内部へ。
奥へ。
さらに奥へ。
ただ前へ。
◇◇◇
水面は泣いていた。
気付けば涙が零れていた。
目の前の少女も同じだった。
マリア=ファルスサード。
才能に愛された少女。
世界を憎み。
世界を救おうとした少女。
彼女は震えていた。
「……どうして」
掠れた声だった。
「どうして、そんなこと言えるの」
「だって本当だから」
水面は答える。
「わたしはお姉ちゃんだよ」
「違う」
「違わない」
「違う!」
マリアが叫んだ。
初めてだった。
今まで抑えていた感情が溢れ出す。
「わたしは誰も救えなかった!」
震える声。
「才能がある人が死んだ!」
「夢を諦めた人が居た!」
「理不尽で潰された人が居た!」
涙が流れる。
「だから!」
祭壇の光が強くなる。
方舟の術式が完成へ近付いていく。
「だからやり直すしかなかった!」
「マリア」
「全部リセットして!」
「マリア」
「最初から――」
「マリア!」
その声は。
別の方向から響いた。
二人が振り向く。
そこに居た。
ボロボロになった少年が。
「上条」
水面が呟く。
肩で息をする。
服は破れている。
血も流れている。
それでも。
上条当麻は立っていた。
「……やっと見つけた」
彼はそう言った。
マリアを見る。
真っ直ぐに。
「お前さ」
ゆっくり。
一歩ずつ近付く。
「世界を救いたいんだろ」
マリアは答えない。
「なら」
上条は拳を握る。
「もっとマシな方法考えろよ」
沈黙。
「何で世界を救うために、今生きてる奴らを泣かせなきゃならねえんだ」
「……」
「何で水面を泣かせるんだ」
マリアの肩が震える。
「何で一人で全部背負おうとするんだ」
上条は知っている。
そういう人間を。
自分が犠牲になれば良いと思う人間を。
自分だけが苦しめば良いと思う人間を。
何人も見てきた。
そして。
何度だって否定してきた。
「そんなもん」
上条は右手を掲げる。
「間違ってるに決まってるだろ」
そして。
祭壇へ飛び込んだ。
轟音。
術式が反応する。
紫色の光が暴れる。
世界を書き換える神話。
ノアの方舟。
それに向かって。
幻想殺しが触れる。
ぱきり。
何かが砕けた。
世界に走っていた亀裂が消える。
空の光が消える。
方舟が悲鳴を上げる。
術式が崩壊する。
神話が消滅する。
「――あ」
マリアが呆然と呟く。
終わった。
世界は終わらなかった。
洪水は来ない。
リセットもされない。
全て失敗だ。
彼女の計画は。
願いは。
理想は。
全部。
その瞬間。
誰かが抱き締めた。
温かかった。
柔らかかった。
「……みなも」
水面だった。
泣きながら。
笑いながら。
震えながら。
彼女を抱き締めていた。
「おかえり」
その一言で。
マリアは崩れ落ちた。
涙が溢れる。
止まらない。
もう止められない。
何年も。
何十年も。
閉じ込めていた感情が溢れ出す。
「ごめん」
掠れた声だった。
「ごめんね」
それしか言えなかった。
水面は首を振る。
「うん」
そして。
もう一度だけ。
優しく抱き締めた。
「帰ろう」
遠くで。
フェンリルの咆哮が聞こえた。
しかしその声は次第に小さくなり。
やがて完全に消えていった。
世界を書き換える狼は。
主を失ったように。
静かに消滅していった。