○堀北鈴音の苦難
私は水泳の授業のために女子更衣室へと向かっていた。その私についてくる綾瀬さん。
「綾瀬さん。あなたはどうして私についてくるの?」
「堀北......色んなこと、教えてくれるから......」
「あなたも物好きね。私といたってつまらないわよ」
「......ううん、楽しいよ?」
「はぁ......何が楽しいのやら......」
すっかり懐かれてしまったのか、綾瀬さんはこういったとき基本的に私についてくる。
何度か拒否こそしたものの、この子にはまともに話が通じない。だから私は諦めた。
自他共に認めるけど私は決して友好的な人間ではない。一緒に居ても綾瀬さんもつまらないだろうに。いずれ愛想をつかして他の子にくっつくに違いないわ。
女子更衣室に入ると、女子生徒たちが着替えをしているがその数は少ない。女子の半数近くは見学だからだ。
確かに男子たちが集まって下品な話をしていたから嫌がる気持ちは分からないでもない。それでも授業をサボる気持ちは理解に苦しむわね。
私と綾瀬さんも着替えを進める。そこで私は綾瀬さんのワイシャツが気になった。
「よく見たらボタン掛け違えてるじゃない。だらしないわよ」
「あ、ほんとだ......間違えた......」
「まったく......あなたの場合鏡を見て確認しながらやらないと駄目ね。そうね、そうすればその寝癖にも気づくだろうしちょうどいいわ。これからは毎朝鏡を見ること。そしてしっかり寝癖を直す。ワイシャツのボタンを掛け違えないようにする。いいわね?」
「めんどくさい......」
「文句を垂れないでちょうだい。あなたがしっかりしないと一緒にいる私まで品位が落ちるわ」
少し説教じみてしまったがこの子にはこれぐらい言わないと駄目なのよ。ボタンの掛け違いはブレザーで見えなかったりするから百歩、いや千歩ぐらい譲ってまだ良しとしても寝癖なんて言語道断。
この子のだらしない部分はこの先矯正するべきね。今はまだ良くても大人になったら社会は許してくれない。だからそうならないためにも今のうちに────って、なんで私がこんな事を......
「そんなに品位って大事?」
「ええ大事よ。特に社会に出たら見た目や立ち振る舞いだけでも評価の基準になる。だから普段から心掛けておくようにしないと......え?」
会話の途中ではあるが私はある違和感を感じて一度会話を中断した。それはワイシャツ姿の綾瀬さんを見て感じたもの。
「まさか、まさかよね......」
失礼な行為にあたるが私は綾瀬さんの胸のあたりのボタンを外した。
そうして顕になるのは綾瀬さんがいつも着けていた
いいえ、そちらは重要ではないの。
重要なのは─────。
「......あなた、下着はどうしたの?」
「......下着?履いてるよ?」
「いやそっちじゃなくて......その、ブラの方よ」
なんとなく恥ずかしくなってしまい、言い淀む。
「......ブラ?」
まるで何のことか分かっていないような反応。
「あなたどうして────」
「......普通は着けるんだっけ。めんどくさかったから今日は着けてない」
「..........」
さすがの私もこれには言葉を失った。
周りとはズレている子だと思ってたけれどまさかここまでだったなんて。
この子は一体今までどういう生き方をしてきたのかしら。
「はぁ......しっかり毎日着けなさい。胸の形を保つためとか肌に擦れないようにするためとか理由は色々あるけれど、そんなことよりもまず第一に一般常識よ」
「んー......たまにでいい......?」
「......今までの話聞いてた?駄目に決まっているでしょ。あなたはもう少し他の人の目を気にしなさい。ブラジャーを着けてないなんて常識外もいいとこよ」
「えー!?綾瀬さんブラジャー着けてないの!?」
いつからそこにいたのか、近くにいた櫛田さんが大きな声を挙げた。
話の内容が聞こえてしまったのでしょうね。この狭い空間では櫛田さんを責めることはできない。
とにかく、櫛田さんの驚きは周りにも伝播し、更衣室の中がざわつき始めた。
「え!なんで!?」
「胸とか痛くないの?」
「大丈夫だよ?擦れるほど胸ないから」
「あっ......」
一瞬訪れる静寂。
「だ、大丈夫だよ!今は小さくてもきっと成長するから......ね!みんな!そうだよね!?」
どうして人は女子の胸の大きさで優劣を測ろうとするのかしらね。
男子は特に酷いけど、女子の中でもそういった風潮はある。
実に下らないわ。ええ、本当に。
「っていうかこんなこと男子に知られたらヤバいって!」
「そうだね......今日の放課後、綾瀬さんの下着買いにいこっか!ついでに服とかもさ!」
「え......いらない......帰って寝るから......」
櫛田さんの提案を拒否する綾瀬さんだったけれどもう手遅れ。既に綾瀬さんの周りには複数の女子が囲んでいる。
「駄目!女の子なんだから絶対必須!」
「一応持ってる、よ......?」
「どうせなら可愛いの買おうよ!ね?それと服でしょ?綾瀬さんなら似合いそうな服がいっぱいあるからぁ......」
「制服でいい......」
「それも絶対駄目!綾瀬さんせっかく可愛いのにもったいないよ!それに実は結構綾瀬さんの私服姿を見たいって人が多いんだよ?」
「私ね......綾瀬さんに着てほしい服がいっぱいあるの!もう初めて見たときから色々考えててねぇ......フフフ......」
「やっぱ大人しめな感じが似合うかな?いやでも敢えて派手な感じでも......?」
「綾瀬さんなら何でもいい!とりあえず色々着せよう!!」
「ゴスロリとかも絶対似合う!異論は認めない!」
目をギラギラ輝かせた女子生徒たちが綾瀬さんの服について議論を交わす。その熱量は少し普通じゃない。
綾瀬さんもこれには何か危険なものを感じ取ったみたいね。
「ほ、堀北......」
「さすがに擁護できないわ。諦めなさい」
「あぅ......」
観念した綾瀬さんは特に抵抗することなく受け入れた。
しかし、感情表現に乏しい彼女にしては珍しくはっきりと嫌がっているのが伝わる。
いつもそれぐらい分かりやすければいいのにね。
それにしても一体どうしたものかしら、彼女。基本的には世話係を綾小路くんに押し付けているけど、こういったときは私が担当になりつつある。
そもそも綾小路くんだって信用できない。彼も大概だらしないし。かといって現段階では彼女を他の人に託せるのに適任な人がいるのかも分からなければ、そんなこと頼めるような交友関係もない。
つまり一番の適任は私となってしまう。
「はぁ......」
あまり愚痴などこぼしたくないけど、こればかりはさすがに骨が折れるわ......
○櫛田桔梗の予兆
入学式。私はバスで出会った変人と一緒に校門の前にいた。
綾瀬心音。私には一目見ただけで分かった。彼女は常人とは持っているものが違う。
人形みたいに可愛らしい顔。そして肩にかかるぐらいまで伸びた純白な髪。スラッとした体格。その外見は誰もが羨ましいと思えるぐらいに美しかった。
そして何よりこの雰囲気。色んな人を観察してきた私は見ただけでその人が凄い人なのかそうじゃないのかが大体わかる。彼女は持っている側の人間だ。
圧倒的異質さ。綾瀬さんを表現するにはこの言葉しかない。
そんな綾瀬さんと友達になってしまった私は友達としての通過儀礼みたいなものをしていた。
「よろしくね!綾瀬さん!」
私は満面の笑みを浮かべながら綾瀬さんに手を差し出した。
「......?」
私が手を差し出した意味をなかなか悟らない綾瀬さん。こういうトロい女には苛立ちを覚える。
「握手だよっ」
「握手......よろしく、ね......」
ようやく差し出された手を私が取った瞬間。
「────え?」
背筋にゾッと悪寒が走った。
「......っ!」
思わず手を離す。
私は今、何を握ったの......?
とても人の手とは思えない感触。
例えるならそう────機械の手。
無機質な冷たさ。そして、尋常じゃない固さ。私は取り繕うことすら忘れて、ただただ呆然としていた。
「......櫛田?」
声を掛けられてようやく意識がハッキリしてくる。
「......あ、ごめんね~!綾瀬さんの手が冷たくてビックリしちゃったっ」
私の中でゾワゾワと鳥肌が立つのをしっかり感じていた。だけどそれは悟らせない。
「ね、綾瀬さんの手。ちょっと見せて?」
「ん......いいよ......」
綾瀬さんの手は綺麗だった。肌荒れで固くなったとか、そんなことは一切感じさせないほどに。
思えばここからだった。私が綾瀬さんに恐怖を覚え始めたのは。
これが、私が綾瀬さんの目を見る度に震え上がるようになった予兆だったんだ。
どこまでも純粋で素直。
ときにはそれが、あらゆるものを塗りつぶすと知ることになる、予兆。