ようこそ理想郷へ   作:ナムさん

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第29話 圧倒的な暴力

「え......堀北なんで泥だらけなの......?」

 

 食料を上着に包んだ綾瀬が訳が分からないとでも言いたげに堀北を見る。

 綾瀬がいない間、オレは堀北、櫛田、佐倉、山内と一緒に食料を探しにいった。その際に木陰で休む伊吹も誘い、6人ものメンバーで森を進む。ある程度まで進んだところでオレと堀北、佐倉と山内、櫛田と伊吹で二人一組になって動くことにした。

 そこでオレは行動を起こす。

 オレは堀北からキーカードを見せてくれと頼み、それをわざとらしく声を上げながら落とした。当然堀北は激おことなったわけだが、オレはその堀北に対して佐倉のメアドで釣った山内に泥をかけさせるよう指示をした。

 なぜこんなことをしたのか。それは伊吹が動きやすくなるようにするためだ。これは後の布石となる。

 

「早く洗った方がいいよ、堀北さん。相当ドロドロだよ......」

 

「そうね......流石にこの状態は辛いわ」

 

 髪も服も泥だらけで堀北は不快で仕方ないだろう。

 

「あちゃ、でもシャワー室は無理みたい......」

 

 皮肉なことに軽井沢グループが三人並んでいる。泥だらけの諸事情があれど、堀北に敵意を見せる軽井沢が順番を譲るとは思えない。綾瀬が睨みを利かせれば軽井沢も退きそうだが、綾瀬はそんなことしたがらないだろう。

 

「川を使ったらどうだ?それなら手っ取り早いだろ」

 

「それ以外方法はなさそうね......」

 

「私も水浴びしよっかな。汗かいちゃったし。綾瀬ちゃんもどう?」

 

「私は汗かいてないからいい」

 

「そっかぁ......残念。二人は?」

 

「私はパス。泳ぐの好きじゃないから」

 

「じゃ、じゃあ私も......」

 

 伊吹に便乗するように、佐倉も男子の目に水着を晒したくないのか拒否した。

 堀北はシャワー室を諦め、川へと向う。その間シャワー待ちの人数はどんどん増えている。軽井沢たちの後ろに佐倉、更にその後ろに伊吹。そして新たに別の女子二人が並んでいる。

 オレはそれを見届けてから山内とテント前に向かった。

 

「俺はちょっと、テントで休む。身体が痛い......」

 

 泥をかけて堀北から報復を受けた山内はよぼよぼと歩きながらテントに入っていった。適任者だったとはいえ、酷な頼みをしてしまったな......。

 一人になったオレはキャンプ内を転々と歩いて人気の少ない場所を探し回った。

 川を見ると気持ち良さそうに泳いでいたりはしゃいでいたりして楽しそうだった。数分ほどで堀北と櫛田が水着姿で姿を現す。

 そこから5分ほど経っただろうか、シャワー室を待つ列には先ほどまで佐倉の後ろに並んでいたはずの伊吹が最後尾にいた。

 

「上手くいったようだな」

 

 思わずそんな呟きが溢れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オレがテントの前で堀北を待っていると、果物を手に取った綾瀬がテントの中に入るのが見えた。櫛田の話によると、堀北以外にもみーちゃんと呼ばれる女子生徒が体調を崩しているみたいで、綾瀬がそのみーちゃんに体調を崩していても食べやすいものを優先的に分け与えているらしい。

 佐倉のときもそうだったけど、綾瀬は弱っている人間のために積極的に動こうとする。これもまた、救済なんだろうか。

 

「......綾小路くん。少し来てもらえるかしら......」

 

 そんなことを考えていたら、いつの間にか堀北がオレの目の前にいた。

 その様子はどこか変で、瞳が儚げに揺れているように見えた。 

 

「どうした。何かあったのか?」

 

「ついてきて......ここでは話せない」

 

 それだけ言い、堀北はキャンプ地から離れ森の方に歩いていく。

 歩みを進める堀北が足を止めたのは、キャンプ地が見えなくなるほど離れてからだった。

 

「......これは私の油断。ミスだと自覚したうえで話すこと、いい?」

 

 堀北が語るミス。それはキーカードが盗まれたというものだった。

 確かにDクラスにとっては大きな損害であり、この事実を全員が知ればパニックになるだろう。

 だが堀北は責められない。なぜなら、オレが伊吹にキーカードを盗ませるよう誘導したからだ。

 そんなことを知らない堀北は自己嫌悪に陥り、見たことない表情を見せる。

 

「ごめんなさい、先に戻ってもらえるかしら。すぐに後を追いかけるから」

 

「......そうか。分かった。先に戻って犯人である可能性が高い伊吹を見張ってる」

 

 一人で吐き出したい気持ちもあるだろう。オレは堀北を一人残し、ベースキャンプへと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 10分ほどして戻ってきた堀北は、キャンプ場の不穏な空気を感じ取った。それは仮設トイレの裏手から見える、薄暗い煙が原因だ。

 

「あの煙は?一体何があったの?」

 

 オレは堀北と合流し、近くで騒いでいた池を捕まえて事情を聞く。

 

「火事だよ火事!トイレの裏側で何か燃えてんだよ!」     

 

 急ぎ仮設トイレの裏手にいくと、そこには平田の姿があった。そして伊吹の姿も。

 堀北は伊吹に声をかけようとしたが、その横顔を見て躊躇った。

 それは、伊吹の表情があまりにリアルだったからだ。火事が起こっていることに戸惑いを隠せない、そんな顔をしていた。

 

「これは......マニュアルが燃やされたの?」

 

 堀北が火元を見ると、見覚えのある部分に気がつき、そう問いかける。

 

「どうやらそうみたいだ......僕の責任だよ。マニュアルは鞄の中に保管していたんだ。でもまずはきちんと消火しないと......」

 

「平田。私も行く」

 

 犯人探しよりも、平田は火元を確実に絶っておくことを優先し川へ向かう。

 綾瀬も空のペットボトルを手に持ち、平田と一緒に水を汲み始めた。

 

「なんで......誰がこんなことをするんだ......どうして、皆仲良く出来ないんだ」

 

 暗い表情で呟く平田。いつもの爽やかな表情とは違い、どこか恐ろしい雰囲気さえ漂っていた。

 

「平田......また、昨日みたいになっちゃうのかな......」

 

「......話し合わなきゃいけないことは間違いないね......」

 

 気落ちした表情で、平田は水を手に火元へと戻っていく。

 

「ねえ、誰がこんなことしたわけ?うちらのクラスに裏切り者がいるってこと?」

 

 戻ってくると、池と篠原を筆頭に男子と女子が睨み会う形で対峙していた。

 

「何でも俺らを疑うんだよ!下着の件とこれは別問題だろ?」

 

「分かんないじゃない!それを誤魔化すために燃やしたりしたんじゃないの?」

 

 昨日の下着泥棒の件もあってか、双方ともにヒートアップし収まる気配が無い。

 とりあえず平田と綾瀬のペットボトルで火は消え、これ以上燃え上がる心配はなくなった。

 そしてもう中身は残っていなかったはずなのに、地面にポツポツと水滴が滴った。オレは空を見上げる。

 

「雨、か」

 

 頬に一粒の雫が落ちてきた。

 雲は先程より更に黒ずんでいて、そろそろ本格的に雨が振りだそうとしていた。

 

「もう無理。まじで最悪。このクラスに下着泥棒と放火魔がいるとか」

 

「だから俺らじゃねぇって!いつまで疑ってんだよ!」

 

 いつまでも決着がつかない戦い。本来なら全員で一丸となってピンチを乗り越えなければいけないのに、男女は強く対立しあっている。

 

「どうして......どうしてこんなことになるんだ......これじゃ、あの時と同じだ......」

 

 いつもならすぐに止めに入るはずの平田は、ただ事じゃない様子でブツブツと何かを呟いている。

 

「平田。一人で頑張らなくていいよ。私がやるから」

 

「え......?」

 

 そんな平田に綾瀬が声をかけた。そして男女の間に割り込む形で仲裁に入ろうと歩みを進めた。

 綾瀬は池の方を向いて声をかける。

 

「池。今はそんなことしてる場合じゃない。少し落ち着いて」

 

「いや、俺達はこいつらに疑われてるんだ!黙ってなんかいられないって!」

 

 池に言っても駄目だと判断してすぐに篠原に言葉をかける綾瀬。

 

「篠原ももう怒るの止めて。怒ってばっかじゃ何も解決しない」

 

「なっ......!綾瀬さんにそんなこと言われる筋合いないんだけど!」

 

 当然いきなり綾瀬が現れたところで勢いは止まらない。むしろ火に油を注いだように見える。

 その様子を見て綾瀬は一度顔を俯かせた。

 しかし程なくして顔を上げると、突如────何かを絞るような音が聞こえてきた。

 聞き覚えのある音。これは綾瀬が右腕に力を込めたときに聞こえる音だ。やがて綾瀬の右腕がミシミシと嫌な音を立て始める。

 

「え......何だよこれ......」

 

「あや、せ......さん......?」

 

 近くにいた池と篠原は綾瀬の異変に気付き、互いに怯えた顔を見せる。

 

「────静かにして」

  

 綾瀬の一言が、この場に静寂をもたらした。先程あった火事も、振り続ける雨も、鎮静することのなかった喧騒も全てを置き去りにして皆が綾瀬に注目する。

 今の綾瀬からは圧倒的な存在感を感じた。絶対的な強者は自分だと、そう主張している。綾瀬に逆らうことは許されない。それを誰もが感じ取った。

 たった今、この瞬間だけ、綾瀬心音はDクラスの女王になった。

 

「今は雨で物が濡れないようにする。平田、指示をして」

 

「綾瀬さん......君は......」

 

 指示を飛ばされた平田は驚愕の表情を浮かべていたが、後にそれは何故か綾瀬を悲しむような表情へと変わっていった。

 

「早く」

 

「......分かった......」

 

 平田は何か話したそうにしていたが、一先ず事態の収拾に取りかかることにした。

 Dクラスの生徒たちはしばらく綾瀬を異質なものを見るような視線、もしくは恐ろしいものを見るような視線を向けていたが、平田の指示を聞くと硬直が解けたように動き出した。

 そして綾瀬はそれを掻き分けてオレの方に向かってくる。

 

「綾小路。堀北がいないの。どこにいるか分からない?」

 

 いつの間にか堀北、そして伊吹がいなくなっている。オレは森の中へと続く二つの足跡を見つけた。

 

「......それなら多分この先だ。恐らく足跡があるだろうからそれを辿っていけば会えると思うぞ」

 

「そう」

 

 綾瀬は淡々と話した後、森の中に入ろうとする。

 

「待て綾瀬。誰の入れ知恵だ」

 

 綾瀬が歩みを止める。

 そう聞いたのは、先ほどの綾瀬がとても綾瀬らしくないと感じたからだ。

 軽井沢のときは後悔していたはずだ。それなのに今は人が変わったように躊躇うことなく力を振りかざした。

 もしこのようなことが続けば、いずれ綾瀬がDクラスを恐怖で支配しかねない。

 

「ごめんね。綾小路が何を言ってるのか、分かんない」

 

 振り返ることなくそう答える。そしてそのまま森の中へと入っていった。

 この雨の中を彷徨うのは危険だが、この様子なら止めても無駄だろう。

 

「皆!綾瀬ちゃんは皆を冷静にさせようとしただけなの!」

 

 綾瀬がいなくなった後、櫛田がさっきの綾瀬をフォローするように皆に声をかける。オレはその光景をしばらく観察していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 堀北のキーカードを盗んだ私はDクラスを離れ、手筈通り作業をするつもりだった。

 しかし堀北が私を追ってきたのだ。

 力付くでキーカードを奪いに来たみたいだったが、堀北は体調が悪くて動きも鈍かったから当然勝つことは出来た。

 改めて近くで倒れている堀北を見る。もし万全の状態ならどうなっていたかは分からない。それほどにこの女は強かった。

 分からないと言えば、あの火事を起こしたのは誰かってこともか。あれは私の仕業じゃない。一体誰が何の目的であんなことをしたんだろうか。

 まあいい。私は再度作業を再開し、ビニールに包まれた懐中電灯と無線機を掘り起こした。

 

「なんだ......?」

 

 その二つを取り出した後、私は違和感を感じた。何となく自分が埋めたときと少しだけ状況が違うような、そんな気がした。

 

「雨のせいか......?」

 

 考えすぎだろうと思い、私は無線機を使う。そしてどこかで待ってるであろう龍園に現在地を伝え、雨に濡れないように木の下に座り込んだ。

 それから5分ほどしてこちらに向かってくる足音がした。

 

「随分早いんじゃな......って、あんた......」

 

 姿を現したのは龍園じゃなくて綾瀬だった。綾瀬は堀北が倒れているのを確認すると、驚いたように息を飲んだ。

 

「堀北......堀北!」

 

 今まで聞いたことない声量を出しながら堀北の元に駆け寄る綾瀬は、ぬかるんだ地面なんてお構い無しに膝をついて堀北の顔を覗き込む。

 

「どうしてここに来た?敵討ちにでも来たわけ?」

 

「......伊吹がやったんだね」

 

 綾瀬は堀北を抱え、大木に預けてから立ち上がる。

 シラを切るのは簡単だった。観察して分かったけど、こいつは相当頭が悪い。多分考えることを放棄している。だから言いくるめることも可能だ。

 だけど────。

 

「そうだ。堀北は私がやった」

 

 正直に話す。これを聞いて綾瀬がどうするのかを知りたいからだ。

 

「なんで?」

 

「決まってるだろ。Dクラスを妨害するためだよ」

 

「......そっか。伊吹もAクラスに上がりたくて必死なんだね。それは分かった。それが、ルールだから。でもね、やっぱりどうして堀北に酷いことをしたのかが分かんないの。理解できない」

 

 綾瀬の表情は変わらない。Dクラスに潜入していたときもこいつは一度たりも笑ったりしなかったし、悲しそうな顔をしたことはなかった。

 でも、綾瀬の感情は案外分かりやすい。なんとなくの雰囲気で感情を読み取ることが出来る。 

 

「来なよ」

 

 私は戦闘態勢を取った。

 龍園と会うのにこいつの存在は邪魔でしかない。それならここで倒せばいい。

 

「どうせあんたも頭で考えるより手が先に出るタイプだろ?」

 

「それは、私と戦うってこと?」

 

「そうだ。あんたとは一度やり合いたかったんだ」

 

 正直綾瀬の実力はよく分かっていない。

 この真夏で汗一つかかずに何度も森の中を歩き回っていたぐらいだ。馬鹿みたいなスタミナがあることは間違いない。

 勉強が出来ない変わりにその分身体能力に特化させた。そんな片鱗を観察し始めてからずっと感じていた。

 だけど喧嘩の実力は未知数。石崎はやたらこいつを持ち上げてるけど、こんなボーッとしたやつが喧嘩なんて出来るとは思えなかった。

 だから試してみたい。こいつが本物なのか。その機会は先になると思ってたけど、まさかこんなに早く来るとはね。私も立て込んではいるが、この機会だけは逃せない。

 

「安心しろ。暴力行為で訴えるなんてつまらない真似はしないから」

 

「止めたほうがいいよ」

 

「......それ、どういう意味で言ってんの。喧嘩は良くないってこと?それとも────」

 

「伊吹じゃ私には勝てない。ただそれだけ」

 

 その言葉を聞いて、一瞬で頭に血が上った。

 

「舐めた口を......利くな!」

 

 体勢を低くしながら綾瀬の前で地面に両手をつく。そしてそれと右足を支えにしながら身体を捻って左足を綾瀬へ放つ。

 それを綾瀬は後ろに引いて躱した。すかさず距離を追い詰めて今度は右手で握った拳を。それも避けられたけど、すぐさま蹴りのラッシュを繰り出す。だけどこれも全部避けられる。しかもここまで全部ギリギリの距離で躱されている。つまり私の攻撃は全部見切られているってわけだ。なるほど、デカイ口を叩くだけはある。

 

「伊吹って格闘技やってるんだね」

 

「へぇ、分かるんだ。あんたもかなりやるみたいだね。正直舐めてたよ」

 

 こいつも経験者だ。これだけで私が格闘技をやってると見抜いたこともそうだけど、こいつの足さばきがもう経験者のそれだ。しかもかなり洗練されている。

 

「思ったより楽しめそうじゃん......!」

 

「楽しむ?凄いね────」

 

 ピクッと無意識に私の身体が反応する。私の本能が、綾瀬から何かを感じ取った。

 綾瀬の次の一言が、その何かをより一層濃くさせる。

 

「私と戦うことになった人は────大抵怯えてたんだけどな」

 

 私の背筋に悪寒が走った。思わず後退りをする。

 

「なんなのよ......あんた......」

 

 綾瀬の雰囲気が一変した。今までは気の抜けた感じだったのに、目の前の綾瀬からは息をするのも苦しくなりそうな冷たさしか感じなかった。

 体温が奪われていく。雨の一滴一滴が重く感じる。今が夏であることも忘れて寒さに震えそうになる。

 

「伊吹。私はただ堀北が心配だから来ただけ。出来ることならあなたとやり合いたくない。でも、あなたが向かってくるなら私は対処する。そんなことしか私には出来ないから。だから、最後の確認。本当に、いいんだよね?」

 

「......当たり前でしょ......!」

 

 不気味なものを綾瀬からひしひしと感じる。

 だけど、それがどうした。ここで退くなんて選択肢はハナからない。

 

「そう────それならせめて、壊さないようにしてあげる」

 

 綾瀬が身体に軽く力を込めたのが分かった。戦闘態勢に入った綾瀬から一切の隙を感じられない。

 私は格闘技をやっていたと言っても極めたわけじゃない。こいつが攻撃したところを見たわけでもない。

 でも、それでも分かる。私の本能が綾瀬を危険な存在だと認識している。

 

 これが綾瀬心音の────本来の姿。

 

「ようやく本性を見せたってわけね......!」

 

 さっきから心臓の音がうるさい。

 

 私はそれが、今までにない好敵手を見つけたことによる高揚だと決めつけた。

 

「......はあああ!!」

 

 さっきよりもスピードをあげる。私は避けられても次の動作へと繋げ、手数を増やしながら綾瀬に何度も攻撃していた。

 

「そら!」

 

 綾瀬の顔を横からなぎ払うように右足で蹴る。姿勢を低くしてかわす綾瀬。

 

「それはおとりだよ!」

 

 その動きは予測済み。私は蹴りあげた右足をすぐに地面につけて回転する。そして反対の足を踵から振り上げて綾瀬の顔面を狙った。だけど、それも少し後ろに引かれただけで避けられる。

 こいつ......動体視力と反射神経が半端じゃない......。

 さっきから綾瀬は私の動きを予測して動いているようには見えない。攻撃が来たから、避ける。ただそれだけの動き。

 一度距離を取って呼吸を整える。

 

「さっきから避けてばっか......!少しは反撃したら!?」

 

「伊吹がどれぐらい動けるのか確認してたんだ。でももう伊吹の動きは身体に刻んだから、そろそろいくよ」

 

 綾瀬がこちらへと距離を高速で詰めてきた。そして私の脇腹を目がけて蹴りを繰り出す。

 

「────っ!?」

 

 回避動作を取ろうとしたけど綾瀬の繰り出される蹴りが速すぎて間に合わない。

 回避じゃない。防御だ。

 考えるよりも先に身体が反応する。私はいつの間にか、腕が脇腹を防御する形を取っていた。

 

「ぐっ......!!」

 

 衝撃が全身に伝わる。とてつもなく重い一撃。あの細い身体から一体どうやってこんな力を出しているのか分からない。

 

「怪我はしないようにしたつもりだよ。大丈夫......だよね?」

 

「......は?あんた、手加減したっていうの......?」

 

「言ったはずだよ。壊さないようにするって」

 

 受け止めた腕が思うように動かない。それほどまでに重い一撃だった。

 でも、そんなことよりも手加減されたことの方が私にとって重要だ。

 

「あんたは......絶対倒す!!」

 

 ムカつく。その澄ました顔を今すぐ蹴り飛ばしてやりたい。

 綾瀬の左腕が迫ってくる。

 

「見え見えなんだよ!」

 

 すぐにその腕を回り込むようにして避ける。これなら反撃に転ずることが出来る。

 

「そっちに避けるの、良くないね」

 

 綾瀬の伸ばした左手が、そのまま裏拳の形になって私の顔面を捉えようとしていた。

 

「っぶな......!」

  

 なんとか首を動かすことでギリギリで避けることが出来た。もしまともに食らっていたらどうなっていたか分からない。

 

「もし攻撃を受けていたらどうなるかを心配してるなら、そんなに心配しなくてもいいよ」

 

「手加減してるから......とでも言いたいの!?」

 

 怒りに任せて右足を振り上げた。だけど片手でそれを受け止められる。

 

「くそっ......!」

 

 全力を出したはずだった。でもこいつは私の全力をこんなにもあっさり止められる。自分の顔に迫ってくる蹴りを片手で止めるなんてよっぽどの自信と力がないと出来ない。

 正面からぶつかるな。とにかく裏をかく。そのためにはまず掴まれている足を振りほどいて────。

 

「戦ってるときは余計なことを考えない方がいいよ。足元が隙だらけになるから」

 

「なっ────」

 

 突然視界が急降下した。一瞬何が起きたか分からなかった。

 そして遅れて理解する。私は足元を払われていた。支えるものがなくなった私の身体が地面につく。ぬかるんだ地面は泥になっていて、私は泥だらけになってしまった。

 

「まだ......やる?」

 

 そして私は今、綾瀬に見下されている。こんなの屈辱でしかない。

 

「ふざけんな......!当たり前でしょ!!」

 

 絶対同じ目に合わせてやる。私は立ち上がってステップを踏む。一先ず回避に専念だ。綾瀬の隙をなんとか引き出す。

 綾瀬の攻撃はどれも最小限の動きのものばかりだった。掌底打ち、高速のジャブ、動作の短いキック。どれも隙がない。

 だけど一発でもまともに食らったら終わり。綾瀬の攻撃はそう思わせるほどの迫力がある。

 隙を引き出すには大振りの攻撃をさせる必要がある。そのために軽い挑発をしてみた。 

 

「ハッ、あんたの攻撃はもう見切った。もっと本気でやりなよ。手加減して負けただなんて笑えないぞ?」

 

「そっか。じゃあこれならどう?」

 

 綾瀬はさっきよりも速いスピードで右足を振り上げ、私の顔を横から蹴りあげようとする。

 来た。それを待っていた。

 私は身体を沈み込ませ地を這うように回転しながら綾瀬に足払いをかける。

 水面蹴り。これであんたも泥だらけに────

 

「......うそ......でしょ......」

  

 私の足が綾瀬の左足を払おうとした瞬間激痛が走った。綾瀬の足は異常なまでに固かった。まるで巨大な支柱みたいにびくともしない。とても人間の足に触れた感覚は思えなかった。

 

「伊吹は私を自分と同じ目に合わせたかったんだよね。分かるよ。私は知らないことばかりだけど、こういうことなら誰よりも分かるから」

 

 まずい。反撃がくる。

 私は急いで身体を起こした。そして後ろに跳んで距離を取ろうとする。

 だけど間に合わず、綾瀬がその場で一回転しながら右足の踵で私の顎を掠めるようになぎ払った。その一連の動作は恐ろしく高速で、狙いも正確。

 

「あ......ぐ......!」

 

 脳を揺さぶられた。視界も酷く揺れ始める。

 逃げようとする私に踵で回し蹴りしながら顎を掠めさせる。意図的にやったのならそれはもう神業と呼んでいい。

 

「ごめんね。これで許して」

 

 もう分かった。こいつは本物だ。 

 

 そしてグラグラ揺れる私の脳が一つの結論を導き出す。

 

 綾瀬心音は────戦闘のプロだ。

 

「は......はは......許すわけ、ないだろ......次、は......絶対────!」

 

 倒す。そう言い切る前に、私の意識はここで途絶えた。

 

 

 

 

 

 

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