ようこそ理想郷へ   作:ナムさん

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第6話 無機質な天使

 翌日。昨日はAクラスを目指すなどと宣言していた堀北だったが、その道のりがいかに厳しいものなのかをどれほど理解しているのかまず確認する必要がある。

 それに綾瀬にもやれるだけのことはすると言ったはいいものの一体どうしたものか。おそらく勉強面でオレにできることはない。全て堀北に任せてしまおう。

 そんな風に考えていたら堀北が教室の扉を開ける姿が見えた。だがその顔はなぜか険しい。

 

「よう堀北。昨日はどうだったんだ?」

 

「......」

 

 オレが話しかけても堀北は険しい表情のまま何も言わずに席に着く。

 

「おい堀北ってば」

 

「今真剣に綾瀬さんの対策を考えているところなの。邪魔しないで」

 

「根詰めるにしては早すぎないか?まだ5月は始まったばかりだ。中間テストまで時間はある」

 

 そう言ってやると、堀北は机に肘をつけて両手を組み、その組んだ手に額を置いて首が項垂れる。そしてとても、とても重苦しいため息。

 顔は髪で隠れて見えないが、堀北の全身から負のオーラみたいのが全面に溢れ出ている。

 

「ほ、堀北......?」

 

「......彼女は重症よ」

 

 堀北がそう言うのと同時に教室の扉が開かれる。

 そこには憔悴しきった綾瀬の姿があった。オレも含め、それを見た生徒たちはギョッとする。

 瞳は焦点が定まっておらず、何かぶつぶつ唱えながらどこかを見ている。髪も相変わらず乱れていて、それがまた憔悴さを強く感じさせるものになっている。

 なんとか歩いてはいるが足元がふらふらで、それでも自分の席にたどり着いたはいいものの、オレと堀北には目も暮れず席に座った瞬間いつもの睡眠体勢に入った。

 

「お前......綾瀬に何をしたんだ......」

 

「私は勉強を教えただけよ。それも小学生レベルのね」

 

「それならこうはならないだろ」

 

「私だってそう思ってたわ......」

 

 そう言い残して堀北は再びため息を吐いた。2人とも疲弊が半端じゃない。

 両隣から溢れ出る負のオーラに挟まれるオレは、口を開こうものならそれに呑み込まれてしまいそうで何も喋れなかった。

 とりあえず2人が息を吹き返すまで待つことにしよう。

 

 

 

 

 

 

「......綾瀬さんそろそろ起きなさい。今のうちにしっかり起きるということを覚えるのよ」

 

「うぅ......」

 

「お、生き返ったか」

 

 とりあえず身体を起こす2人。その表情は暗い。こんなことは初めてだ。 

 

「それで、一体何があったんだ?」

 

「さっきも言ったでしょ。勉強を教えてたのよ。でも30分も経たないうちに綾瀬さんのペンを持つ手が震え始めたの」

 

「なんだそりゃ......別にそこまで難しいことを教えてたわけじゃないんだろ?」

 

「ええ。とことんレベルを落としたわ。でも綾瀬さんの勉強嫌いが私の想像を遥かに越えていたの。もう小学生レベルの問題ですら理解するのに時間を要するわね。それに彼女、ペンの握り方すらまともに知らなかったのよ?」

 

「勉強、頭痛くなる......」

 

 ペンの握り方も知らないって。今までそれでどうやって生きてきたんだろうか。

 特殊な事情でもなければ勉強は避けて通れないもの。特殊な事情があるとすれば、何かしらのスポーツで特待生として優遇を受けていたとか、そもそも学校には行っておらず不登校だったとか。思い当たるのはそれぐらいだ。

 とりあえず分かったのは綾瀬が拒絶反応を起こすほど勉強が苦手だということだ。

 

「綾瀬さん。授業中はノートを取らなくてもいいわ」

 

「いいのか?真面目に授業を受けさせてやった方がいいと思うけど」

 

「あなたは勉強をする綾瀬さんの姿を見てないからそんなことを言えるの。彼女に今から高校生のレベルについていこうとさせるなんて無茶よ。だから今はとりあえずしっかり起きるということに集中してもらう。そして出来ればでいいけど、もし授業中に何か疑問に思ったことがあればノートに書く。できる?」

 

「うん......頑張る......」

 

 まるで子供に言い聞かせるみたいな言い方の堀北。お母さんか。

 ふーむ......お母さん堀北......旦那は尻に敷かれ、子供は徹底的に英才教育を施されるに違いない。ま、そもそも堀北に結婚なんて出来ないか。

 

「何か失礼なこと考えてない?」

 

「いや別に」

 

「......1週間ぐらいはとりあえずそれでいいわ。勉強は私が見る。それと綾小路くんもね」

 

「は?なんで」

 

「協力すると言ったわよね?」

 

「言ってないが」

 

「やれるだけのことはするんじゃなかったの?」

 

「確かにそうは言ったけど協力するとは言ってない」

 

「やれるだけのことをするというのは協力するということと何も変わらないわ。つまり綾小路くんは綾瀬さんの勉強はもちろん、私のAクラスを目指すという目標にも快く協力してくれるのよね。感謝してるわ」

 

「なんかどんどん話がすり替わってるぞ!」

 

 綾瀬の勉強に多少付き合ってやるぐらいなら構わないが、Aクラスを目指すなんて冗談じゃない。

 

「大体分かってるのか?Aクラスを目指すなんて相当大変だぞ。まず問題児たちを更正させなきゃならない」

 

「まずは遅刻と私語、そして居眠りね」

 

「平田、皆に注意してる。だから大丈夫。居眠りは......大丈夫......多分」

 

「まあそこら辺はいずれなんとかなるとして、じゃあどうやってポイントをプラスにするんだ。それにたとえポイントを増やせたとしてもAクラスとの差は絶望的。とても追い付けるとは思えない」

 

「私にはこのまま学校側が静観を続けるとは思えないわ。それだと競争の意味がないもの」

 

「.......なるほどな、そういう考え方も出来るのか」

 

 学校側が入学1ヵ月でAクラスの逃げきりを許す、なんてことはないと読んだわけだ。つまり、どこかで大きくポイントが増減する機会が訪れると堀北は確信しているのか。

 

「そろそろホームルームも始まるわ。このことについてはまた話しましょう」

 

「へいへい......」

 

 そうしてホームルーム、授業と時間は進む。その間綾瀬は何度も眠りかけていたが、何とか気合いで乗りきっていた。だが限界を迎えつつある。

 それを証明するかのように、昼休みの時間になると同時に綾瀬は力尽きたように倒れた。

 

「えーっと、綾瀬ちゃん大丈夫?」

 

 すると、こちらに大きめの弁当箱を持った櫛田が来た。綾瀬の前の席にいた住人は席を空けていたので櫛田がそこに座る。

 

「櫛田さん。何しにきたの?」

 

「綾瀬ちゃんって授業中いつも寝てたでしょ?でも急に寝るの駄目って言われちゃったからきっと無理してると思って今日は弁当を作ってきたんだ」

 

 天使だ......ここに天使がいる......

 ここまで気遣いできる子もなかなかいない。櫛田の優しさには感服する。 

 

「綾瀬と本当に仲が良いんだな」  

 

 櫛田が綾瀬と話しているところはよく見かける。おかげで今では綾瀬ちゃんと呼ぶ仲になっていた。

 

「綾瀬ちゃんはこの学校に来てから初めて友達になった子だもん!だから誰よりも仲良くなりたいなって思ってるよ!この前も一緒に服とか......あとはまあ、色々?買いにいったんだよ!」

 

 それはなんか意外だ。綾瀬ってそういうの興味なさそうなのに。

 最後の方少し言葉を濁したのが気になったが、女の子同士だから色々あるのだろう。

 

「それよりも......綾瀬ちゃん、大丈夫?」

 

「櫛田......もうダメ......」

 

「じゃあ私が弁当食べさせてあげるから元気だして?はい、あーんっ」

 

 おお......櫛田の『あーん』だ......いいなあ、綾瀬が羨ましい......

 身体を起こして、差し出された唐揚げを頬張る綾瀬は、瞳をキラキラさせていた。

 

「これ......おいひい......」

 

「あははっ、そう言って貰えて嬉しい!よーし、じゃあ私が全部食べさせてあげるっ」

 

 櫛田は本当にそのまま綾瀬に弁当を食べさせた。その光景を見ていたクラスメイトたちはなんだか悶々としていた。どうやらこれが俗にいう尊いというやつらしい。

 

 

 

 それから少し時が流れ、週の折り返し地点。今まで必死に耐えてきた綾瀬が今日は何度もコクリコクリと舟を漕いでいる。

 もう見てられない。ポイントをプラスに転じる方法が分からない以上1日ぐらい寝てもいいじゃないか。ちなみに須藤は堂々と眠っている。

 あぁ、頭を机にくっつけてしまった。こうなってはもうオレに止めることなどできない。

 おやすみ綾瀬......安らかに眠れ......

 

「ん?」

 

 堀北からスッと小さなメモを渡され、綾瀬に見せろと目で訴えられる。中身を確認すると、なんとそこには綾瀬を起こす魔法が記されていた。

 

『しっかり授業を受けたらご褒美としてお菓子をたくさん買ってあげるわ』

 

 私語厳禁なので喋るわけにもいかず、オレは綾瀬の肩をつつき、綾瀬が反応したのを確認してメモを渡す。

 

「......!」

 

 そのメモを見た瞬間、綾瀬は沈みかかっていた体をガバッと勢いよく起こした。

 

「どうした綾瀬、急に音を立てて」

 

「サエ......私、やる気出た......!」

 

「ほう。それはいいことだ。そのまま励むんだぞ。ああ、今ので特にポイントが減るようなことはないから安心しろ」

 

 

 茶柱先生はポイントに敏感になっているオレたちに向けてそう言った。微妙なラインではあったが、先生がそう言うなら安心だ。

 エサに釣られたみたいではあるが、とにかく綾瀬の眠気はこれで完全に目覚めたようだ。

 眠ろうとする様子はなく、それどころかふんふんと鼻を鳴らしながらノートに何かを書きはじめた。

 

 そして授業が終わり放課後。綾瀬は席を立ち堀北のもとに寄った。

 

「......堀北。お菓子買いにいく」

 

「一人でいくからあなたは少しでも勉強してなさい。あなたの好みは大体把握してるから大丈夫よ」

 

「やだ.......ついてく」

 

 綾瀬は堀北にピッタリくっついて堀北の服の袖を掴んだ。

 

「ちょっと......」

 

「気分転換だと思って連れてってやったらどうだ?綾瀬だって勉強勉強だと嫌だろ」

 

「......仕方ないわね」

 

 最初の頃の堀北ならすぐにでも拒否していただろう。だが綾瀬と堀北は思っていたより相性が良いみたいで、堀北も綾瀬にはあまり強く出れないでいた。

 オレは綾瀬のことを少し誤解していたのかもしれない。

 最初は感情の起伏が薄い女の子だと思っていたが、どちらかというと感情というものをあまり理解していない、本能だけで生きている子供と言った方が正しいのかもしれない。

 

 

 

 そして1週間が経過した。この1週間綾瀬と堀北は疲労困憊になりながらも毎日勉強しており、なんとか綾瀬も授業では起きれるようになってきた。もちろんまだ不安はあるが。

 

「段々綾瀬さんの傾向が見えてきたわ。彼女、記憶力がいいわね」

 

「記憶力......そういえば池と山内の名前も最初の頃から覚えてたっけ」

 

 入試結果もどんぐりの背比べではあるが、暗記科目である社会が一番高かった。それに茶柱先生の授業では他の授業よりも頑張ってノートに何かを書いていた気がする。

 

「私、頭空っぽだからいっぱい詰め込める」

 

「そんな悲しいこと言わないでくれ......」

 

 実は何か特殊な能力があるのかとうっすら期待していたが、まさかのカラクリに涙が出そうである。

 

「だけど論理的な思考がまったく出来ないから数学とかで苦労するの。でもそこはなんとかする。数学は私が一番得意な教科だもの」

 

 己のプライドにかけてそう宣言する堀北。確かに堀北は理系って感じだ。

 論理的な思考か。確かに綾瀬にはないな。さっき本能だけで生きてるって言っちゃったし。

 

「皆、少し聞いてほしい」

 

 昼休みの最中、平田はまだ教室に人がいるのを確認して口を開いた。

 

「中間テストとも着々と近づいてきてる。もしここで赤点を取ってしまったら即退学だ。それだけはどうしても避けたい。そこで、皆で勉強会を開こうと思うんだ」

 

 さすがクラスのヒーロー。ひたすら皆のために行動する気持ちは誰よりも強い。

 

「赤点を阻止することはもちろん、クラスで高得点を取れれば査定だって良くなってポイントがプラスになるかもしれないよ。テストの点数が良かった人たちでテスト対策なんかも用意してあるんだ。だから不安のある人はぜひ参加してほしい。もちろん誰でも歓迎するよ」

 

 平田は一度クラス全体を見回したあと、須藤に向かって優しく微笑んだ。

 

「ちっ......」

 

 だがこれも突っぱねる須藤。平田もなんとかしたい思いでいっぱいではあるだろうが、須藤が受け入れてくれない以上はどうしようもない。

 

「勉強会は今日の17時からこの教室でテストまでの間、毎日2時間やるつもりだ。参加したいと思ったら、いつでも来てほしい。途中で抜けても構わないよ。僕からは以上だ」

 

 そう言って話を終えた途端、数人の赤点生徒たちが平田のもとへと向かう。普段はクラスでもあまり馴染めない生徒やとにかく赤点が怖くて仕方ない生徒など色んな人がいたが平田洋介は全てを受け入れた。

 しかし、池と山内は最後まで迷っている様子で、結局勉強会に参加しようとしなかった。友達の須藤に悪いと思ったのか、平田に思うところがあるのかは定かではない。

 

 

 

 

「私たちも勉強会を開くわよ」

 

 皆が平田の元に集まる中、堀北がそんな発言をした。

 

「勉強会?お前が?」

 

「ええ。平田くんが勉強会を開いてくれたから安心したけど、だけどあの3人、須藤くん、池くん、山内くんは参加しようとしなかったでしょう?」

 

「......どうして須藤たちは勉強、教えてもらわないの?」

 

「平田とあんま仲良くないからなぁ。参加しないと思う」

 

「つまりこのままだと彼らは赤点よ。Aクラスに上がるためにはポイントのプラスは必要不可欠。私はテストの結果次第ではポイントがプラスになると考えてるの」

 

「だからお前も平田みたいに勉強会を開くってことか?」

 

「ええ。そういうことね」

 

「ねえ、それって────救済?」

 

 綾瀬が身を乗り出して聞いてくる。なんだろう、妙な食い付き方だ。

 

「あくまで私のためよ。さっきも言ったけど彼らの学力向上はAクラスへの道に繋がる可能性がある」

 

「......そっか」

 

 少し感情が読めないが、なんとなく複雑そうな様子の綾瀬だと思った。

 

「まあお前がAクラスに行きたいってのはよく伝わった。だけどどうする。須藤たちは勉強会なんて参加したがらないぞ。ましてや大した話したことのないお前に誘われてもなんだこいつと思われるだけだぞ」

 

「私が誘う?なぜ?ちょうど彼らと友達になったあなたがいるじゃない」

 

「は?オレにそんなリア充みたいなこと出来ると思ってるのか?」

 

「今まで散々欲しがってた友達を退学にさせたいの?」

 

「うっ......」

 

 そう言われると確かにそれは後味が悪い。だがしかし、ハードルが高すぎる。

 

「綾瀬、協力してくれ」

 

「綾瀬さんは駄目よ。勉強で忙しいもの」

 

「......ごめんね?」

 

 唯一の頼みの綱まで断たれてしまった。

 はあ......もう腹をくくるしかないか。駄目だったら別のプランを考えよう。

 

「何かあったら連絡して。これ、私の携帯番号とアドレス」

 

 思わぬ形で堀北の連絡先をゲットしてしまった。これでオレは3人もの女子と連絡先と交換したことになる。追加されたのは堀北と言えども少し嬉しい。

 

「よかったね、綾小路。私と一緒」

 

 そう言って綾瀬は自分のアドレス帳を見せてきた。そこには既に堀北の名前がある。

 また綾瀬に先を超された......!

 

 

 

 

 さて、いよいよやってきた放課後の時間。堀北と綾瀬は勉強のために帰ってしまった。

 堀北は明日の放課後にはもう勉強会を始める気でいるので、いよいよ時間はないが、なんとおあつらえ向きと言わんばかりに目的の3人が集まっているではないか。これは神からの啓示。オレに勇気を持って誘いなさいと言っているのだ。

 

「なあ、3人とも少しいいか」

 

「なんだよ綾小路」

 

「お前ら中間テストはどうするつもりなんだ?」

 

「どうするって言われても......なあ?」

 

 3人は顔を見合わせた。

 

「勉強なんて今まで真面目にやったことねぇし、わかんねぇよ」  

 

「お、それなら丁度いい。実は堀北が勉強会を開くんだがお前たちも来ないか?」

 

「堀北ぁ?いや無理無理!この前も言ったけど堀北ってなんか怖いんだよな」

 

 最初に苦言を呈したのは池だった。それに続くかのように山内も拒否反応を見せる。須藤にいたってはあの女は気に入らないとまで言う始末。

 

「綾瀬も来るんだが......どうだ?」

 

「......綾瀬ちゃんかぁ」

 

 おっ、少し食い付いたぞ。

 

「でもやっぱ勉強会とかめんどくさい!一夜漬けでなんとかなるっしょ!」

 

「そーそー、小テストは不意打ち食らったからあんま出来なかっただけだしな」

 

 本気出せばなんとかなると思い込んでる。こいつらには退学の危機感がない。

 

「じゃあ俺たちいくから。放課後は学生の貴重な時間だからさ!」

 

「あ、おい────」

 

 力及ばず。オレではあの3人を誘うことは出来なかった。

 しかし、ヒントは得られた。須藤はまだ分からないが、少なくとも池と山内は確実に勉強会に誘う方法を見つけたぞ。

 よし、そうなれば早速作戦実行だ。オレはその作戦のために櫛田を探す。

 

「ちょっといいか?」

 

「え?綾小路くんから話しかけてくれるなんて珍しいね?どうしたの?」

 

 帰り支度をしている櫛田を見つけたので声をかけた。これで駄目ならいよいよテストで満点取ったら堀北にチューしてもらえるぞとか言って釣るしかない。もちろん本人の許可は取らずに。

 

 

 

 

 

 

 

『3人とも誘えたよ~』

 

 夜中に届いた一通のメール。

 よしよし、作戦は成功だ。まあ作戦なんて言ったがそんな大層なものじゃない。ただ櫛田に3人を誘ってもらっただけだ。やはり櫛田の力は偉大だ。きっと櫛田がしっかり説得してくれたのだろう。

 その代わりと言ってはなんだが、櫛田から私も勉強会に参加させて欲しいとの交換条件を持ち込まれた。もちろんお安いご用だといって快く了承した。

 あとは堀北に事の顛末をメールして終わりっと。

 

「さて、風呂でも入るかな」

 

 椅子から立ち上がり、風呂へ向かおうとした瞬間、堀北から即電話がかかってきた。

 

「もしもし?」

 

『......どうして櫛田さんも参加することになってるの?』

 

『綾小路。櫛田、来るの?』

 

 電話の向こうから綾瀬の声も聞こえてきた。

 

「なんだ、こんな時間まで勉強してるのか。綾瀬は眠くないのか?」

 

『......眠い。すごく』

 

『ちょっと、今は私が話してるの。それよりも櫛田さんよ。私は許可してないわよ』

 

「オレが声掛けても取り合ってくれなかったから櫛田の力を借りたんだ。そしたら参加したいって言うんだから仕方ないだろ?」

 

『私は櫛田さんが勉強会に参加することは認めない。赤点組じゃない彼女がいても手間と混乱を生むだけよ』

 

 それっぽいことを言ってはいるが、そこまでして櫛田を排除しようという理由が分からない。

 

「なんか露骨に櫛田を嫌ってないか?」

 

『あなたは自分のことを嫌っている人を傍に置いて不快に感じないの?』

 

「え?」

 

 どういうことだ?櫛田が堀北のことを嫌っている?

 櫛田は堀北と仲良くしたいと言っていたし、それはないと思うが。堀北が勝手に勘違いでもしてるんじゃないだろうか。

 

「でもお前は綾瀬に加えてあの3人の面倒もみなきゃいけないんだぞ?どうせお前のことだからそれも出来るって言うと思うけど、実際問題それは難しい。だったら櫛田の手を借りた方が効率的じゃないか」

 

『それは......』

 

 少しだけ迷う堀北。多分綾瀬の方を見たんじゃないかと思う。

 

『......分かったわ。それでいい。断腸の思いだけど受け入れることにしたわ』

 

 堀北は渋々了承したことを隠す気もなくそう答えた。

 

「そうか。それなら明日────」

 

『綾瀬さん。なぜあなたは私のベットで寝てるの?』

 

『......え?眠い......から......?』

 

『駄目よ。まだ勉強会は終わってないわ。あと少しで終わるからそれまで我慢しなさい。それに寝るにしても自分の部屋でにして。第一まずあなたはまだお風呂に入ってないでしょう?帰ったら絶対に入ること。それに制服のままで寝るなんて許されないわ』

 

『あぅ......』

 

 綾瀬と堀北のそんなやり取りを最後にオレは電話を切った。

 明日の勉強会、すごく不安だ。

 いや、もうそんなことは思わないようにしよう。明日のことは明日の自分がなんとかしてくれる。よし、風呂でも入ってさっぱりして今日は寝よう。

 

 ......やっぱり不安だな。

 

 

 

 

 

 そんなオレの不安などお構いなしに勉強会の時間はやってくる。

 オレと綾瀬、堀北の3人は既に図書館にて勉強会を始めていた。綾瀬は少し疲れた様子だったが、やる気はあるようで必死に勉強している。

 そういえば結局綾瀬の勉強は堀北に任せていたから、なんだかんだいって綾瀬の勉強をしっかり見るのは初めてだったりする。

 

「それで、須藤くんたちはちゃんと来るのね?」

 

「そろそろだと思うが......」

 

「連れてきたよ~」

 

 座っていたオレたちの元に櫛田がやってきた。ちゃんとあの3人もいる。

 

「櫛田ちゃんが勉強見てくれるって聞いてさ。入学したばっかで退学なんてしたくないしな。よろしくなー」

 

「綾瀬ちゃんまで勉強教えてくれるならもう赤点なんて取るわけないよな!」

 

「......私?教えないよ?」

 

「へ?」

 

「そうか、お前らは綾瀬の学力をまだ把握してなかったのか」

 

「え?」

 

「綾瀬、ちょっと何冊かノートを貸してくれ」

 

「いいよ、はい」

 

 綾瀬が渡したノート見た池たちは驚愕の表情を見せた。

 

「こ、これは......小学生の問題!?しかも何個か間違ってるぞ!?」

 

「字もめちゃくちゃ汚い......!」

 

「綾瀬お前......俺よりバカなんじゃねぇの......?」

 

 そんな池たちをよそに綾瀬は堀北と勉強を再開していた。

 

「綾瀬さん。またペンの握り方がおかしくなってるわ」

 

「これが一番いい......堀北のやつ、書きづらいからやだ......」

 

「文句言わないの。しっかりしないと周りから笑われるわよ」

 

「んー......」

 

 綾瀬はペンを手のひらで握りこむのが癖になっていた。そんな握り方をしていたら当然、字を綺麗に書くことなどできない。

 だからそれを堀北が矯正するというのが最近のお決まりと化していた。

 

「俺の中の綾瀬ちゃんのイメージが崩れてゆく......!」

 

「あはは......でもちょっと可愛いかも......」

 

 綾瀬の学力を知って落胆する池と山内。須藤はどこか嬉しそうだった。

 とりあえず赤点組には全員席についてもらった。

 

「今度のテストで出る範囲はある程度こちらでまとめてみたわ。テストまで残り2週間ほど、徹底して取り組むつもりよ。分からない問題があったら聞いて」

 

「......おい、最初の問題から分かんないんだが」

 

 いきなり須藤がつまずいた。オレも問題を見てみる。

 連立方程式の問題か。高校生が十分に解ける問題としては無難か。

 

「うげ、俺もわかんね......」  

 

「これは連立方程式を使う問題よ」

 

「私、連立方程式覚えてる」

 

 綾瀬がピシッと手を上げる。自分よりも綾瀬がバカだと思っていた須藤はビックリした顔になる。

 

「な......綾瀬お前わかんのか!?」

 

「うん」

 

 そう言って綾瀬は連立方程式の式を書き出した。ちゃんと合ってる。なんだ、これぐらいならできるんじゃないか。

 

「それで、これでどうやって答えを出すんだ?」

 

「......?さあ?」

 

「......堀北。ちゃんと教えたのか?」

 

「教えたわよ......」

 

 ため息まじりにそう答える堀北。なるほど、公式とかを覚える力はあるけど、その公式の意味が理解出来ないから問題がさっぱりわかってないのか。

 

「えっと、これは方程式を使って解く問題なの。さっき綾瀬さんが書いてくれたのを使って問題を解いてみるね」

 

 櫛田が式を使って解いては見せるものの、赤点組はさっぱり理解できていない。須藤に至って連立方程式と言う言葉すら知らないようだ。綾瀬は堀北に鍛えられた分なんとか思い出しながら奮闘はしているが、まだ少しレベルが高いようだ。

 

「ダメだ、やめる。こんなことやってられるか」

 

「おれもー」

 

「さっぱりわかんね」

 

 勉強を始めて間もないのにリタイアを宣言する須藤たち。そのあまりに情けない姿を見た堀北は静かに怒りを蓄えていた。

 

「ま、まってよ皆。もう少し頑張ってみよ?解き方を理解すれば出来るようになるから、ね?」

 

「櫛田、これ教えて」

 

「あ、えっとね、これは......」

 

 綾瀬が櫛田に問題を聞くが、その間池たちはつまらなさそうにしていた。元々櫛田の誘いで来た池たちは、もはやなんの目的で来たのか分からなくなってきているだろう。

 

「あなたたちはそうやって情けなく逃げ続けるのね」

  

 無言だった堀北がとうとう我慢できなくなったのか、静かな怒気を孕みながら言葉を発した。

 

「少し問題が分からなくなったからってすぐに投げ出すなんて小学生でもやらないわよ?私ならそんなこと恥ずかしくて、とてもじゃないけど出来そうにないわね。あなたたちみたいな向上心の欠片も感じない人たちみたいには死んでもなりたくないわ」

 

「あ?言いたいこと言いやがって。勉強なんざ、将来なんの役にも立たないんだよ」

 

「随分都合の良いルールに聞こえるのだけれど、どうして勉強が将来の役に立たないのかぜひ教えて欲しいわね」

 

「こんな問題解けなくても俺は苦労したことなんかねぇんだよ。勉強なんかしてるぐらいだったらバスケでプロ目指した方がよっぽど将来役に立つぜ」

 

「バスケでプロを目指す?くだらないわね。そんなことが簡単に叶う世界だと思っているの?あなたのようなすぐに投げ出すような中途半端な人間は絶対にプロになんかなれない。そんな現実味のない職業を志す時点で、あなたは愚か者よ」

 

「テメェ......!」

 

 捲し立てる堀北に須藤は怒りが抑えられない状態だ。明らかに制御が利かなくなっている。須藤はもう拳を振り上げようとしていた。そんな須藤を綾瀬が止めに入る。

 

「須藤。それはダメ」

 

「綾瀬テメッ......!こいつの味方すんのか!?」

 

「須藤、堀北殴ったらバスケ出来なくなる。須藤言ってた。バスケが好きって。バスケが出来なくなった須藤はもう()()()()()()()()()()?」

 

「......チッ!!」

 

 バスケが出来なくなると聞いて須藤は振り上げようとした拳を下ろした。しかし怒りは抑えきれず、堀北を強く睨み付ける。

 

「お前みたいな友達の一人もいないやつが勉強なんておかしな話だと思ったぜ。どうせ俺たちをバカにするために集めたんだろ」

 

 始まったばかりの勉強会は、既に崩壊していた。

 

「俺もやーめよ。堀北さん頭いいかもしんねーけど、そんな上からこられたらついていけないって。ぶっちゃけ勉強なんて徹夜でなんとかなるし」

 

「面白い話ね。自分で勉強できないから、今ここにいるんじゃないの?」

 

「っ......」

 

 普段ひょうきんな池もさすがにこれには表情を強張らせた。それを見た山内も教科書をしまい、帰ろうとする。

 

「み、皆......本当にいいの?」

 

「いこうぜ」

 

 そうして3人は図書館を出ていった。

 この場に残ったのはオレと綾瀬、櫛田だけ。

 

「......堀北さん。こんなんじゃ誰も一緒に勉強してくれないよ......?」

 

「確かに私が間違ってたわ。今回もし仮にあの人たちが赤点を回避したとしても、また同じことの繰り返し。こんなことは不毛でしかないわ」

 

「それって......どういう......こと?」

 

「足手まといは今のうちに脱落してもらった方がいい、ということよ」

 

 赤点組が居なくなれば教える手間もなくなり、結果クラスの平均もあがる。堀北はそう結論づけた。

 

「......堀北。いなくなったら何も救えない。いなくなるのだけは......ダメ......」

 

「綾瀬さんの言う通りだよ!私は......こんなに早く皆と分かれるなんて絶対に嫌......!」

 

「櫛田さん。本気でそう思っているの?」

 

「本気に決まってるでしょ......?」

 

「私にはあなたが本心からそう言っているようには見えないわ」

 

「何それ。意味分かんないよ。どうして堀北さんは、そうやって敵を作るようなこと、平気で言えちゃうの......?」

 

 櫛田は一度顔を伏せたが、俯いているわけにもいかないと、すぐ顔を上げた。

 

「......じゃあね、また明日」

 

 短く言葉を残し、櫛田までもが去っていく。

 

「じゃ、オレも帰るか......綾瀬は残るのか?」

 

「うん。堀北と一緒にいる」

 

「......そう」

 

 綾瀬が残ると聞いて、堀北は教科書に目を落とした。

 堀北に伝えようと思ったことがあったが、綾瀬がこの場に残るならそれは不要だ。オレは綾瀬に堀北のことを任せることにした。

 

 

 

 

 図書館を出ると、オレは櫛田を追いかけた。せっかく勉強会を開いてくれたことへの感謝とこんな形で終わってしまったことへの謝罪をしたかったからだ。

 小走りで敷地内を探し回っていると、櫛田らしき人物が校舎に入っていくのが見えた。

 下駄箱から上履きを出して廊下に出るが、櫛田の姿は見えない。

 二階へと続く階段から聞こえる足音。その足音を頼りに後を追う。 

 足音は3階を通り越し、屋上の扉があった場所あたりで止まった。

 オレは誰かとの待ち合わせも考慮し、気配を殺しながら屋上へと通じる階段の中ほどで立ち止まる。

 そっと手すり付近から、屋上の扉が見える方へと顔を覗かせた。そこには屋上の扉をジッと見つめて立つ櫛田。

 誰かと待ち合わせか、それなら引き返すべきかと悩んでいると、櫛田が鞄をゆっくりと床に置いた。

 

 そして────

 

 

「あ────ウザイ」

 

 あの櫛田が発したとは思えないほど、低く重い声だった。

 

「マジでウザイ、ムカつく。死ねばいいのに......」

 

 呪詛を唱えるみたいに、ぶつぶつと暴言を吐く。

 

「自分を可愛いと思ってお高く止まりやがって。どうせアバズレに決まってんのよ。あんたみたいな女が、勉強なんか教えられるわけないっつーの」

 

 櫛田が暴言を吐いている相手は......堀北か。

 

「あー最悪。ほんっと、最悪最悪最悪。堀北ウザイ、ほんっとウザイっ」

 

 クラス一の人気者で、誰にでも気遣いができる優しい少女のもう一つの顔を見た気がした。

 オレはこの場にいるのが危険だと思い、引き返そうとした。

 しかし、再び吐かれる櫛田の暴言がオレの足を止めた。

 

「あの筋肉バカ女......何がもう治せないだよ......何がそれでもいい?だよ......ふざけやがって.......ムカつくんだよ......バカのくせにバカのくせにバカのくせに......」

 

 筋肉バカ女......?もしかして綾瀬のことを言っているのか?

 まだバカは分かるが筋肉とはどういうことだ?

 

「綾瀬のヤツ......吐き気がすんのよ......!」

 

 ガンっ!と夕暮れ時の学校に、扉を蹴る音は想像以上に大きく響き渡った。櫛田もやり過ぎだと思ったのか、一瞬身を固くし息を殺した。それが仇になった。誰かに聞かれたんじゃないかと振り返った視線の先には、僅かにオレが映りこんだ。

 

「ここで......何をしてるの......」

 

「ちょっと、道に迷ってさ。いや、悪い悪い。オレはすぐ立ち去るよ」

 

 分かりやすい嘘をついて、櫛田の目を見つめる。見たこともない強烈な視線だった。

 

「聞いたの......」

 

「聞いてないって言ったら信じるか?」

 

「そうだね......」

 

 つかつかと、櫛田が階段を降りてくる。そして、自ら左の前腕をオレの首もとにあてがい、壁に押し付けた。口調も、行動も、全てオレの知る櫛田ではなかった。

 

「今聞いたこと......誰かに話したら承知しないから」

 

「もし話したら?」

 

「今ここで、あんたにレイプされそうになったって言いふらしてやる」

 

「冤罪だぞ、それ」

 

「大丈夫だよ、冤罪じゃないから」

 

 そう言うと、櫛田はオレの左手首を掴み、ゆっくりと手のひらを開かせる。自らオレの手の甲に添える。そして、オレの手を自らの胸元へと持っていく。

 柔らかな感触が、手のひら全体を通じて伝わってくる。

 

「お前......何やってんだよ」

 

「あんたの指紋、これでべっとりついたから。証拠もある。私は本気よ。分かった?」

 

「......分かった。分かったから手を離せ」

 

「この制服はこのまま洗わずに部屋に置いておく。裏切ったら、警察に突き出すから」

 

 暫くの間、手を固定されたまま、櫛田に睨み付けられる。

 

「約束だよ」

 

 念を押すように言い、櫛田はオレから距離を取った。

 

「......どっちが本当のお前なんだ?」

 

「そんなこと、あんたに関係ない」

 

「......そうだな。ただ、今のお前を見て気になったことがある」

 

 気になったのは堀北と綾瀬に関すること。どちらを聞くべきか迷ったが、オレはどうしても綾瀬のことが気になった。

 

「どうして綾瀬を嫌うんだ?」

 

「綾瀬......綾瀬さん?ハッ、あんなの好きになるわけないじゃん。堀北さんと同じぐらい嫌いかも」

 

 毒づくような口調から櫛田が綾瀬をいかに嫌っているのがハッキリと伝わった。

 

「それなのによくあんなに仲良さそうにできるな」

 

「私の立場を考えると綾瀬さんと仲良くなっておいた方が都合がいいんだよ。綾瀬さんって扱いやすいから。でもやっぱり嫌いなのは間違いない。なに言ってるのか理解不能だし、見た目は良いのにその他が女として全部終わってるのも腹立つ。だけど無駄に身体能力が化け物並みなのもウザい。綾小路くんはまだそこまで知らないでしょ?綾瀬さんがどれだけ化け物なのか」

 

「化け物?確かに水泳はすごかったが......他にも体育の時間はあったけどそこまで目立ったような動きは見せてなかったぞ?」

 

「手抜いてるからね。これは本人から聞いたから間違いない。しかもその理由もふざけててさ、私から言うつもりはないけど。多分綾瀬さんのことだから聞けば普通に教えてもらえるよ」

 

 水泳のときは男女混合だったが、体育は基本的には男女別々で行う。

 同じ体育館を使うことはあっても間近で見ることは出来ないので、綾瀬がどこまで手を抜いているかなんてオレには分からない。そしてなぜ手を抜いているのかも。

 

「綾瀬さんが化け物だっていうの、すぐに分かると思う。私はあいつが拳で人を殺したとしても驚かない」

 

「それは相当だな......」

 

 櫛田の表情と口調は一切の悪ふざけなく真剣そのもの。大げさに言っているといった様子はない。

 まさか、あのチョップも綾瀬の言う通り手を抜いていたということか?それも、かなり。

 そんな馬鹿な......何かの間違いだろ......?とても手を抜いて出せる威力とは思えないが.......

 綾瀬の腕はどちらかというと細い。一体どこにそんな力があるというのか。

 

「綾瀬さんとはそれなりに仲良くしてたけど、もう初めて見た瞬間から私には分かってた。綾瀬さんは特別だよ。明らかに普通とはかけ離れてる。私はあいつの異質さが本気で羨ましいとさえ思う」

 

 嫉妬。唇を噛み締めながらそう言う櫛田からは分かりやすいほどにそれを感じた。特別な存在であり続けることが櫛田にとって何よりの行動原理なのか。そして才能を求めているからこそ綾瀬が嫌いなのか。現段階では確信がもてない。

 

「でもさぁ......私が綾瀬さんに一番ムカついてるのってそこじゃないんだよね」

 

「......なに?」

 

 才能でなければ櫛田が綾瀬をそこまで嫌う理由など想像がつかない。

 

「綾小路くんってさ、私みたいになんかやましいこととかあったりする?」

 

「さあ。オレは今まで清らかに生きてきたからそんなものはないと思うが」

 

「もしやましいことがあるなら綾瀬さんの目は直視しない方がいいよ」

 

「なぜ?」

 

 オレが問うと、櫛田は身体をブルブル震わせた。表情から察するに押さえきれぬ怒りが櫛田をそうさせている。

 

「私はあいつの......あいつの目を見るたびに吐き気がするっ......!!まるで私が否定されてるみたいでさぁ......!!」

 

 頭を抱え、迫真の顔で怒りを吐露する櫛田。

 綾瀬はどこまでも素直で純粋な子だ。だからこそ嘘をつき続ける櫛田にとって綾瀬は毒、か。

 

「もしかして綾瀬が純粋だから~、とかって考えてる?」

 

 図星だった。それしかないと思っていたからこそ微かに動揺する。

 それに気づいた櫛田は冷笑しながら『やっぱりね』と呟いた後、再び身体を震わせた。

 しかし、先ほどとまで違って怒りからではない。  

 これは......恐れ?

 櫛田は両腕で自分の身体を抱きしめている。

 

「そんなのなんかじゃない......あいつは......っ......」

 

 いつの間にか櫛田は肩で息をするほど動揺していた。そんな自分に気づいたのか、一瞬ハッとした顔になり、呼吸を落ち着かせる。

 そして顔を下げ、一呼吸空けたあとに顔を上げる。すると先ほどまでの顔が嘘だったかのように満面の笑顔を浮かべた櫛田がこう言い放った。 

 

「綾小路くんには一生分かんないよ。あの感覚は」

 

 綾瀬の瞳。それには不思議な力がある。有無を言わせない威圧感。そして櫛田のような人間を震わせる何か。

 また謎が一つ増えてしまったか。

 綾瀬心音。1ヶ月近くたった今でも分かったことはほんの一握り。本当にどこまでも掴めない少女だ。

 

「一緒に帰ろっか」

 

「......ああ」

 

 それはたった今がらりと豹変した目の前の櫛田も一緒か。

 人はどれだけ器が綺麗でも、中身に何が詰まっているかなど分からない。

 結局のところ、オレにはまだ色んなことの本質ってやつが見えていないのかもしれないな。

 

 

 

 

 何となく寝付けそうになかったオレは、身体を起こし部屋を出た。

 1階のロビーに置かれた自販機で適当なジュースを一本購入してエレベーターの前に戻る。

 

「ん?」

 

 オレが降りてきたエレベーターが7階に止まっている。なんとなく気になったオレは、エレベーター内の映像が映るモニターを見た。そこには制服姿の堀北が映っている。

 

「別に隠れる必要はないんだけどな......」

 

 何となく顔を合わせ辛いと感じたオレは、自販機の陰に身を潜める。堀北は1階に降りてきた。

 周囲を警戒しながら堀北は寮の外へと出ていく。

 闇に姿が消えたのを確認して、オレは後を追おうとしたが、ふとエレベーターがもう一度7階に止まったのが見えて足が止まった。

 モニターには今度は綾瀬が映っていた。程なくして降りてくるエレベーター。オレはばったり綾瀬と鉢合わせしてしまう。

 

「綾小路。堀北、見なかった?」

 

「堀北なら......あっちの方に行ったけど......」

 

「ありがとう────」

 

 綾瀬はオレの指差した方向へと走り出した。

 

「......はやっ」

 

 今まで見たことのない猛スピードで綾瀬は堀北を追いかけに行った。

 オレも少し早歩きぎみにその後を追いかける。

 だが寮の裏手の角を曲がりかけたところでパシッと何かを掴むような音が聞こえて、思わず身を隠した。

 様子を伺うと、綾瀬があれは......生徒会長だ。綾瀬が生徒会長の右腕を掴みとり、それをパッと放していたところに遭遇した。 

 その傍には力なくへたりこむ堀北の姿も見える。あんな弱々しい堀北は初めてだ。

 

「お前は......綾瀬心音か」

 

 生徒会長が綾瀬の名前を呼ぶ。2人は知り合いかと思ったが、綾瀬は心当たりがないらしい。

 

「私のこと、知ってるの?」

 

「まあな。お前のことは俺の耳に入っている」

 

 たとえ生徒会長だからって言って1年のことまで把握しているのはなかなかないと思うが。

 それほどまでにこの生徒会長がハイスペックなのか、それとも把握しているのは綾瀬のような印象の強い生徒だけとか?

 だが印象が強いと言っても綾瀬の中で印象が強いのは美人なところと水泳、もしくは底が見えない身体能力。だが櫛田が言ってたことから綾瀬の身体能力は規格外であると予想できる。それを知る力がこの生徒会長にはあるということか。

 

「さっきまで堀北と勉強してた。終わったから帰るとこ、だった。でも堀北が辛そうな顔してたから......追いかけた。そしたらあなたが堀北に酷いことしようとした」

 

「ほう、鈴音。お前に友達が居たとはな。正直驚いた」

 

「彼女は......」

 

「────堀北、友達」

 

 堀北がどう答えようか迷っている間に割り込む形でそう答えた綾瀬。

 

「私のために、私を叱ってくれる人。そんなの初めて。だから、大切」

 

 綾瀬は堀北にそんな想いを抱いていた。いつも叱られても素直に従っていたのはそういう背景があったからこそか。

 自分のために自分を本気で叱ってくれる人は貴重だ。オレはどうだろう。そんな人がいたのかなんて、もう自分でも分からない。

 

「堀北いじめるの、止めて」

 

「それならこうしよう」

 

 何を思ったのか、生徒会長が軽く構えを取る。

 

「綾瀬。手合わせを願おうか」

 

「......てあわせ?」

 

「......兄さん!?なぜ......あなたに敵う相手なんて......!」

 

 兄さん?なるほど。生徒会長は堀北の兄貴だったのか。

 

「俺を止めてみせろ」

 

 堀北に取り合わず綾瀬へと向き合う堀北兄。 

 

「......それって────」

 

 綾瀬が言いきる前に堀北兄が綾瀬の顔面に拳を放った。綾瀬は首を少し動かすだけでそれをかわす。

 

「随分余裕だな」

 

 続けて腹をめがけて繰り出される蹴り。だがまるで未来でも読んでいるかのように腹に掠めるか掠めないかのギリギリの距離でかわす。

 堀北兄はすぐさま体勢を整え次の攻撃に転じる。顔を狙った掌底打ち。しかし、顔に当たるかといったところで綾瀬が堀北兄の腕を片手で握り、制止させた。

 

「......!ふざけた力だな......」

 

 すぐさまその手を振りほどく堀北兄。

 綾瀬は突然のことに動じるわけでもなく、あっさり対応する。その動きはとても素人とは思えない。

 

「ねえ、あなたは────悪い人?」

 

「どうだろうな。それはお前が決めることだ」

 

「......」

 

 綾瀬は胸に手を当て、しばらく考え込んだ後にその手を下ろした。そして光のない瞳でジッと堀北兄を見つめ、口を開く。

 

「......名前、何て言うの?」

 

「堀北学だ」

 

「堀北......これじゃどっちかわかんないね。じゃあ学。私と喧嘩するの、止めた方がいい」

 

「これは喧嘩ではない。お前の実力を確かめさせてもらうだけだ」

 

「実力......私はどれくらいの力でやればいい?」

 

「もちろん本気で、だ」

 

「いいの?本気でやっても」

 

「ああ、構わん」

 

「......そう」

 

 綾瀬がボソッと呟いた後、何かを絞るような音が聞こえてきた。次第にその音は大きくなっていく。

 その音の発生源は綾瀬の右腕からだった。そしてその右腕はブルブルと震えていた。

 

「フッ、まさかここまでとはな......」

 

 ここで初めて堀北兄が静かに笑う。

 

「この音は......何......?」

 

 これは────綾瀬が右腕に力を込めているのだ。そのことがここからでも伝わってくるほどに尋常じゃない力が綾瀬の右腕に集まっているのが分かる。綾瀬の細い腕は、今にもはち切れそうなほどにミシミシと嫌な音を立てていた。

 

「学────死ぬよ?」

 

 背筋に悪寒が走る。

 心の芯まで凍えさせるような冷たい声。そして睨んでいるわけでもないのに射殺(いころ)されるような視線。

 この周辺だけが急激に冷えたような感覚。まだ春だというのに体温が奪われていく。傍にいた堀北は身体を震わせながらも、表情だけは瞬きもできずに固まっていた。

 それも全て機械的、人形的とも言える無機質さを兼ね備えた綾瀬心音の冷たい闇がそうさせている。

 オレには常人が今の綾瀬とまともに対峙すると恐怖で発狂するんじゃないかとさえ思えた。

 

「......なるほど。これが()()()()()()()。この目で確認することができたのは幸運だった。これは俺も本気を出さなければいけないか。()()のためにもな」

 

 深く腰を下ろし、右腕を突き出して手を広げる。左手は握りながら腰の横へ。そして足に力を込める。丹田にも力を込めているだろう。

 空手か。構えと雰囲気だけで分かる。かなり出来るな。

 

「フー......」

 

 細く、短く、そして強い呼吸。

 堀北兄は本気で綾瀬とぶつかる気だ。

 両者の間で交わる殺気。

 近くにいるだけでビリビリと空気が震撼しているのが伝わる異常事態。

 このままではどちらも無事ではすまない。

 オレはこの先絶対いいことにならないことを予感しつつもこの空間に足を踏み入れた。

 

「こんな夜中になにしてんだ」

 

「......ほう。この場に飛び込んでくるとはな。ただの間抜けか、それとも......」

 

「ただの間抜けっすよ。オレの隣人たちがとんでもないことに巻き込まれそうだったから何も考えずに飛び込んだだけだ」

 

「......綾小路」

 

 オレの姿を確認した綾瀬からフッと力が抜けた。

 いつの間にか堀北兄も構えを解いており、異常な空気はどこかへ消え去った。

 

「その落ち着いた様子では、お前がただの間抜けとは思えんな。お前もDクラスか?」

 

「ええ。落ちこぼれのDクラスですよ」

 

「......?綾小路、落ちこぼれじゃないよ。だって入試で......もがもが......」

 

 余計なことを言う悪い口を塞ぐ。

 

「なかなか面白い友達だな、鈴音」

 

「彼は......友達ではありません」

 

 おい。綾瀬のときは結構迷ってたくせに、オレのときだけしっかり言い切るとはどういうことだ。

 

「綾瀬、そして綾小路、と呼ばれていたな。お前たちが居れば、少しは面白くなるかもしれないな」

 

 そのままオレたちの横を通りすぎ、闇へと消えていく。

 

「上のクラスに上がりたかったら、死にもの狂いで足掻け。それしか方法はない」

 

 堀北の兄貴が去り、夜の静けさに包まれた。

 全くとんでもない場面に出くわしてしまったもんだ。

 堀北と生徒会長が兄妹で、部活動説明会とか今の状態を見てると、あの自信の塊みたいな堀北は兄貴の前では途端にしおらしくなってしまうらしい。

 そして綾瀬。さっそく櫛田から聞いたことの信憑性が増してしまった。

 今はまだ片鱗を見せただけ。この少女の底はどこまで深いのか。 

 

 ま、まずはこの状況をなんとかするべきか。

 

 

 

 

 

 

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